稲村行真 Yukimasa Inamura ブログ「旅してみんか」

「伝統文化の魅力」を広めています。日本の伝統的な木造建築の古民家とその街並み、山奥の少数民族の村、過疎地どこでもフットワーク軽く旅をしております。

記録写真の限界と今後の方向性、獅子舞写真にどう向き合うか

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最近、獅子舞撮影に関して考えていることは、「獅子舞の鼻」だけ撮影することにどのような意味があるのかということである。この鼻撮影の意図としては、最初は面白がって欲しいからと単純な理由で始めたものだったが、山代の服部神社を訪れた際に、獅子舞では鼻を観客に向けて踊らないというエピソードを聞いてから、なるほどタブーを撮るという価値は存在するのかもしれないと考えていた。つまり、獅子舞は厄を払うという本来の意味を示すために激しくて勇壮でなくてはならず、鼻を見せるということは可愛らしさを表現してしまうので好ましくないと考えられているようである。これを撮影することで、新しい独自の視点で獅子舞に向き合ってみたいという発想の転換が自分の中で行われた。

 

2019年は獅子頭を約30頭撮影した。それで、カタログ的に並べてみると、可愛くて獅子舞の多様さが表現できていると感じた。しかし、それは単なる情報でしかないということも思い知らされた。写真家や評論家に今後の方向性を相談してみたところ、様々なアドバイスをいただいた。

 

まずは、写真集の編集者と会った。写真をただ記録するということに対する限界も感じた。7大陸最高峰の到達、北極と南極の横断、未開地域の探検、それら全てがもうやり尽くされた今、ただ受身的に事実を並べることに人はなんの驚きや面白みも感じることができなくなってきている。インターネットには情報が溢れ、google mapでその土地の風景を容易に検索できてしまう。写真界でいえば、石川直樹宮本常一といった水平に果てなき網羅的な記録を続けた先人が既にいて、自分を無にして客観性に限りなく近い写真の第一人者になることはかなり狭き門である。ヨシダナギのように、ビジュアルの美しさを追求したファッショナブルな集合写真も先人が既にいて、もう撮り尽くされてしまっている。1民族1集合写真のような撮り方なので、どう頑張ったって撮り尽くされてしまう。真面目な学術的な写真も、その世界をただ真面目に写すことにしかならない。ただ、頑張ったね!と言われる写真は、誰でも頑張れば撮れるわけで、「独自の視点」の意味をもっと追求したい。「獅子舞の鼻」も、言うなれば最初の着眼点が面白かったものの、そこからカタログ的に並べるだけの行為は思考停止状態である。だから、その先にアイデアが必要になってくるのだ。多分、カタログでもそれは頑張ったことが評価されるべきだという人も無論いるだろうが、個人的には次のステップが見えてくることが大事だと考えている。カタログ的な撮り方は、統一的に機械的に行わなくてはならず、それが退屈になってしまう。技術の革新などで、もっとより良い方法が確立され、今までの撮影がパーになるという恐れも少なからず存在する。同じアングルでしっかり真面目に撮って並べることに対する疑問はいまだに膨らんだままだ。カタログ写真は努力が見えるという点ではとても良い手法なのでそれは続けつつも、より獅子舞の背景にある信仰やそこに関わる人々の内面を抉り出すような写真を模索していくことにする。

 

また、写真評論家と会った。やはり、写真がまだ説明的すぎて、客観に徹しすぎているところがあるということがわかった。やはり、自分は田附勝さんや内藤正敏さんのように、目に見えないもの、神が宿る感覚を想起するような重厚感や狂いを感じさせるような写真を撮ってみたいと実感した。そのためには、カメラの研究も必要である。広角レンズや魚眼レンズなど何かをクローズアップするような感覚も必要だが、被写体を歪めたくない思いもある。自分のカラーとして意識するのは、被写体が極彩かつ重厚で迫力がある強い写真である。

 

今後の方向性として考えたのは、まず石川県加賀市の獅子舞の伝来ルートをインドまで遡るというものである。獅子舞の起源をインドのアショカ王の石柱の台座に求める説があり、そこから、ネパール、中国、朝鮮、日本の奈良に伝来して、そこから分散的に各地域へ伝来したと言われている。獅子舞の伝来ルートは、日本の芸能・文化のルーツと重なることもあり、日本についても深い視座を持って向き合うことができるかもしれない。そして、被写体も仮面舞踊から石柱まで様々なので、この伝来の歴史を追うことでカタログだけの写真ではなくなる。地理的繋がりがどう編集できるかに関心がある。一方で、石川県加賀市という1つの地域に継続的に向き合うということもやっていきたい。獅子舞はその地域の自然、地形、文化、風習、信仰などと少なからず結びついており、地域を撮るように獅子舞を撮り、そこに関わる人々も撮っていくことによって、獅子舞をただマニアの対象としてではなく、地域の信仰を撮るというより深く広域的で本質的な文脈で捉えられると考えている。その構成要素の一部として、獅子舞の鼻が存在するという風に、今後の撮影を考えていきたい。

 

今後の撮影を検討している地域

石川県加賀市:獅子舞の青年団や歴史に詳しい方々のインタビューと周辺小物

石川県小松市:石川県最古の獅子頭が伝来した津波蔵神社と保管された小松市立博物館

石川県金沢市:石川県内で獅子舞伝播の中心だった金沢最古の獅子のある波自加弥神社

奈良県明日香村:612年に百済味摩之が獅子舞を伝えた旧豊浦寺の向原寺

奈良県奈良市:獅子舞を全国に広めた東大寺と最古の獅子頭8頭を保管する正倉院

奈良県桜井市味摩之が獅子舞を子供に教えたとされる土舞台

タイ :シンハーパーク、ビア・スィンเบียสิงห์、スィントーสิงโต

ネパールバクタプル:獅子の像と10月の収穫祭(ダサイン)に仮面劇

インドバラナシ:サルナートミュージアムアショーカ王獅子頭柱)

インドサーンチー:アショーカ王獅子頭

 などなど。

 

▼2019年の獅子舞の撮影をまとめたZINEはこちら。

wipty.thebase.in

 

 ▼獅子舞のinstagram

https://www.instagram.com/kagashishimai/

 

 

 

 

台湾政治大学で授業開催!台湾 桃園-新北 100km徒歩 「日本人探し旅」まとめ

こんにちは、イナムラです。11月25日に行った「台湾国立政治大学での授業」と「今回の徒歩の旅のまとめ」について書きます。

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台湾 桃園-新北 100km徒歩 「日本人探し旅」のゴールの2日後、台湾の国立政治大学で授業をさせていただいた。国立政治大学は、台湾の文系の大学の中では、トップを争う大学らしい。とても緊張したが、皆リラックスしてくれて笑いもあり、とても楽しい授業になった。内容としては、今回の徒歩の旅のことと今までの徒歩の旅を企画するに至った背景などで、時間は60分だった。定員が30名の授業だったが、なんと70名の応募があったそうで、とても嬉しい。台湾の大学生(中国の方もいた)がこんなに徒歩の旅に関心を持ってくれるなんてとてもありがたい。

 

授業に招いていただいた背景としては、学生の目線から「こんなにたくさん挑戦して行動している人がいると言う刺激」を与えられることを大学側から期待していただいた部分が大きいように思う。やはり、自分は歩くということによって人を勇気づけることができる応援団やエンターテイナーのような役割が少なからずあるのかもしれない。一方で、この「たくさん行動している大学生」ポジションから、「きちんと自分の作品が世界に認められる若手」に成長していかねばというのは常に感じている。さて、自分の作品をどう深めていくのかがこれから大事になってくるだろう。

 

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今回の徒歩の旅の成果としては、考現学の手法に近い形で、台湾の中にある「日本」について新しい視点から考察できたことだった。つまり、日本と台湾は昔から違う国であるが、異文化同士の交流・交易が盛んで、それぞれの文化がそれぞれに輸出輸入を繰り返してきた。台湾在住の日本人インタビューや、台湾の路上観察を通してその断片を明らかにしていこうという試みが本企画である。これを進めるにあたって、あらかじめ調査項目を定めることなく、ざっくばらんに調べ上げて、後から分類して新しい気づきを得るというのが今回の「日台関係」を考察する手法であった。

 

例えば、日本人インタビューの中で、台湾は極彩色を好むけど日本人は侘び寂びの感性から質素なものを好む傾向があるいう話を聞いた後、道中たまたま極彩色の寺院やレストランのメニュー表を見かけたのでインタビューの話に納得がいき、写真を撮影した。また、歩いている途中で、路上に桜の花の絵が描かれており、そこから僕は日本を発想できたので、写真の撮影を行い記録しておくということもあった。これを繰り返すうちに、「日本文化との共通点」「日本政府が作ったもの」「記念碑」など、様々な日台関係を探るキーワードが見えてきたのである。このように多視的に、「日本」という自国のアイデンティティとそのイメージに迫ったのが今回の企画だった。

 

僕はこれをなぜやろうと思ったかというと、自分が所属するコミュニティや居場所がよくわからなくて、それについて考える機会が多かったからのように思う。高校までの自分はどこの誰とも仲良くなれるけど、深い人間関係を知らないような人だった。大学に入ってからは、アルバイトを30個やっては辞めを繰り返した。大学を卒業してからは、「ヒラヤマちべっと」というコミュニティスペースを東京都日野市で作った。基本的に僕の頭の中で、なぜ人はそこに所属してそこにどのような縁があったのかを問うことが多くなったのである。その一方で、公益的に人の役に立ちたいという思いもあり、自然と地域、市町村、都道府県、国などの「分け目」に着目して、コミュニティを盛り上げていきたいという想いもある。

 

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さて、今回の徒歩の旅の成果と今後の検討事項についてである。今回の徒歩の旅で感じたのは、この旅のテーマを質と量でどう掘り下げていくかということを検討せねばならないということだ。3日間で100km歩くという旅だったので、3日というインパクトは確実にあった一方、「歩ききるという意識」と「作品をしっかり作りあげる」ということの両立をどう行うのかと言う視点も追求していきたい。今後、世界で徒歩の旅を開催していくに当たって、ゴールする日を決めずかなり余裕を持って報告会の日程を組み、加えて、道中1日40km歩く想定を、1日10kmまでハードルを下げてその分路上観察やインタビューによりじっくり取り組み、写真を撮影するというのも良いかもしれない。より深い気づきを得られるだろう。これを実現するには、「資金調達」をして、宿泊と食事に余裕を持たせるという現実的な視点も必要になるだろう。

 

また、その作品自体をより多くの世界中の人に見てもらうためには、さらに作品自体にインパクトを持たせないといけない。自分の撮影スタイルは、例えば石川県加賀市で実施している「KAGA SHISHIMAI project」のように、真面目なドキュメンタリーを、変わった視点でひたすら撮りまくるという地道なものが多いので、その物量によるインパクを目指していくのも良いだろう。凝ったライティングをするとか、おしゃれに撮るとかそういう細々とした繊細な工夫を凝らすよりも、自分の圧倒的物量と行動力がものを言うような極めて「記録」に近い作品作りを行うのだ。そして、自分の撮りたい「質感」や「」のものを撮影してそれをきちんと自信を持って、人に見てもらわねばならない。

 

発表の場は、今回のように大学での授業はもちろんのこと、アートフェアやイベントで自分の作品に近いコンセプトのもので、しかもすでに集客が期待でき、市場が存在するものに乗っかっていくことも必要だろう。前回、東京-石川徒歩の旅第2弾で出店した「マニアフェスタ」のようなアート系じゃないイベントも色々と開拓していきたい。展示や冊子を通して、この徒歩の旅のプロジェクトを多くの方に知っていただけたら嬉しい。出版社も興味を持ってくれたら...と感じる今日この頃である。ひとまず、今考えていることはこのような感じだ。
 

※文中の写真は国立政治大学にご提供いただいています。撮影いただき、本当にありがとうございました。

台湾原住民の村「福山部落」を訪問、日本と台湾の繋がりを考える

台湾 桃園-烏來100km徒歩「日本人探し旅」のゴールが11月23日。翌日、24日は台湾の原住民文化が色濃く残る「福山部落」という場所を訪れた。徒歩の旅のオーガナイザー・メットさんに連れて行ってもらい、大学が同じで台湾在住の小山さんとともに、福山の豊かな暮らしと素晴らしい伝統文化に触れることができた記録をここに残しておく。

 

福山部落は、地理的には徒歩の旅のゴール地点「烏來」のさらに奥、道路の最終地点である。そこでは、自然と共存する人々の姿と、伝統文化、日本統治時代の面影や西洋人の進出による異文化の需要といった過疎地特有のテーマを深く考える絶好の機会となった。

 

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 福山に向かう道路の途中、烏來の手前で、桂山発電所という場所に立ち寄った。ここは、日本統治時代にできた台湾で2番目に古い発電所である。日本のインフラ整備は急速に進み、この地域一帯に電力を供給した。そして、この地域開発とともに出てきたのが、台湾原住民との領土問題である。今回の徒歩の旅は、「台湾原住民と旧日本政府の領土の境界」を歩くというコンセプトで行われた。その中で、この発電所付近も境界線が張られていたという。台湾原住民は首狩りをする風習があり、それを恐れた日本政府はこの地に電気柵を設けた。上記写真の対岸あたりに作られたそうだ。

 

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福山の村に入る前に、僕らは烏來で台湾原住民の食事をいただいた。葉に包まれたおこわのようなご飯や川魚などを食べて、素朴な味に感激した。これぞ、自然の味だ。この地域の狩りについて研究をしているメットさんによれば、この周辺に住む原住民であるタイヤル族は、犬を連れて狩りをするという。罠をかけて、獣を仕留めるのが主流のようだ。夏は痩せているので、冬に狩るのが良いと言われており、なるほど雪の降らない地域ならではだと感じた。

 

また、原住民のタイヤル族はクマを狩って食べないという。大昔、クマは黒かったが、他の地球上のほとんどは白かったらしい。クマは絵が得意で、地球上の様々なものに絵を描いて色をつけていったらしいが、肝心の自分に色をつけた動物達がどうやら絵が下手だったらしく、自分をなんと黒く塗ってしまったのだとか。タイヤル族の人々は、クマを聖なる動物であり神の使いと考え、狩ることはしないらしい。もし狩れば、先祖に罰せられると考える。また、狩りの話だと男女間のタブーも存在して、例えばタイヤル族は男が狩りをするが、他地域の台湾原住民であるアミ族では女でも狩りができるようだ。アミ族では、タイヤル族と違って首狩がないらしいが、女性への尊重がないと激怒するようで恐ろしい争いに発展したこともあるという。

 

またメットさんによれば、この地域とは関係がないが中国の福建省のとある村の農業コミュニティでは、9月から1月まで仕事をしないで祭りをして暮らすという話もしてくれた。ポイントは米がお金になり、田植えから収穫まで済ませればお金になることと、土地を貸すビジネスによって不労所得が生まれるからなのだとか。なるほどなるほど。
 

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それにしても、台湾のメニュー表はカラフルだ。日本人の色彩感覚だとこういう色遣いはないだろう。おそらく台湾の色彩感覚は陰陽五行説に基づくもので、全方位を色と関連づけるところがあるので、寺院やら獅子舞やら、こういう日常生活に色が溢れているのではないか。

 

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それから、福山部落に車で向かった。道を犬が塞いで通せんぼをしてきたので、1分くらい待つ。本当に車が来ないような過疎の村というのは、飼い犬も穏やかである。車の中では、本当にたくさんの話を聞くことができた。今では変哲もない道も、昔は日本政府と首狩をする原住民との衝突の場であったわけである。しかも、漢人と日本政府との対立もあったというから、この問題には収拾がつかなくて大変だっただろう。

 

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 突如、出現したのが「瞭望台(リャオワンタイ)」と呼ばれる見晴台だ。敵方や獣などの見張り台に使った台湾の独自の建築である。竹を多用して作られているようだ。

 

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福山という部落は、その名の通り「福山」という山の麓に存在している集落である。おそらく人口は数百人ほどであろう。上から見てみるとよくわかるが、家の形がバラバラである。ここには、台湾原住民の文化が息づきながら、日本政府が原住民向けの学校を建設してそれが残っていたり、キリスト教の教会があったりと、様々な文化が共存している稀有な場所なのである。

 

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さて、では集落の中の様子についてご紹介していく。まず、このドラム缶のようなものは、何の機能も持たないらしい。「飾り」として集落の道に置きっぱなしにしているのだとか。描かれている菱形はタイヤル族特有のマークで「先祖の目」が見守っていることを表すという。

 

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桜の木が植えられていることには驚いた。日本人がこの地に関わっていた証拠だろう。

 

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日本人といえば、この村唯一の小学校を整備したのも日本人。タイヤル族の文化には、青を使うという習慣がないらしく、それを教育機関に使ってしまったのはいささか複雑な心境の人もいるという。それにしても、彩り豊かな小学校である。日本政府はこの原住民学校を整備した他、日本学校と一般学校もその他の地域に配置したと言われている。日本の皇民化教育を進めた一方で、原住民文化を尊重しなければならないという狭間で、日本政府は苦労したことだろう。

 

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トイレの壁面などには、トーテムのような木彫りの彫刻がある。縄文人を思わせる顔の濃ゆさである。額や顎に刺青があるのは、タイヤル族の風習だ。タイヤル族には、「gaga」という規則があるようで、それに基づいて刺青が行われる。

 

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また、こちらの水路を整備したのも日本人だ。今から約100年前に上下水道を村の中に作ろうという構想が持ち上がり、村の上部から下部に向けて位置エネルギーを利用して作ったこの設備のことを「自来水(じらいらいすい)」という。清朝時代も灌漑のような簡易的なものはあったが、やはり日本はインフラ整備に大きな投資をしたようだ。日本政府は台湾原住民との交渉を行い、日本がこの設備を提供する代わりに、原住民がモノを献上するという契約を交わしたとのこと。今では、この水路は台湾の人々によって上記写真のように維持管理されている。

 

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そのほかに、怖い犬が出ると噂のこの派出所を作ったのも日本人。日本政府警察は、清朝の統治時代と異なる政策を進めており、この派出所の業務の中には「集落資料作成」というものが存在した。集落の人々がいつ狩りにいって何を取ってきたかとか、集落の出来事を詳細に記録するということをしたようだ。この「集落把握」という作業のために、この警察署は村の一番高い所付近に建てられている。

 

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一方で、村の中には日本政府と関係のない西洋文化であるキリスト教の教会(2軒)やマリア像が見られた。これは、「漢族」と自分たちは異なる民族だという台湾特有の民族意識が大きく関わっている。まずはキリスト教徒が食べ物をこの地に持ち込んだことにより、文化の接触が生まれ、プロテスタントカトリックが入ってきた。そこに、漢人と同じものを信じたくないという意識が生まれ、中国と近い文化以外に、キリスト教を受容しようという動きが生まれたようである。面白いのは、日本でいう神仏習合のごとく、このキリスト教タイヤル族の信仰が混ざり合わなかったことで、それぞれ独立して存在しているようだ。漢人だと「天帝教」のように、キリスト教と自国の信仰を融合させた宗教が存在するが、それがないというのは特筆すべき点である。

 

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これは、村を後にする直前に発見した壁絵。この村には古くから先祖代々どのような人物がいたか名前を遡れる歌が存在するといい、それを遡って親戚でなければ、結婚が認められるらしい。多くの場合は、村の男が他の村から花嫁を椅子に座らせ担ぎあげ、山道を歩き村に迎え入れるという習慣があるようだ。この村にはアーティストが住んでいて、他にも村の各所でタイヤル族の信仰にまつわる壁絵を描いているのだという。例えば、「男女足を交差して踊る様子」とか「笛を吹いているときの様子」など、人間の行為に関わる絵が多く見られた。

 

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 僕らは2~3時間の滞在後、村を出た。そして、帰りに烏來近くの狩人が経営するカフェに立ち寄った。あいにく狩人夫妻はご不在だったが、おしゃれなタイヤル族の伝統工芸に見とれた。このカフェでは、台湾在住の小山さんに、日本と台湾との違いについて尋ねてみた。

 

・化粧が短い台湾、長い日本。

・人との距離が近い台湾、遠い日本。

・娯楽が少ない台湾、多い日本。

 

などのキーワードが見えてきた。3つ目に関して、台湾はとりわけ遊園地やショッピングなど娯楽が少ない。一方、恋愛にかける時間も長く尽くす男が多いとか、海外への観光に目がいく人が多いという事実もあることをお話されていた。今日はメットさんと小山さん、本当にありがとうございました。メットさんの案内と、小山さんの通訳によって、台湾文化や日本との繋がりについてかなり理解が深まった1日でした。

 

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最後に福山から車で台北へ帰る時に見た、烏來の大滝と虹。タイヤル族の伝説によれば、人は死ぬと虹の橋を渡り、雲の向こうに行ってしまうという。カラフルな虹の先に死後の世界を想像するという発想力の豊かさに驚かされる。自然に対する畏怖の念と、深い森や滝、川や海の先あるものに対する想像と信仰はここでも世界各地と変わらず存在していた。

 

 

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こちら、日本統治時代のことについてよくわかる映画をメットさんに紹介していただいた。「セデック・バレ」という作品。

www.youtube.com

 

 福山部落の場所はこちら。

 

2019年11月21日~23日に開催した、台湾 桃園-烏來100km徒歩「日本人探し旅」の1日目の様子はこちら。

ina-tabi.hatenablog.com

 

台湾 桃園-新北 100km徒歩 「日本人探し旅」3日目

こんにちは、台湾の徒歩の旅3日目(11月23日)のイナムラです。今日は、新店付近から、烏來までを歩きました。道中での出会いや、日本人探し旅の成果を書きます。

 

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今日の徒歩の旅のルートは、山上りに近い。昨日の道中がかなり遅れをとっていたこともあり、朝はホテルを7:50頃に出て、余裕を持って出発した。有名な観光つり橋をまず渡った。つり橋は台湾原住民の伝説によれば、死後の世界とも繋がると聞いたことがある。橋の上からは、大小様々な形の船が並べられ、その造形はまるでアート作品のようだった。その脇で、川を泳いでいる男を発見して、水が少し濁っていたので、心配だった。

 

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この橋を渡ると、商店街が広がっていて、魚や野菜など珍しい産品がずらりと並んでいた。道端に停めてあったバイクの座席がぶっ壊れていて、雨に濡れていたので、運転手は尻が濡れるななどとどうでも良い想像をして歩いた。商店街の通りには、日本で言う「雁木」のような庇がずらりと並んでおり、店をがっちり守っているようだった。「雁木」は雪国の知恵だが、ここではあくまでも雨を防ぐためのものらしい。

 

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ここから徐々に山登りが始まる。台湾の日差しは、まだ強い。歩き始めて1時間でかなり暑くなってきたので、半袖で歩いた。道端のあれやこれやが気になり、カメラを構えて動物的に反応していく自分を見つめながら、徒歩の同行者の陳さんは何を考えているのだろうか。僕は歩いているときに、基本的にはあまり会話をしなかった。ただ、対象物を追い求めるように前と後ろでかすかな呼吸を確かめながら淡々と歩くだけなのだ。

 

途中、高麗菜を売る家族がいたので、「日本人はこの辺りに住んでいますか?」と尋ねてみた。こう言う時に中国語が喋れる陳さんがいるのは心強い。あれこれと中国語で聞いてくれたのだが、どうやらこの辺には住んでいなくて、烏來まで行けば観光客相手のビジネスを展開している日本人がいるのではないかと言うことだった。道中は、もう一人にも尋ねてみたが、帰ってきた答えは同じだった。

 

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道は徐々に、太古の森を思わせるシダのような植物が跋扈する空間へと変化していった。大きな背の植物はまるで生きているかのようにグルングルンと波を打ち、人間に襲いかかってくるようにせり出し、森の深さと脅威と恵みとを一気に畳み掛けてくるのだ。

 

3時間ほど歩いて、発電所のある街に到着した。このあたりには、「記念碑」が多いことに気がついた。これは「ライオングループ」という国際的な機関が、「水と土」の保全を思い出させるために作ったもので、道中、他にもいろいろなところで見かけた。日本も建設に関わっているようで、台湾との交流を考えるキーポイントになると考えた。また、ここら辺には昔日本政府が建てた台湾で2番目の発電所があるようだが、よくわからないままファミリーマートで休んで、出発してしまった。

 

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それから、再び急な坂に戻った。基本的に人が歩くように作られていないのだろう、歩道が極端に狭くて、車がビュンビュン横を通り過ぎていく。途中、烏來の看板があり、ここからいよいよラストスパートになる。途端に、道の両脇に台湾原住民である「タイヤル族」の伝統的な模様、家やトイレなどの壁にはタイヤル族をモチーフにした物語が描かれており、トーテムポールのような塔も見かけるようになった。草むらに、等身大のタイヤル族の格好をした人形が置いてあるのを発見してギョッとしたが、それはそれで面白かった。

 

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1時間ほど歩くと、烏來の街の中心街へと至った。ここはタイヤル族がいる場所の中でも最も観光地化されたところで、トロッコ列車が走っていたり、土産などもたくさんあって「商売のための伝統文化維持」を少なからず感じてしまう。しかし、これがないと文化を維持できる収入がなくなるという側面もあり、暮らしから出現する生きた伝統なるものは崩れ去り、ニューカルチャーとしての原住民文化が人々を支えている。ただ、これはこれで人々の豊かさや賑わいを生んでいて、苦しさや葛藤を生むいくつかの原住民観光地に比べると断然良い街づくりだと感じた。

 

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この街では、タイヤル族の伝統料理を食べた。豚の肉や「マカオ」という香辛料が入ったオムレツ、竹の筒に入ったご飯、野菜炒めなど、どれも素朴な味わいで美味しかった。食後は、タイヤル族の生活文化が知れる博物館に行って展示を見た。「マカオ」の育て方、見張り台の建築様式、儀式についての展示が一番面白く、1時間くらい見入った。

 

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その後、ラストスパートということでゴールの烏來の滝に向けて、最後の30分坂を登っていった。道端からは懇々と水が湧き出し、道路をひたひたに濡らし、道端に描かれたタイヤル族の人々が微笑んだ。滝が見えてくると、静かに旅の終わりを実感した。この旅で最も大事なことは、多くの人の支えで、言語の壁や文化の壁を乗り越えて「海外」での徒歩の旅を、一種の「仕事」として、実現できたことだった。心の中にこみ上げる喜びと感動はゴールの前後ではいつも湧いてこない。しかし、やはりここまで3日間同行してくれた陳さんを労いたいと思い「Thank you for your support.」と言って、犬村くんのストラップをプレゼントした。自分はなかなか手の込んだことができる人間ではないが、ささやかな喜びを共に分かち合えて嬉しかった。

 

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ゴールの後に、道端の飲食店に入り、タイヤル族の小物を写真でパシャパシャ撮っていると、おばちゃんが裏から出てきて微笑んできた。タイヤル族の女性でありながら、日本語が話せるようだ。「こんにちは」「どこからきたの?」と話しかけてくれた。そして、なんと娘さんが日本に住んでいるようで驚いた。娘さんの写真などを見せてくれた。歩き疲れ、やっぱり運動の後はビールだということで、この店で陳さんと乾杯した。

 

 

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程無くして、メットさんが笑顔でゴールに駆けつけてくれた。いつもの徒歩の旅はゴールで30人くらいの地域の方に出迎えてもらうのだが、今回は数人でゴールを祝うという喜びもあることを知った。その後、メットさんはタイヤル族の織物をたくさん作っているお店に連れていってくれた。

 

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そこで、フィンランドに留学していて休暇で帰ってきたというタイヤル族の女性や、織物ワークショップを行いながら大学でも講義しているという方など、様々な人に出会い、コーヒーを飲みながら数時間語り尽くした。言語がうまく伝わらないからこそ、話はよりシンプルになって本質をうまく伝えようと努力するようになる。その過程は、意外と心地よいものだ。日本人インタビューはできなかったものの、日本語が喋れるタイヤル族の人と、日台関係のことなど話ができたので良かった。やはり旅は人と話をすることが最も楽しい。

 
その日の夜は、メットさんと陳さんと、辛いものを食べにいった。とにかく激辛で、見たこともないような食べ物ばかりで担々麺くらいしか名前も覚えていないのだが、とにかく辛いということだけは印象に残った。それでも、これはあまり辛くない方だと言われて、自分は辛いものを食べるのが得意だと思っていたので衝撃を受けたが、台湾人は舌が強いということがわかった。楽しい徒歩の旅は終わり、後2日はタイヤル族の村を訪問して、国立政治大学での授業を行い、帰国する。残り2日間も思いっきり楽しもうと体に刺激が入った夜だった。

台湾 桃園-新北 100km徒歩 「日本人探し旅」2日目

こんにちは、昨晩はクマのいる部屋で寝た稲村です。

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今日(11月22日)は、3日間の台湾100km徒歩の旅のうちの中日だ。雨に濡れ、その中に見た美しい文化の輝きと生と死の境について考えざるを得なかった名もなき遺産と人々の生活との物語についてお伝えしていくこととする。

 

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最初、歩き始めて初っぱなでコースを間違えた。全く逆の方向を歩いていた。しかし、偶然見つけたのがこの獅子舞の看板だ。僕は日本で獅子舞の撮影や研究をしているので、これも巡り合わせだと直感的に感じて訪ねてみた。 

 

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そこにあったのは、獅子舞の躍り手を育成する訓練所だった。「獅子頭」などが保管されていた。飛び跳ねるほど嬉しかったので、写真を撮りまくった。こちらの獅子舞は日本のものに比べて、断然ふさふさして可愛らしい容貌をしている。

 

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こちらが、獅子舞の訓練所にいた人物。私も若い頃に踊っていましたと言っていた。かなりお元気で、農作物を収穫するような袋を持っていたので、農業をやりながらも獅子舞の若手育成に取り組んでおられるようだ。台湾の言葉がわからないので、陳さんに色々尋ねてもらった。とてもありがたい。台湾の獅子舞は中国系で、沖縄のものにも似たところがある。後ろに見える棒は獅子舞の演技に使うものだ。

 

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それから間違えた道を戻り、1時間ほど歩くと、大渓の街並みに出た。賑やかな市が開催されていた。この街は日本の明治期にも似た建物の作りをしていて、日本統治時代があったことを思わせる。しかも、写真で撮影していて気づいたのだが、日本企業がたくさん存在する。日本の物産販売所も多く、日本と親和性が高い街だったことがわかる。昨日、インタビューさせていただいた近藤さんがこの町で、日本人向けに観光案内なども行なっているのが納得できた。

 

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それから、1回目の山越えを行なった。大渓から三峡までは田舎町を進んでいく。途中、チャリンコの人などにまみれて歩いた。道端には、道祖神のようなものがたくさん見られ、「南無阿弥陀仏」の文字がガードレールや、碑文やら、祠やらに刻まれていた。道中の安全を祈る風習は、日本も台湾も変わりがないことがわかる。途中、ボロボロの廃墟もたくさん見られ、「人口減少」という問題を抱えるのは、日本の地域だけではないことがわかる。

 

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途中、迫力満点の幼稚園が出現した。獅子に守られた幼稚園。通っている子供と親は何を考えて、この幼稚園を選んだのだろう、そして毎日この2体の獅子を見て、何を想うのだろうか。とても気になる。僕が逆の幼稚園児の立場なら、泣くだろう。しかし、肝っ玉が強い人間が育ちそうだ。

 

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 実はこの幼稚園、正面から見ると仏像がずらりと並んでいる。日本ではあり得ないような圧倒的規模感と物量に迫力を感じた。

 

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 途中、日本人が建設に関わったモニュメントがあった。その後も日本のモニュメントは続くことになる。まさに、台湾と日本の思い出が「道」を作っていたのだ。

 

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 山間部を抜けると、次は三渓の古い街並みが出現。ここも、赤レンガを多用していて、明治期の日本の建築を思わせる。

 

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 このエリアでもっとも有名な観光名所が、三渓祖師廟。めちゃくちゃ豪華だ。台湾の廟は基本的に豪華絢爛で極彩色な場合も多く、色彩感覚の鋭さをビンビン感じた。日本の宗教建築は、もっと地味で侘び寂びを重視するので、台湾のお寺を見るとこれは宮殿か?と疑うほどのまばゆさを実感する。


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 スクールボーイ、アンドスクールガールを発見。この街は、学生たちにとって歴史を学習する場であり、色も充実したたくさんの魅力溢れる街なのだろう。

 

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 僕らも、同行の陳さんとともに三渓で昼食を食べることにした。このピッグスープはつみれ汁のようで、ウインナーが入ったポトフを思い出すような独特の味わいで、なぜか思い出深い。

 

 

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それから、三峡の街を後にする。とんがりコーンのような休憩所が整備され、欄干には狛犬が所狭しと並べられている。この風景は、沖縄のシーサーや日本の狛犬にも通じるような馴染みやすさがある。

 

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雨降ってきた。旅が面白くなる証拠。黒い分厚い雲は青い空を覆い隠し、大量の雨粒とともに大地を圧倒してくる。少し歩くと道端の家の中に、赤ちゃん誕生のお祝いのため大量の水が入ったペットボトルが山のように2メートルくらい積まれているのを見かけた。こんな風習があるとは知らなかった。そういえば、先ほど豪華絢爛な葬式を見て、写真を撮ろうとして、同行の陳さんに止められたことを思い出した。とにかく賑やかに朗らかに、でも静粛に行うのがこの国の生死への向き合い方らしい。

 

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 途中、3時間ほど歩いて小学校の前を通った。手形のアートや、絵が描かれていて、どうやら卒業制作らしい。台湾の小学生は皆、かなり個性的な絵を描くのだということを知った。自分が自分であるために、自由に人生を模索できる環境は素晴らしい。日本の小・中・高・大・就職と続く、スクリーニング的な縦社会から逃げ出したいと思ったことがある自分にとって、台湾の小学生の絵はかなり響いた。また、その卒業製作作品群の横にある病気の猫の絵から、僕は人間社会の動物との向き合い方を考えざるを得なかった。大半の猫、実は処分しちゃうらしい。

 

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あっという間に夜は更けた。雨の中、歩き続けている自分が何をしているのかよくわからなくなり、ぼうっとしてきた。道路と歩道、ともに所狭しとひしめき合うバイクと車の群れをかき分けながら今日の目的地へと進む。

 

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 途中、市場があり立ち寄ってみた。肉に風をあてるとともに、おそらく蝿を払うためであろうリボンのようなものが回転する様に誘われて、動物の肉を解体もせずに丸ごと並べられている生き物感溢れるディープな空間へと足を踏み入れた。死んだ鶏は頭を垂れて地上を見つめ、また、売り子は手を血に染め上げて、声を高らかに客引きをしている。人間の欲望がこんなに素直に露呈している場所などなかなか存在しない。僕は、ひたすらその瞬間の煌めきを写真に収め続けた。台湾は茫漠と生き続け、日本と比べるとその熱量を肌感として感じやすい。人工知能と同居して、動物としての人間を忘れてしまいそうな自分に対して、もう一人の自分は抵抗して、ただひたすらこの場所にいることを望んでいた。

 

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僕らは、もう時間切れだった。ゴール手前の小学校で今日の旅路を締めくくった。後々聞いたところによると、この小学校は、日本軍が台湾原住民であるタイヤル族との境界線を引いた隘勇制度(あいゆうせいど)の拠点があった場所のようだ。陳さんがタピオカをおごってくれて、その後、メットさんが僕と陳さんとを迎えにきてくれて、しゃぶしゃぶに連れて行ってくれた。台湾の写真家の方も一緒にきて、4人で食事ということになった。徒歩の旅の道中、こんなに美味い飯が食えることに本当に感謝だ。自分も、誰かに飯代を出せるような懐の大きい人間になりたいとふと思った。

 

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今日は、やや長い道のりだった。道中、様々に頭の中で考えを巡らす機会にも恵まれた。路上観察から日本との共通点などのインスピレーションを得ることが多く、何も日本人にインタビューしないといけないなどと、そこに固執する必要はないように思われた。日本と台湾との関係性を考え、それと同時に日本を外の目線で捉えることができれば、今回の目標は達成できる。旅は答えがどうなるかわからないから面白い。明日からの旅も柔軟に楽しもうと決意を新たにした。

 

本日のルートはこちら。

 大渓-三峡 16km

 

三峡-新店 20km(安坑国小まで歩いた)

 

 

台湾 桃園-新北 100km徒歩 「日本人探し旅」1日目

こんにちは、台湾の徒歩の旅1日目を迎えたイナムラです。今回、台湾の桃園市から新北市(烏来)までの100kmを3日間で歩き、道中現地在住の日本人をインタビューするという旅を行なっています。名付けて桃園-烏來100km徒歩「日本人探し旅」です。なぜ徒歩の旅第3段をやることになったのかということや、実際に1日目がどうだったのかについて書きます。

 

●なぜ、台湾で100km旅をするのか

▼台湾国立政治大学USR

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遡ること2019年夏。僕は、石川県加賀市で、大学生のワークショップ「PLUS KAGA」に運営メンバーの一人として参加していた。大学生が自分たちの考えたアイデアを地域の人にプレゼンテーションする「公開プレゼンテーション」で、8月31日から9月14日まで東京-石川500km徒歩「加賀人探し旅」をやるという告知をさせていただいた。それを聞いてくださっていた台湾からの視察組のメットさん(許阿赫)や陳さん(陳誼誠)所属する台湾の文系トップ大学「国立政治大学の組織(USR)」の方々が興味を持ってくださり、ぜひ台湾でも徒歩の旅をやってみないかというお話をいただいたのがきっかけである。

 

▼徒歩の旅のフライヤー(製作は石川県加賀市「PLUS KAGA」の金田ゆりあさん)

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僕の徒歩の旅企画は、いわば「地域の外から地域を見る」というのが1つのテーマになっている。地域に住んでいたけど、今は他のところに移住したという人から見た「故郷」について問うことで、より新しい視点で客観的に、地域性や国民性に迫ることができるのではないかという試みである。東京-石川徒歩の旅の時は「石川県加賀市出身者」を道中SNSや知り合いづてに探し出し、インタビューを行った。今回の台湾も同じように、「日本出身者」を道中探し出して、インタビューを行うという企画である。

 

また、今回の企画はスポンサー付きである。台湾国立政治大学USRの方々のサポートのもと、きちんと仕事として初めて徒歩の旅を実施する運びとなったのだ。初日の11/21は大学教授の勉強会、ゴール後の11/25は国立政治大学での授業でそれぞれスピーチをさせてもらうことになっており、とても楽しみである。さて、実際に台湾での徒歩の旅はどういう展開になったのか少しずつブログで更新していく。

 

●成田空港からの出発

台湾入りの前日の天気予報は「台風」だった。台湾ではこの時期滅多に台風が来ることはない。これはある意味面白い展開になったと思った。やはり、徒歩の旅は少々困難があった方が楽しめるというものだ。出発前のロビーで考えた。なぜ、僕は徒歩の旅をやるのか…?

 

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出た答えは単純で、自分が所属するコミュニティとはどのようなものなのかを知りたいというシンプルな欲求だった。僕は大学時代にアルバイトを30個やっては辞めを繰り返してきた経緯があり、自分は人が当たり前にできることができない人間だという意識が強かった。それゆえ、自分はどこに所属すれば良いのかをひたすら考えたし、個人、地区、市町村、都道府県、国と様々なレイヤーやコミュニティに「分け目」が存在していて、なぜ僕はそこに属するのかに大変興味があった。

 

だから、自分がいつもお世話になっている「加賀」について向き合いたかったのが前回の旅だし、自分の生まれた国「日本」について知りたいと考えたのが今回の旅である。さて、今回は様々な出会いと路上観察から、どのような答えが導き出されるのか、非常に楽しみな旅となりそうだ。そんなことを考えながら、23:00頃に飛行機に飛び乗った。

 

●夜中3時の出迎えと夜明け

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台湾の桃園空港に着いたのは、午前3:00だった。こんな遅い時間に出迎えてくれる今回の徒歩の旅の協力者・メットさん(許阿赫)と陳さん(陳孟少)にとても感謝感激である。そして、これから麺でも食うか?と誘ってくる元気さに脱帽だ。

 

▼メットさん(少しぶれた)

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▼陳さん(顔こわい)

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ひとまず、皆でホテルに向かって、今日はさっさと寝ることにした。
朝は8:00頃に目覚めた。ホテルからの風景は格別に美しく、大変日当たりの良い素敵な部屋を用意していただいた。朝日が美しく入り込んでくる。今日1日をどう過ごそうか。SIMを入れて少々手こずりながら機械音痴ぶりを味わい、なんとか開通すると、陳さんと朝の賑やかな大渓の街へ繰り出した。

 

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大渓では、「Traditional Taiwanese Breakfast」という朝食をいただいた。さすがボリューミーな台湾。自分にとってはちょうど良い量でお腹も満たされた。その後、プレゼンテーションの会場に向かう。これから、台湾やタイからの大学教授や博士に向けて、前回の徒歩の旅と今回の徒歩の旅のスピーチをさせていただくのだ。

 

●台湾の大学教授の前でプレゼンテーション

台湾には大学連合「URS」という集まりがあり、social responsibilityや大学と地域との関わりについての勉強会が行われる。今回はその中でも「山水同盟分享會」というグループに呼んでいただいた。場所は「桃園大渓物産所」という日本の物産も取り扱っている文化の発信拠点のような場所で、参加者は博士以上の学生か教授合わせて約30名だった。台湾の国立政治大学中央大学、タイのタマサート大学など日本で言えば東大クラスのエリート達を教える先生ばかりで皆めちゃくちゃ頭が良さそうなので、自分の経験をどう学術的に捉えてもらえるかという心配がありながらも、実践に勝る研究はないと感じているので、今までの徒歩の旅の試行錯誤について素直にお話しさせていただいた。

 

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スピーチの時間は60分間。東京から石川まで歩くことになった経緯とそのきっかけとなった大学生ワークショップ「PLUS KAGA」についてや、第1回の徒歩の旅「古民家冒険Project」での学びと、それを第2回の「加賀人探し旅」にどう繋げたのかという話、そして、第2回の徒歩の旅のインタビュー結果や徒歩の様子、組織体制などについてお話しさせていただいた。皆犬村くんのグッズ製作のこと、徒歩の旅中どう過ごしたのかのことなど笑いもあり、プレゼン資料の写メなども撮っていただいてとても有意義な時間となった。通訳をしてくれたのは上の写真で赤い服を着て、マイクを持っている王さん(王立中)だ。今回のプロジェクトに関して、僕と台湾を繋いでくれた人で、企画や発表についてたくさん相談させていただいている。

 

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その後も、台湾原住民出身でフルーツをはじめとする物産のプロモーションについて研究している方(趙さん)の報告や、先日のPLUS KAGA視察について陳さん(陳誼誠)の報告があり、その日の会はお昼で終了となった。後半は、手作りごはんがたくさん並び、食べ放題だったので、午後の徒歩の旅に備えて、たくさん食べさせてもらった。

 

▼左端下が趙さん、右端上が陳さん(陳誼誠)さん

f:id:ina-tabi:20191122074707j:plain最後に集合写真をパシャり。

 

●徒歩の旅開始&日本人インタビュー(2名)

午後は、いよいよ日本人インタビューから徒歩の旅は開始した。メットさん(許阿赫)の知り合いで大渓在住の日本人・近藤香子(かのこ)さんにお話を伺った。

 

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近藤さんは台湾に住んで15年。東京の武蔵野市出身で、日本語教師になり、台湾で働くことになったのがきっかけで移住した。台湾でご結婚され、大渓に住み始めたようだ。今はこの大渓の観光案内所のような役割にもなっているカフェ「SinNan」で働きながら日本人にこの町の魅力を伝える活動をされている。

 

日本の武蔵野に比べて台湾の大渓は移住した当時、田舎でバスの本数も少なく、自転車を使うにも坂があり、自動車も持っておらずとても交通の弁が良くなかったため、日本の交通網は非常に発達している印象だったという。

 

また、台湾で生活していく中で日本人と台湾人の気質について以下のような違いに気づいたらしい。

・台湾人の方が人との距離が近く、日本の田舎にも似たコミュニケーションを行う。例えば、市場でおばちゃんが何買ったの?と袋を引っ張ってくることもあるという。

・それに関連して、台湾人の方がコミュニケーションが直接的とのこと。例えば、何か交渉するときに値段をすぐに聞いて日本のようにオブラートに包んだ言い回しはしないという。

・日本人の方が良くも悪くも礼儀正しいということだろう。

・台湾人の方が発想が柔らかくて、色彩感覚が良い。面白いエピソードとして、小学校で絵の授業があると、皆生徒それぞれが全く別の絵を描くという。自由で個性が日本よりも尊重されるような気風があるのかもしれない。

 

そして、日本に対して、台湾が親日的なことについて。やはり、日本統治時代に日本の技術力でインフラが発展したという事実があり、例えば蛇口をひねると当たり前に水が出てくるということは当時革新的なことであったらしい。中国の国民党政権になってからの政治と比較して、日本に好意を抱くという人々も多いようだ。一方で、台湾原住民と日本の統治政府の間には、領土の境目で争いがあったらしく、そのことを覚えているご年配の方もいるのではないかとのこと。

 

やはり、台湾に長年住んでいる日本人だからこそわかることがあると最初のインタビューから改めて実感した。近藤さん、貴重なお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。

 

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その後、桃園市の駅近くの道路まで車で乗せて行っていただき、徒歩の旅を本格的に開始。一緒に同行してくれるのは、徒歩の専門家・陳さん(陳孟少)で、動画撮影のためのGoproまで用意してくださって、様々なサポートをしてくれる。やはり、台湾の道路は歩行者が少なく、道が狭い。同時に大量のバイクと車に圧倒され、大量の看板と屋台に日本にはない熱気を感じざるを得ない。

 

歩いて30分ほどで、2人目の日本人・スーさんとPOYAというスーパーで合流した。スーさんは、日本の愛媛県宇和島市のご出身。オーストラリアにワーホリに行ったのがきっかけで出会った台湾原住民(アミ族)の男性と結婚して、台湾の桃園に住み始めたという。現在は台湾に住み始めて3年目で、ご自身のブログや登録会社のライター、お弁当屋、カフェなどで働いているという。スーさんのブログ、僕もLCCの手荷物制限のことなどを参考にさせていただいた経緯もあり、台湾での生活のことなどリアルな役立ち情報満載なので、ぜひチェックしていただきたい。

→こちらがスーさんのブログ

tsugidoko.com

 

▼右の方がスーさん、真ん中が徒歩の旅サポートの陳さん(陳孟少)

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台湾で生活していく中で、日本人と台湾人の気質の違いについて、以下のようなことに気づいたという。

・日本のコンビニはクオリティが高いのに低価格でその点が便利。

・日本人は接客が良くも悪くも丁寧で、台湾人はそこまで細かい気配りをしないのである意味寛容なところがある。面白いエピソードとして、台湾のとあるレストランに入った時に、注文した料理に髪の毛が入っていた。そのことをお店の人に話したところ、日本では返金するべき状況なのだが、ここでは特に重く受け取ることはなく受け流すという対応だったという。やはり、他人の失敗に寛容なのが台湾人、厳しいのが日本人と考えることもできる。サービスが行き届いているのが、日本と言うことも出来る。

・それに関連して、台湾人にとって日本の自殺率は驚くべき数字のようだ。やはり、日本社会は人当たりに厳しいのだろうか…。

・また、転職に関しても台湾の方が寛容だという。どんどん挑戦して、ダメだったら辞めるという試行錯誤が自然とできるらしい。

 

また、スーさんと話をしていて面白かったのは、台湾原住民の旦那さんと会話するときの第一言語が英語だという。お互いの母語である台湾の言葉も日本語も使わず、会話が少し困難な方が喧嘩をしても、不安なことがあってもオブラートに包めるし受け流せるのが良いという。このことを聞いたとき、なるほど!と心の中で手を打った。日本人と台湾人の国際結婚した者同士が集う友人グループもあるようで、お互いのどちらかの言語に合わせる場合もあれば、英語に統一する人もいて、様々だという。

 

やはり、台湾に移住した日本人は、物事を吸収したり受容したりするのが早いし、それが上手な方が多いなと感じた。スーさん、お話を聞かせていただき、カフェのケーキとコーヒーまでご馳走になって、本当にありがとうございました!

 

●出会いに恵まれた1日

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それから、大渓に向けて、日も暮れてしまった道を歩いた。途中、初体験の檳榔も味わうことができ、街を眺めながら歩き、楽しんだ。台湾初日から、とても濃い1日となった。雨も大降りにならず、予想していた台風もあまり酷くはならなかったので、とても快調な出だしである。クマのいる宿泊所に案内していただき、ここで今夜を明かすことにする。明日の徒歩の旅2日目に向けてしっかりと休みたい。

インドの少数民族「花の民」の3年に1度の祭り「ボノナー」の取材に成功!

こんちには、世界の少数民族の独自の地域コミュニティや、その個性的な文化に興味のあるイナムラです。今回は、2019年10月4~5日にかけて行われていたインドの少数民族「花の民」の3年に1度のお祭り「ボノナー」を取材してきたので、そのことについて書きます。

 

▼「花の民」の方と撮っていただいた

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●なぜ、花の民なのか

どうして、今回僕が花の民を取材しようと思ったかというと、いくつか理由があります。半年前くらいから、旅人数人の数少ないブログを読んで、花の民という民族がインドの奥地に住んでいることを知りました。そのブログによると、花を育てている民族が、頭に花の飾りをつけて生活しており、その華やかさといったら類を見ないというようなことが写真などから読み取れました。現在、僕は「極彩色」や「独自の文化」というのが写真の作品づくりの大きなテーマとなっており、まだ日本人がほとんど訪れたことのない未開の民族のうえに、今年3年に1度の祭りを実施するということで、かなり興味をそそられました。ボノナーの祭りは周囲の村(ガルコン、フンザ)と持ち回りで、花の民がこの祭りを開催する番になるのが、3年に1回だけなのです。

 

花の民の祭りを訪れるのは難しい

花の民が住んでいるのは、インドの北部のヒマラヤの麓、だいたい4000mくらいの高さのところに集落を構えており、人口はおそらく1000人もいないのではないかと思います。日本からだと、インドのニューデリー経由で、ラダックのレーという地域まで飛行機でアクセスできますが、その後が大変です。現地の旅行代理店を通して、花の民のいる「ダー」という名前の村まで入る許可証を取る必要があるのです。しかも、2人以上でないと原則許可が下りず、僕のように1人で入ろうとする場合は、現地ガイドやドライバーを高額で雇う必要があります。そのうえ、最近ではパキスタンとの国境紛争地域で、軍の取り締まりも厳しいとあって本当に許可が下りるのかヒヤヒヤしていました。

そして、村人が1人でも亡くなったら祭りの日程は1~2週間後ろ倒しになり、また、赤ちゃん が村に誕生したら日程は1週間後ろ倒しになるようです。確実にこの祭りを見るためには最低でも2週 間以上の休みを確保せねばなりません。これらの過程が必要なため、日本を出発したのが10月1日で、実際にダーの村についたのが10月4日だったため、かなり時間もお金もかかるなかなか訪れることのできない場所に花の民は住んでいるのです。

 

では、早速どのような過程を辿って、この村を訪れたのか、どのような取材ができたのかをご紹介していきます。

 

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●乗り継ぎのバンコクで八十川さんに会う

バンコク乗り継ぎで、インドのニューデリーに入ったのが、10月2日。途中のバンコクで、50歳くらいの男性・八十川(やそがわ)さんという日本人に出会い、とても興味深いお話を聞いたので触れておく。この方、僕と同じように文章を書いたり、写真を撮ったりしていて、もとは新聞記者だ。手に傷を負っており、これは昔インドのレーをバイクに走っていた時に、盗賊のような人々に銃で狙われた時にできた傷だという。

「!!!!!!」

「僕、今からそこにいくんですけど.....」

というかなり恐怖感を感じる出来事であった。しかし、八十川さんは関西人で話し上手で陽気な方なので、その後は楽しく一緒に2時間ほどお酒を飲んでラオスに向かうというので別れた。

 

●レーの街にたどり着いたのが10月2日

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レーの街はインドの北部に位置する標高3500mくらいの街だ。すでに、富士山くらいの高さがあると思うと、恐ろしい。30分歩いただけで、高山病のような感じで頭がクラクラしてきて、休み休み歩きながら町歩きを楽しんだ。レーの街は一般的なインドのイメージとはまるで異なり、人々は穏やかでとても優しく微笑みかけてくれて、騙されるとか物を盗まれるとか、そういうことは一切なかった。芸術的にも優れており、とりわけ織物や仮面、仏具などがよく見かけられ、チベット仏教特有の僧院やマニ車なども見られた。

 

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路地を一本入ると、このような世にも恐ろしい形相の仏具を販売しているお店などが点在しており、想像を絶する底がない感覚もあり、マーケット巡りはとても楽しい。

 

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そして、ラッキーなことに、10月2日はレーの街でもお祭りがあり、レーの有名な歌手とかが集まって、歌ったり踊ったりしていた。日本のフェスみたいな感覚なのだろうが、結構ゆるくて、声出し練習とか舞台でやっていたり、最初はあまりうまくないけど、後半本領を発揮してくる歌手とかがいて、なかなかゆるさがあって面白いイベントだった。しかも、このフェス入場無料であった。どうやってお金が回っているのかは気になるところで、そういえばレーの外れにあったこじんまりとした遊園地も入場無料だった。(ミッキーをパクったようなキャラの滑り台とかあった)

 

●10月4日にいよいよ花の民の村へ!

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レーの街で許可証が取れたのが、10月3日だった。閑散期ということもあって、旅行者1人のために車を出して、許可証を発行してもらえるような旅行代理店などほぼ皆無で、10軒くらい回って、ようやく1軒だけ承諾してもらえた。それが、「Weatern Tibet Expedition」という会社だった。許可証発行に1550ルピーと、タクシー代で1泊2日換算(ドライバーもダーに宿泊)の8000ルピーで、合計9550ルピーをはらわなくてはならないとのこと。日本円にして約15000円くらい。あとは、ダーの村に到るまでの食費と宿泊費を自分の分とドライバーの分まで払わねばならないので、合計2万円以上を支払ってやっとこさタクシーを手配できたのである。それでも、タクシーでダーの村に向かう道中は圧巻の景色で、こんな壮大な風景が地球にはあるのか!と驚きを隠せなかった。

 

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途中、カルツェという街で車を止められ、

「なぜここに日本人が1人で来ているんだ!」

と軍に問い詰められた。

 

基本的に、外国人は2人以上でないと許可証が下りない。

ドライバーの人を指差して、

「この人がガイドなのです!この人も人数に含めてください!」

と頭を下げて、通してもらえた。

 

なかなか軍の人と対峙するというのは緊張したが、基本的にこの地域の人々は根は優しく穏やかな気質を持っているので、5分も経たずに通してもらえたのでよかった。

 

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レーの街を出発したのが、朝の6時ごろ。ダーの村についたのが午前11時ごろだったので、5時間ほどで快調なペースでたどり着くことができた。ダーの村は、乾いた茶色い大地が広がる周辺区域に比べて、一段と緑に溢れ、水が懇々と湧き出て道路を濡らし、小鳥がさえずり、生命の息吹を感じるような美しい村であった。

 

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ダー村の入り口には、意味ありげに小さな祠がたち、大きな棒が2つ立ち並び、木には色とりどりの旗が絡みついていた。ここから、何か聖域が始まるような雰囲気を醸し出している。道のあちこちでは湧き水が溢れ出し、道路をひたひたに濡らしている。木々は黄緑に光り輝き、高く高くそびえ立つという雰囲気であった。

 

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家は、木を土台にして、泥や石で固めていくという方法をとっている。庭には花を植えている家庭も多く、さすが「花の民」と呼ばれる民族である。家によっては、かなり大きな花畑も持っている。

 

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また、ヤギなどの家畜を買っている場合も多い。多くて5~10頭飼っている場合もある。メエ〜と元気の良いヤギたちが多かった。

 

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お祭りまで少し時間があったので、近くの丘の上にあるチョルテンのような仏塔のような祠を見に行った。花の民にとっては、村を見守る神様のような存在なのかもしれない。周囲は静寂に包まれ、誰も訪れるものは見かけなかったが、異様に強いエネルギーを放っていた。

 

●花の民の祭りは17時頃に開始した。

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伝統的な衣装に身を包み、花の民が姿を表したのは、夕方の17時頃だった。現地の英語のできる村人に祭りを解説してもらいながら、撮影を進めていった。もともと、この祭りは昔この土地を治めていたアレクサンダー大王を祀るために、今から400年前に始まったという。まず、男たちがラッパや太鼓をかき鳴らし、天から「ラー」という神を呼び寄せるらしい。そうすると、村のテッペンにある岩に鎮座して煙を炊いている僧侶(あまりに尊かったのでまじまじと写真で写せなかった)の元に神が舞い降りて、祭りが開始される。その後、僧侶が煙を持って、村の少しだけ低い位置に移動して、岩の上にそれを納め、それを囲みながら村人たちは踊り出す。男たちだけがその周りを回る。

 

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その後、なぜか全員の男の花の冠に紙が挟まれていき、盛り上がりはどんどん高まっていく。歌を歌い踊りながら、これらの動作がスムーズに行われていくのだ。

 

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全員の冠に紙が挟み終わったところで、僧侶を先頭にして村の男たちが総出で、村全体を練り歩き始める。山の斜面に作られている村なので、道はかなり険しく、すっ転んで少し転落して怪我をする者もいた。村の上部を全部歩き終えたところで、徐々に下の山の麓に向けて歩いていく。

 

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山の麓、目指すべき場所はこの2本の神木が鎮座する大きな広場であった。見た目的にはそこまで木の高さや太さはないものの、実際に木の幹の皮などに触れてみると、手が震えゾクゾクするほどエネルギーを感じる木である。

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この木の目の前で男たちをで迎えるのが、この目を見張るほど派手に飾り付けをした女の集団であった。女たちは、花を手に持っているほか、松の木のような形をした木に火をつけ、あたり一面に煙を立ち込めさせ、男たちが通る道の両サイドにたち、男たちを出迎えていた。

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男たちと女たちは入り混じり、広場に円を作り出す。祭りは絶頂の盛り上がりをみせ、文明の夜明けのようなイメージの太鼓とラッパの音が響き渡る。音楽のリズムは至ってシンプルで、「ター(高い)ラッ・ター(低い)」という音の繰り返しだ。踊りは、右向き、左向き、正面手合わせ、正面手広げという4パターンが基本であり、どことなく日本の盆踊りを連想させるような踊り方だった。15分くらい踊って休憩を繰り返しまくり、休憩の時は男女楽しく話すという光景も見られた。2本ある木のうち、一本の木の根元に大きな石を置いて、終始火を炊くようにしており、広場一帯が煙に包まれてものかなり神々しい雰囲気に包まれていた。

 

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広場での踊りは、18時頃に始まり、終わったのが21時前だった。踊りのアンコールの連続でなかなか終わりが見えなかった。男たちは円になってその都度何かを話しているような雰囲気だったが、言語が全く独自のものを使うため、理解ができない。このような祭りを約4~5日間続けるそうだ。夜は近くの家に泊まらせてもらった。

 

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次の日の朝、夜が少しずつ明けてくる5時ごろにラッパの音で目覚めた。耳をつんざくほどに大きな音だったので、何事かと思って、昨日の広場に行って見たところ、ラッパと太鼓の男数名、手に松の煙を炊いた皿を持った女数名が立っており、なにやら儀式のようなものをやっていた。1人の男が火を根元に炊いている木の幹に松の葉のような形の葉を数枚乗せ、その後女が供え物を備えるように松を火に投じて、各々の家に帰って行った。どのような意味が込められているのか解読不可能だが、厳粛な空気が流れており、自分が横で見学しているというのが場違いな感じであった。

 

●花の民という存在の可能性

僕がこの祭りを取材していて思ったのは、この祭りの民俗行動を記述しているものは世界的にも少ないだろうということだ。日本の国立国会図書館にも、「花の民」について記述している文献は1つもなかったし、僕がこの祭りの行動の一つ一つを文章として残すことには大きな意味があるだろう。民族の固有の文化が廃れて消えてしまったり、忘れ去られたりしてしまう中で、例え時間的にも、お金的にもかなり厳しいハードルを乗り越えてでも、このような祭りを取材しておくことは意味がある。その土地で暮らして、豊かさを千年単位で探ってきた生物、生命、民族の営みがそこにはあって、遠い果ての人々の行動からも人間の原点のようなものを学びとることができるであろうと考えている。あまりにも尊すぎて、写真も出し惜しみしてしまい、このブログで全てを語ることはできないが、それでもその一端を垣間見ていただけたらと思う。

 

ニューデリーに戻り「田舎の尊さ」感じる後半の旅

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ダーの街を10月5日に後にした、僕とドライバーはレーの街へと帰路に着いた。帰りは、軍隊にあれこれ言われることなく、すんなりとドライブを楽しむことができた。途中、車をおりて休憩している時、ドライバーのハックさんと一緒に写真を撮った。ハックさんは、ドライバーを雇った僕がお金を出すからとガンガンお茶飲んだり、たくさん食べ物をお代わりしてきたが、機械音痴だったり、たまに愛嬌込めて声が大きくなったり、さすがプロと呼べるくらいに運転がうまいがスピードめっちゃ出したりという、なるなかに憎めないおじさんだった。

 

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レーから、ニューデリーは飛行機に乗るのは味気ないと思ってローカルな人々に混じって、3日間かけてジープとバスで移動した。途中、5200mの峠を越え、氷点下の気温で雪にはまり、チェーンをつけながら、デリーに向けて頑張って走って行った。途中、車がぶっ壊れて、寒さに凍えながら、ドラーバー達が車を直している姿をみて感動した。車をぶっ壊れているのを見守りながらも、空を見ると満点の星空が広がっていた。今までに見たことのないほどに美しく精彩な星空だった。星ってこんなにたくさんの数があったんだって初めて知った。詰め込まれた車の中で、インド人達と身を寄せ合って寒さを凌いだのは良い思い出だ。

 

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ニューデリーにさあいよいよつくという最後のバスに乗った時、都会の狂気を知ることとなる。やっぱり、どこも人口爆発が進んでいるところの人間は大きな権力の元に歪められてしまうものだと思う。バスの隣に座った通路側のインド人の男性は、窓側の僕の席の方向に唾を履き続けた。窓の外から吐くことができたときは良いのだが、たまに僕の太ももに唾を吐いてくる。11時間もバスに乗っていたものだから、あまりにも辛すぎると思って、途中で席交代しますか?と持ちかけてみた。うん、とうなづいて席を交代してくれて唾を吐くことはなくなった。唾は少し黒ずんでいることもあったので、僕はてっきり、薬物中毒かタバコの吸いすぎで黒いタンが喉に詰まっているのかと思っていたが、唾を吐かなくても良いという状況があり得るということは、これは日本人が1人だからといじめてきたに違いない。席を交代してからも、席を占領してくるなどの行為は続いた。基本的に、公共交通機関の乗り降りなど、列というものを作らず、追い越し追い抜かすというのが当たり前の世界だ。

 

また、こんなこともあった。自動販売機で飲み物を買おうとしたら、横に人が立っていて、自販機の表示は20ルピーと書いてあるのに、30ルピーを要求してきた。なんで30なんだ!と怒ってみるが、30だから30なんだと言い張る。呆れるばかりだ。日本人だというと鼻で笑われたり、提出した税関書類が少し見にくいからというだけで追い返されたり、もう疲れ呆れ果てるほどにいろんなことがあった。

 

やはり、人口が多くて貧富の差が激しすぎるニューデリーという場所において、人は他人を顧みる余裕はなく、物乞いが溢れ、人が栄養失調でバタバタ倒れ、自分が自分を守るのに必死であるように思えた。悲しかった。

 

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唯一、市場で出会った軍隊の男が「我らのインドは誇りだ!」と僕に自信満々に、でも紳士的に語りかけてくれて、心に響いた。インドはどこまでも荒々しく、粗雑に、でも壮大なエネルギーのタンクを積んで未来へと一歩一歩進んでいるように思えた。

 

素晴らしい出会いをありがとう。その後、タイとベトナムに滞在して、10月10日には日本に帰国した。今後も、大きな権力に捨てられた世界の小さな村々の独自の民俗風習文化に焦点を当てて記録していくとともに、人間が本来どのような生き物でどうしたら幸せになれるかを考えながら、写真作品を残していけたらと考えている。今回の「花の民」に関しても、近々写真集を作ってお披露目する。最後まで長々と読んでいただきありがとうございました。