【2022年7月】石川県加賀市 獅子舞取材 中代町・新保町(追加)

2022年7月15日~17日の日程で石川県加賀市に滞在し、獅子舞のヒアリングを実施した。

 

7月15日 16:15~17:00 中代町

区長の東出ひであきさんに主にお話を伺った。以前、区長の西出さんにお話を伺った時のことを絡めながら記録を残しておく。

由来

獅子舞がどこから伝わったのかはよくわからないが、町で一番の長老(約90歳)によれば、敷地町から伝わったかもしれない。今から150年前くらいには既に獅子舞は行われていた。農業地帯なので、農具の箕を2つ組み合わせて、パクパクするようにして舞っていた時がある。目や鼻などを描くことはしなかった。非常に素朴的で歴史のある農耕社会の獅子だ。中代町は現在、国道八号線を境に2つに分かれている。ただ、小学校の校区は同じで、昔から同じ町内だ。北側が比較的田んぼが多く、南側に旧町が広がっている。神社も旧町の方にある。

 

獅子頭

獅子頭は70年前くらいに金沢の別院通り付近のところに発注して新調し、それ以来同じものを使っている。耳や目が大きい。30年前には少なくとも存在したが、どこで作ったのかなどは分からない。襞の多さや顔の凹凸の少なさなどが井波由来の獅子頭に似ているように思える。暴れ獅子ではないので、あまり獅子頭をぶつけて壊すということはない。昔からの獅子頭ではあるが比較的新品に近いほど綺麗である。オスかメスかわからない。笛がないことがオスかメスかを左右する場合があるようだが、詳しいことは不明だ。

 

祭りの様子

祭りの日は3月17日と8月17日と決まっている朝5時から開始し12~13時間かけて日が暮れるまで行う。神社から始まって、お寺、区長宅、生産組合、各住宅を回って神社に終わる流れだ。朝とお昼は休み時間があり、少なくとも朝は団長さんの家でご飯を食べていた。空き家(2~3軒)は舞わないが、留守宅は舞っている。町内には75軒ほどの家があり、その家々を一通り回る。

 

舞い方

舞い方は1種類で、名前は特にない。また、ご祝儀の額などによって舞い方を変えることはしない。太鼓に向かっていく舞い方で、中腰のところからスタートする。町を1一軒一軒回っていく時と、神社で舞う時は空間の使い方が違う。神社は参道が広いので、そこを十分に活用するようにして舞う。昔と比べると太鼓の音のタイミングが合わない時もあり、少しずつ変わってきていると感じる。   

 

担い手

運営主体は青年団だ。高校1年生から25歳までが入る。常に稼働しているメンバーは5~6人ほどだ。獅子頭1人と尻尾1人と太鼓2人で合計4人いれば舞うことはできる。笛などは登場しない素朴な獅子だ。練習は2週間前くらいから行い、夜8時から始まり9時半には終える。初心者の人も上級者も同じ長さの練習時間だ。ただし、初心者の方は祭りの当日に自分の家の前で舞い、動きの確認をしておく。大学生や働いている人など、地域外に出ていく人も多く、ずっと地域にいる人は少なくなってきている。

 

7月16日 17:00~18:00 新保町

岸グリーンサービスの岸ひできさんにお話を伺った。以前、獅子頭の撮影に伺ったときのお話も絡めながらここに記しておく。

 

 

歴史

獅子舞はいつから始まったのかわからない。元々、「チウラカ」という演目しかなかったが、昭和24年(1949年)に、演目を増やすために片山津温泉青年団から新たに「コンケラコン」「シャンシャン」「チョウチョウトマレ」の3つの演目を習ってきた。それ以来、この3つの演目を今でも継承している。隣の柴山町にはチョウチョウトマレは伝わらなかったが、あとの2つは共通している。最近これらの演目を「コンコン」「シャンシャン」「チョウチョウ」と簡略化して呼ぶ。昔の方がリズムがよりゆっくりだったが、少しずつリズムが早くなっている。お酒を飲んだ勢いで早くやりたくなることもあるし、新保町の中にディベロッパーが開発してニュータウンができ、世帯数が多くなったので早く回らないといけなくなったという背景がある。以前はご祝儀が5000円か1万円で、5000円の場合はコンコン、シャンシャン、1万円の場合はチョウチョウまでやるというのが通例だった。ただし、ニュータウンができてから、3000円の祝儀のみでコンコンかシャンシャンだけ舞うということもある。

 

祭りの様子

祭りの日は2日間で約100軒回る。朝5時半~6時あたりから夕方4~5時くらいまで行い、最後に神社での奉納の舞いをする。神社では1万円+お酒とか、2万円が出る時もあり、舞いを豪華にしなくてはいけないということで、コンコンのダブル(略してコンダブ)を行うことがある。これは動作を繰り返して演目を長くする形だ。また、シャンシャンのダブルが行われる時は、2人で演じるという意味での「ダブル」である。町外では明石家病棟に慰問に行ったり、仲良くなったお店、湖北小学校、片山津中学校に舞いに行ったりすることはある。ただし、片山津中学校は自分たちだけ獅子舞でお休みをもらうという子供も多いので、訪問には抵抗があり現在は舞いに行っていないかもしれない。お昼は家とか公民館でお弁当を食べ、2日目は源平食堂のランチを食べる。

 

担い手 

青年団は中一で入ってまず棒振りを行い、そこから笛や獅子頭をする。青年団の年齢制限は30歳までだったが、徐々に年齢が上がっていって、壮年団に入るまでという認識が強まっている。担い手の人数は現在、20人ほどだ。戦後、予科練と言う飛行機の練習場だった関係で、次男坊や三男坊が地元に帰らずに一白町に移住する現象が起こり、新保町の人が結婚に行って家を建てるということもあった。そのような交流があったことから、一白町の人でも獅子舞をしたいという人が出てきて新保町の獅子舞に加わってもらうこともあった。蚊帳の中には最低3人、棒振り、太鼓、笛がいるので、結構人数が必要な獅子舞である。昔は篠原村字新保と言い、生業は漁業をしていた人もいたが、のちに撚糸を始める人が多かった。現在、大きな勤め先は片山津ゴルフ場、岸グリーンサービス、北野土木、大家産業などだ。

 

舞い方

柴山・伊切・新保は舞い方が似ている。棒振りの棒は紅白の色のものを使う。新保町の獅子舞はキビキビした動きをするのが特徴で、そこが周辺の町内との違いだ。チョウチョウの演目が最も激しい。棒振りが一番体力が必要である。「目録1つ金貨千両大鯛万頭(まんがん)美人千人御酒肴は沢山右はえーとえーと〇〇さま方からご贔屓等あって当新保町獅子若連中にくださーる」という口上は、橋立地区と似ている。獅子と棒振りが対峙するものの、最終的に決着はつかない。棒の両先にはフサフサがついており、槍や薙刀などを使うことはないというのが、単純な獅子殺しの演目と異なるポイントだ。演目の合間にそりゃ!という掛け声をかけることがある。

 

祭りの日程

9月12.13日が祭りの日になっており、獅子舞が出たり、屋台が出たりと賑やかな日になる。春祭りはお参りのみだ。「今年の祭りは何曜日や?」「有給取らなあかんかな」などの声が毎年恒例のように聞かれる。中学校、高校などを休むときは、「(地域行事なので)公欠扱いには出来んけど認めるよ」というのがいつもの先生とのやり取りだ。ただ、強豪校の野球部などは流石に休めないこともあり、練習だけ出て本番ができないということもある。現在、祭りの日を土日にしようという議論はあるが、なかなか昔からの恒例なのでずらすことはできない。また、祭りの日程は柴山町と伊切町と新保町で一週間ごとに行う。新保町と柴山町はお互いのお祭りに出かけるなど、活発に交流がある。祭り以外では初老の祝いや結婚式に獅子舞を呼ぶこともあり、今でも結婚式では舞うことがある。

 

練習

獅子舞の練習は夜8時から10時までの2時間で行われ、その後にご飯や飲み会をすることもある。年代を経るに従ってそのような場は少なくなっている。練習期間はお盆から祭りまでの1ヶ月感だ。

 

獅子頭

平成27年富山県井波で作られた獅子頭が保管されている。耳をつける穴はあるが、お祭りの当日も耳をつけるという習慣はない。獅子舞の性別はメスだ。道具の色は紅白が多い。蚊帳も縦ラインに紅白のデザインだ。

天候をコントロールしたという欲望、その先に「水止舞」は生まれた

2022年7月10日13時に訪れたのが、厳正寺(ごんしょうじ)の水止舞だ。水止と書いてシシと読む。とても珍しい獅子舞だ。形態としては明らかに三匹獅子舞なのだが、これが龍と一対なのがまた面白い。なぜ龍と獅子舞が対になるかというと、多摩川デルタ沿いの水害に悩まされてきた地域における「天候をコントロールしたい」という欲望によるものだ。

水止舞誕生の由来

水止舞の始まりは今から700年前、後醍醐天皇の頃の住職・法密上人の時代に遡る。法密上人は文永4年(1267年)に北条茂候の子として生まれ、18歳に高野山真言密教を学び、厳正寺二世を継いだ。元享元年(1321年)54歳の時に、武蔵国が大干魃(かんばつ)に襲われた。雨乞の祈祷をお願いされた法密上人は再三辞退したものの、結局、これを引き受けることとなる。その時に行ったのが、まず稲荷明神の社を立てること、藁で龍神の形を作ること、7日の祈祷ののちに舟を浮かべて龍神を沖に沈めることだった。その後に仏前で謝恩読経すると、旱天(かんてん・降雨なく日照りが続くこと)だったのに急遽、慈雨(じう・恵みの雨)が降り出して、民衆は大いに喜んだ。

しかし、2年後の元享3年(1323年)の3月3日から数十日間、雨が降り止まずに田畑はことごとく海となったため、他国への移住が急増した。法密上人はその恨みを買い、再び祈祷をすることを決めた。今度は三頭の龍像を彫り「水止(しし)」と呼び、仏前で浄土三部経をとなえ、地域の人々に水止の龍像を被らせて舞わせ、笛太鼓を叩かせて法螺貝を吹かせた。すると、武蔵国一円が日光輝くばかりに晴れ渡ったという。この出来事をきっかけとして仏様への感謝の舞を奉納し現在に至っている。(参考:水止舞 フライヤー, 水止舞保存協力会, 2022)

雨をコントロールする身体性

以上のエピソードから、「雨が降らなすぎてもダメだし、雨が降りすぎてもダメ」という人間の欲望が、水止舞という民俗芸能を生み出したことがわかる。日本全国を見渡せば、龍は雨を降らせるという思想があり、例えば埼玉県の獅子舞は獅子型と龍型に大別されて、「龍頭型と言われているものは雨を降らせる」と言われている。一方、石川県羽咋郡宝達志水町では、かつて祭りの日が晴れて欲しいからということで生み出された「晴天獅子」なる獅子頭に出会ったことがある。これは龍のような形をしていたわけではなく、少なからず晴れさせるというニュアンスが含まれているのだろう。天気予報がない昔の人々にとって安心をもたらすのは祈祷であり、それが精神の安定をもたらしていたと思うと興味深い。また、雨を降らせることと、雨を止めることにまつわる儀式の一連の流れを上述のように確かめていくのはとても面白い。雨を降らせる際にはただひたすら祈りを捧げて龍を水に流したのに対して、雨を止める際にはひたすら舞った。この身体的な行為が雨という善悪両義的存在に向き合うための行為であったというわけだ。

なぜ突如として舞うという行為が始まったのか?

上記の水止舞のエピソードについて、まだまだ興味深いポイントがある。それは、成立年についてだ。なぜ、雨を降らすために登場しなかった獅子が、雨を止ますために突如として登場したのだろうか。三匹獅子舞の創始は、関東一円に伝わっている「大日本獅子舞来由」あるいは「大日本獅子舞之由来」が示す通り、1245年3月節句の頃、後嵯峨天皇の治世に空から獅子の首が3頭分、降ってきたことから始まる。これは吉兆ということで、角兵衛と弟の角助・角内に踊らせ、ここを起点として関東に広まったということだ。おそらく、13世紀~14世紀は関東一円の三匹獅子舞創世期であったはず。芸能のプロが飯を食うために秘伝書(車の運転免許証と同じようなもの)を作り広めたが、これはもしかしたら嘘の内容だったかもしれない。それはそうと、基本的には各村がこの秘伝書をもらい、認めてもらえるように舞い方を習得してそれを継承する運営システムを築き上げるベく必死になった。秘伝書がもらえれば、お墨付きとなり、他と差別化される。だから、この秘伝書の内容は他言無用である。まるで、これさえ持っていれば、自分の価値がどんどん上がっていくという風にして、秘伝書は権威づけのために珍重されたのだ。秘伝書を渡すことが芸能者の生活の糧を作り、それが天皇家の治世を天下泰平のものに保つために貢献していたかもしれないという視点も必要である。このような時代背景のもと、作られた水止舞にはどれだけこの謎深い芸能プロ集団の手が加わっていたものか知りたいところだ。

水止舞を現地で見てきた

スタート地点は厳正寺から150メートルほどの場所にある、狭い路地である。まずブオーと法螺貝を吹く人間が藁に包まれて人に担がれ、水をぶっかけられながら進んでいく。狭い路地に大量の見物客...当然、周りの人も水をかぶることになるが御構い無し。「濡れてもすぐ乾くから大丈夫でしょ」と見物たちもなんだか呑気だ。カメラがびしょ濡れになりながらも必死で龍の動きに食らいついていく。

水を龍にかける意味は、「暴れる龍を懲らしめるため」と言われることもあれば、「龍神を元気付けるため」と言われることもある。そのため、龍が吹く法螺貝の音色は、悲しい音色に聞こえることもあれば、高らかな雄叫びに聞こえることもあるのだ。ちなみに、水止舞保存協会によれば、これは後者が正しいとフライヤーに書いてあった、確かに雨を降らすのがここでいう龍神で、後に来る獅子舞が雨を止めるのならば、この解釈が正しいのかもしれない。先ほどの「雨が降らなすぎてもダメだし、雨が降りすぎてもダメ」という解釈に当てはめると、善悪両義的な雨の姿がさらに鮮明に浮かび上がってくる。

龍が通り過ぎると、三匹獅子舞が太鼓を叩きながら登場して、これまた厳正寺を目指す。龍も獅子舞も目的地は厳正寺の舞台の上。まず龍が到着すると藁が解かれて舞台をぐるりと囲むように置かれる。そこに三匹獅子舞(赤い面の雌獅子, 黒い面の若獅子と雄獅子)、花籠2人、奉納笛と唄が入場して、演舞が行われるという流れだ。舞い方は以下の6種類だった。

(一)雌獅子の舞(女水止舞)
(二)初めての出会いが表現された「出羽の舞(出舞, 大水止・若水止の舞)」
(三)三匹が仲良く舞う「大若女・水止舞(トーヒャロ)」
(四)施餓鬼に関する「コホホーンの舞」
(五)雌獅子を奪い合う「雌獅子かくしの舞」
(六)仲良く三匹が踊る

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東京に鹿踊がやってきた

2022年7月10日、11時より上野駅の岩手産直市で鹿踊を見てきた。なかなか東京で鹿踊を見ることはないので、この新鮮な感覚を書き残しておくことにする。今回、上野駅でお披露目された鹿踊は、「春日流八幡鹿踊」という名前らしい。岩手県花巻市から来たそうだ。

鹿系のシシは福島以北というのが通例であり、東京はどちらかといえばイノシシの文化圏である。関東地方におけるイノシシの分布は三匹獅子舞の分布に重なるところがあると、小島さんの論文で読んだ。このような場で、土地の風土に適合しない鹿の踊りを披露するのはどのような意味があるのだろうか?「地域のことを知ってもらう」という文脈で、民俗芸能が登場しうるのは大いに意義があることだ。ただし、上野駅の雑踏の中で、鹿踊の担い手が歌う歌声は比較的薄れていたことは印象的だった。本来ならば、静かな山や田などを目の前に、踊るものなのだろう。そういう意味で民俗芸能は土地と土地との違いを可視化する存在でもあるのだ。一方で、観客が多かったことから、上野の人々は鹿踊に対して大いに関心を示していたことがわかる。

 

水害リスクを減らした獅子とは!?埼玉県三郷市・戸ヶ崎香取神社の獅子舞を見てきた

2022年7月3日、埼玉県三郷市戸ヶ崎の香取神社例大祭)で三匹獅子舞を見てきた。戸ヶ崎といえば獅子舞が盛んな地域で、一日中ぶっ通しで朝から晩まで3日間、獅子舞をする。なぜこんなに盛んなの?という疑問とともに、最終日の様子を振り返っていきたい。

コロナ禍で見られた新しい祭りの形

今回伺った香取神社例大祭においては1日5庭となっていた。普段であれば、間髪入れずに朝9時から夜の8時まで踊り続けるようだが、今回は間に時間を設けることで獅子をアルコール消毒するというお話をちらっと聞いた。コロナ禍において、担い手が代わる代わる中に入る獅子舞は難しく、消毒の時間を必要としているようだ。イレギュラーな開催であったが、非常に盛り上がりのある祭りだった。

三匹獅子舞の演目数について

一見すると、普通の三匹獅子舞である。大獅子、中獅子、女獅子の3頭が太鼓を叩きながら踊る。獅子舞の演目は全部で9庭あり、花廻り、笹廻り、飛びがっこう、弓がかり、橋がかり、帰りがっこう、綱渡り、烏のぞき、刀がかりという名前がつけられている。また、この9庭は富士登山の道中を表しており、その通り富士山は9合目までしかない。富士講の影響が色濃く残っている証拠と言えるだろう。

また、庭を省略する場合は、庭数は必ず「奇数」と決まっている。例えば、時間的に2庭しかできないときは2庭目を省略して3庭目を行う。これは恐らく陰陽五行説における奇数を陽、偶数を陰とする考え方に起因するものだろう。

非常に興味深かったのが、以前は唄があったが、今は無くなってしまったそうだ。なぜなら聞き覚えるならいいが、他人に教えるとその人は死んでしまうという恐ろしい伝承があったからだ。この事実をどう考えたら良いだろうか?唄に秘められた言葉に相当な呪力があったのか、もしくは教えるのが大変だったから冗談で言ったのか。解釈が非常に難しく謎深い。

個人の生死が祭りに影響を及ぼす

祭り直前に身内の不幸があれば参加を遠慮するほか、子供が生まれた家では、男児21日、女児33日以内の時も遠慮するという。この数字にどのような意味があるのかは定かではない。人の生死という重要ごとがあるときは、それに向き合うべきという話なのだろう。以前、2018年にインド奥地のパキスタンにも近いダーという名の村に行ったとき、花の民という民族が3年に一度のお祭りをやっておりそれを見学させていただいたことがあった。子供が生まれても誰かが死んでも祭りはやらないという。個人の参加の可否が決まるどころか、村の祭りの実施の可否自体が個人の生死によって左右されるというわけだ。人口が少ない村とはいえ、3年に一度の祭りの開催を個人の生死が左右するというのは非常に興味深く、もしかすると日本も昔はそうだったかもしれないが、それが徐々に弱まってきているのではないかと推測する。

三匹獅子舞の由来「角兵衛の謎」

戸ヶ崎の獅子舞の始まりは、天正十年(1582年)に角兵衛の末孫を召して獅子舞の奉納をしたところ凶事が去ったため、村人が獅子舞を習って奉納するようになったとのこと。角兵衛に関しては以下のブログでも書いたが、三匹獅子舞のことを調べていると、とにかくよく登場する人物だ。水害のため獅子舞を一度休んだことがあったそうだが、伝染病が入ってきてしまったので、その後は太平洋戦争の時でも続けたという。

ina-tabi.hatenablog.com

洪水を防ぐ神としての獅子

また、洪水を防いでくれる存在として獅子がモチーフになる話も伝承されており、こちらも紹介しておきたい。文化4年(1807年)6月に二郷半領用水が増水した時に、水本との境のところにある桜堤を切らねば、戸ヶ崎が大変なことになるという事態となった。堤を切るということは、ある土地に水を溢れさせることで、下流の水害リスクを減らすという行為である。当然、不都合を被る人々が出てくる。ここに堤を切られては困る人々と、堤を切りたい戸ヶ崎の人々との監視合戦が始まるのだ。一計を案じた戸ヶ崎の人々は闇夜に小舟に松明をつけて、3頭の獅子頭も乗せて漕いで行くと、相手方が逃げたので桜堤を切ることができたそうである。この時の太刀で桜堤を切る場面を演じたのが、刀がかりという演目となった。村境における対立において、一種の神がかり的な行為によって、事態を収束させる獅子舞の役割が浮き彫りになるというわけだ。

この話について、さらに踏み込んで書きたい。柳田國男柳田國男全集18』(筑摩書房 1990年)に登場する「獅子舞考」には興味深い内容が書かれている。喜多村信節(きたむらのぶよ)著『筠庭雑考(いんていざっこう)』という江戸時代の書物に『四神地名録』を引用する形で述べられていることには、江戸東郊二合半(こなから)領戸ケ崎村において、宝永元年(1704年)の洪水の際に、水練が達者なものが獅子頭を被って川向こうに泳いでいくと隣村の水を防いでいた村民が大蛇が来たと思い逃げてしまった。そこで水練が達者なものが堤を切って、自村の災難を免れたとある。つまり、文化4年の増水より約100年前にも実は増水が起こり、獅子の登場によって堤を切ることができたという似た話が伝わっていたのだ。それに加えてこの獅子は大蛇を表し、水の神の意向として堤が切られたという物語を語るべく、獅子を登場させた可能性も見えてきて興味深かった。

 

参考文献

柳田國男柳田國男全集18』(筑摩書房 1990年)
三郷市史編さん委員会『三郷市史 第九巻 別編 民俗編』(平成3年3月)

角兵衛獅子はなぜ全国に流行したの?新潟県月潟という小さな村から始まった!涙と苦労の物語

新潟県月潟の「角兵衛獅子」の歴史は非常に興味深い。貧困や恨みといった辛さをバネにして、最強の芸能集団を作り上げ天下を取った。しかし、時代の趨勢により芸能の技術指導が体罰と認識されるようになり完全に衰退してしまった。今では「保存会」によってその形態を今に伝えている。この角兵衛獅子の栄枯盛衰の物語は私たちに何を語りかけてくれるのだろうか?

2022年月潟まつりで拝見した角兵衛獅子

貧困と仇討ち

まずは角兵衛獅子の始まりについて。新潟県月潟といえば、信濃川とその支流の中ノ口川という大河に近く沼地であった上に、川の氾濫により作物がなぎ倒され飢餓に苦しむことも多かった。それゆえ、芸能を副業として諸国を巡業して歩き、資金を稼ぐようになったようだ。

その一方で、常陸国、水戸の住人で角兵衛という人物が月潟村に移り住んだが、何者かが殺害してしまった。角兵衛は殺される時に相手の足指を噛み切ったという。残された角兵衛の息子の角内・角助は大衆の中で逆立ちすることを思いつき「あんよ(足)を上にして、あんよの指のないものを気をつけて見れ」と言って、親父の仇を探し出そうとしたという話がある。

以上2つの角兵衛獅子の由来を知り思ったのが、月潟一帯は貧困がはびこり、非常に物騒な場所だったのだということ。では、そもそも角兵衛獅子の発想は何をヒントとして創作されたのだろうか?

三匹獅子と神楽獅子を基盤に成立した軽業芸

角兵衛獅子の形態を見ると1人立ちであることから、関東から東北地方に分布する三匹獅子舞に似ていることは想像に難しくない。ただし、新潟県月潟周辺に三匹獅子舞の分布が少ないこと、『絵本御伽品鏡』(享保15年・1730年)に書かれた獅子の蚊帳が神楽系であることなどから、獅子神楽を源流として三匹獅子舞の要素を取り入れながら角兵衛獅子が成立したとする説もある(小湊米吉『角兵衛獅子-その歴史を探る』(2000年9月)』)。この説では軽業芸や全国巡業という形態は伊勢太神楽の本家を受け継ぐものであり、そこに三頭立ての獅子舞という三匹獅子舞の要素を取り入れた結果、角兵衛獅子が誕生したとしており、当時としては大変珍しい芸風だったのではないかとのこと。

例えば愛媛の継ぎ獅子を見ると、伊勢太神楽をルーツとしてアクロバティックさに磨きがかかったようだし、そこに子どもが乗っかるという芸風はどこか角兵衛獅子と似た雰囲気を感じる。三匹獅子舞ではなくとも伊勢太神楽には後方の担い手が胴体を絞って1人立ちになることもあるため、一概に三匹獅子舞の要素を取り入れたかどうかは定かではない。

一方で、「角兵衛獅子」といえば、埼玉の秩父に浦山の獅子舞というものがあり、そこに伝わる獅子舞の起源も興味深い。1245年、後嵯峨天皇の勅令を受けた下総の角兵衛という人物が角兵衛獅子という獅子舞を考案したようで、それを全国に広めたとのこと。「浦山の獅子舞」もその正統な直伝を受け、伝わったという。これもいわゆる「角兵衛獅子」であり、完全な三匹獅子舞の形態を今に残している。浦山に伝わる角兵衛と、月潟の角兵衛はもしや同一人物であろうか?年代は被らないものの、何か関連性があると思えてならない。もしかすると、角兵衛という人物は実在していたのかもしれないが、好き勝手に源義経の免許状なるものが出回る時代である。後付け的に、巡業地を拡大するための護符として「角兵衛」の名が用いられたと考えられなくもない。

角兵衛獅子は「子ども」を主役にして成立(江戸時代中期)

月潟の角兵衛獅子の誕生は、江戸中期の享保2年(1717年)であり、そこから明治時代にかけての150年間、大流行の時代を迎える。この段階ではすでに、獅子を舞うことで生計を立てていた芸人が存在しており、江戸に出る際に「何か強いインパクトが必要だった」ため、最終的には「子どもが獅子を演じる」という切り札を使ったのだ。曲芸や軽業芸などの見所が満載な伊勢太神楽が全国ですでに流行している時代で、なかなか相手にされなかったので、子ども芸に転換したとも考えられる。その後は関東地方や東北地方にまで、巡業地を広げることができた。

子どもの指導が「虐待」と認識された(明治時代)

日本各地だけでなく海外公演なども行なっていた角兵衛獅子は、明治期になり徐々に活動を制限されることとなる。明治7年8月3日に東京府明治11年7月6日に新潟県が角兵衛獅子の禁止を発表した。新潟県立文書館の資料には「学校に通う年齢の児童が勉学に励まず、粗野の芸を習わせて、体を極度に屈伸して健康を害す」などという内容が記されている。東京府は獅子業者に対して、新潟県は県民に対して布達を出した。明治27年の時点では依然として人気は根強く70人の親方がいたというが、日露戦争後の西洋的なサーカスの進出などに押されたことも相まって、大正元年には親方3人、子ども8人という状況となった。そして、大正6年には消滅に至った。

この背景にあるのが、まず明治時代の義務教育の整備や、法律に基本的人権が盛り込まれたこと、庶民生活が向上したこと、産業構造の変化などが挙げられるだろう。また、幼童を芸人として育てしかも至難の曲芸を身につけさせるというのはまさに人体の極限を目指す行為であって、これらに対して社会的批判が出てきたということであろう。江戸時代に「かわいらしい子ども芸」とされていたものが、明治維新後に「かわいそうな子ども芸」となったのは、どこか西欧文化流入と日本古来の生活文化の衰退という構図が見え隠れしているように思う。

伝統文化の保存と復活を目指す運動(昭和時代)

昭和初期といえば郷土教育が活発化しだし、角兵衛獅子に対する見方も可哀想から可愛いに転換していった時期でもあった。一度消滅した角兵衛獅子だが、昭和8年に復活することとなる。その契機となったのが、新潟電鉄敷設に功労のあった奥山亀蔵という人物の登場である。角兵衛獅子の衰退を惜しみ、まずは料亭の芸妓に着目して獅子舞の型を取り入れることを提案し、様々な人に掛け合うようになった。批判は多く飛び交ったものの、昭和11年6月には月潟の白山神社で初公開を行い、その年の夏には日比谷公会堂新潟県人会総会での披露も行なっている。

ここから保存会の活動が開始した。昭和34年には青柳良太郎村長は月潟東小学校に掛け合い、江部保治校長の理解も得て、男女13名の児童が獅子舞の稽古に参加するようになった。つまり、ここで教育機関の理解も得られ、公演は全国に広がり、昭和47年には弥彦観光ホテルにて天皇・皇后両陛下の御前で演舞も行うに至った。平成25年4月15日には新潟市無形民俗文化財に指定された。

時代が変われば芸能に対する見方が大きく変わる。そのことを非常に実感するエピソードだ。明治に壊した民俗文化を昭和に保存して復興するという大きな流れは、角兵衛獅子に限らず、民俗学の分野を学ぶとわかるように明らかなことである。

月潟まつりに行ってきた

2022年6月26日、実際に月潟まつりで角兵衛獅子を拝見してきた。月潟小学校長の言葉により、現在は「郷土芸能を伝え受け継ぐものとして、礼儀作法や言葉遣いに気をつけること、お金はあげないこと、勉強に差し障りがないこと、学校は休んで出演しないこと、お酒の出る席には出演しないことを条件に実施している」とのこと。厳しい指導はなく、子供達が一人一人役割を自覚しながらも思い思いに楽しんでいるようだ。上演演目はフルバージョンで、舞い込み、金の鯱鉾(しゃちほこ)、かにの横ばい、乱菊、青海波、水車、俵転し、獅子頭をつけた水車、人馬、唐子人形お馬乗りという演舞が行われた。

獅子舞というよりは大道芸という感覚に近く、そこに五穀豊穣や商売繁盛など祈りという要素はほとんど感じられなかった。素晴らしい芸を見せることにとことん磨きをかけてきたようにも思える。舞台に立つ子供達は古風なアイドルに見えた。人々は素晴らしい芸が飛び出すと拍手喝采し、やんややんやと会場は熱気に包まれた。担い手の子供達は入場も退場も素早く、専用車で送り迎えされていた。やはり芸能人だ。素晴らしい技芸を身につけることで、賞賛されるというかつての姿は戻っているのかもしれない。子供がかわいそうという明治期の眼差し・風潮は少なくとも一見した限りではなくなっているように思われた。

参考文献

小湊米吉『角兵衛獅子-その歴史を探る』(2000年9月)

新潟市産業振興課パンフレット『角兵衛獅子の由来』

佐渡島はなぜ「日本の芸能の縮図」なのか?獅子舞と鬼が融合した鬼太鼓を見てきた

2022年6月25日、新潟県佐渡島に行ってきた。なぜ日本海の孤島に民俗芸能は次々と集積され、芸能における日本の縮図とまでに言われるようになったのか?その理由について調べるとともに、鬼と獅子舞が融合した佐渡の民俗芸能の顔・鬼太鼓の真相に迫る。

佐渡島はなぜ、芸能のるつぼなのか?

新潟県佐渡島には、「日本の芸能の縮図」があると言われている。奈良時代から中世末期まで、流刑地として様々な文化人(記録に残るだけで70数人)が流され、現地住民との接触があったからだ。有名どころでいえば、順徳天皇日野資朝世阿弥などである。

また、江戸時代に佐渡は金銀銅が産出されるということで天領とされ、幕府の直轄地となったために、奉行や用人交代、金銀銅の輸送に関わる佐渡地役人と江戸との交流が活発化された。また、西回り航路や北前船の着船記録も多い。これらの背景から、外から文化が流入することになり、どんどん文化は島から出て行かずに蓄積したため、民俗芸能もかなり多様になったと考えられる。ここで言う民俗芸能の分類としては、神事芸能、風流、獅子舞、盆踊り、人形芝居、地芝居、能楽狂言、門付け芸、大道芸などが挙げられ、日本のほとんどの芸能分野を網羅していると行っても過言ではない。獅子舞のバラエティも豊富で、田んぼの中を突き進む一ノ宮まつりの獅子や、暴れて海に突っ込むという沢崎まつりの獅子などもある。

佐渡の芸能の始まりは現存する資料で最も古いものが1351年の長安寺文書で、久知郷の初代地頭の本間直泰の祖父・貞泰が長安寺の舞楽に対して、興行費用の補填のために田地を寄進したり、領内での舞楽の演舞を許可したりというものであった。この時の舞楽がどのような形態のものであったのかはわからないが、のちの久知八幡宮で9月15日に行われる祭礼行事である花笠踊り、小獅子舞、鬼太鼓などに影響を与えたとも言われている。また、久知郷の6代地頭の本間時泰の時に、芸才ある者に奈良春日大社の神事能、京都賀茂社の鹿舞などを習得させたという話もある。

佐渡で最も身近な民俗芸能・鬼太鼓

数ある民俗芸能の中でも、佐渡の全域に見られて最も身近な民俗芸能といえば、鬼太鼓であろう。鬼太鼓はなぜ佐渡島で流行したのだろうか?その起源ははっきりとわからないものの、延亨年間(1744~1748年)の相川まつりの絵図には鬼太鼓が描かれており、金銀山の抗夫が鬼の面をかぶって太鼓を打ったという記録が蔵田茂樹『恵美草』(1830年)、川路聖謨としあきら)『島根のすさみ』(1840年)などに散見される。このことから、佐渡の鬼太鼓は相川から発生したのではないか?とも言われている。

また、京都では公卿の山科言継卿が執筆した『言継卿記』という日記の中で、1559年正月18日に「隠太鼓」の記述があり、「隠」は「鬼」の訛りであることから、この頃にはすでに京都で鬼太鼓が2人で演じられたということが明らかにされている(後藤淑の論文『鬼太鼓』より)。

佐渡鬼太鼓は主に相川系、国中系、前浜系の3種類がある。相川系の鬼太鼓は豆をまく翁が登場するのが特徴で、相川、沢根、二宮、八幡、真野、西三川など真野湾沿岸に伝えられた。一方で前浜系は太鼓と笛に合わせて2匹の鬼が向かい合って踊るという特徴があり、地面を強く踏む反閇(へんばい)の所作がある。これは豆まきの起源でもある追儺行事の所作を連想させるほか、土地の精霊や悪霊などを踏んで抑え込む鎮魂の精神的な動作で陰陽道修験道にも関わりがある。この形態は前浜地域の松ヶ崎、多田、丸山、小倉、莚場、徳和、岩首などに伝承されている。国中系は今回訪れた新穂天神まつりのものをはじめとしてかなり数多く分布している形態だ。悪者の獅子を鬼が退治するという鬼の悪魔払いが特色となっている。この構図は石川県や富山県で流行している加賀獅子の獅子殺しに類似しているように思える。そして能登や氷見に多く見られる加賀獅子の天狗と、佐渡島の鬼太鼓の鬼は同じ役割を担っているのでは?と個人的には考えている。これに関しては鉱脈のモチーフであり佐渡では絵図として見られるムカデという存在が、富山県に存在する百足獅子と何らかの文化圏を共有していたのではあるまいか?獅子舞の頭や蚊帳のデザインから推察するに、佐渡富山県の獅子舞は似ているようにも思われる。この形態は主に国中地域に伝承されている。

この3種類に属さない鬼太鼓もある。城腰の花笠踊の中に登場する鬼太鼓において、鬼は鉱山の地下で働く者を模して、腰をおろして小刻みに足を運ぶというのだ。また、太鼓の黒い紋を見て嬉しげにバチを使う様子は、鉱脈を探し当てて穴を開ける様子を所作として芸能に取り入れた形だという。これは鬼太鼓の初期の面影を今に伝える貴重な無形文化財と言えるだろう。

獅子を阻止する鬼は何に由来するのか?新穂天神まつりの様子

6月24~25日の日程で行われる新穂天神まつり。「チョーサヤ、チョーサヤ」の掛け声とともに行われる提灯行列や神輿、そして締めくくりの鬼太鼓が行われた。興味深かったのが提灯行列や神輿がお寺や神社、お堂や交差点などで3回回るという決まりを守っていること。これは富山県魚津市で取材した行道獅子が神輿などとともにお堂の周りを回ることとどこか共通点を感じた。鬼太鼓は2頭の獅子をお堂に入れないように、黒髪と白髪の鬼が相互に対峙して、腕を高く上げるなどして獅子の侵入を阻止していたのが印象的だった。獅子殺しをせずに獅子を通行止にする発想は、富山県北部に見られる天狗と同じ役割と言えるだろう。北陸一帯に修験者か何かのネットワーク、文化圏があったようにしか思えず、この文化的繋がりと壮大なドラマに、謎は深まるばかりだった。

参考文献

佐々木高史『佐渡のまつり』(2018年10月)

両津市郷土博物館『佐渡ー島の自然・くらし・文化ー』(1997年3月)

 

 

野宿をしたくなる場所は存在すると思う

野宿なんてやりたくない!という人が大半だろう。しかし、人間を野宿へと誘引する場所がこの世には存在すると思う。そんなことを考えながら、このブログを書くことにした。

 

まずは自らを野宿へと向かわせる動機について。大学生のときは、節約したいという思いは少なからずあった。泊まるという一時的な快楽にお金を払う意味があまりわからず、他のことにお金を使いたいと思って一人旅のときには野宿をすることも多かった。

 

ただ、最近は節約はおまけという感覚になりつつある。心地よい場所でテントをはり、風の音を聞きながら、出っ張った根っこを避け、土の感覚を直に感じながら寝るということが意外と贅沢な行為に思えてくる。野宿は絶対したくないという場所と、野宿をさせてもらえてむしろありがたいという場所がある。後者はより田舎的で適度に緑があって、人の気配が多少ある場所なのだが、これをベストな形で言語化することは難しい。

 

それと、テントという人間が入れる最小単位の空間にワクワクを感じるのも大きい。完全なプライベートスペースを築き、場所を一時的に占有するといういたずら心がむくむくと湧き上がってくる。睡眠の新しいカタチ、心地よさへの探究心がこれを欲してやまないのかもしれない。

 

そのようなことを考えながら、2022年6月25日、新潟県佐渡島で3年ぶりに野宿をした。どこで野宿をしたくなったか、場所まではここで明かすことはしない。ただし、この島は少なからずテントを張って野宿をしたくなるような空間的な余白と魅力が詰まっている島だった。

 

ところで、最近は野宿の技術がなまってきたと感じる。その理由は今回、なかなか寝付くことができなかったからだ。テントがカサカサと揺れる物音が人間あるいは獣が枯れ葉を踏みしめる音に勘違いして、「襲われてしまうのか?」という妄想が頭から離れなくなり、寝付けない時間が続いた。佐渡島特有の強風がその妄想を半分手助けしていたようにも思われる。

 

あとは今回、どれだけ人気が多い場所にテントを張るかを悩んだ。近くにうす暗い場所が少しでもあると、「そこに眠る怨念が目を覚ますのではないか?」という妄想が湧いてくる。今テントを張っている場所で昔何があったのかはよくわからない。土地を直に感じる手段が野宿であるとするならば、その土地の持つ恐ろしい気配が少しでもあると敏感に感じ取ってしまうようだ。佐渡島流刑地だったので、尚更そこらへんは敏感になっていた。

 

テントを張ったのは23時半で、最終的には鳥の声で4時半には完全に目が覚めた。5時間の短い野宿だった。鳥は人間よりも遥かに早起きだ。アーアーアーなどと仲間達に呼応するように鳴いていた。なかなかに声が大きい。もう朝になったかと自覚する。鳥のフンを被りたくないという想いが湧いてきて、最終的にはテントを畳むこととなる。ここまでが野宿で考えていた一部始終だ。野宿は奥が深いので、野宿論などという研究でもしてみたくなった。