獅子頭を埋める習俗を埼玉県吉見町や東松山市にて研究

日本各地に、獅子頭を土の中に埋める風習がある。この風習はどうして広まったのかということが以前から気になっていた。厄払いの一種ではあろうが、なぜ、舞ではなく埋めることによって厄を払ったのかがとても気にかかるのだ。

 Google Mapで獅子頭と検索したところ、関東圏では埼玉県吉見町というところに、「獅子封じ塚」なるものがあるらしい。きちんと立て札が立っていて、「数百年前にここに獅子頭を埋めました」と書かれているが、誰が建てたのかは不明である。ポンポン山公園という公共の公園の敷地内にあるとのこと。

 GoogleMapの写真をよく確認したところ、公園の看板に「公園施設についての連絡先」として吉見町の「まち整備課都市計画係」のお電話番号が掲載されていた。ここにお電話をしてみることにした。色々な部署の方に聞いていただいたようだが、結局、獅子封じ塚に関することをご存知の方はいないようだ。「地域のご高齢の方に聞いてみるしかないかもしれません。」とのこと。それでもご丁寧に対応していただき、本当にありがたい。実際に現地に行って、周辺でヒアリングを進めていくしかないようだ。

 この獅子封じ塚近くには、獅子塚神社という神社もあるらしい。それを含めて考えれば、獅子塚文化圏なるものが埼玉県吉見町から東松山市にかけて広がっていた可能性がある。それを考慮に入れて、北鴻巣駅あたりから東松山駅までの約16kmを歩き、獅子塚文化圏の謎を紐解くこととする(2021年2月21日に実施)。

 

①獅子封じ塚周辺の様子

獅子封じ塚は、ポンポン山公園の入り口の場所にあった。ポンポン山公園は、頂上付近の土を踏み鳴らすと、ポンポンという音がすることからこの名前がついたそうだ。地形上地下に空洞化小さな隙間のようなものがあるのかもしれない。ポンポン山公園の敷地は、一部高負彦根(たかおひこね)神社の社殿にもなっている。吉見町では最も古い神社のようで、710年には創建したと伝わる。この神社の鳥居脇に獅子封じ塚があるというわけだ。この関係性を考えると、神聖な場所に獅子を封じることによって、厄を鎮めるという意図が見えてくる。

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獅子封じ塚の立て札に書いてあった内容をここに引用しておこう。

昔、高生郷(現在の田中)には、獅子舞いの古い行事がありました。今から、数百年前ごろの旧暦六月の某日、悪疫退散のため獅子頭を冠り、戸毎を訪問する行事が行われておりました。しかし、ある年、痢病が著しく発生し、死者も多く出たので、村人たちは、これは産土神のお咎めではないかと恐れ、獅子舞を境内に埋没し、その上に、柊(昭和十二年に大柊は、県指定文化財となるが、現在は二代目)を植えて、獅子封じをしました。それ以来、痢病もおさまり、平和になったと言われています。

※痢病・・・腹痛や下痢の激しい伝染病の類。

産土神・・・その生まれた土地を守護する神、鎮守の神。

※高負彦根神社の三鉾・・・湊石(御神体)、大柊、菊水(湧水)

 この立て札は誰が書いたものかを吉見町の「まち整備課都市計画係」の方に尋ねたがご存知ないそう。この立て札を見ていると、様々な疑問が浮かんでくる。まず、なぜ悪疫退散のために、獅子頭を埋めねばならなかったのかということだ。獅子頭といっても、地域の人にとっては結構高価な買い物であった場合も多い。それを簡単に埋めてしまうという意図について知りたいのだ。獅子というのは、厄を食べてくれる一方で、厄そのものであり獅子殺しの対象とされることもある。その負の側面を強調した行為として、獅子頭を埋め厄を鎮めるということなのかもしれない。ただ、これは完全に個人的な推測の域を出ない。そして、「数百年前」とはいつ頃で、周辺でも当たり前のように行われていたことなのか。それらが明らかになれば獅子塚文化圏の謎も解けるであろう。

 以下の写真が、獅子封じ塚を裏側から見た様子である。看板を写さずにとって、その構成物を純粋に眺めてみる。木は4本植わっており、そのうち1本が先ほど看板の文章に出てきた柊(ひいらぎ)である。獅子封じ塚は石によって360度囲まれており、たまに丸く穴が空いた石がある。

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 周りを囲む構成物としては、他に石柱が2つあった。どちらも基礎となる平らな石の上に尖った石を乗せておいてある。刻まれた文字を解読することはできない。道祖神とかその類のものであろうか。

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ポンポン山公園や高負彦根神社にくる地域の方々にも獅子封じ塚について「何かご存知のことはありませんか?」というような風に尋ねてみたが、その存在自体気に留めたこともないというような返事で、詳細を知る者はいなかった。

②獅子塚稲荷神社周辺の様子

次に訪れたのは、東松山市の獅子塚稲荷神社だ。獅子封じにまつわる記述を見たわけでもないのだが、おそらくこの神社名から察するに獅子封じと関係の深い神社だと思われる。ただ、行ってみたところで、何かがわかるわけでもなかった。社殿は工事中で、中に何が祀られているかわからないが、比較的新しそうな印象を受ける。神社の両脇には、丸く刈り込まれた木が数本植わっており、周りは農地や茅場、まばらな家ばかりだった。梅の木に花が咲いており、印象的だった。

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 東松山市立図書館での文献調査

それでは最後の頼みの綱としてよく利用する図書館へ。こういう場所に行けば、大抵のことは解決する場合が多い。実際に獅子塚文化圏に関する記述はあるのだろうか。

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以下、読んだ内容をまとめておく。

・倉林正次, 『埼玉県民俗芸能史』, 1970年, 錦正社

この本の中で、「臨時に獅子舞を行う場合」として、2パターンの獅子舞の形態を紹介している。それが「雨乞い」と「悪魔払い(疫病除け)」である。まずは、雨乞いについて。埼玉県内には、獅子舞が出ると雨が降ると言われている地域がいくつかあり、頭が竜の形をしているから雨を呼ぶのだという。埼玉の獅子頭は獅子型と竜型に大別され、後者に関する話だ。利根川水系の地域では、竜頭が洪水の時に流れてきたとか、流木で作ったとかいう伝説も数多いという。この雨乞いが伝わる地域として、埼玉県春日部市銚子口、北川辺町児玉郡大里郡熊谷市石原、児玉町東小平東松山市神戸、加須市飯積などがある。飯積は、栃木県野本町や茨城県猿島郡などに雨乞いの応援に行ったこともあるそう。この雨乞い獅子の特徴としては、沼に獅子頭を沈めて祈祷したり、獅子を擦って辻々を廻ったり、雨乞いの歌(悪魔払いの歌)を伝ったり、東方より雨が降るように笛を吹いたりするようだ。

 それでは、もう一方の悪魔払い(疫病除け)についても見ていきたい。火伏せの獅子といって、火から家を守ってくれるような獅子がいるそうで、これは東北の権現様の話にもよく似ていると思う。また、コレラなどの伝染病や病気が流行った時には、各戸を獅子頭を持って練り歩くということをしたようだ。舞を神社や家の庭先で舞う場合もあもあるとのこと。これらの形態の獅子を持つ地域は、埼玉県越谷市下間久里、東松山市野本・神戸、白岡町小久喜、深谷市柏合、北足立郡上尾市平方、加須市樋遣川・飯積などである。ここでは、祈祷、辻固め、辻斬りなどの行事などとして開催される。以上のような「雨乞い」や「悪魔払い(疫病除け)」に近い考え方として、今回の獅子封じのような考え方も起こったのだろうと推測ができる。

 ちなみに、獅子舞起源説に関して、興味深い話がある。源氏の武将を起源としたものが多く見られるのだ。例えば、源頼義、義家、義光などが安倍氏を討った前九年の役後三年の役の時に、長期化する戦いの中で士気を高めるために獅子舞が始まったという説が埼玉県羽生市中手子林に伝わる。また、北川辺町飯積の獅子頭漂着譚としては、源義経の乳母が獅子頭と一緒に流れてきたとか、コウガケ(手足の甲を日光や埃から守る布)の笹竜胆は牛若丸の定紋だとか、大八車は弁慶の紋をかたどるとか、そういう話も伝わっている。

それでは、次に今回訪れた獅子封じ塚がある「吉見町田甲」と、獅子塚稲荷神社がある「東松山市東平」の獅子舞についてみていこう。

・吉見町町史編さん委員会, 『吉見町史上巻』, 1978年, 吉見町

吉見町田甲の獅子舞に関する記述はない。高負彦根神社の御祭神は高負比古命で、大宮氷川神社に伝わる『武蔵国系図』によれば、武蔵国造家の遠祖神である五十根彦(いねひこ)命と同一神であり、出雲建子(いずもたけこ)の孫の身狭耳命の子である。ちなみに高負はたけぶと読むことができ、雄叫びをする猛々しさを意味する。実際に、『日本書紀』の記述には、五十根彦命が荒々しいことを想定した記述がある。吉見町という大きなくくりで考えれば、獅子舞は奉納のものと水祝儀のものがあった。1788年に前河内村からの役所への願上書に水祝儀の記述が出てくるが、獅子舞が農業の束の間の娯楽として行われ、それが度々遊興の一種として禁令の対象とされていたというのだ。今、民俗芸能を継承しようという動きとは真逆で非常に興味深い。

東松山市教育委員会事務局市史編さん課,『東松山市史. 資料編 第5巻 (民俗編) 編』, 1983年,東松山市出版

東松山市東平では、大正時代中頃まで獅子舞を実施していた。伝右エ門さんという人物が最後の獅子舞の担い手であったという。獅子舞の最中にダイノコボ(男根)を振り回すシーンがあり、女子を騒がせたそうだ。あんまりしつこくてもダメで、真面目過ぎてもダメ、その塩梅が難しい役を務めたそうだ。そのダイノコボに当たると、「蚕が当たる」と喜んだとされる。小正月に削り花、まゆ玉などとともに、ダイノコボ(男根)、ショウノコボ(女のもの)などを作ったことが関係しているのではないかとのこと。獅子封じや獅子塚、獅子塚稲荷神社に関する記述はない。

まとめ

あれこれと調べてみたが結論から言えば、獅子頭を穴に埋めるという行為がなぜ行われたのかについて直接的に知ることはできず、間接的にいくつか近い事例を見つけることができた。手応えはさほど大きくはないものの、少なからず「雨乞い」や「悪魔払い(疫病除け)」系統の獅子の延長に、獅子頭を穴に埋めるという行為の存在を見て取ることができた。獅子塚文化圏なるものがもしあるとすれば、その世界観についてもっと知っていきたい。

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ps. 日本全国や海外という話で言えば、いくつか獅子頭を埋めるという行為についてわかっていることがあり、参考までに共有しておく。ここで語られるのは、仏教における「供養」を意味する獅子の存在だ。荒ぶる死霊を百獣の王・獅子の呪力で払い除けるという考え方である。『中華全国民俗誌』(下篇巻二)によれば、中国山東省では死人が出た時に親族や友人が獅子を作って棺の前で舞踏するという風習がある。同様に、日本各地でも供養に絡めて様々な奇習が存在する。葬礼の先頭に獅子頭を捧げて歩く風習が東北に見られたり、捕獲した鹿などの霊魂動物を供養すべく獅子頭を埋めて獅子塚を作り「霊地」としたり、除災を目的に獅子頭を焼いてしまったり。天皇が六十六カ国に獅子頭を埋めたなどという伝説すらある。これらの仏教における供養の意味での寺院を舞台とした話が、神社へと獅子舞の実施が移行するようになった時に、仏祭獅子から雨乞い獅子への変化が見られるのだ。寺院から神社への移行とは、すなわち渡来系の獅子舞が固有の芸能に神仏習合の考え方で附会したと考えるのが良いだろう。かなり漠然とした話ではあるが、先ほどの雨乞いの獅子ともここで話が繋がる。「中山太郎, 『獅子舞雑考』, 青空文庫POD, 2015年」や、「石倉敏明, 田附勝『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』, 淡交社, 2015年」などの文献には、それにまつわる話が掲載されている。

【岐阜県郡上市】猪鹿庁の取り組みから考える猟師のこれから

都市部に住む若者が、山に住む猟師の暮らしを学ぶ。そんなきっかけをどこかに探していた。自分自身、肉を食べさせてもらっている1人消費者でしかなく、実際に獲物をとって解体する苦労も有り難みも知らない。現代の暮らしは効率的であることと豊かさが必ずしも一致するわけでもなく、それに気づきつつある都市部の若者は多いと思う。実際に獲物が取れるかもわからない、でも狩りにいく。実際に獲物が捕れない日もあり、一見非効率な営みである。でも、自然と対話する豊かさと捉えることもできる。

 

今日は都市部の若者が山に住む猟師に関わる方法を探るべく、猟師の方にオンラインでヒアリングを行った。岐阜県郡上市に「猪鹿庁」というグループがある。インターネットで検索してみると、猟師の業界では見たこともないほどキャッチーなHPが出てきた。単に狩猟をするだけではなく、ツアーやイベントなどを行い、積極的に狩猟の素晴らしさを発信されているとのこと。とても興味が湧いてきた。詳しい活動内容を知りたいと思い、友人にリーダーの興善健太さんを繋いでもらって、ZOOMでお話を伺った。

 

▼猪鹿庁のHPはこちら(写真はHPのトップ画像)。

inoshika.jp

 

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活動に至る経緯

まず、猪鹿庁というグループが生まれるまでの経緯について。

興善さん:初期のメンバーは移住者たちです。林間学校のスタッフをしていたが、冬の仕事がありませんでした。そこで、地域の方々に昔、冬は何して食っていたのかを聞いたら藁仕事とか夜なべがほとんどでした。一方で、イノシシの市場があって狩猟文化もあり、スキー客に振る舞うというお話も出てきました。それなら自給自足の一環として狩猟をやってみるかということで、今の活動を始めたのです。今まで経験してきたのは、グリーンツーリズムなど、自然の楽しみを伝えていくような仕事でした。それを狩猟の分野でも生かして体験ツアーなどを企画できるかもしれないと感じました。それが、この猪鹿庁の活動にもつながっているのです。僕らは、「猟師は里山保全者だ」と考えて、活動をしています。猟師として生きることは山を守ることでもあるからです。近年は、豚コレラが流行したので、イノシシ少なくなって、ジビエの事業が縮小しました。だから、どんぐりなどの実のなる木を植えて造林をすることだってありました。

 

次世代への継承と発信

興善さんの活動は狩猟という世界を広く捉え、山として保全してどう継承していったらいいのかという考えのもとに行動していることがわかる。それでは、次世代へ継承という意味で、狩猟の業界ではどのような発信を行なっているのだろうか。

興善さん:メディア戦略は、地元と外で完全に分けて考えています。地元に関しては常に謙虚な姿勢で、年長者を立てます。儲からないボランティアの仕事も率先して行います。外に関しては、ブログやSNS、狩猟体験ツアー、イベントなどで、少し茶化して発信します。それから、真面目な農水省との研修も丁寧に向き合っています。まずは、肉を食べてもらうことが重要です。ツアーは一泊二日にして、夜のバーベキューで肉を食べてもらうようにしています。外からの移住者という意味では、子供達と遊ぶ住み込みバイトや、郡上カンパニーの移住促進に向けた取り組みなどを経由して興味を持ってもらう場合が多いです。

 

猪鹿庁では、クラウドハンターという活動があるそう。罠の狩猟の現場に都市部の人を連れてきて、トレイルカメラにsimカードをさして、自分のかけた罠に獲物がかかると携帯に通知が来る仕掛けがあるとのこと。この仕組みを使えば、都会にいて山が身近になく地方移住ができない状況の人でも、関係性さえ作れば猟師になれる可能性も広がる。まさに、猟師の関係人口が生まれつつあるのだ。

https://inoshika-tour.tumblr.com/201810_c_hunter

 

和歌山県では、「山肉山分け」という取り組みもあるそう。罠を仕掛け、仕留め、解体するところをライブ配信しているとのこと。インターネットからでも身近に狩猟の現場を知ることができるというわけだ。

https://damonomichi.com

 

里山循環と今後取り組むべきこと

これからの狩猟とその背景にある里山の循環を考える上で、今後取り組まなければならないことについてもお話を伺った。

興善さん:脂ののった熊や猪は需要があります。鹿は普通に美味いが、熊よりは劣ると考えている人も多いです。猟師に美味い鹿肉があることを知ることから始めるべきかもしれません。低温調理をするのが肝、焼きすぎるとパサパサになります。あとは、有害駆除費、捕獲奨励金がもらえるから、捕った獲物を加工しなくても良いという考えもあります。でも、せっかく頂いた命なので、食べてもらった方が良いです。郡上市は4〜5箇所も食肉加工場があります。行政が率先して、それらの加工場を立ててくれるのです。200万円くらいで立てることもでき、地域に一つはあった方が良いでしょう。さらに、それを管理する人がきちんといることは重要です。

 

ジビエ工房めいほうという加工場があるそう。

http://gibier.meiho.info/meiho.html

 

獣害対策や野生生物管理に関するジョブマッチングもあるのだとか。

http://furusato-kemono.net

 

今回お話を伺ってみて、都市部の若者がオンラインやオフラインで、狩猟の現場に関わる機会は少しずつ全国で増えつつあることを実感した。しかし、実際に移住してどっぷり狩猟をしたいという人はまだ少ないようだ。10年間活動してみての実感だという。しかし、都市部にいながらも、自分がかけた罠の様子をチェックできる「クラウドハンター」というサービスや、オンラインでも狩猟の現場に立ち会える「山肉山分け」という取り組みなどは、とても画期的だと感じた。これがうまく自分でも主体的にやってみようという動機にもつながればと思う。自分は文章や写真を通じて、何かを発信していける立場でもある。今後、狩猟の業界にどう貢献しうるのかをまたじっくりと考えていきたい。

 

 

 





【岩手県遠野市】 しし踊りと猟師取材 4日目 ~図書館・慰霊碑~

岩手県遠野市釜石市の取材最終日である12月4日(金)。遠野市立図書館で郷土資料系の本を読み、鳥獣慰霊碑をはじめとする石造物を案内していただいた。

 

遠野市立博物館

民俗芸能は祈りや信仰的な側面がある一方で、祭りにおいて地域の最も賑わう瞬間を作り出す。場づくりや文化、精神性などの経済合理で捉えられない価値に目を向けるとすれば、それを金銭的に下支えする地域産業の存在が見えてくる。そして、地域産業を担う人々のスキル、あるいは周辺地域との産業交流が民俗芸能のデザイン・モノを生み出している。そう考えてみれば地域は経済的な価値とお金に換算出来ない価値の両輪がうまく回っている。これは芸能だけでなく、狩猟の世界も同じである。狩猟者が獲物を仕留めて美味しい肉を調理して仲間で熊鍋を囲めるのは、農業や林業など自然と向き合う仕事をしているからこそだ。気候風土気象条件など様々な自然と対峙する経験が狩猟に生きている。さて、その営利と非営利を組み合わせた暮らしの豊かさに目を向けるならば、単なる狩猟オタクや芸能オタクの話では済まされなくなる。これが自分にとっての民俗学の研究が進む遠野であえて調査を行い新しい視点を提示するカギになると感じている。

 

以下、読んだ本と印象に残った箇所の引用である。

 

◯留場栄『山人炉端話ー遠野の民話・一農民の生活記録ー』,1988年

人々の暮らしの変化を顕著に示すもの。熊が里におりてきたこと。昔は熊が里に出ることは珍しく、危害を加えることはなかったが、奥山まで木が切られ、熊を初め獣たちの食物がなくなり、開発などで人間が入り込むことが多くなったために、安住の地が荒らされることから、動物たちの生息地も、山と里の区別が薄れ、里の方にさまよい出るようになったものではないかと言われている。今では、熊が人里近くに現れたとか、人が襲われて大怪我をしたなどという記事が年に二、三回必ず新聞記事に載るようになってきた。

 

ーー確かに、実際に熊被害が急増して、猟師を兼業をするようになったという事例は増えている。人里と山の物理的な距離が近くなったと同時に、人間と獣の心理的な距離が遠くなったように感じる。

 

鹿、狐、クシェア、山兎(野兎)、イタチ、リスなど獣には随分畑を荒らされて被害を受けたが、百姓は一年中外で働くから、鳥や獣も時には仕事の慰めになったり、季節を知らせて仕事の頼りになることも多い。イタチは夜行性だから、夜に鶏小屋を襲われ、朝起きてみると5.6羽も殺され、生血を吸われていることが珍しくなかった。

 

ーー獣が出没することは、人にとって害があるだけではない。仕事の慰めになったり、季節を知らせる便りになることもある。近年、この側面に意識を向ける人は少ないように思う。

 

岩手県立博物館,『第31回企画展図録 山人』, 1991年

マタギが持参した巻物には、日光山縁起を元に書かれた「山立由来記」、弘法大師の高野開山に結びつけた「山立根本之巻」の2系統がある。津軽北秋田地方には、山の神の出産と育児に功のあった猟師、宿貸しをめぐる兄弟の話(蘇民将来と巨旦将来)によって狩猟の許可が決定されている。この伝承文書が近世以降のものであることは、山に住む人々の権利が江戸時代の身分規定により、自由な移動ができなくなり、獣を取ること自体異端視されていく中で、危機感をもった、高野聖や山伏たちが、仏教や神道の知識をもって、その権利の復権を意図に書かれたものだろうと言われている。また、日光山縁起がその下地になっているのは、日光山伏等が伝え歩き、古くからあった奥羽二人の優劣譚に、日光権現と赤城明神の神争いの話が妥協した結果の産物だろうと話している。巻物の内容は、山の神の出自と狩人との関わり、ならびに山中で怪異にあったり、危急の場合の呪法であったり、必ずしも狩人の信仰や習俗に結びつくとはいいがたい。むしろこれらの巻物は身につけてもって危急の際に開いて読むことで、山中の不安を取り除き、山の神の加護があることを確認する護符のような役割を果たしたのではないだろうか。

 

ーー中央政権のある都市と地方の村落のせめぎ合いは江戸時代においても顕著に行われていた。村落にしてみれば、当時狩りは暮らしのために不可欠なもの。しかし、狩猟が異端視される風潮が都市から起こることで、村落がその復権を目指している。ここで高野聖や山伏が巻物に山中における呪法などの知恵や知識をまとめた巻物こそ、今僕が狩猟の実態を写真や文章で記録していることと重なる。それはさておき、村落の暮らしは都市の政策決定により揺らいでしまう危機感があり、村落の暮らしの豊かさというものを再度見つめ直す必要がある。とりわけ、都市に向けて訴えていかねばならない。

 

古い狩猟伝承を残す部落は、本来羚羊(かもしか)狩であったようである。狩猟の頭領、シカリは山の地理や気象条件を熟知し、仲間を雪崩や霧の危険から守るための安全な場所に導くのが第一であり、仲間の絶対服従という不文律をつくる必要があった。禁忌や山言葉も羚羊狩を想定して作られたものであるから、熊猟が中心になる昭和になってからは山言葉が少なくなり、山小屋の作法も緩やかになっていったのは当然である。また、そのことは、マタギ仲間の組織や意識も改められる結果となり、羚狩に伴う古い習俗は、次第に忘れられていく運命にあった。

 

ーー大正末年の羚羊猟の禁止以降、熊猟が中心となったのは大きな変化だった。現金収入の取り分を増やすためマタギ集団の解体が行われ、そこに狩猟の捕獲物の変化があったことは見逃せない。また、精巧な鉄砲ができたことも注目すべき変化である。技術の革新は、狩猟のコミュニティを改変したのだ。狩猟が個人のスポーツと化すのは虚しい。猟友会という存在は、猟師同士や猟師と地域を繋ぐ架け橋になっている。

 

神霊のすむ山は、人間に超人的な能力を与える場所と信じられてきた。この厳しい山中で厳しい修行を積んだ行者は、超人的な能力を持ったものとされた。このような行者は、山を巡り、山をすみかとすることから山伏・山臥と呼ばれた。山の漂泊者である生地屋やマタギにかかわったり、山師として鉱山開発にも携わっていたとされ、山人の監督・代官的存在であった。しかし、近世になると、こういった山伏達は一部を除いて農村に定住して生活するようになり、藩政や凶作にあえいだ人々の生活を取り上げ、それを祈り鎮めてやった。また、霊地霊山に参詣する際の先達として、いわば聖と俗の仲介者でもあった。しかし、彼らが役割はこれに留まるものではなかった。それは農村社会に浸透していた芸能の導入、および演出者としての役割を担っていたことである。今日、地方山間に残されている古式豊かで野生的な神楽は、いずれも山伏の手によって伝承されてきたものである。さらに山伏の補助的側面として、医学や医療設備のない藩政時代の実用的な医者であったことである。このように、山伏は農村社会における文化や政治の根本を担っていた。

 

ーー山伏が村落の暮らしの根本を握っていたのではないか。あまりに広範囲に陰ながら影響力をもってきた山伏の存在は無視できない。猟師をさらに鷹の目で俯瞰するならば、山伏の暮らしが日本列島に脈々と根を張ってきた歴史を紐解かねばならないだろう。

 

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Ps. しし踊りの起源も調べてみた。

 

◯北上・みちのく芸能まつり実行委員会,『炎の伝承:"北上・みちのく芸能まつり"の軌跡』, 1999年

しし踊りの起源は、主に「模倣起源説」と「念仏芸能起源説」に分かれる。さて、山と暮らす人々はなぜこの捉えどころのないしし踊りという芸能を生み出したのだろうか。多民族文化の複合体とでもいうべきか。人の移動や流れがこのしし踊りを作ってきたとすれば、岩手の成り立ちすらも垣間見せてしまう存在なのかもしれない。そう考えると、しし踊りの一挙一動やデザインの細部が気になってしまう。そこを読み解くのが非常に面白くもある。

・しし踊りには、鹿踊・鹿子踊・獅子踊・八ツ鹿などの色々な文字の当て字がある。

柳田國男によれば、「人間が鹿になって踊るところに超自然的な力が現れると信じ踊りにしたのではないか」という。

・踊るシカは、歌の中で自らを『鹿の八つ連れ』と呼び、曲目には人間の感情を鹿の集団生活に移入したものがあり、とりわけ岩手県南部ではカシラに本物の鹿の角を立てるのでシカ踊と呼ぶのも自然であり、従って踊りの起源を山野の鹿や春日明神に関連づけていることが多い。

・鹿の供養(釜石市唐丹町)、あるいは鹿の身代わりになって死んだ人の墓の周りを柳を加えて踊るシカを模倣(江刺市餅田)など。

・鹿島香取の紙使いとして崇拝された鹿に扮して、春日大社に奉納された踊り(水沢市佐倉河)

空也上人山居の折り、周辺に群棲する八つ連れの鹿のうち、狩人の犠牲になったものの弔いとして鹿踊を始められたのだ(東和町落合)。これは上人が鞍馬山の奥に住んだ時に、毎夜夢に現れて慰めていた一頭の鹿が猟師に殺され、それを悲しんだ上人は鹿の皮を衣とし、角を杖の頭につけて持ち歩いたということである。空也上人に縁因づけられた鹿踊には念仏供養の踊りの性格もあった。

・山で鹿の八つ連れが角をふり両腹を叩いているのが面白かった(一関市舞川)

 

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②慰霊碑巡り

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猟師のおさむさんに遠野八幡宮や青笹鹿踊りの慰霊碑を巡った。まずお目当てだったのが、遠野八幡宮の鳥獣慰霊碑。10月末に猟師免許を持っている人は慰霊祭を行うらしい。30分間に、玉串のお供えを代表3名で行う。興味深かったのが、その周りに馬魂碑やら庚申塔やらいろんな石造物が一箇所に集められていること。なぜこの立地に石造物が集まるのか、オカルト的な意味もあるかもしれない。他町では、手入れをしなかったところ病気になったとかそういう話を聞く。

 

遠野を後にして北上まで車で送っていただいた時、興味深いお話を伺った。よく木こりの世界では途中で二股になっている木(「洞(うろ)」がある木)を切ると祟りがあると言われている。精霊の住処と信じられているからだ。そのため、蜂蜜などを供えることもある。宮沢賢治的は精霊のことを「クラムボンがカプカプ笑ったよ」みたいな表現で登場させる時がある。それにしてもなぜ祟りというイメージが生まれるのか。実利的な視点で捉えると、二股になっている木は木材としてあまり使い勝手の良くない木だから切らない方が良いということである。でも、それをあえて直接的に表現せず、祟りがあるという方が伝わりやすい。祟りがあると言われると、やってはいけないことだとすぐにわかる。

 

遠野のコミュニケーションの面白さはこの遠回しな表現にあるのかもしれない。遠回しだからこそ、円滑に進むコミュニケーションはある。よく地域の方にインタビューを行っていて「伝えられてきたから」という言葉をよく聞く。そこに特段理由を求めない。遠野物語が生まれた背景は、怖さという繊細な感情を持ちながらも、言いたいことを直接伝えようとしないコミュニケーションのとり方にあったのではないかと思う。また、山の神の日(12月12日)には毎年猟をしないという決まりがある。これを実利的に考えれば、年越し前にみんなで飲む楽しみのために猟を休むという解釈もできる。しかし、遠野ではこれを地獄への蓋が開くから山に入ってはいけないという言い伝えが存在する(※)。これも、言いたいことを直接伝えないコミュニケーションの一種だろう。

 

他にもこの手の伝承はたくさんある。遠野物語は本当は嘘ばかりなのかもしれない。でも、それが人にとって重要なコミュニケーションだったことは間違いない。娘が馬に恋した話も、カッパが川に出没する話も、全部何かの比喩なのだ。そもそも田舎の人は目を向けて話をしない。基本は一歩下がる。それが陰口や噂話になることもありうる。でもそれは、鳥居の真ん中を歩かずに、端を歩くのと同じこと。どことなく、「共通言語」の話にも思えてくる。猟師には山言葉があって歯を見せて喋らないのだが、それが合言葉すなわち共通言語になり、親密性や一体感、排他性を強めるのだろう。岩手の人々はこもった話し方をする。録音をするとそれが顕著にわかる。ある意味省エネで、飛沫が飛ばなくて、コロナ予防にもなる喋り方かもしれない。岩手の地域コミュニティには暮らしの知恵が詰まっている。そう強く感じた滞在であった。また、引き続き、猟や芸能のコミュニティからその暮らしの特徴を探っていきたい。次回の滞在では、誰を取材させていただこうか。妄想を膨らませているところだ。

 

岩手県立博物館『第31回企画展 山人 その生業と伝承』より。以下のような言い伝えもある。

山の神の子は12人であるからとか、山の神が休まれる日が12日であるから、その日は山に入らないとか、極端に12を忌み嫌う風が全国的に多い。マタギの場合も、山の神が12という数字を嫌うため12人で山に入った場合は、わざわざ木の人形(サンスケ)つくって持ち歩いた。一種の身代わり人形であるが、丁髷(ちょんまげ)が付いているものがあり、江戸時代から続いてきたものである。

 

【岩手県遠野市】 しし踊りと猟師取材 3日目 ~遠野の猟師達~

12/3(木)は岩手県遠野市に滞在して、猟師さんの取材と図書館での資料調査を行った。しし踊り関係者や猟師への取材を通して何を伝えたいかを考える良い機会となった。

遠野市 猟師取材

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猟師のようぞうさんと佐々木さんにお話を伺った。猟をするのは害獣駆除で4月から10月まで。他の期間は行わない。ようぞうさん林業や農業と猟師を掛け持ちしている。約15年前から鹿が出始めて、駆除するようになった。年間100頭を獲る。約40年前から狩猟をやっている。20代の頃に狩猟免許を取得したが、当時は100人が一気に狩猟免許をとった。毎年100人ずつとったから一時期500人まで猟師が増えた。しかし、現在は67名しかいない。かなり若い人が少なくなった。昔はよく野ウサギや鳥を獲る狩猟を行っていた。基本的に鹿のような害獣がいなかったので、好きでハンターをやる人が多かった。遠くから車でやってきて旅館に泊まって猟をしに来る観光的な量も盛んだった。地域の人がその人々を山へ案内した。これはガイドツアーのようなものではなく、知り合って連れて行くような自然な流れだった。近年は遠野が岩手県の中でもとりわけ鹿が多い地域で、県の有害駆除だと8000円しかもらえないがそれに6000円上乗せして、鹿一頭獲ると14000円もらえるようになった。鹿は増えているけどハンターがいないのが現状である。

 

マタギは遠野にはいない。基本的に1人で山に入って犬に匂いをかぎ分けさせて熊を探して、穴や住処を見つけて仕留めた。接近戦になるので危険である。このような猟が盛んだったのが、秋田県岩手県の大槌などだ。今の遠野はもっぱら害獣駆除が盛んで、マタギのように生活をするために猟をする人はなかなかいない。獲る動物に対しては敬意を表することが重要だ。昔は四つ足動物はとってはいけないと言われていたが、今では熊を獲ることだってある。山を開拓して人里とクマの生息地が近くなっているし、熊が人里におりれば食料が豊富なことを知っている。それでりんご畑やらいろんなところを荒らすようになって、農業をやっている人から見れば作物を守るために熊を獲るようになったと言える。

 

熊をとったときは、祈りを捧げなければいけない。マタギの古文書、巻物には祈りの捧げ方が書いてあるが、それは見たことがない。基本的には猟期前に和尚を呼んで慰霊碑を拝んでから猟を始める。獲物を捕らえた際は、手を合わせて祈るものだ。そうでないと祟りが出てくる。祟りといえば、今から15年くらい前の話。熊をとった人がいて、解体場所を探して熊を持ち歩き、いろんな所に持って行って振舞った。それからすぐに仕事に使う木材が頭と足に当たって足の骨が折れてしまったという。これは熊の祟りだと言って騒ぎになったそうだ。自然に感謝して敬うという気持ちが大事である。お土産として熊の爪2つと歯2つ、参考資料をいただいた。とてもありがたい。雪の降る中で優しさに心温まる充実したヒアリングとなった。

 

遠野市立博物館 ヒアリング

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学芸員の前川さんにしし踊りと狩猟に関するお話を伺った。その中で見えてきたのが、サブシステンスというキーワード。日々の暮らしは単なる生命維持ではなく、社会生活の根底にある楽しみを追求する暮らしこそ意味があるのではないかと感じた。今、コロナ禍で人口が一極集中する都市で満員電車の中で通勤通学する生活にうんざりしている人は多いだろう。仕事をただこなすのではなく、今ここで仕事をする意味を再度見つめ直す必要がある。経済のみが生活を成り立たせるわけではなく、人と人との交流の中に価値の交換があり、お金に換算できない価値が存在する。多くの人は経済的指標(年収や資産)にとらわれすぎているように感じる。だから、今やるべきは都市の人々に新しい暮らしの提案をすることかもしれない。この文脈で、遠野の芸能や狩猟を伝承することは今までなかったように思う。両分野に共通して言えるのが、お金で測ることの出来ない価値が存在するということ。人との交流を創出したり、生きがいや楽しさを生み出したりするものである。芸能や狩猟を取材しているようで、実は暮らしの提案をしているというのも面白いと感じた。

 

長い歴史を見れば、芸能は形を変えてきた。奈良時代は祈りだったし、江戸時代には娯楽になったし、明治時代は工場労働者の束の間の休息だったし、昭和には戦後の地域の立て直しと交流の創出の意味合いが強まった。今、担い手が減って急速に消滅しつつある全国各地の芸能は一旦消えたとしてその後再開するのか形を変えるのか。それは地域の選択である。ただ、過去から学ぶ資料がなくてはならないということで、今ある芸能を記録する必要がある。そこで、自分が文章や写真で記録する意味が出てくるのだ。

 

自分はよそ者だからこそ、外のファンを増やさねばならない。外のファンが増えれば、内の人は自分たちが普段自然に行なっている芸能および暮らしの営みに対して自信を持つことができる。いわば、「価値の顕在化」ができるわけだ。そういうわけで、現時点ではサブシステンスをキーワードとして芸能や狩猟やの暮らしを伝えられる本を作ってみたいと考えている。参考資料として紹介していただいたのは下記の文献だ。とりわけ、『炎の伝承:"北上・みちのく芸能まつり"の軌跡』に書かれているしし踊りの起源が空也上人だとする説など、大変興味深かった。明日詳しく見ておきたい。

 

◯調べた文献

・留場栄,『山人炉端話』, 1988年

遠野市立博物館, 『佐々木喜善全集(II)』, 1985年

・北上・みちのく芸能まつり実行委員会,『炎の伝承:"北上・みちのく芸能まつり"の軌跡』, 1999年

岩手県立博物館,『第31回企画展図録 山人』, 1991年

・遠藤公男, 『盛岡藩御狩り日記―江戸時代の野生動物誌』, 講談社, 1994年

 

【岩手県遠野市】 しし踊りと猟師取材 2日目 ~狩猟に連れて行ってもらう~

12/2(水)は岩手県遠野市に滞在して、猟師さんの取材を行った。初めての猟の同行だったが、ライフジャケットなどを貸してくださり、車での送り向かいもしていただき、とても貴重な経験ができた。その時の様子を一部ご紹介する。

 

①狩猟に連れて行ってもらう

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宮守の猟師・高橋蔵さんが、朝6:30から狩猟(鉄砲撃ち)に連れて行ってくれた。開口一番、「昨日は満月だったから、今日は獲物は期待できない」とのこと。理由はわからないが、結果的に、予想通りの展開となった。飛び立ったカモ数羽と獲ることのできないヤマドリの雌を見ただけで獲物は獲れなかった。ヤマドリの雌がいると、雄もつがいでいる事が多いので探してみたが、見つからなかった。猟師の言い伝えとカンは的中したのだ。鉄砲を撃つところは、見せていただく事ができた。車で移動して林道を合計10本程度回ったのち、11:30頃に終了した。

 

この結果、僕は重要な気づきを得た。自然に祈りを捧げるとは、「獲物があの笹の狭間から出てきてほしい」という風に願うことなのかも知れない。鹿の足跡があるとか、前に鹿を獲ったことがある場所があるとか、U字型の谷があるとか、少しひらけた場所があるとか、少し晴れ間がのぞいて獣が日向ぼっこしにくるかも知れないとか、そのような獲物の気配を感じる場所やヒントが林道近辺にはたくさんある。ここで、「獲物よ出てきてくれ」「なぜ出てこないのだ」と誰しも感情の揺れうごくからこそ、そこに山の神様の存在を感じるのだと思う。確実に獲物が撃てるなんて保証はどこにもない。

 

鉄砲を撃つ猟師に必要なのは、車の運転をしながらも周りの小さな違和感を察知して、素早く獲物に気付く力とのこと。視力や聴力、嗅覚などを活かして、それを察知しなければならない。獲物を察知する正確さが必要。蔵さんはキジバトを見つけそれを雌だと判断するまでのスピードがとても早かった。猟は五感を使う。獣が泥をかぶってダニや寄生虫を落とすために、沼田場(ぬたば)にいる事があって、その匂いには敏感になる。ライジャケットの色やクマ鈴の音は自然界に存在しない。自然にはないものが逆に目印の様なものになる。鹿が好むものを置くとか、youtubeの鹿の鳴き声を流すとか、超音波で誘き寄せるとか、猟の仕方が今後変わっていく可能性もある。鹿のことを勉強した上で自然界にしっかりと向き合う事が必要。

 

また、猟師は土地を熟知しなくてはならない。まずは、自分が猟できる場所がだいたい決められていて、それは猟友会に入ることで自然と決まっていく。なおかつその土地の人とのコミュニケーションを通じて、獣を獲ってほしいと言われて獲るという場合もある。そうすれば、獲物を埋める時も、埋める場所が自ずと決まる。人知れず山に入れば良いというわけではない。地域とのコミュニケーションの中で、狩猟が行われている。先輩猟師に教えてもらった猟場には、先輩に声をかけてから行く。あるいは先輩が死んでから行く。数珠つなぎで人に知られていくと良くない。今回、林道を5本くらい回った。それぞれの猟師に自分が猟場としている道がある。

 

②イノシシ肉を食べる

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12:00頃からおさむさんの家でジビエをご馳走になった。イノシシは厚い肉のまま、熊の油とニンニクを敷いたフライパンで油に泳がせるように焼いていただいた。重要なのは肉の中心温度。きちんとした火加減で焼けば、中まで火が通る。上の写真のような状態はまだ生焼け。少し切ってまた焼く。馬と鹿は体温が高いので寄生虫が肉に入りずらく、刺身で食べられる。でも馬と鹿の油は溶けずらいので油としては使わない。熊の油は人間は体温が近く、溶けやすいので馴染む。馬が食べているのが草なのに対して、クマはどんぐり。クマが食べているものはイベリコ豚と似ており、常温でさらっとした感じになる。だから、油として使いやすい。最後は余熱にして、焼けたら塩胡椒をふりかける。臭みがなく、とても美味しいお肉だった。蜂蜜も出してくださった。ナッツにつけると美味しい。透明で透き通っている。狩猟はもともとクマが養蜂で作っている蜂蜜を狙うから始めたそう。蜂蜜は巣枠の年数によって、透明度が変わる。3年くらいで取り替える。

 

狩猟の詳しいお話も伺った。狩猟は非効率だから楽しい。効率を追求するなら牛を食べれば良い。それでも山に入るモチベーションはどこから来るのか。20歳になって銃を持つのが当たり前だった世代は、Gメン75などの映画を見て憧れ、銃を持つのがステータスだった時代がある。コンテストで上位になればライフル協会からの推薦状があれば、最速でライフルが持てる。銃の免許を持っているだけではなくて、自然が好きでないと猟師にはなれない。自然への憧れではなく自然への敬いを含め、自然に暮らしとして関わっていく事が大事。猟友会に入る事でも、狩猟のルールやマナーを学ぶ事ができる。遠野の猟友会は70人くらいいて、平均年齢は70歳越え。ただし、ご高齢の方だとほとんど銃を使わない人もいる。アル中で普段ブルブル震えている人でも、銃を構えればビシッと的中させる。女性だと一人だけ61歳で始めた人がいる。

 

カラスの有害駆除は大変。畜産農家さんから依頼される事がある。大きな箱罠に1羽を捕まえて入れておく。そしたら仲間が助けに来て、それを捕まえてを繰り返す。それをゴミ袋に入れて焼却所に送る。ヤマドリやキジ、アイガモは美味しいので食べる。狩猟の楽しみは鳥猟にある。熊や鹿は有害駆除の側面が強い。コジュケイを獲って食べた事はないので、獲ってみたい。猿は撃たない。人間の先祖でもあるし、完全な四足歩行の動物でもないから躊躇するとのこと。やはり、そこには動物に対する畏敬の念のようなものが少なからずある。獲物によって、引き金を引く重さが(精神的に)異なる。また、有害駆除と狩猟でも気持ちの持ちようが違う。

 

養蜂組合も猟友会も自分に回ってきて、頑張れよって言われて始めた。やりたいことはあるけど、やるべきかはまた違う話。あと10年で猟師は半分になるだろう。ご高齢の方と若い人を繋いでいかないとといけない。一番大変なのは福島。2011年以降、猟師の空白地帯になってしまった。逆に言うと始めるなら今。中古銃がたくさん出回っている。銃は通販では手に入らないので、銃砲店で購入する。手軽なのは罠猟。試験対策の講習会に出て、免許を取得して、狩猟者登録をすれば始められる。金銭的にも負担は少ない。ただ、銃を持っていないと罠に掛かった動物を仕留めるのにバットや電気などを使わなくてはいけない。それが大変なので、猟友会の人と仲良くなって、仕留めた時に銃で撃ってもらう関係性を作る必要もある。

 

③書類書きを見学

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15時半頃から、有害駆除の報告書類書きに同行した。認定有害駆除は、県や市からの仕事を各地域の狩猟免許取得者で構成される班が請け負う。県の場合は鹿を獲ると大人一頭1万円, 市の場合は大人一頭1.4万円などの価格設定があり、その中で書類書きの事務手数料や飲み代、撃った鹿に番号を振るスプレー代、振込手数料などを差っ引いたお金が個人の手元に残る。仕留めた人が班長を通じてお金を受け取れる仕組みだ。仕留めた証拠として鹿の尻尾を集めるとともに、鹿の頭を右側、尻を左側にして横に寝かせた状態にして仕留めた人が日付などを書いたボードを持ち一緒に写真に映る。それらを班長に提出して、班長が取りまとめて提出する。日付が違うと、書類不備ということでお金が受け取れないので注意しなければならない。班長が行う書類書きは、1時間ちょっとで終了した。

 

本日のまとめ

初めて狩猟に同行させていただいたが、自然と対話する感覚を実際に肌で感じられてよかった。本や文献、インタビューから想像するだけではわからない事ばかりだ。その意味で、狩猟に対する理解が深まり、とても充実した1日だった。

【岩手県遠野市・釜石市】 しし踊りと猟師取材 1日目 ~外山鹿踊・猟師・お山かけ~

 12/1(火)は岩手県釜石市遠野市に滞在して取材を行った。主に取材対象としているのは、しし踊りの運営者や猟師など。人口減少が進む中で、担い手の少なくなっている文化の担い手を取材して、冊子を制作する予定だ。今年7月に参加した遠野市クリエイターインレジデンスで出会った方々のご協力により、スムーズに取材を進めることができた。伺ったお話を匿名で以下に記す。

 

 ▼釜石の外山への道

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釜石市 猟師取材

釜石の猟師の方にお話を伺った。獣を獲る目的は料理する楽しみのため。地域として必要性に駆られるから獲るという認識ではない。焼肉のたれとか塩を振るだけとかシンプルなもので食べることも多い。熊は内臓が一番美味しい。熊汁を500人鍋で作り、地域の人にお正月に振る舞うこともある。昔であればクマの皮を買いたい人も多かったが、今ではそういう人が少ないので捨ててしまうことが多い。クマの頭は盛岡のコロナのPCR検査を行うところに研究材料として提供する。

毎週日曜日に狩りに出かける。11月1日から狩猟が開始され、それ以前は有害駆除。狩猟だけでなく有害駆除でも美味しそうな獲物は食べる。今年は既に1ヶ月間(11月?)で12頭の熊を2人で獲ったとのこと。去年は有害駆除だけで170頭,今年は117頭を獲った。釜石は一頭あたり8000円の値がつく。尻尾や顎とか統一して獲った個体数を管理する。周辺地域から見たら安い金額なので、他の町に売られることが懸念される。ジビエにしようと思ったら、綺麗に食肉加工場に引き渡さねばならないのでハードルが高い。熊は今年は特に多いが、小さい子熊をよく見る。鹿、熊、ヤマドリ、キジ、イノシシなどを獲っている。釜石は鹿が多いから、県外から捕りに来る人も多い。慰霊碑を拝む際には和尚さんが来る。

▼熊の爪

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ヒアリングの後、りんご、くま油、熊肉、熊の爪のキーホルダーなどたくさんの貴重なものをいただいた。とてもありがたい。熊の爪は福をかき集める意味があるという。お正月の熊手と同じ意味だ。釜石はりんごの産地の印象はなかったが蜜がぎっしり詰まっていて美味しかった。 

釜石市 外山鹿踊り取材

鹿踊りの撮影風景

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集会場にて、お話を伺った。鹿踊鹿踊保存会が運営を行なっている。男性が踊るもので女性は踊るものではなかったが、今では女性も一緒に踊るようになった。現在、保存会のメンバーが50人くらいで、30人が踊り手である。20歳以下の子供の割合は3分の1強くらい。現状は人数不足。村の人数は100人以上いたのに、今では50人もいない。かつては村人だけでやっていた。兄弟が多くて担い手に困らない時代もあった。でも、現在は釜石の中心部の街の方から保存会のメンバー来るなど、他地域の協力のもとで成り立っている。釜石市は、かつて盛岡についで人口が多かった。製鉄所があったことが大きな要因だ。やはり、産業があり仕事があると人口も多くなる。担い手には、太鼓と笛と頭をかぶる人、刀などが含まれる。太鼓と頭は別で、幕踊り系の鹿踊である。

 

鹿踊りの演目

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村のお祭りの当日は9月中旬過ぎ。練習は土日に行う。茨城や岩手の北上から依頼された時など、市外で踊ったこともある。地域の神様はお不動さん。鵜住神社の例祭で踊るのがメイン。この例祭はほぼ4年に1回の頻度で行われ、「オリンピックみたい」と言われていた。奉納の神事とも結びつきが強い踊りとなっている。祭りの当日の流れは、先人たちのお墓参りをして、氏神を拝み、カドガケをして、集会所の前で踊る。昔は家の前で踊ったが、今は集会所の前にて踊りを集約している。演目は基本的に大量のオスが1頭のメスを奪い合うというもの。その演目を見て盛り上がる。

 

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踊りの始まりは昭和29年。外山から嫁をもらった田郷地区の人が外山地区に鹿踊を伝えた。また、その前だと、房州(今の千葉県)のタダキデンジという人が沢田地区に泊まってわらじを脱いだという記録がある。その人が鹿踊を伝えたとされ、350年前の話である。この人の職業は木こりだった。鹿踊りの頭の表情は、普通であれば優しい顔をしていることが多いが、ここでは厳しい顔をしている。昭和29年に鹿踊を伝えた人が、この頭を制作した。

 

しし踊りのお話を伺った後は、近くの稲荷神社をご案内いただいた。鳥居が3つあり、少し曲がった素朴な木でできている。これは遠野でよく見る鳥居の形で、都市部は綺麗に整えられすぎているので、なかなか見ることはない。

 

さて、僕が写真や文章でできることは、地域の方々から聞いたことを次の世代の人々に伝えること。地区内では、鹿踊の概要をまとめた冊子は既にある。釜石まちづくり株式会社などとも何か連携してできるかもしれないとのこと。ひとまず、祭りの撮影、猟への同行など、今後も取材を継続できたらと考えている。その中から、成果物(冊子など)のアイデアを練っていきたい。

遠野市 早池峰山お山かけ等ヒアリング

遠野市に移動して、早池峰山に登る「お山かけ」の文化を体験するイベントを実施している方に聞き取りを行なった。お山かけは戦後までやっていたが現在は途絶えている。もともとは山伏の文化で、早池峰山は自分達の帰る場所とされた。岩手県の海岸部の人は漁に出た時、陸に帰れないと当然生き延びられないので、早池峰山灯台のような目印だった。そのため、早池峰山を信仰の対象として登っていた。江戸時代の人がお伊勢参りをするような感覚に近いだろう。今は観光で来た場合、車で山頂近くまで行ける。しかし、昔は海の方から歩いていかねばならなかったから一大行事になった。

 

興味深かったのは、石川県の白山には池があって、早池峰山の「池」の字と対応しているという話。どちらも修験道の山だ。自分は両地域に濃い関わりがあるので、もっとこの点は深掘りしていきたい。海外ではブータンのガンガプンスムを始めとして、信仰の対象となっている山は登山道がなくて足を踏み入れてはいけないところも多い。そういう場合は里から拝むという場合がほとんど。しかし、日本では、あえて山に登り一回死んで再生する修行をすることが山伏の文化なのだ。

 

死者との対話という意味では、早池峰の麓の大出の初盆のしし踊りに位牌褒めという演目がある。神楽は勿体なくて繋げたいという意識が強い。形というよりも取り組んでいる人の心、覚えようと努力することが美しい。人が人に伝えてきたもので、ビデオで記録するというのも良し悪し。型は繋いでいった方が良いが、人から人に正確に繋がるということはない。ステップが重要で、大地とコミュニケーションしていく感覚。アイヌイヨマンテは熊の毛皮をかぶることで、神様が自分と一体化する。神楽の権現舞も、途中から衣装を被る。神楽の目は空から俯瞰するタカとかワシの目を表す。人間が自然と対話していく中で、神楽が生まれたのだろう。そのほかにも、建築、林業、自然農法、療法、クワオルト、話題は多岐に及び、とても興味深いお話を伺った。

 

本日のまとめ

1日目からとても濃い取材ができた。人口減少が進む中で、失われゆく文化は少なからず非経済的であり非効率的な側面がある。しかし、取材させてもらった方々の表情は笑顔にあふれていた。今まで地域が受け継いできた文化には受け継がれる理由がきちんとあって、それだけ過去の蓄積もある。それを学びと捉え、持続可能な暮らしを考えるヒントを少しずつ頂いているように感じる。自分はどういうコンセプトで冊子を作るべきか。少しずつ考えていきたい。

 

 

岩手県大槌町の虎舞を習いました〜三陸芸能短期留学に参加〜

本日、三陸芸能短期留学にオンラインで参加させていただき、岩手県上閉伊郡大槌町の「城山虎舞」の演舞を習った。普段は取材するだけなので、舞いを体験することは滅多にない。たくさんお話を聞かせていただいたので、記録を残しておく。

 

三陸芸能短期留学の詳細

虎舞といえば、僕が石川県加賀市で取材を行なっている獅子舞ともルーツが近いと言われており、以前から気になっていた。主に三陸を中心に行われている芸能で、虎の仮面を被って、太鼓や笛の音に合わせて踊る。

 

虎舞の由来

虎舞の由来は、中国の古い言い伝えが元になっている。中国では、龍は雲、虎は風を司ると言われている。風を原動力としている漁師の船にとって風は重要なもので、それを司る虎の舞いをするようになった。演目の中で、自らが虎になることで、航海の無事を祈願したのだ。歌舞伎の国姓爺合戦の演目を見て、船乗りが始めたとも言われる。

 

大槌町の虎舞

大槌町岩手県中部に位置し、わかめ、うに、アワビが特産品の漁師町である。町内には郷土芸能に関する団体が19あり、そのうち5団体が虎舞を舞う。また、5団体中、4団体で虎舞協議会という団体ができている。虎舞以外にはしし踊りや神楽などの団体もある。町内の人口1万人のうち、3分の1は郷土芸能に関わっている。小さい子供からお年寄りまで、コミュニティを形成する上で大変重要な行事である。9月中旬に大槌まつりが開催され、虎舞含め様々な団体が演舞を行う。虎舞に関しては依頼があれば、家を回って演舞をする「門内」というのもある。

 

▼虎舞協議会の演舞はこちら

www.youtube.com

 

東北の大震災後は避難所にながらも、虎舞の活動を少しずつ続けていた。震災前の気持ちに戻っていこうということで、避難所を元気付けるために虎舞を披露した。それによって舞う側も元気をもらうことができた。

演舞の内容

今回、三陸芸能短期留学の中で紹介していただいた城山虎舞の演舞は3つ。全て中腰の状態から舞いが始まる。③の笹で歯を磨くシーンは圧巻。今まで見たことのない舞いの形だ。

<遊び虎>左右に揺れる→逆さに揺れる→戻って左右に揺れる

<跳ね虎>リズムが急になる。8の字を描く。

<笹喰み>1匹が木の影から様子を伺うような反復横跳びのような動作→別の2匹に舞いを引き継ぐ→笹で歯を磨く→2体でじゃれ合う

 

▼基本パターンを教えていただき、実際に踊った。足の動きは以下のようであった。これ以外に手を震えさせたり、腕を円を描くように上下させたりする動きがあり、慣れないと難しい。

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若い人から見た虎舞の魅力

虎舞の一番の魅力は、「虎舞に携わっている皆さんが元気」とのこと。先輩が怖いというイメージはない。虎舞に参加したきっかけは、15歳の時に誘われたからとのこと。

 

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今回、虎舞を実際に舞ってみての感想

離れたところで、見ず知らずの人と繋がり、舞いを行う。それはインターネットならではの面白さだ。今回、実際に舞いを習ってみて、見るだけでなく身体化することが新鮮で、うまくいかないことも多かったが楽しむことができた。汗を流し、本当に良い体験だった。