獅子頭制作8日目

本日は眉毛の彫りと獅子頭の頭頂部への木の貼り付けを行った。

寄木づくりの獅子頭は全体的に角張った木の塊を丸くしていくことが必要になる。その丸い角度や刃物を入れる深さなどをしっかりと見極めていかねばならない。その塩梅が難しいのでまず右で師匠のお手本を彫ってもらってから、左はそれを真似て自分で彫ってみるという流れで行った。微細な動きが必要になったので、小刀やノミがスムーズにいかなかった。もう少し慣れていきたい。

ところでもう1人の師匠は昔、先輩の家に泊まらせてもらった時に、午前3時に起こされて飲む水がないから吉祥寺駅のホームまで取ってこいと言われて、切符を買って取りに行った話をしていた。昔は飲料水が気軽に買えるご時世ではなかったそうで、吉祥寺駅のホームの水が1番うまいと評判だったそうだ。電車に乗らないのにホームに行くから切符も買わなきゃなんない。「こんなことも俺は乗り越えてきてるんだから」というさすが人生の師匠!とも言わんばかりの面白エピソードを話してくれたのだった。

和歌山県民俗芸能祭、ここにもあったか!素晴らしい獅子舞たち

和歌山の獅子舞ってどんな特徴があるの?という疑問とともに、2024年2月18日、第17回和歌山県民俗芸能祭を訪れた。もともと三面獅子という全国にも珍しい形態があることから、その取材をメインに、現地を訪れた。

野中の獅子舞(和歌山県田辺市)

始まりはなんと南北朝時代に遡る。吉野朝の護良親王が援兵を募った際にら駆けつけた郷士たちの指揮を鼓舞したのが、この獅子舞の始まりとのこと。熊野九十九社である継桜王子や近野神社、近露王子などに奉納することから、熊野信仰と深く関わっている。主要演目としては剣の舞があり、獅子が野に出た際に剣を見つけ、恐る恐るそれを咥え、八方位の悪魔を祓うという物語が込められている。そのほかには、道中神楽、お神楽、乱獅子、花がかり、うかれ獅子がある。剣の舞を実際に舞いを拝見した感じだと、まさに伊勢大神楽の獅子舞に似ていたので、おそらく後世に伊勢大神楽の影響を強く受けているだろう。剣を抜くときに観客に当たるかどうかみたいなスレスレを目指す感じがスリルがあった。

寿式三番叟(滋賀県長浜市)

唯一県外団体としてゲストで来ていた寿式三番叟。江戸時代後期に阿波の人形座が借金の代わりにと置いていった人形を使い始めたのが始まりらしい。その人形の非常に美しい装飾はひときわ目立っていた。この団体の後継者育成には目を見張るものがあり、海外からの学生を招いてサマープログラムを2003年から受け入れて以来、17年で400人余りの経験者がいる。海外ファンが多く、それらが伝承者となる未来もあるかもしれない。上演内容自体はけっこう長くゆったりとしておりなかなかストーリーを把握しづらいという個人的な感想をもったが、師匠のような人物がとても人形座への想いを強く持った方で心を込めて厳粛な表情を浮かべながら人形を操る姿が、万物を理解するかのような眼差しに思えて感動した。

顯國神社の三面獅子

三面獅子はオニ・ワニ・獅子の三面が登場する非常に珍しい獅子舞だ。オニは天狗のように鼻が長く、ワニは牙が鋭いという特徴がある。この三面獅子の始まりは定かでないものの、江戸時代以降にいくつか記録が散見される。「樫の木」で作られた獅子頭には、享保11年(1726年)の銘がある。また嘉永四年(1851年)の『紀伊国名所図会続編』等で三面獅子舞が登場した記録がある。オニ、ワニ、獅子という形態については、南隣の広川町に伝わる「広八幡の田楽」(国選択無形民俗文化財)など周辺地域でいくつか見られる。江戸時代以前の記録はないが、中世に祭りの先導役と厄祓いを主として担った「行道獅子」に似たような形態を持つ獅子だ。またオニは天狗あるいは伎楽の鼻高面、ワニは伎楽の崑崙にも似ているように思えるが関連性を示す資料は見当たらない。また「獅子退治」の形式を持つ獅子舞は他に、北陸方面に見られる加賀獅子や金蔵獅子の「獅子殺し」などがある。

上野の獅子舞(和歌山県紀伊田辺市)

この獅子舞が今回の芸能祭のトリとなった。室町時代から伝承されている獅子舞である。ただ昭和29年に古文書が大火で紛失したとのことで、詳細がわからないのは惜しまれる。こちらも伊勢大神楽の影響を強く受けている獅子舞だ。御神楽、弊の舞、乱獅子、くぐり、神ばやし、ごしゃく、花がかり、扇の舞、剣の舞、道神楽という演目がある。実際に拝見してみて、花がかりが特に印象的だった。木になる花に背伸びしてまでもどんどん向かっていく獅子の姿が優美であり、華やかな演目だと思った。この演目は岩手県のしし踊りに登場する柱がかりを若干彷彿とさせるほか、石川県沿岸部(とりわけ石川県金沢市内灘町加賀市橋立地区)に伝わる花棒によって雌獅子を誘い出す舞いと類似していると感じた。この上野の獅子舞は雌獅子だろうか?

和歌山県の獅子舞は三重県伊勢大神楽の影響を強く受けて発展したことがわかる。これは野中の獅子舞と上野の獅子舞を見て感じた。また、奈良や大阪、京都という飛鳥時代から平安時代にかけての芸能の中心地も近く、その影響も受けている。それゆえに芸能の歴史も非常に古いという印象である。三面獅子はおそらくこの飛鳥時代以降の伎楽の影響を少なからず受けている。このように周辺地域の獅子舞の特徴が少しずつ伺え、それらが集合して今日の和歌山の獅子舞文化ができているように思える。

東京都板橋区 諏訪神社の田遊び。千年続く素朴な神事で、獅子舞を発見!

田遊び神事の獅子舞は非常に素朴で東京の中にあってはどこか貴重で珍しい獅子舞と思った。
2024年2月13日、国指定重要無形民俗文化財、赤塚諏訪神社の田遊び神事を訪問した。この民俗芸能のことをつい最近までずっと知らなかった。都市祭礼というよりは農村祭礼が、なんと池袋にも近い板橋区の赤塚諏訪神社にて実施されたのだ。当日の様子を振り返ろう。

19時に神事が始まるとのことで赤塚諏訪神社に到着した。人だかりはできていたが、30分くらい何も起こらなかった。それで動きがあったのが、鳥居の外から鉄の棒をガラガラとひき、または提灯を手に持つ神事の担い手たちが境内に入ってきた時だった。

神輿が出てきてそれが、鳥居の外に出て、浅間神社のお祭り広場まで移動した。

何もない空地はどうやらお祭りで使う重要な場所だったようだ。広場の中では次々と舞が行われた。今回拝見した獅子舞は左右に頭を大きく振るような激しさがあった。悪魔払いの意味があるという。

広場に入る時と出る時に、花籠を立ててからすぐに天狗が大声を出すというのが印象深かった。

それからまた赤塚諏訪神社に戻って再び獅子舞が行われた。ここで行われた獅子舞は「九字の舞」といわれる。

それから寿の文字が書かれた神様が来訪して、あとは「太郎次」と「やすめ」という、どこかひょっとことおかめを連想させる2人が現れた。

その後に最終的な田遊びの歌が行われた。これが行われたのは拝殿前に設置されたモガリという名の舞台である。モガリ上方の装飾は非常に興味深かった。ギザギザした三角模様はカカシを示すという。赤い的のようなものは太陽だろうか。花籠もここに設置された。

これは田んぼでの五穀豊穣を祈る予祝の芸能とのことである。その後、篝火でいろんなものがお焚き上げされて夜空に明々と炎が舞い上がっていた。

また、田遊びの歌を歌う時には、牛と鞍が登場する。鞍は餅でできている。また杵に入れられた木の枝は、鍬を表すという。この手作り感がとても良かった。

素朴な形態を残すのは、こういう道具のつくりだったり、夜に実施される神事的な側面だったりということなのかもしれない。昔は明かりなんてないところでやってたのだろうけど、今ではカメラマンが撮影しやすいようにライトを持参していることからしてもなんだか神事から見せる祭りへの変遷が伺える。こちらはひょっとこのような役の背後に照らされた強い光。

篝火の消化にあたっていた消防士。狛犬は焦げないように保護され、神事の後には水をかけて冷やされていた。こういう細かい裏方の仕事もとても大事である。

この赤塚諏訪神社の田遊び神事は長徳元年(995年)から受け継がれている神事であり、実に1000年以上の歴史がある。平安時代から脈々と受け継がれるこの神事。近年開発が進んだ住宅地で拝見したのはどこか考えさせられるものがあった。昔はもっと多くの土地が田園地帯だったのだろう。神社の立て看板によれば、正保年間(1644年〜48年)には4900俵(840トン)のお米がこの地域一帯の「徳丸ヶ原」で生産されたという。それが明治9年の大開墾もあり、大正5年には352ヘクタールの水田から14000俵(840トン)のお米が生産された。今では住宅街も多くなったが、その中でも行われる田遊び神事。土地の暮らし、民俗の歴史をを色濃く伝えてくれている。池袋から電車ですぐの郊外にこれほどまでに厳かな農村行事が残っていたとは驚きであった。

鈴鹿・獅子神御祈祷神事から、日本の獅子舞のルーツを探す

始発の電車に乗って伊勢市駅から鈴鹿市を目指した。真っ暗の中、電車は出発する。徐々に辺りが白み始めたとき、眩しくて微細な光が窓から差し込み、そして田園地帯を地平線からまばゆい太陽の光が照らしていた。獅子神御祈祷神事。日本で最も古い獅子舞を今に伝えるという。「最も古い」をどう考えるのか。獅子舞の定義とは何か。そこについて本日はじっくりと向き合いたいと思った。2024年2月11日(日)に三重県鈴鹿市椿大神社(つばきおおかみやしろ)で行われた、獅子神御祈祷神事を訪れた時の様子を振り返る。

最寄りの加佐登駅に降り立った時、その空は赤みを帯びて、青空が少しずつ明るくなってきた。バスを待つこと30分。本当にバスは来るのだろうかと思っていた時、やけに縦長のコミュニティバスがやってきた。そこでようやく、本日椿大神社を訪れることができることを確信した。バスに乗ること40分。途中、バス停のアナウンスがいろんな子どもたちの声で、とてもユニークで良いと思った。

それから、椿大神社についた。これは多くの人に開かれた神社だと思った。とにかく敷地面積が広い。椿の木といえばとても縁起が良い樹木である。椿には厄除けの意味があるほか、平安時代には高貴な花として珍重されてきた。この神社はまず、猿田彦系の神社の本宮である。伊勢の猿田彦神社ではなくこちらが本宮のようだ。別宮である椿岸神社の主祭神は、その妻であるとされるアメノウズメである。

境内を散策する中で、鳥居を潜ってすぐに見えてきたのが獅子堂という建物だった。獅子舞が根付いていることを再確認した。中には見たこともないような金色のはっきりした顔立ちの獅子頭が左右に飾られ、そこで御祈祷が行われていた。後に神社の方に伺ったところ、ここはもともと獅子舞が奉納されるために使われていた場所だが、現在は交通安全祈願に使われているという。確かにこの獅子堂の前には車がたくさん停まっており、神主さんがひとつひとつお祓いしている姿も後々見かけた。

そして、境内を散策していて拝殿を訪れた。神主さんに獅子舞を実施する位置について尋ねていると、重要なことに気づいた。午前中の舞は一般人立ち入り禁止、メディアのみとのこと。取材申請をせずにきたために、最初中に入れてもらえなかった。獅子舞研究してて本も作るんで、そこでの掲載を視野に入れてきたんですという話をしたら、ようやく受け入れてもらえた。後出しの申し出というのはやや危険である。ところで、この拝殿の横には、千葉県松戸市出身の佐渡ケ嶽部屋満宗親方(元琴の若関)が奉納した鉄砲柱なるものがあり、同業者の奉納物として、非常に親近感が湧き、ご縁のようなものを感じた。

実際に見れた午前9時からの舞いは荘厳かつ重厚。なかなかに古式を今に残していると思った。椿大神社『椿の宮 第50号』(2024年1月)によれば、舞いの種類は「古来より七段七節の舞が伝わっている。七段に関して①初段の舞では、天地人四方八方を祓い清めるべく、猿田彦大神役を務める口取役が手に持つささらを用いて祓う場所を指し示す。最も重要な舞い②起こし舞は御神霊の奮い起こしであり、岩戸伝説や鎮魂に通じるもの③扇舞は神人和合を意味し神様と獣が心を通わせる舞い④後起こし舞は起こし舞とほぼ同じ内容で途中から拝観者側を向き後へ続く舞への節目の意味もある⑤御湯立ては病気平癒や無病息災を祈るもの⑥小獅子の舞は子どもの健全育成⑦花の舞は五穀豊穣を予祝する舞の七つである。また扇の舞の内容としてすら舞、扇舞、逆手、背追い、追い立て、扇起こし、捨て扇の7曲で構成されていることを七節という。

最初の拝殿での舞いは、初段の舞いである。ここで重要なことに気がついた。舞う獅子とは異なる、置かれた獅子があるのだ。表情からすれば、浅草神社のびんざさら舞の時に出てくる獅子舞、あるいは鳥越神社の獅子頭にも似ているように思われた。そして、目は蛇目の型式をしていたので、富山県と同じ特徴を持つ。何か関連性があるのだろうか。その真相はよくわからなかった。

それが終わると猿田彦大神の神陵の前で軽く舞ってから、別宮である椿大神社へと移動した。椿大神社では午前10時から、後起こしの舞までが行われた。先ほどの拝殿に比べるとより舞い場が正方形に近い。奥行きが感じられる舞い場であり、獅子頭はここには飾られていなかった。


それから、獅子舞の一行は鳥居を出て、西岸寺に入って行ってしまった。ここまでで10時半。30分ほどの舞だった。午後は14時から獅子堂の前で広く観衆に向けて舞をするとのことだったが、午前と舞いが変わらないこと、そして、午後からは予定があることなどから、この舞いは見ずにバスで帰路に着いた。

この御祈祷神事について、始まりの歴史を遡ると、山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年,たま出版)によると、「人間はみな神の子であるが、人間の心に動物霊が宿ると動物的となり、戦争をしたり殺人を犯したりする。大祓をして清めれば、再び神の子として立ち返ることができる、と神道では考えている。(中略)百獣の王である獅子に動物霊を追い払わせるという意をもって、聖武天皇吉備真備大臣(当時の総理大臣)に命じて椿の木で神面と獅子頭を彫刻して奉納し、獅子舞神事を始めた。そして、伊勢国はもとより諸国を巡見して大祓を実施した。(中略)秘伝によれば、この神事は修験神道の元祖行満神主が始め、聖武天皇の勅願によって斎行されるようになったという。」とある。「天下泰安・四海静穏・風雨順時・百穀潤屋」の勅願のもとに始まったようだ。丑、辰、未、戌の付く年を舞年としており、3年に一度の開催だ。いずれも4という数字が頭に浮かんでくる。天地人・四方八方を祓い清める舞いという。

吉備真備がディレクター、行満神主が現場監督みたいな感じだったのだろうか。そこら辺のニュアンスがよくわからない。ただ、行満神主というのは現在、椿大神社の神主である山本家の祖先であると伝えられている。また獣に関わる者、猟師や解体業者たちがどこか不可視化されて被差別民となり、逆にそこに触れないことが清浄を保つコツであるという風に読めなくもない。一方で当時は疫病が流行っており、衛生面だったり争いごとには特に繊細で敏感になった時期であったに違いない。そのような時代背景のもとで獅子舞は生まれたのだろう。また、上記の椿の木で獅子頭が作られたのは740年という年号で、姉妹一対で同じ木から作られたとも言われている。

あとは伊勢国を日本の信仰の中心に置く、という意味で、獅子舞は一役買ってた可能性がある。山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年,たま出版)によると、「日本全国から伊勢国に入ってくるすべての人を獅子の舞で祓い清める」とある。椿大神社から伊勢湾の海岸までの6里(約23.5km)の間にあるどの地域にも獅子舞神事が伝わっており、どこから伊勢に入ろうとしても、獅子舞がいる地域を通らねばならないそうだ。伊勢に行く旅人はとにかく全国から参じたわけで、その分、人が集まるところに厄ありということで、強力な厄祓いが必要だった可能性がある。その一方で「神宮には狛犬がない」とこの本では述べられているが、厄祓いは獅子舞によって完結させる意図が伺える。聖武天皇は本物の獅子舞好きだったかもしれない。それによって日本の精神的な根幹を担う伊勢の地を完璧に清めるという呪術的かつ地政学的意図があったとも言える。

ざまざま憶測が湧いてきた。先ほどの話は岩手県遠野市に伝わる長野獅子踊りと山谷獅子踊りに伝わる、獅子舞始めの伝承譚と少し異なる。ここで伝わるのは、鹿の胎児の話だ。聖武天皇の妃が病気になった際に、鹿の胎児を薬効として飲ませたら、病気が全快したという。これは獅子神のおかげだとして、これを祀り、そして踊りを披露するようになり、それが巡り巡って岩手県遠野市まで伝わったのだという。これはもしかしたら、大陸系獅子舞と北方系しし踊りを同じ「シシ」として折衷しようとしたことから、その理由づけのために作られた話かもしれない。それは長野獅子踊りや山谷獅子踊りが鹿踊ではなく「獅子踊り」と表記することからも歴然である。この話は後付けなのか、本当の話なのかはよくわからないが、いずれにしても、少なくとも北方系と大陸系の獅子の文化が混ざり合っていく過程についてよくわかる話なのである。

まずはこの神事が始まったのが、1300年前、聖武天皇の頃であるとされる。聖武天皇といえば、東大寺大仏殿開眼が思い浮かび、それが752年という年だ。ここで伎楽の獅子舞が奉納され、それが寺院経由で全国に伝播するきっかけになった。それと時を同じくして、日本最古の獅子舞と言われる獅子神御祈祷神事が、三重県鈴鹿の地で始まっていたというわけだ。獅子神御祈祷神事の伎楽の獅子との関連性がよくわからず、椿大神社の方もわからないと話されていたが、天狗は鼻高面からきている可能性はある。つまり、ペルシャなど西アジアの外国人の鼻が高い面がシルクロードを伝わって正倉院に入り、それが伎楽に出てきて、それが鈴鹿、伊勢に入った時に猿田彦の天狗面に変わっていたというわけだ。

ここでなぜ、椿大神社が獅子神御祈祷神事を日本で最初の獅子舞だと主張するのか考えてみた。伎楽の獅子というのは舞うよりも、行道獅子なので歩くという要素が強かった。だから、これを獅子舞としてカウントしなかったということではあるまいか。さらにいえば、北方系のしし踊り文化を獅子舞としてカウントせず、シシの文化の類似性よりも踊ることと舞うことは違うのだと強調した結果、獅子舞の最初は獅子神御祈祷神事なのだと、言いたいということかもしれない。

ここから近い伊奈冨神社の獅子頭は長い間、日本最古の年記銘付き獅子頭として、1280年銘が入るが、ここに獅子舞を伝えたのが、獅子神御祈祷神事をしていた椿大神社であり、この流れはわかっている。ただし、愛知県日置八幡宮の年記銘付き獅子頭の年代が、1252年銘と判明し、さらに困惑する結果となる。この獅子頭、八幡信仰圏によって伝播したのではないかという話もあり、京都とのつながりが見え隠れする。いずれも獅子頭の年記銘から、獅子舞の始まりを類推することは難しく、年代も鎌倉時代以降のものしか無い。ただし、獅子舞伝播勢力の観点から言えば、伊勢系統と京都の八幡信仰系統が名古屋辺りでせめぎ合っていたのではあるまいか、という推測がある。

伊勢・高向の御頭神事、日本全国に通じるヤマタノオロチの系譜を考える

三重県伊勢市、宮町駅に降り立った。19時16分、辺りはもう暗い。これから祭りが行われるわけだが、あたりは静まり返っている。本当にここで合っているのだろうか、20分の徒歩ののち、高向大社につく。途中、若い人が数人歩いており、携帯を見ながら何やら話している。ああ祭りがあるんだというなんとなくの確信は持てた。高向大社は明るく照らされており、非常に厳かだ。鬱蒼と茂った森が境内を包み込み、静かな奥深い空間を魅せてくれた。境内までの道の途中に、塞の神、あるいは道祖神のような石があり、紙垂のようなもので囲まれていた。境内に入ると、夜だからどこか神様がお休みになっているように思われたので、柏では虫に聞こえるくらいの音で済ませて、静かに取材に来たことの感謝を伝えて、その場を後にした。

しかし、ここで祭り準備が行われていないということは、、、と彷徨っていると、伊勢市役所の山本さんと道端でばったりと合流できた。そこで、高向公民館の方でやることを知り、一緒に向かった。道中、地域の家々にはしめ縄が張ってあったのが印象的だった。貴い神を迎え入れるかのように高いところで貼られていた。

公民館に着くと、火が焚かれていた。公民館の他に会所もあり、ここには旧式の御頭様が祀られていた。担い手たちのことを高向共盛団と呼ぶらしい。青年団でも保存会でもない組織で、若い人は16歳くらいから、ご年配の方まで多世代の男が集っている。若い人はこの街に生まれ育ったらほとんど義務的にこの団体に入るらしい。団員のモチベーションは騒ぐことが楽しいということらしい。確かにこのお祭りの雰囲気をとても楽しんでいるようだった。

打祭にひたすらついて歩いた

雄と雌の合流

街を回ってきた雄と雌の御頭様は太鼓や篝火を挟むようにして、会所の方面を向きながら衣装替えが行われる。髪の毛である紙製の〇〇を紐のようなものに付け替えてすぐに燃えてしまわないようにしているのだろう。
この御頭様は現在使われているものは昭和50年代に作られたものだという。会所に飾られた旧式の御頭様はいつ頃に作られたものかは分からず「もし年代がついていたらこれはもう有形文化財級なんじゃないか」という話を聞いた。一方で昭和に作られたこの御頭様はもともと伊勢の地元の方が彫ったそうで、値段はいくらだったのかよくわからないという。ただし胴幕は京都の西陣で作った非常に高価な織物で麻製であり、500万円するとのこと。これは火祭りで焦げるなどの危険性もあるものだけれども非常に高価であり、なかなかすぐに買えるものではない。日本全国を見渡してもこれほど高価な胴幕はなかなか存在するものではない。また、この胴幕の模様がとても面白くて、雄と雌で阿吽の絵柄の鶴が描かれている。なぜ鶴が描かれているのかはよくわからない。

だまし

衣装替えが済んだ御頭目掛けて、若い担い手たちが走っていく、それを奪いとろうとするかのようにせめぎ合う。これが何度も何度も繰り返される。途中でせめぎ合う男たちは上裸になり、その格好をした人がどんどん増えていく。

打祭(うちまつり)の開始

まず魚(名前は〇〇?)が供えられたり、ヤカンに入れられた熱湯が御頭の頭の上からかけられたりした。そこから松明が燃えて御頭様は動き出す。この松明は伊勢神宮からもらい受けるらしく、神聖な木を細い薪状にしたものである。
「火の粉が飛んでくるぞ!化学繊維の服は脱いどきな!」と言われジャンパーを脱いでリュックと背中の間に挟み、シャツ姿に。2月の寒さに震えながら、なるべくたいまつの火の近くでカメラを構え続ける。火の近くは非常に熱い。肌が高熱を発しており、暑さで服が溶けるんじゃないかと心配になる。火を離れたらそれはそれで寒い。ちょうど良い塩梅などはない。舞い手の服を見るとボコボコに穴が空いてびっくりする。内側にワイシャツを着るなど重ね着の工夫をしている人もいる。それまで上半身裸でいた担い手たちがしっかりと白い衣装に身を包むのは、この火に対する対策であり、「服を着るのが打祭の合図」と教えてもらった。
交差されたたいまつに目掛けて、御頭は左右にくるくると回る。掛け声は、「三ヤ!」と言えば23歳、「六ヤ!」と言えば26歳、という風に舞手の年齢や所属を表している。それにしても火の粉が飛び散る中で暴れ回る御頭の姿は非常に迫力があった。御頭の重さはなんと30kgあり、それを頭の上で持つ担い手は非常に苦しい。交代の掛け声が来ると、即座に次の担い手に変わる。松明の火の下を潜ってから御頭を持つのをループ的に繰り返しているのだが、これはどこか神域への門という感じがした。
たいまつは路上に立てかけられており、燃え尽きると次々と新しい松明が燃やされ、常に火が灯り続けている状態である。松明の結び目の数は12で、稲藁を家の高さくらいまで長く継ぎながら縛っている。ただ、閏年は13の結び目を作るという決まりがあるらしい。ここら辺も大変興味深い。



斬り祓い

村境に設けられた斬り祓い場がある。そこで見物衆から「カレイーはどうね!」と声が上がり、アラレ状のお餅が撒かれる。その後、斬り祓いの儀式が始まる。しめ縄をまず刀で斬る。この場所自体がそもそも興味深くて、神社でも個人の敷地でもない、この儀式のための空地とでも言おうか。村境に来たる疫病よけのための神事であろうと思われる。しめ縄が切られたら、この場にたいまつを持った人々と獅子舞が走ってやってきて、太刀により軽い峰打ちが入ると御頭は胴体によって即座に丸められ、そのお姿は見えなくなる。

その後、突然、担い手たちは走り始めた。その奇怪な行動に思わず自分も走ってついていく。獅子頭がなぜここで隠されたのだろうか。そして、なぜ走るのか。どこか首を切られた獣が苦しみ悶え、そして、暴れているかのような感覚を得た。走って向かった先は再び会所の前であった。

ここでロウソクが灯る中、獅子頭が供えられ、横の広場で若者たちが「おたか踊り」と呼ばれる踊りを始めた。原始人間はこのように獣と対峙していたのではないかと思わされた。納めの踊りである。その踊りは輪を形成しながら回り続け、静粛というよりかは時に賑やかで、円の中心部分を肩を組んだ男性2人組が早いスピードで回るというシーンも見られた。

それが一通り終わると、団長とご年配の方の挨拶がそれぞれ行われた。若者の「高向の御頭神事が大好きです!10年前〇〇が言ったことを僕も言えました」と先達に敬意を表しながら自分もそれに続けたことに対する熱い想いを叫ぶ団長の言葉にとても感銘を受けた。最後にバンザイをして、その場を終えた。
祭りの後、消防団が残りの日を消化する作業を淡々と行っていた。道端にはたくさんのたいまつの炭が転がっており、道を覆っていた。

19時台から見ていたお祭りが終わったのは23時半ごろ。もう日が変わろうとしていた。そうそう、これほど長い時間夜に行われるのは、古い形式を今に残している証拠だし、さすが国指定重要無形民俗文化財に指定されただけある。僕が拝見できたのは夜だけであったが、担い手たちは朝から神社での奉納舞や、祷屋(とうや、神事で準備・執行・世話役を行う人)宅での舞いなどを行ってからの今である。ものすごい長い時間をしているわけだが、19時台からでも十分濃かった。伊勢には本当に奥深い民族行事が伝承されているとつくづく思うわけである。

ヤマタノオロチ伝播論、「い」から始まるトライアングル

ところでこの御頭神事、ヤマタノオロチを模しているようだが、以前富山県射水市で拝見した松明が登場する獅子舞の演目「大回し」に非常に似ていると思う。こちらでは七起こしの舞はないが、大きな酒樽の酒を飲んで酔っ払い剣で刺される所作や、トグロを巻く所作があり、これはヤマタノオロチを示すという。また、タイマツを使うことは両者の類似点として挙げられる。胴体が長いことから百足獅子とも呼ばれる。

また、山形県長井市辺りの黒獅子も百足獅子、あるいは龍の獅子と言われているが、これも実はヤマタノオロチの部類だと思う。黒くて彫りが深い獅子頭は、どこか高向の御頭神事の獅子頭にも似ており、また伊勢の山田産土八社のとも非常に類似する。山形県長井市獅子頭職人渋谷正斗氏の話によれば「伊勢度会脇出の一之瀬神社の獅子頭が長井の総宮神社の獅子頭と酷似してるんですね。伊勢信仰も盛んな江戸期前の時代に伝わったのでは?と想像しております。また総宮神社の古い資料には『宇治山田産土八社の獅子舞と似たり』という文節があります」とのこと。

あとヤマタノオロチといえば、愛知県の花祭りである。花祭りにはヤマタノオロチが出てくる地域には獅子舞がおらず、獅子舞がいる地域にはヤマタノオロチがいない。すなわちヤマタノオロチと獅子舞は似た役割を担っており、どこかで変異した可能性が考えられる。あまり話題を広げすぎてもよくないが、ヤマタノオロチは龍、そして蛇に通ずるとすれば、蛇獅子・へんべえとり(岐阜)との繋がりもあるかもしれない。

出雲、北陸、そして山形という日本海側の人々の交流と伊勢、愛知、岐阜といったの獅子舞文化の繋がりが見えてきて面白い。ここら辺の信仰の類似性についてはまたこれから解き明かさねばなるまい。

また高向の御頭神事における会所に最後の御頭様が置かれた際に、御頭様の横に天狗面が置かれていた。雄の御頭様は大きくて脇の天狗面は鼻が高かった。一方で雌の御頭様の脇にある天狗面は鼻が低かった。この天狗面は富山県射水市では、獅子と対峙する松明を持った天狗が出てくるので、それとの関係性と類似しており、獅子だけでなくこの天狗の存在が獅子舞伝播の分析には欠かせない気がする。高向の御頭神事には、皇学館大学の教授が来ていて話を伺ったらこの天狗の由来はどこから伝わったのかよくわからないものの、伎楽の鼻高面や猿田彦への類似が確認されるとのことで、これらとの関係性にも注目したい。天狗=猿田彦といえば生まれは出雲の神様なので、出雲とのつながりが確認される。この伊勢、出雲、射水。「い」から始まるトライアングルの関係性はいかに?と問い直すことを課題として、研究をさらに進めたいところだ。

奇行狂態の多い妖童出現、御頭を振り村を救う

さて、この高向の御頭神事について、歴史を最後に振り返ろう。「神領山田の系統に属する」というから、山田産土八社との類似がある。神役人佐々木重兵衛高行が寛文四年(1664年)正月に古記を書き写したものを原本とする『伊勢国渡会郡高向郷高向村神社記』に所蔵される「御頭之開眼供養記」によれば、長暦2年(1038年)8月11日、高向住人本滝定行が、高向東北の鯛祭田の辺りにあった大きな柳の木が3年前から枯れていたのを切って、2頭の御頭を作り、両氏神(高向大社・加牟良社)に献身したものであるという。氏寺正法寺が御頭の保管場所であり、周辺一帯にいくつもの御頭があったようだ。また『伊勢国渡会郡高向郷高向村神社記』に所蔵される「正法寺記」によれば、正法寺の円覚和尚に育てられた神童木椙少年の話が出てくる。宇須乃野社の社頭にあった神木大杉の木の精と言われており、奇行狂態の多い妖童だったという。養和年中(1181〜82年)に全国的な飢饉・悪疫で死者続出となったが、この妖童が御頭を出してお祓い清めを行うとたちまち悪疫が退散したそうだ。この時以来、打祭での御頭振りが行われている。これらの記録から、御頭神事の舞い始めの時期は定かでないものの、少なくとも800年前には行われていたと言えるだろう。それ以来、古制を維持して受け継がれ、昭和52年5月には国の重要無形民俗文化財に指定された。(参考文献?)

富山県の獅子舞研究旅、職人、獅子舞、研究者との出会い

富山県は獅子舞が盛んな地。獅子舞に関するまだまだ調べきれていないことがたくさんある。そこで、2024年1月28〜29日で、現地を訪れる機会を得た。ここで、獅子舞職人、研究者にお会いしたり、獅子舞演舞を拝見したりと大充実だった。日記的に振り返る。

英雄伝説、名付けはいかに?「小川寺の獅子舞」

28日の午後は雨だった。小川寺で火祭りが開催されるとのことで、射水市から車を走らせた。果たして、火祭りは開催されるのだろうか?実際に現地についてみると、閑散としている。お、これは祭りは中止か?と思い、宿坊の中をのぞいてみると、なんと大勢の靴が置いてあり、人が出てきた。「祭りやりますか?」と聞くと、「中でやるから入っていいよ」とのこと。それならばぜひということで、お寺の宿坊の中に入っていった。そこにはお膳がずらりと並べられていて、ここで、お弁当が振舞われている。その間を縫うように、間も無く獅子舞が登場した。ひたすら長い廊下を往復するだけで、数分で終了してしまったが、面白い獅子舞を見ることができた。いつも外でやる小川寺の獅子舞といえば、カメラマンがぞろりと待機しており、なんだかうっとおしいような感じなのだが、今回はこじんまりと地元の人だけで、おそらく檀家だけで開催されているような感じだった。それでもカメラマンは数人きていたが、それでもまだマシな状況である。

小川寺の獅子舞は「行道獅子」の形態であり、舞うと言うよりは祓いながら歩くという言葉が似合う獅子舞だ。獅子頭は平坦で小さく、蚊帳はカラフルである。立山の麓、修験道が盛んで宿坊がいくつも軒を連ねるこの一帯では、信仰を背景として、古くからの獅子舞の形態がそのまま受け継がれている。富山県内では有数の伝統的で歴史ある獅子舞と言えるだろう。獅子と共に歩くのはオカメ、テング、ビッチャル、クソタレ。英雄伝説が絡むらしいがこの名前の由来は不明。小川寺の獅子舞を見終えた後は、温泉に行って射水市へと戻った。

高岡の工芸、その根幹を支える職人の姿

高岡の大國屋を訪れた。はオーダーメイドではなく既製品もあり、大量発注できそうな雰囲気。ものづくりへのこだわりは多くないが、しっかり経済を回してその基盤を築いている感じがする。高岡の祭り文化を支えている祭り道具屋だ。おもちゃの獅子頭が確か2万円代、これは安いと思った。

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次に山本染業にも訪れた。お話を伺ったのは29日の午前中。その日に電話してすぐに直行という流れ。突然の訪問だったにも関わらず、受け入れてくださり、とてもありがたかった。「仕事が早く終わったんだ」とそこには獅子の蚊帳が干されていた。奥様がコーヒーを入れてくださったが、短時間で10分ほどお話を伺うことができた。コロナ禍で獅子舞ができない時期に、新しいニーズを作ろうということで、染めの技術を生かした獅子舞の模様が入ったショルダーバッグなどのグッズを開発し、クラファンで販売していたというエピソードが大変興味深かった。86万円、56人の支援があったようで、このモデルは学ぶべきものが多い。金沢の奥田染物が密にならない小さい蚊帳を作って貸し出すということをしていたのも思い出した。現在は生産していないようだが、もし興味があればお問い合わせをとのことだった。

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山本染業の蚊帳は30万円以上で、作っているらしい。模様は伝統的な柄をそのまま取り入れる。基本は富山県の百足獅子が多いが、小さい蚊帳を作ったり、北海道の方から注文があることもあるという。高岡ならではの柄はよくわからないが、富山や井波は美術的でリアルな表現になる。また、新湊はカラフルな表現になる。獅子の蚊帳以外だと、祭りの半纏や神社仏閣の幕などを染めることもある。メインは蚊帳だけれども、それだけではなかなか成り立たないので、他の仕事も組み合わせるようだ。年間で15~16の蚊帳を作った年もあった。図案ができている状態で、染めのみであれば、2週間くらいでできるらしい。香川県では高岡の加賀獅子のように麻ではなく絹を使うことが多いので化学繊維の使用が増え、それでインクジェットという選択肢も出てきているように思うが、高岡ではそのような動きはないようだ。

「次の世代に伝える場ってあるんですか?」と聞いてみると、「小さい蚊帳の風呂敷作りなどの体験ができる場を作って行きたい」って話をされていた。新しい人が学びに来るというのはなかなかないようで、世襲で行なっていることが多いらしい。

浦幌と繋がる移民の足跡を探す「氷見市立博物館」

氷見市にはしっかり、獅子舞の展示がある博物館がある。ひみ獅子舞ミュージアムは、獅子舞に特化しているが、この氷見市立博物館もあった。これは友人の紹介で知った。ここには獅子舞コーナーがあり、数頭の獅子頭が展示されている。十二町(坂津)が伝播のハブになった場所らしいので、ぜひ氷見市の獅子舞を見に行くときは、坂津の獅子舞も見たいと思った。

そして、氷見と浦幌の獅子舞の類似はとても興味深い。浦幌町立博物館に行った時に、笹川平次郎という方が氷見から浦幌に獅子舞を伝えたという話を聞いた。これに対して氷見獅子研究者に尋ねたところ、「笹川という姓を探るのが近道な気もしており、大浦というところに1軒笹川性があるそうですが、旧家かは不明です。」とおっしゃっていた。  あとは北海道への獅子舞を伝えた記録があるのは、 十二町(坂津)→岩見沢、論田→? 触坂→長活町、氷見→五箇山→北海道風蓮  氷見市吉池→北海道赤平市住吉神社  あたりが気になる。あとはもともと、氷見市の薮田との交流事業をしていたが、 その詳細は不明 。演目から探るか 、伝来者の苗字から探るか 、浦幌開拓民の故郷を探すか、これからも探求を続けたい。

 

獅子頭制作 7日目

本日、茨城県石岡市での獅子頭制作修行7日目。今回の工程はこんな感じ。

・眉毛を彫って取り付ける
・頭に木を組んで取り付ける
・眉毛に木を足す

今回は久しぶりに彫るよりも切る動作が多かった。自分はまだまだ1ミリ単位の正確性が足りず、一度切り直しになった。ノコギリは力を入れようとして引くのではなく、ただ動かすような意識でやることで、正確性はあがりずれることがない。ノコギリは大きなものだけでなく、小さいサイズのものもある。ただし、上からストンと切る場合は大きなもので切った方がやりやすかった。

また、クランチを初めて使った。ボンドをつけたところはクランチでしっかり挟む。挟むところを上に向けることで、クランチが出っ張らずに獅子頭を持って帰ることができるなど、機動性があがる。

眉をつけてから、ザクっと幾つもの木組みを切るところが1番神経を使った。目にかからないような角度でザクっときる。ここで、滑らかな輪郭が出てくる。人間の表情もそうだけれどら眉がくっきりしてくると格好よい。獅子頭に感情が乗っかったような感じがする。次回はここを整えるなどの工程を行うことになるだろう。