佐渡島はなぜ「日本の芸能の縮図」なのか?獅子舞と鬼が融合した鬼太鼓を見てきた

2022年6月25日、新潟県佐渡島に行ってきた。なぜ日本海の孤島に民俗芸能は次々と集積され、芸能における日本の縮図とまでに言われるようになったのか?その理由について調べるとともに、鬼と獅子舞が融合した佐渡の民俗芸能の顔・鬼太鼓の真相に迫る。

佐渡島はなぜ、芸能のるつぼなのか?

新潟県佐渡島には、「日本の芸能の縮図」があると言われている。奈良時代から中世末期まで、流刑地として様々な文化人(記録に残るだけで70数人)が流され、現地住民との接触があったからだ。有名どころでいえば、順徳天皇日野資朝世阿弥などである。

また、江戸時代に佐渡は金銀銅が産出されるということで天領とされ、幕府の直轄地となったために、奉行や用人交代、金銀銅の輸送に関わる佐渡地役人と江戸との交流が活発化された。また、西回り航路や北前船の着船記録も多い。これらの背景から、外から文化が流入することになり、どんどん文化は島から出て行かずに蓄積したため、民俗芸能もかなり多様になったと考えられる。ここで言う民俗芸能の分類としては、神事芸能、風流、獅子舞、盆踊り、人形芝居、地芝居、能楽狂言、門付け芸、大道芸などが挙げられ、日本のほとんどの芸能分野を網羅していると行っても過言ではない。獅子舞のバラエティも豊富で、田んぼの中を突き進む一ノ宮まつりの獅子や、暴れて海に突っ込むという沢崎まつりの獅子などもある。

佐渡の芸能の始まりは現存する資料で最も古いものが1351年の長安寺文書で、久知郷の初代地頭の本間直泰の祖父・貞泰が長安寺の舞楽に対して、興行費用の補填のために田地を寄進したり、領内での舞楽の演舞を許可したりというものであった。この時の舞楽がどのような形態のものであったのかはわからないが、のちの久知八幡宮で9月15日に行われる祭礼行事である花笠踊り、小獅子舞、鬼太鼓などに影響を与えたとも言われている。また、久知郷の6代地頭の本間時泰の時に、芸才ある者に奈良春日大社の神事能、京都賀茂社の鹿舞などを習得させたという話もある。

佐渡で最も身近な民俗芸能・鬼太鼓

数ある民俗芸能の中でも、佐渡の全域に見られて最も身近な民俗芸能といえば、鬼太鼓であろう。鬼太鼓はなぜ佐渡島で流行したのだろうか?その起源ははっきりとわからないものの、延亨年間(1744~1748年)の相川まつりの絵図には鬼太鼓が描かれており、金銀山の抗夫が鬼の面をかぶって太鼓を打ったという記録が蔵田茂樹『恵美草』(1830年)、川路聖謨としあきら)『島根のすさみ』(1840年)などに散見される。このことから、佐渡の鬼太鼓は相川から発生したのではないか?とも言われている。

また、京都では公卿の山科言継卿が執筆した『言継卿記』という日記の中で、1559年正月18日に「隠太鼓」の記述があり、「隠」は「鬼」の訛りであることから、この頃にはすでに京都で鬼太鼓が2人で演じられたということが明らかにされている(後藤淑の論文『鬼太鼓』より)。

佐渡鬼太鼓は主に相川系、国中系、前浜系の3種類がある。相川系の鬼太鼓は豆をまく翁が登場するのが特徴で、相川、沢根、二宮、八幡、真野、西三川など真野湾沿岸に伝えられた。一方で前浜系は太鼓と笛に合わせて2匹の鬼が向かい合って踊るという特徴があり、地面を強く踏む反閇(へんばい)の所作がある。これは豆まきの起源でもある追儺行事の所作を連想させるほか、土地の精霊や悪霊などを踏んで抑え込む鎮魂の精神的な動作で陰陽道修験道にも関わりがある。この形態は前浜地域の松ヶ崎、多田、丸山、小倉、莚場、徳和、岩首などに伝承されている。国中系は今回訪れた新穂天神まつりのものをはじめとしてかなり数多く分布している形態だ。悪者の獅子を鬼が退治するという鬼の悪魔払いが特色となっている。この構図は石川県や富山県で流行している加賀獅子の獅子殺しに類似しているように思える。そして能登や氷見に多く見られる加賀獅子の天狗と、佐渡島の鬼太鼓の鬼は同じ役割を担っているのでは?と個人的には考えている。これに関しては鉱脈のモチーフであり佐渡では絵図として見られるムカデという存在が、富山県に存在する百足獅子と何らかの文化圏を共有していたのではあるまいか?獅子舞の頭や蚊帳のデザインから推察するに、佐渡富山県の獅子舞は似ているようにも思われる。この形態は主に国中地域に伝承されている。

この3種類に属さない鬼太鼓もある。城腰の花笠踊の中に登場する鬼太鼓において、鬼は鉱山の地下で働く者を模して、腰をおろして小刻みに足を運ぶというのだ。また、太鼓の黒い紋を見て嬉しげにバチを使う様子は、鉱脈を探し当てて穴を開ける様子を所作として芸能に取り入れた形だという。これは鬼太鼓の初期の面影を今に伝える貴重な無形文化財と言えるだろう。

獅子を阻止する鬼は何に由来するのか?新穂天神まつりの様子

6月24~25日の日程で行われる新穂天神まつり。「チョーサヤ、チョーサヤ」の掛け声とともに行われる提灯行列や神輿、そして締めくくりの鬼太鼓が行われた。興味深かったのが提灯行列や神輿がお寺や神社、お堂や交差点などで3回回るという決まりを守っていること。これは富山県魚津市で取材した行道獅子が神輿などとともにお堂の周りを回ることとどこか共通点を感じた。鬼太鼓は2頭の獅子をお堂に入れないように、黒髪と白髪の鬼が相互に対峙して、腕を高く上げるなどして獅子の侵入を阻止していたのが印象的だった。獅子殺しをせずに獅子を通行止にする発想は、富山県北部に見られる天狗と同じ役割と言えるだろう。北陸一帯に修験者か何かのネットワーク、文化圏があったようにしか思えず、この文化的繋がりと壮大なドラマに、謎は深まるばかりだった。

参考文献

佐々木高史『佐渡のまつり』(2018年10月)

両津市郷土博物館『佐渡ー島の自然・くらし・文化ー』(1997年3月)

 

 

野宿をしたくなる場所は存在すると思う

野宿なんてやりたくない!という人が大半だろう。しかし、人間を野宿へと誘引する場所がこの世には存在すると思う。そんなことを考えながら、このブログを書くことにした。

 

まずは自らを野宿へと向かわせる動機について。大学生のときは、節約したいという思いは少なからずあった。泊まるという一時的な快楽にお金を払う意味があまりわからず、他のことにお金を使いたいと思って一人旅のときには野宿をすることも多かった。

 

ただ、最近は節約はおまけという感覚になりつつある。心地よい場所でテントをはり、風の音を聞きながら、出っ張った根っこを避け、土の感覚を直に感じながら寝るということが意外と贅沢な行為に思えてくる。野宿は絶対したくないという場所と、野宿をさせてもらえてむしろありがたいという場所がある。後者はより田舎的で適度に緑があって、人の気配が多少ある場所なのだが、これをベストな形で言語化することは難しい。

 

それと、テントという人間が入れる最小単位の空間にワクワクを感じるのも大きい。完全なプライベートスペースを築き、場所を一時的に占有するといういたずら心がむくむくと湧き上がってくる。睡眠の新しいカタチ、心地よさへの探究心がこれを欲してやまないのかもしれない。

 

そのようなことを考えながら、2022年6月25日、新潟県佐渡島で3年ぶりに野宿をした。どこで野宿をしたくなったか、場所まではここで明かすことはしない。ただし、この島は少なからずテントを張って野宿をしたくなるような空間的な余白と魅力が詰まっている島だった。

 

ところで、最近は野宿の技術がなまってきたと感じる。その理由は今回、なかなか寝付くことができなかったからだ。テントがカサカサと揺れる物音が人間あるいは獣が枯れ葉を踏みしめる音に勘違いして、「襲われてしまうのか?」という妄想が頭から離れなくなり、寝付けない時間が続いた。佐渡島特有の強風がその妄想を半分手助けしていたようにも思われる。

 

あとは今回、どれだけ人気が多い場所にテントを張るかを悩んだ。近くにうす暗い場所が少しでもあると、「そこに眠る怨念が目を覚ますのではないか?」という妄想が湧いてくる。今テントを張っている場所で昔何があったのかはよくわからない。土地を直に感じる手段が野宿であるとするならば、その土地の持つ恐ろしい気配が少しでもあると敏感に感じ取ってしまうようだ。佐渡島流刑地だったので、尚更そこらへんは敏感になっていた。

 

テントを張ったのは23時半で、最終的には鳥の声で4時半には完全に目が覚めた。5時間の短い野宿だった。鳥は人間よりも遥かに早起きだ。アーアーアーなどと仲間達に呼応するように鳴いていた。なかなかに声が大きい。もう朝になったかと自覚する。鳥のフンを被りたくないという想いが湧いてきて、最終的にはテントを畳むこととなる。ここまでが野宿で考えていた一部始終だ。野宿は奥が深いので、野宿論などという研究でもしてみたくなった。



凧がケンカする理由とは?世界凧博物館で考えた、獅子舞との共通点「村境でぶつかり合う」真意

先日、滋賀県東近江市の「世界凧博物館 東近江大凧会館」を訪れた。世界の凧、約600点が展示され、その様は圧巻であった。展示で特に気になったのが、ケンカ凧の存在である。これは村境で衝突する獅子舞の話と通じるものがあると直感し、意外な気づきをもたらしたことから、この記事を書こうという衝動に駆られた。

東近江大凧会館

100畳の巨大な東近江大凧

隣村同士、凧はケンカするものだ

滋賀県東近江市の東近江大凧、静岡県浜松市の浜松凧まつり、新潟県三条市の三条六角凧、愛媛県五十崎町の五十崎大凧合戦(いずれも5月に開催)、あるいは韓国の合戦凧をはじめとした世界中の凧の数々をみても、凧同士をケンカさせて相手の糸を切り合うという行為が見られる。

なぜ、合戦凧が生まれたのだろうか?五十崎大凧合戦の場合はかなり詳細な伝承が伝わっている。江戸時代、5月5日の男子の出生の初節句の祝いで、一族郎党の中で凧揚げを実施していたようだ。しかしある日、風のいたずらで他の凧と糸がもつれ合い、しまいにこれが凧合戦なるものに発展したという。明治時代には村同士の凧合戦になっており、五十崎町と天神村が小田川を挟んで陣を構えて向かい合い、男児の名前、家号の頭文字、商号などを掲げて争いあった。争点は「カガリ」と呼ばれる糸に仕込んだ刃物で相手の凧を切り合うという勇壮さにあるそうだ。

節句の家族的な凧揚げ行事が地域行事に発展したという流れや、凧合戦が始まった背景に関しては、概ね似たような伝承が全国各地にあるように思う。

凧がケンカする背景は、鬱憤ばらしにあり

この合戦凧をする背景として、村民の「鬱憤ばらし」であることは大方間違いない。これは大きな括りでいうと、祭りの機能といっても良いかもしれない。三条六角凧の場合は、わかりやすく日頃のストレスを晴らすために凧合戦を始めるようになったなどと伝承が伝わっている。これは、柳田國男の『獅子舞考』(『柳田國男全集18』,筑摩書房,1990年)にあるように、村同士の喧嘩あるいは鬱憤ばらしとして、獅子舞が村境で激突して時折耳がもげてしまうことがあったという話と似ている。

現代の憂さ晴らしは、TwitterをはじめとしたSNSでかなり手軽に行われているように思うが、昔はそのようなはけ口があったわけではない。まして江戸時代といえば洪水や飢饉、大地震など度重なる災害に翻弄されながらも、安定しない農作物の収量やそこからくる人々の貧しさを前提として考えれば、我々が当たり前だと感じる娯楽が贅沢と考える人も多かったはず。江戸幕府の質素倹約の方針に逆らって、日頃の鬱憤を晴らしたかった人々もたくさんいただろう。

軍事的な衝突を避けるためだった!?鬱憤ばらしの真実

この鬱憤ばらしはおそらく、軍事的な衝突を避ける民衆の知恵だった可能性がある。

民俗芸能の分布は村境に集中するということを以前、以下の記事で書いた。その理由として隣村から情報を得て、民俗芸能のトレンドなるものを把握しながらも、自らの地域内で独自の芸能としてアップデートしていくのに合理的であったからと考えられる。

一方でこれは、民俗芸能の核心部を隣村に教えてはならないという地域的アイデンティティとのせめぎあいの上に成り立つものである。常葉学園短大講師吉川裕子氏『民俗芸能における鹿踊』によれば、遠州の奥地にある西浦田楽について、団体の中での役割がそれぞれ決められており、それを隣の人に教えないという歴史的風習があったという。これは東近江大凧の起源と似たものがある。東近江大凧は3つの村(中野・芝原・金屋)の大凧技術の競い合いが発端となり、技術を他村に漏らさない秘密主義と大凧を短年で燃やす文化を作り出したそうだ。

ina-tabi.hatenablog.com

この話を聞いて忍者がスパイとして活躍する戦乱の世で、情報戦によってのし上がっていく戦国大名を思い浮かべるのは僕だけであろうか。自分たちの村の最高の祭りの形を表現して鬱憤を晴らしていくという行為は、ある意味、他村との争いあるいは喧嘩において芸能分野での勝利に他ならない。もしくは、それが芸能の伝播という形で他村の精神的根幹を染め上げる行為だったかもしれない。

 

そう考えると、鬱憤ばらしは軍事的な衝突を擬似的に体験し、祭りというユーモアによって解消していくような意味合いさえも感じざるを得ないのである。発想を変えれば、ガチな喧嘩をするんじゃなくて、ルールに則った格闘技や相撲やらスポーツを地域間で行っているイメージだ。この解消法が戦乱の世を教訓として立ち上がった江戸幕府という長寿政権のもとで、数多く実践されていたと考えると感慨深い。祭りは人と人とを和解させる平和に貢献する手段とも言えそうだ。

素朴な獅子の昔の姿とは?秋田県五城目町の獅子頭の謎について

先日、秋田県五城目町神明社で、3つの獅子頭を見せていただいた。総じて、五城目の獅子舞にはなぜ耳がないのか?という疑問が湧いてきた。僕の推測としては、耳が取られたか、耳取り合戦を避けるために獅子の耳を取り付けなかったかの2択だと思う。さて、真実はどうであろうか?

1つ目の獅子は神明社の拝殿に保管されていた。黒い顔をして金色の目をしている。角がなく、丸いものが取り付けられていた。これはネパールの獅子の頭に乗っている宝珠によく似ているような気がする。氏子の家を希望者のところのみ5月に回る風習があり、地域の家々をすべて門付けして回るという風習はない。また、5月の春祭りの神輿の行道という形で、獅子を持って歩く風習はあるようだ。

また、残り2つの獅子は宮司さんの家に代々伝わっているものを持ってきていただいた。色が塗られていないか、禿げたか定かではないが、木がむき出しの素朴で素晴らしい形状であった。そのうち1つは、目の周りしか残っておらず、かろうじて原型が見て取れる状態である。舞に使ったものか、祠の御神体か、何に使われたものかは全くわからなかった。



酒田市はなぜ獅子の町になったのか?疫病が発生しやすかった構造とは

酒田市は獅子舞の街だ。酒田まつりでは大獅子が練り歩き、神輿には行道の獅子がつき、ステージパフォーマンスでも獅子舞が登場する。何かと獅子舞が出現しがちなこの街において、獅子舞は街の特質とどのように結びついているのだろうか?そのようなことをふと思って色々と調べてみたところ、なんと「疫病が発生しやすい街だった(過去形)」という性質が浮かび上がってきた。2022年5月20日に酒田まつりの本祭を訪れて考えたことをここに記す。

酒田市の獅子舞

酒田市の民俗芸能に占める獅子舞率は特筆すべきである。なんとその割合が75%というのだ。全部で45件が伝来し、獅子舞の奉納が始まった時期としては江戸時代が22件、明治時代が20件、大正時代が3件ということで、江戸時代と明治時代が圧倒的に多い。

この内、明治時代の20件は全てコレラウイルスの悪疫を退治するために始まったということは特筆すべきである。酒田においてコレラウイルスが流行したのは、明治12年、15年、19年から21年だった。これらの年に村から村へと獅子舞が伝えられていったようである。なぜ酒田がコレラウイルスに対して敏感であったかといえば、当時は陸上交通が未発達なため、日本屈指の港町で人と物資の交流が盛んな土地であったからだ。海岸線に接する農村部も例外なく流行病を恐れたそうである。つまり、コレラウイルスという疫病が獅子舞の始まりになったというのは興味深い。現在、新型コロナウイルスが流行する中で、密になるからということで獅子舞は休止して廃れるばかりである。しかし、昔は逆に獅子舞をやることが疫病の退散に繋がると考えたわけだ。このような事例は、全国的にはやはり港町に多く見られ、2021年秋に取材した石川県加賀市橋立地区も明治時代のコレラウイルスの流行が元で白い獅子頭を使った獅子舞を開始したという話をされていた。

 

▼酒田まつりに登場した亀ヶ崎獅子舞

酒田まつりの大獅子の起源

現在の酒田まつりの拠点になっている日枝神社は、もともと明治の神仏分離後にこう呼ばれ始めた。その前までは山王権現と山王社だった。その山王社が起源の違いから上社と下社に分れており、1646年に上社の御神木を下社に移したことをきっかけに、2つの社の祭りを1つにまとめ、酒田の祭りとして始めたのが山王祭の始まりのようだ(酒田まつり公式ホームページなどに「山王祭の起源は1609年」と書かれている場合もあり真偽は定かでは無い)。酒田市で祭りに対する大きな転換点になったのが昭和51年の大火である。大風によって未曾有の被害が生じ、そこからの復興を祝す形で山王祭が行われた。その復興の象徴として大きな赤と黒獅子頭を祭りの中心に持ってきたのだ。この山王祭が今は酒田まつりとも呼ばれ、酒田の中心的な祭りになっている。

なぜ酒田の獅子舞は2頭1組?

また、酒田市の獅子舞の特徴として、2頭で1組という形で作られる場合が多い。これは大抵の場合、赤と黒で対になる。全国的にみればオスとメスだとか、親と子だとか、様々な言われ方がするが、酒田ほど2頭で1組が徹底している地域というのも珍しい気がする。

この理由として、まずオスとメスの意識があったからと言われている。酒田市では伝統的に、黒塗りで耳の立った雄獅子を陽、赤塗りで耳の垂れた雌獅子を陰と考え、雌雄揃うことで悪病災害厄除けの霊獣として信仰されてきた。酒田の飾り獅子の文化は約200年前からと言われており、意外と歴史がかなり古いわけではない。この考え方はおそらく、日本全国の黒い獅子と赤い獅子の信仰に概ねなぞらえて考えることができるものであろう。

それに加えて、「兄弟獅子」という考え方があったというのは重要な点かもしれない。明治初期に獅子舞が村から村に伝えられたとき、獅子頭を作る大木が必要とのことで1つの木から2つの獅子頭を作り、「兄弟獅子」と呼ぶ例があったようである。例えば中星川村が兄貴分、上安田村が弟分とされ、たまたま中星川村の方が根本に近い部分の木材を使ったため、上安田村より完成品が少し大きくなったという話まで残されている所もあるようだ。

 

▼酒田まつりの雌獅子

▼酒田まつりの雄獅子

実際に酒田まつりを訪れて感じたこと

とにかく4体の大獅子が巨大だった。あまりにも目立つものだから、やはり祭りの最大の見せ場にもなりうる。子どもが「お獅子きた!」などと喜んだり、逆に怖がったりする様は対照的に感じられた。そういえば、権現様の小さくて黒い獅子頭の方が怖がる子どもは多かったような気がする。酒田にいると獅子頭に見慣れるためか、道路を走る車さえも獅子頭のように思えてきてしまう。とりわけサイドミラーが酒田の獅子頭の耳に似ている気がする。あと、獅子頭を大きな団扇で仰ぐ役の人がいるのだが、あれは写真撮影の観点で非常に難しさを生み出している。どうしても獅子頭を撮ろうとしても大きな団扇で仰ぐ役の人が写ってしまって、ベストショットを撮るのに時間がかかってしまった。まあ、その難しさなんかも含めて獅子頭をずっと観察してついて歩くのはとても楽しかった。

酒田まつりが示す獅子舞の可能性

やはり酒田まつりが特筆すべきは、港町こそ厄の流入口であるということを示している。つまり開けた雑多な人間が入り乱れる街には何かしらの厄払い行動が生まれやすいということかも知れない。しかも人とモノの出入りにより儲かった貿易港である。祭りが生まれる必然性を感じるし、そこに獅子舞的精神の萌芽を感じるのだ。

 

参考文献

酒田民俗学会『酒田民俗4号』(平成9年11月)

五十嵐文蔵『庄内地方の祭と芸能』(平成10年3月)

獅子舞の爆発的ヒットの背景とは?富山県・新湊の春祭りを訪れ、歴史的展開から考える

富山県から獅子舞と地域の未来を考えたい。2022年5月14日、富山県射水市の新湊を訪れた。新湊の春季祭礼を見に行ったのと、高岡市を拠点に獅子舞文化を盛り上げるwebサイト「獅子魂」の発起人の方にお話を伺った。富山県は獅子舞が盛んなので、包括的に地域を読み解く指標にもなりうる稀な土地であると感じる。つまり、獅子舞を盛り上げることが地域を盛り上げることでもあると解釈できる土地だ。そして、獅子舞のこれからを議論することが地域の未来にとって非常に重要な意味を持つ土地でもある。それでは富山を訪れて考えたことを振り返っていきたい。

富山県はなぜ日本一の獅子舞大国?

富山といえば、獅子舞伝承数が日本一という話もある。これは平成6年の富山県教育委員会の調査で1170という伝承数が明らかになって以降に言われ始めたことだ。「獅子魂」の発起人である大島さんのお話だと、「春や秋のお祭りで隣町が楽しそう!という気持ちで、素朴で素直な気持ちから広まっていったのではないか」とのこと。確かに娯楽がない時代に、お酒飲んで、美味しいもの食べて、馬鹿騒ぎするという楽しさが元で爆発的に広がったのかもしれない。これは良いものをどんどん広めていこうというミーハー的な県民性によるものだと感じる。富山県内で最も獅子舞の伝承数が多いのは高岡。一方、氷見は盛んだが年々人口減少の影響で数が減っているのが顕著のようだ。また、富山市には空襲が原因で獅子舞が少ないので、なかなか獅子舞を富山県として推進していくという動きがあまりない。そのため、逆に自治体単位や有志が獅子舞を盛り上げていくという雰囲気がある。

新湊の獅子舞の歴史

新湊の獅子舞は技術、熱量ともに日本全国でも有数の土地と考えてよいだろう。港町ならではの活気と荒々しさとともに、各々の町内がプライドを持って「富山県で1番」だと思ってやっているので、なかなか良い意味でまとまらない風土がある。一方で各町内の演目をよく見てみると、似通っているところも多い。基本構成として獅子頭は黒が圧倒的に多く、獅子に対峙する天狗、キリコなどはどこも共通している。これは富山県民の良いものを徹底的に広め取り入れるという性質から来るものだろう。

この地域の獅子舞の始まりはどこからだろうか?新湊市教育委員会『新湊の獅子舞』(平成7年3月)によれば、昔、放生津で大火があったときに、東町の光明寺と荒屋の光山寺との間に、新規町という新しい町を作り、火事が起きないようにという願いを込めて、お宮を建ててその慶讃行事に新湊で初めて獅子を出すことになったという。その時、獅子舞を演舞する中心人物になったのが、魚商いの安さんという方。商売の暇を見つけては能登や加賀に獅子舞研究に出かけたようだ。安さんは天狗役となり名人技を習得したため、加賀藩の剣術者が手合わせを願い出るほどに、大きな話題をよんだという。

また、富山県教育委員会富山県の獅子舞-富山県内獅子舞緊急調査報告書-』(昭和54年3月)によれば、放生津の獅子舞の元祖はやはり新規町のあたりのようだ。新規町は現在の新湊市八幡町2丁目にあたり、そこにある秋葉神社の縁起では、西国で行われていた獅子舞が船乗りによって伝えられ、放生津八幡宮にて奉納されたという内容の記録が残っている。この獅子は現在神輿の露払い役として10月1日に登場するものだ。獅子方の道具箱には「文政十一歳子八月改」(1828)の紀年銘があり、これより以前に獅子舞が伝来していることが伺える。以上のように始まりには諸説あるものの、現在、新湊市には約80の獅子舞が伝来している。

総じて、全国的に考えれば、新湊の獅子舞の歴史は新しいと言えるかもしれない。考え方を変えれば、立山修験が始まった一千年以上前にも獅子舞はあったかもしれないが、それが変化して、原形をとどめておらず、獅子舞の歴史はどんどん塗り替えられているという風に捉えることもできる。そういう意味でとにかく良いものを取り入れるミーハーな県民性が伺える。また、この特徴をよく表している事例としてたいまつを持つ獅子舞の流行ぶりにも注目すべきである。なぜか新湊の獅子舞はタイマツをもち、火を使ったスリリングな技が流行しつつある。おそらく修験か源平合戦倶利伽羅峠の戦いの影響だろうが、始まりは六渡寺という地域らしい。そこから一気に広まり、今では新湊の全域でタイマツを使った演舞が見られる。

獅子魂から学ぶ、日常的なところに潜む獅子舞意識

獅子魂に学んだのは日常の中から何かを改革することの必要性である。もはや祭りは担い手たちだけのものではない。祭りマニアだけが盛り上がるものでもなく、地域としてそれを受け継がねばならない。そこには土地の資源があり、それを元に生み出した観光業やグルメ、地場産業などと獅子舞が常に結びつくような存在でなければいけないのだと感じる。それは獅子舞が地域単位で受け継がれる存在であり、地域をよりよくしていくものであり、その土地に潜む厄を払い幸せをもたらす存在であるからである。そのような本質的な意義を語ることで、獅子舞はやっと地域のものになる。

興味深かったのは、獅子舞の担い手を「獅子メン」「獅子女」などと呼んでいるというお話。獅子の担い手たちは祭りの衣装を纏うとなぜか粋な存在になる。細い人も太った人も、なぜか誇らしく感じられる。そういう日常には見られないギャップのようなものが立ち現れる。そこに名付けをすることで、獅子というものが地域の人々の意識の中に醸成されるのだ。また、「獅子めし」もそうである。獅子舞の時に食べられる食事は全部、獅子めし。なるほど、獅子めしと呼び始めれば、獅子舞がより身近になってくる。呼び方を少し工夫するだけでも、獅子舞がより身近に感じられ、その必要性が生まれてくる。言葉の持つ力って本当にすごい。

この獅子舞意識を日常に潜ませるという行為は、富山県内では様々なところに見られる。高岡-新湊を結ぶ路面電車万葉線は、2020年から獅子舞のデザインの列車を一両走らせており、それを「獅子舞トラム」と名付けている。また、氷見市のZONAというカフェではアイスに獅子の顔を型どったモナカが付いてくる。そして氷見市の小島ダンボールさんはダンボールで手作りできる獅子頭を販売している。このように、祭りだけでなく、富山県民が日常的に獅子舞に愛着を持てるような瞬間が日常に溢れているのである。

歴史的展開に、富山の獅子舞を位置付ける

考えてもみれば、獅子舞の文化は歴史的にどのように醸成されてきたのだろうか?もともと飛鳥時代奈良時代平安時代までは、確実に獅子舞は宗教にくっついていく形で広まった。鎮護国家思想のもとで全国にお寺ができ仏教が普及して、その仏教行事の中に行道の獅子舞というものが組み込まれていたはずだ。鎌倉・室町時代以降はものづくりの観点から獅子舞の普及が始まった。綿産業の勃興により獅子舞の胴幕が普及したし、彫り師たちが仏像を掘る側で獅子頭も彫りだした。

獅子魂のようにいわゆる広告業的な視点から獅子舞が爆発的に普及したのは江戸時代以降だろう。伊勢神宮御師たちが伊勢大神楽をしながらお伊勢参りを全国的に勧めていった時に用いたのが「伊勢暦」であり、毎日の時間感覚を把握するという極めて日常的な行為を庶民的に普及させることに成功した。あれは伊勢のお札とともにかなり珍重されたものだし、伊勢講を作って田畑を耕して経済的な潤いを作りお伊勢参りをさせるという極めて日常生活的なサイクルをも作り出していた。これは伊勢大神楽という非日常的な祭り要素が日常的なその他の行為に紐づいていたことを示しており、したたかな御師たちの広告代理業だか旅行代理店だかよくわからない特殊な活動が人々の意識を根底から変えていった一つの大きな事例だろう。

ただし、現在の富山県の動きというのはそこまで中央集権的祭祀に基づくものではなくて、お好きにどうぞ精神から各地域の祈りみたいなものが珍重され、ボランティアから始まる地域活動ともいうべきか。ある意味ゆるい意識の醸成の仕方だと感じる。獅子魂の活動というのも仕事で利益を追求するものではなく、有志の立場で地域に関わるというスタンスを保っている。これこそが「伝統文化の継承には不可欠なこと」であり、獅子舞の歴史が長いように、長いスパンでできることを少しずつやっていくことが大事なのだと、あくまでも控えめな姿勢が少し見え隠れしているのが面白い。

これはトップダウン的に思想が広まったのではなくて、隣町がやっているから楽しそうだし、自分たちもやってみようかという極めて内発的な動機と横の繋がりによって広がっている。町同士のコミュニケーションの活発さこそが、富山県を獅子舞王国にした一方で、超伝統的な獅子舞ではなく比較的新しく上書きされやすい獅子舞であることをも示唆している。だから、超個性的な獅子舞とか超古いみたいな獅子舞が少ない。これはおそらく、富山県という比較的湾状で平野的な土地が多い場所であるからこその特徴であり、氷見の獅子舞が五箇山まで伝わっちゃうというスピード感とか移動距離とか、無線LAN飛びまくっているみたいな移動の活発さを感じざるを得ないわけである。

大事な飼いキツネを神の国に送る「イオマンテ」の真意とは? 35年前の貴重映像とともに考えた

東京・東中野ポレポレで、2022年4月30日より、「チロンヌプカムイ イオマンテ」という映画の放映が始まり拝見してきた。北海道の大地で受け継がれてきた、イオマンテという幻の儀礼の映像が35年の時を経て公開されたのだ。これよりネタバレを含むので、興味のある方のみ、読んでいただきたい。


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イオマンテとは?

まずイオマンテとは何かという話である。我が子のように大事に育てた動物を殺して、たくさんの土産物を持たせて神の国(カムイ)に送り返す、というのがこの儀式の簡単な流れである。ここで送られる動物は熊である場合が多いが、今回の映画ではキタキツネが送られていった。この儀礼を行う真意は、カムイに送られる動物が生前に人間界で多くのもてなしを受けたことで、カムイに行った時に人間界の素晴らしさをたっぷりと語るため、他の動物たちがまた人間界を再び訪れてくれるという循環的な思想に基づいている。

今では動物愛護などの観点からイオマンテに反対する意見も多く、1955年には北海道知事が野蛮な儀式として事実上禁止したものの、2007年には撤回されている。ただし、現在、イオマンテを実施している村は存在しないと言っても良い。このイオマンテの禁止は和人とアイヌ人との同化政策の中で消失した貴重なアイヌ文化とも言える。

食肉加工プロセスに蓋をする

このイオマンテの問題は、現代に生きる私たちが蓋をしてきた食肉加工プロセスの問題とも深い関わりがあるように思えてくる。江戸時代以降、食肉加工の末端を担ったのは、えた・ひにんと呼ばれた下層階級の人々であった。その中でも動物を殺める役割を担ってきた人々はごくわずかであり、大多数はどのように動物を殺害し食卓に並ぶかを知らない。スーパーで人工の容器に入れられた切り身を購入し、それを調理することくらいしか経験しないのだ。これは日本人の清浄なる仏教的意識とも結びついており、動物を殺める行為がなぜか野蛮なことにすり替わってしまった農耕社会以降の思想とも言える。

儀礼は徐々に外部化する

ここからさらに議論を広げていこう。稲作や仏教の伝来以前、縄文時代に行っていた狩猟文化において、イオマンテのような儀礼は日本全国で見られたはずだ。長野県の諏訪大社で春に行われる御頭祭では鹿の首75頭を神に捧げる儀礼があった。これは今、剥製を捧げるという儀礼に変わってしまったが、昔は毎年鹿を捕まえて殺すことから儀礼が始まっていたのだろう。

これが日本古来の儀礼であるならば、もしかすると神社は獣を神に捧げる場所であったのかもしれない。極端なことを言えば、最初期は獣ではなく人間の子供を捧げていたのだろう。これが徐々に儀礼として弱まり、人間の子供→大事に育てられた獣→狩猟によって獲得した獣→獣の剥製ときて、最終的には「獅子頭」になったと考える。これは自分の身内から徐々に関わりのないものとして象徴化、あるいは外部化されていくプロセスのようにも思える。

現代人が発明した獅子舞という芸能

なぜ獅子頭は開発されたのか?獅子頭は元々獅子舞に使う祭り道具であり、この起源を辿ると生命との関わりが減った文明人が、生命と接続する術として編み出した芸能であるという側面を持つ。だから、獅子舞も最初は実際の鹿などの首と毛皮を身につけた人間が舞うような芸能であったはずだ。獅子舞は日本全国47都道府県で継承され、日本で最も多い民俗芸能と言われる。獅子舞の分布域を見るに、その古層にはイオマンテのような芸能の息遣いを感じることができる。

獅子舞が全国有数の数を誇る石川県のある旅館に関する興味深い話を聞いたことがある。昔、ホテルのオーナーが猟師をしており、ある日親熊を仕留めたそうだが、子熊は連れて帰って大事に育てたそうだ。子熊は誰もが鑑賞できる檻に入っており、学校給食を携えた小学生が遊びにきて、餌をあげることもあったそうである。しかし、いつの日か子熊はいなくなり、その檻が置かれていた跡だけが今でも残っているという。この話を聞いた僕は、短絡的と言えるかもしれないが、これは一種のイオマンテのような儀礼の名残ではあるまいかと推測した。

先祖への感謝と継承の義務

それはともかく、儀礼の外部化には、民俗芸能の簡略化と同じような思考が働いているように思える。つまり、これは儀礼や民俗芸能を継承していくことで、自分たちの地域、あるいは先祖の意思を皆で受け継いでいこうという地域社会の伝統というものが生まれ、その継承をどのように実現するかというプロセスの中で生まれた工夫であったはずだ。

ただし今回の映画の中には、本心では儀礼を継承したくないがやらざるを得なくて、村を離れたい意思をなかなか家族に伝えられない子どもたちの姿が印象に残った。35年経った今、彼らは土地を離れ、都会で暮らすことを選んだようである。自分の肉体や精神は親と大地によって育てられきたという側面があるが、これは先祖が築いてきたイオマンテに象徴される循環型社会からの恩恵に感謝するというよりはむしろ遠ざける行為とみなされても仕方がない。しかし、これは現代の私たちが行ってきた日本という国家の統一性と秩序の形成、ライフスタイルの変化など、複合的な要因がそうさせたといっても過言ではないだろう。ここに大きな葛藤が生まれ、伝統を継承しなかった自分に対する村八分的な犠牲をもたらすのである。

飼い犬を神に捧げることはできるか?

イオマンテは現在、断絶しているものの、これと似たような風習が中国に残っている。僕は2017年に中国貴州省を旅した際に、飼い犬を犬鍋として食す祭りに出くわした。地域住民は各家庭皆、飼い犬を捌き、淡々と犬鍋を作り高価な値段で振る舞うのである。これはカムイに動物を送るという行為とは異なるが、大事に育てた動物を殺めて捧げる点で、似たような儀礼であるように思える。犬をペットとして飼う多くの現代日本人にとって理解しがたい行為であろうが、これは貴州省の人々にとって当たり前の行為なのだ。こう考えれば、世界的には中央政権の支配がなかなか十分に及ばない秘境的な土地において、イオマンテは脈々と受け継がれているようにも思える。

イオマンテが現代に託すメッセージ

我々はイオマンテから何を学ぶことができるのだろうか?イオマンテという儀礼を駆逐した先に、どのような未来を築くべきかは想像を超えているため、熟考していきたい。ただ、確実に言えるのは、我々は大地の恩恵を受けており、その大地は今アスファルトの下に眠っているということだ。我々が築いてきた都市はこの大地という野生を覆い隠し発展してきたが、想像を超えた災害などの野生に打ち負かされることもある。まだまだ人間は未熟だ。土に触れるという行為を大事に、大地の声に耳を傾けるという姿勢をさらに強く意識していきたいと感じた1日であった。