【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 別所町(追加)

2022年1月27日

11:00~ 別所町

「獅子舞を習い創作して、町を1つに」

別所町の獅子舞は新しい。漆器の町を1つにするために祭りを立ち上げ、その中で獅子舞も始まった。産業の結びつきの強い山中から獅子舞を習い、そのまま自分のものにするのでは無く、太鼓のリズムも舞いもオリジナルの形で創作した。自分の町らしさについて考えさせられる素晴らしい取材だった。

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獅子舞の始まり

平成15年9月に初めて獅子舞が行われた。それに先立って同年春の総会で獅子頭、笛、幕の購入が決定、7月19日に白山神社の奉納祭で獅子頭の奉納が行われた。本番は9月18日の第3回「別所いきいき祭り」とその前日である。「いきいき祭り」のネーミングの由来は、別所町が住み良い活気ある町になるようにと祈願するもので、平成12年に始まった秋祭りだ。実施背景は、別所町が漆器の町であるものの、近年は衰退しており、町が1つになり盛り上げていこうという考えのもと始められた。また、別所町には自衛消防隊はあったが青年団という組織が無くてそれを立ち上げたいという考えもあり、まずは若者を集めようといきいき祭りを立ち上げる前に「よさこい」を始めたことがあった。すると男子よりも女子が多く集まったが、その中の数少ない男子を集めたいということになった。よさこいの中の数少ない男子の有志を集めて、区長に獅子舞をしたいと相談をしたところ、快く受け入れてもらい予算がついた。つまり、いきいき祭りが始まる前から獅子舞を実施したいという想いはあり、平成15年には念願の獅子舞が実現したという流れだった。平成15年秋に向けて、祭り道具の新調は知田工房の知田重吉さんと中野神祭堂に頼んだ。別所いきいき祭りはその後も毎年文化祭も兼ねて敬老の日に行われている。この敬老の日の前日含めて2日間獅子舞を行う。

 

獅子舞を習い創作した

獅子舞を習ったのは、山中の青年団からだ。別所町の漆器は山中由来であり、現在この地域に住んでいる人は昭和30年代以降の漆器問屋の進出と漆器団地の形成を背景として、山中方面から引っ越してきた人が約3分の2とも言われる。そのような繋がりの中で、獅子舞が伝えられた。獅子舞の指導者は当時、獅子舞の担い手経験があった元山中町民で蒔絵師の小林正雄さん(63)である。5月中旬から週3日程度、町民会館に集まり、練習を実施した。また、山中の獅子舞をそっくりそのまま習ったのではなく、山中町青年団の獅子舞を見学してそれを参考にしながらも自分たちのオリジナルの獅子舞を作るという意識もあった。太鼓は昔からあったのでそれを使い、太鼓のリズムは自分たちで新しく作った。

 

担い手

青年団は当初、20~30歳までと決めていた。のちに、青年団を卒業した人が町への関わりを継続してもらうために壮年団を作った。壮年団は獅子舞に関わらず、町の様々なことに関わった。これは、年齢が上がってから区長を務める時に、町のことがわからない人が出てくるのを避けるための工夫であった。壮年団の最年長は現在52歳で、特に青年団の卒業の時期というのは定めて来なかったが、55歳くらいまでにしようかという話し合いはしている。獅子舞には子供が関わっており、そのモチベーションは友達とワイワイするのが楽しいという感覚がある。

 

<参考文献>

北國新聞 2003年(平成15年)7月20日(日)「別所に獅子舞誕生」

・平成15年度 別所町 事業計画(平成15年4月1日から平成16年3月31日まで)

 

<取材先>

平成15年 別所町3区区長・田畑勝治さん

平成15年 青年部代表・梅田佳孝さん

(同行:山口美幸さん)

 

【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 箱宮町(追加)

2022年1月26日

9:00~ 箱宮町

「朝は2時半から舞い始める、早起きの獅子舞」

獅子舞の朝は非常に早い。午前2時半から始める獅子舞があるとは思わなかった。地域の家一軒一軒を回るとき、いくら朝早くても、地域にとっては普通のことなのだ。むしろ、祭りではそれが普通のことだという認識がある。祭りに対する気合の入れようも感じられた。

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由来

『分校地区 ふるさとの歩み』(平成14年12月 分校地区誌編集委員会)349ページの「ふるさと箱宮」の項目の記述によれば、箱宮町の獅子舞の由来は昭和3年昭和天皇の御大典を記念して昭和4年から始まったとのこと。獅子舞に関して、高塚町と箱宮町は同じ由来を持つ。赤獅子という点でデザインにも共通点がある。

 

祭りの様子

獅子舞は9月の第3週ごろに実施している。昔は9月15日に秋祭りの奉賛行事として行われた。本番に向けて夜8時過ぎから毎晩、青年会館で練習を実施する。驚くべきは、祭りの本番が朝2時半から3時くらいから舞い始めるということ。普段寝ているであろう時間だが、地域の方々はそれを当たり前のこととして受け止めている。そして、お花代の額にかかわらず2回以上は演目を舞わない。1日でしっかり回りきるためである。

 

獅子頭

獅子頭は現在、新旧2つが残されている。大正15年9月に北村武平氏(子孫は現在金沢市在住)が獅子頭を寄進したとされているが、これが現在残っている古い方の獅子頭であるかは不明である。現在残っている古い方の獅子頭には「S37.10」の文字が書かれており、昭和37年10月に新調されたか修理されたと思われる日付が書かれている。新しい方の獅子頭には、「平成23年8月吉日 彫刻 北昭造 作」と記されており、小松市本折町で北彫刻をされている北昭三さんが制作されたことがわかっている。獅子頭は新旧ともに角があり、雄獅子である。重さはかなり軽く作られている。耳が非常に小さく、眉毛が太くて大きい特徴がある。

 

【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 大新道(追加)

2022年1月25日

11:30~ 大聖寺大新道

「獅子舞が途絶えても獅子頭を拝む」

獅子舞はすでに65年前には途絶えている。しかし、獅子頭は加賀神明宮に大事に保管されており、毎年1月2日に拝むという風習がある。加賀市内で、このような風習を持つ地域を聞いたことがなかったので驚いた。舞いは途絶えても、信仰心が脈々と受け継がれているのだ。

 

由来

獅子舞は戦前はやっていただろうが、戦中では途絶えてしまっていた。戦後にまた復活したが、10年ぐらいで再び途絶えた。その頃は獅子舞というより町内の運動会をしていてそれが盛んで、リレーをしたり、青年団にたくさんのご馳走を食べさせてもらったりしたことを覚えている。町内のIさんが獅子舞の団長をしていて、その方が結婚したタイミングですでに獅子舞はしていなかった。昭和20年代には獅子舞をしていたが、昭和30年代には獅子舞を見た記憶はない。45年前ごろ(1970~80年あたり)、つまり現在60歳の方が中学生の頃に、Iさんに「獅子舞をせんか?しよさ!」と誘われたこともあった。この頃はベビーブームで子どもが多かった時代だったので、少なからず獅子舞の復活の兆しがあったが、結局獅子舞は実施されずに今に至る。現在獅子舞はしておらず、町内で獅子舞の経験者はほとんどいないのが現状だ。

 

祭りの様子

大聖寺桜まつりの日に獅子舞を実施した。獅子舞を実施していた時、担い手は少なくとも6人はいた。太鼓と獅子のみの獅子舞で、棒振りや笛はなかった。舞い方は1つだけしか見たことがないので、演目数は多くはなかったと思われる。舞いの最後に玄関の中に入って、頭を噛むという動作をする時もあった。祭りが近づくと、練習とは別に橋の上で太鼓を鳴らし、「お祭りやぞ!お祭りやぞ!」と町内の気分を高めていった。また、子供の頃、町内で獅子舞の太鼓を叩いている所に近づいたら「じゃまや」と怒られたことがあると証言する人もいた。

 

獅子頭を保管する

獅子舞が途絶えたのち、公民館がない町なので、「獅子頭は持ち回りにして保管しよう」という話も出てきたが、結局、昭和30年代ごろから畑醤油店がしばらく獅子頭を保管していた。その後、加賀神明宮に預けて今に至る。

 

獅子頭をお参りする風習

現在では、町内20軒ほどしか家がない。毎年1月2日に町内の人が集まり、加賀神明宮に保管されている獅子頭を出してその場で飾って、お参りするという風習がある。お参りの後はお札をもらってきて、町内に配る。コロナ禍では、お札が配られなかったので、区長さんがお参りに行ったかはよくわかならない。

 

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(取材先:畑醤油店, 中村ひろ子さん 同行:山口美幸さん)

【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺弓町(追加)

2022年1月23日

13:00~ 大聖寺弓町

 

「氏子が半々でも地域はまとまる」

大聖寺弓町の人々は、菅生神社と加賀神明宮で氏子が半々である。祭りの日が1日ずれているとか、どちらの祭りに参加すべきかなど、様々な話し合いがされてきた。その中でも神社の氏子が絡まない大聖寺の十万石祭りで獅子舞を舞うという決断は、素晴らしい解決策を見出したとも言えるだろう。

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由来

約50年前に大聖寺菅生の萩田さんという植木屋(現在は大聖寺岡町在住)から獅子舞を習った。大聖寺にユニー・ミリオンプラザがオープンした1972年ごろの話だ。「若い者がたくさんいるから、獅子でもやろまいか」という話が出てきて、それで獅子舞を始めた。獅子頭は新調せざるを得なかった。戦前にも大聖寺菅生由来の獅子舞があったが戦争のタイミングで途絶えて、その後獅子頭は紛失してしまい、破れた太鼓だけが出てきた。公民館がない時代だったから、誰が保管していたのかもわからなくなってしまった。そこで、獅子頭などの祭り道具は新調しなくてはならなかった。「なんとかして町内の人が楽しむために」という目的で、獅子舞を始めた。最初は毎日3ヶ月間みっちり、熱心に獅子舞を教えてもらった。教わる側の弓町の人よりも、教える側である荻田さんの方がとても熱心だったような記憶がある。練習は夜の19時ごろに始まり、寝る前の22時ごろには終わった。練習は基本的に集合時間に厳しく、挨拶も徹底させていた。2~3年前、担い手不足もあり獅子舞は途絶えてしまって実施していない。

 

弓町は町内が半々に分かれている

町内の60軒のうち、半分は菅生神社、半分は加賀神明宮の氏子に所属する。町内で分かれているというのは、ここら辺では珍しい。獅子舞の春祭りは、菅生神社のお祭りと加賀神明宮の大聖寺桜まつりの2つがほとんど同じような日(1日ずれるのみ)に行われていたため、その時に回った。秋祭りは神社の氏子が絡まない十万石祭りの時に合わせて、獅子舞を行なった。このように、弓町の両氏子に配慮して、獅子舞を実施していた。中には、獅子舞は舞わんでくれという人もいたが、それでもほとんどは賛同して獅子舞を行ってきた。

 

獅子舞の宿について

大聖寺桜まつりでは、公民館があるとそこを本陣にするが、ない場合は町内の家を本陣にすることもある。この本陣には他の町内から獅子舞が舞いに来る。また、本陣以外でも、個人商店には普段から人間関係がある町内の人が舞いに来る。中田仏壇店には、今まで5~6町の獅子舞が舞いに来ていたものの、年々少なくなっており、近年では大聖寺中町、大聖寺錦町などが舞いに来る。また、弓町の公民館に作られた本陣の当番がある時には、夫婦ともにそちらに行くことになるので、中田仏壇店を開けて獅子舞を迎え入れることができない。今年は舞いに来ても対応できませんという案内をあらかじめしておかないといけない時もある。

 

祭りの日

春祭りと秋祭りはそれぞれ、1日完結の獅子舞を実施してきた。朝は8時に始まり、夕方の16時ごろまで獅子舞をしていた。お昼は公民館に弁当屋さんが来てお弁当を食べていた。ご祝儀は青年団に所属している者は1万円を包むと決められていて、獅子舞を始めた当初は獅子頭と蚊帳の新調にお金がかかったので、それを補填するためにお金を使った。後にお金が十分に貯まるようになってからは、青年団同士で飲み屋に行くということに積極的にお金を使えるようになった。他の町に回りに行くことはない。自分の町内だけを回る。

 

舞い方

演目は1つのみで名前はついていない。寝た状態から太鼓でドンと起こされてあくびをして、最後に暴れて終わるという流れだった。最後は太鼓に向けて軽くダッシュをした。

 

担い手

青年団は10人ほどいないと獅子舞が実施できない。最近は担い手が不足しているので、町を回っている途中で、「町内、回りきれるんかな」と思う時もある。獅子舞に必要な人数は、太鼓2人、獅子6人で合計最低8人、あとは交代要員が必要だ。昔は20人ほどの人数がいて、代わりばんこでやることができた時代もあった。昔は20~30代の人が青年団に所属していたが、2~3年前に獅子舞が途絶えたときは40~50代の人が所属しているのが当たり前の状態で「自分がやめたら他にやる人がいないようになる」という意識があった。昔は同級生の半分も大学に行かなかったが、今では大学進学率も上がったので、外に出るような人が多くなった印象だ。

 

獅子頭

公民館に今でも獅子頭が保管されている。獅子頭を作ってもらったのは鶴来の知田工房だが、漆を塗ったのは弓町にある中田仏壇店で、修理の漆塗りも中田仏壇店が行ってきた。他の町内が、中田仏壇店に獅子頭の漆塗りを発注することもあり、10年前に大聖寺番場町、あるいはいつだったか河崎町の方から獅子頭の修理で漆塗りを頼まれたこともある。ただ、このような仕事をお断りすることも多い。弓町の獅子頭は舞い手にとっては重いという印象だった。彫りを見せるような一木造りの獅子なので重くなったのだろう。

 

(取材先:中田仏壇店の方(80歳), 同行:北嶋夏奈さん)

 

【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 七日市町(追加)

2022年1月22日

10:00~ 七日市町

庄地区区長会長・七日市町区長の塩崎健さん、庄地区を語る会の宝谷(ほうや)奨さんにお話を伺った。同行は吉野裕之さんと山口美幸さん。

 

「お座敷獅子の系譜を今に伝える獅子」

七日市町の獅子舞は、農業用水の繋がりで伝えられた農業地の獅子舞である。元をたどると、加賀市最古の獅子舞の一形態であるお座敷の獅子に繋がる。その名残として、白足袋を履き、ゴザを敷いてその上で足さばきが美しい所作が洗練られた獅子舞を実施してきた。徐々にアレンジされていったことがわかるが、その舞い方を見ると源流の獅子舞の動きが垣間見え、農業の獅子舞の伝来経路を辿るのに重要な手がかりを今に伝える。

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由来

大聖寺の何町(おそらく敷地)かはわからないが、そこから習った弓波町が、七日市町に伝えたと言われる。弓波町と七日市町には市之瀬用水が通っていて、農民同士の繋がりがあったからである。七日市町には当時、西井茂一(市?)さんという人がいて、この人が20歳前後の時に弓波町から獅子舞を習ってきた。七日市町の獅子舞はお座敷に使うような白足袋をつけて外で舞うのがユニークな点で、獅子舞を舞う時に路肩(車道と歩道の間)で習ったのではないかとも考えられる。庄町など周辺地域は白足袋ではなく地下足袋を履くのが一般的である。西井さんは小松の「はさだに」の辺りで温泉宿をのちに始めた方だ。これはおそらく、大正10年ごろの話と思われる。その後、戦争中も楽しみを残しておくということもあり、獅子舞を継続してきた。2014年を最後に獅子舞は途絶えてしまっている。獅子舞の動画はyoutubeに残しているので、再開するとなった時に見れるようになっている状況だ。

 

獅子舞が流行した時代

大正10年ごろには、獅子舞が七日市町だけでなく、その周辺地域でもかなり流行したような時代だった。このころには、国鉄の工事があった関係で、富山の人夫が庄町に獅子舞を教えたと言われている。またこの頃、本川弘一さんという東北大学の学長をした人物が、松山町から獅子舞を習って、桑原町に獅子舞を伝えた。この人物は20歳頃に農業をしながら地域で獅子舞をしていた経験があり、その時に習ったとも言われる。文部科学省から役人が来た時に、一緒に料亭でお酒を飲んで獅子を舞って歓迎したということもあった。学長さんが獅子を舞うなんて珍しいことで、役人の方もびっくりしたそうだ。

 

舞い方

大聖寺のお座敷獅子に近い形態であり、太鼓も舞い方も似ている。マイとマクリという舞い方がある。七日市町では空を向いたまま上から下に獅子頭を下げ、下の方で獅子をくるりと返す動作があるが、弓波町では上のところで獅子をくるりと回す動作がある。つまり、弓波町から伝わった獅子舞が少しアレンジされた形で伝わっているのだ。時代が立つと舞い方も変わるという面白さとも言えるかもしれない。最初はマイで、寝た状態からスタートして、奉納の「奉」の字を書くように舞う。中心の軸をぶらさずに左右に触れるけど向いている方向は正面という感じの舞い方をする。家の中まで入っていくような舞い方をする場合もあり、その時は家の内と外の境界部分にゴザを敷いて、その上で舞う。ゴザも白足袋もツルツルしているので、足元が多少滑る。獅子舞の構成は獅子3人・太鼓2人で、合計5人が最低人数である。

 

祭りの様子

獅子舞の祭りの日は、お盆の日と同じ方が合理的だということで、8月14日と決まっている。昔、庄地区に大火があって8月27日が祭りの日だったこともある。秋祭りの位置付けで、春祭りでは獅子舞を実施しない。収穫前に獅子舞をするというイメージだ。午後から神社に始まり、町内40軒周り、夕方ごろに神社に戻ってくるというような獅子舞だった。昔は20軒ほどしかないような時代もあったし、午前中から舞い始めた時代もあった。まず獅子舞を始める時は、神社の神主さんが祭りの時にお祓いをなさって、神社の横の公民館で休んでいる時にその前で舞い始めた。ただし、それよりも昔の時代は公民館がなかった時もあり、地域の区長さんの家に神主を迎え入れ、そこから獅子舞を舞い始めて町内を回るということもあった。青年団は祭りの日の獅子舞のご祝儀のみが収入源だったので、とても貴重だった。

 

獅子舞の練習

公民館ができたのが昭和50年代で、それまでは青年クラブという建物があり、青年団用の建物があった。今では農機具置き場になっているが、ここで獅子舞の練習をしていた。公民館ができて以降は、公民館で練習をおこなった。青年クラブで獅子舞の練習をしていた時、横には大きな石が置いてあって、それを持ち上げて力くらべをしたり、体を鍛えたりすることもあった。

 

公民館30周年の獅子舞

何年か前に、公民館の30周年記念行事ということで、庄地区の庄町、七日市町、西島町、加茂町、桑原町の獅子舞が集まって、獅子舞をしたことがあった。他の町の獅子舞を見る貴重な機会だった。

 

大聖寺の神社で奉納

今から60年前ごろに、大聖寺のどこかの神社で七日市町の獅子舞を奉納したことがあった。白足袋を履いた獅子舞がとても珍しかったからか、若い3人の獅子の担い手に対して観客が「3人とも足に毛が生えとらん」と言って笑っておられたことを覚えている。

 

担い手

青年団が獅子舞を運営してきた。中学3年から30歳くらいまで所属していた。子供がもっと獅子舞に関わっていたら、継続もしやすかったかもしれないという印象がある。中学3年生の人は現在、何人かはいるが、その前後に人がいないので、教えられたり教えたりという関係が作りずらいのが現状だ。

 

獅子頭

現在残っている昭和28年に富山の井波で新調した獅子舞は、一刀彫りで作られたものだ。新調をした1年目は白木の状態で舞った。2年目に漆が間に合って、漆塗りの獅子で舞うようになった。このタイミングで蚊帳も古い模様を踏襲する形で新調した。

 

地域の歴史

500年前くらいに七日市町は室谷と言い、その名字を持つ人が多かった。ただ明治時代に、役場の表記が間違って、宝谷という人が増えてしまったという言い伝えがある。しかし、北海道の開拓に行った室谷という名字の人は、宝谷になる前だったので、室谷のままで住み続けている。庄地区は全体として米作りが盛んで、恵まれた地形と言われていた。七日市町は荒地だったのが、徐々に家の軒数が増えていった。庄地区は関西圏との繋がりが深く、住吉神社が多いという特徴がある。昔は60年前ごろ青年学級というのが地域にあって、夜汽車に乗り小豆島に行って、宝塚に行って帰ってくるということもした。七日市町では幕を張り、提灯を下げ、しめ縄を垂らすというのは青年団がたくさんいたため、全て青年団が担っていた。青年団の役割がとても大きかったことが伺える。

 

【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 日谷町 直下町 曽宇町(追加)

2022年1月21日

13:00~ 日谷町

 

「町の中に2つの神社」

昔、日谷町には八幡神社白山神社があった。しかし、いつしか、八幡神社白山神社に吸収された。獅子舞は2つの神社を回っていたのが、1つの神社に属するようになった。白山神社だからか、雌獅子が代々受け継がれている。信仰形態が非常に興味深い地域だ。

 

由来

70年前くらいには既に獅子舞をしていた。雌の獅子である。

 

祭りの日

昔は春と秋で1日、祭りをしていたが、今では秋しかやっていない。昔は平日でも獅子舞をしていたが、今では獅子舞は休みの日にやる。昔日谷町の中には2つの神社があった。それが八幡神社白山神社だ。獅子舞も、白山神社から始まり、八幡神社、区長宅、町内の家々という風に75軒ほどの家を回って、最後は町民の家で終わるという流れだった。今では、八幡神社白山神社に吸収される形になったので、日谷町の神社は1つだけとなっている。また、町内から引っ越しをしていった人のところまで、大聖寺にいって舞に行くということもする。全て、1日完結の獅子舞である。ご祝儀は基本的に5000円以上で、区長になると2万円出すこともあり、ご祝儀の額によって舞い方を変えたり演目を増やすということはその時の状況によって判断する。ただ、近年は何曲もやっていては大変なので、極力1軒あたりの舞いの数は増やさないようにしている。お昼は青年団長の家に招いて食べていたが、今では大変なので仕出し屋に頼んでお昼を用意してもらって食べている。練習場所は昔は神社だったが、今では町民会館に移動した。練習を開始するのはお祭りの1ヶ月前くらいである。

 

舞い方

太鼓、笛、獅子3人、棒振りで行う。舞い方は4曲あり、シャンシャン、コンコラコン、キョウブリ、チョウチョウトマレなどをする。曾宇町よりは曲が一曲多い。コンコラコンの時に、魔除けなどの意味で玄関まで獅子舞が入ってくることがある。そして、中にいる人の頭を噛むこともある。また、獅子の中に入る人が少ないので、足を揃えることが重要だ。キョウブリの演目が最も値段が高い舞いである。

 

担い手

担い手は10人くらいいて、OBの人も関わっていて37~38歳でも関わることがある。昔は若い人だけでやっていたが、少しずつ年齢が上がっていった。担い手不足が進んでおり、大学に行くために町外に出てしまう人も多くなっている。

 

獅子頭

2回新調している。浅野太鼓で新調したり修理したりした覚えがある。

(取材先:西口さん)

 

*****

 

13:30~  直下町

「蚊帳が大きな獅子舞を人口減少下でも継承」

この地域は炭焼きの仕事が衰退した後に、高齢化も進み、町内の人数が少なくなってしまった。それでも、蚊帳が大きい竹を通す雄獅子を今でも継承している。時代に応じて獅子舞のやり方も少しずつ変化させているものの、その迫力ある獅子舞は健在だ。

 

由来

昔、雌獅子と雄獅子で1対の赤い獅子があった。各家を2体ずつで回っていたが、途中で壊れてしまい、耳やら何やらが壊れてしまったので、それを金沢まで行って直してもらったことがある。その後、新しく雄獅子を新調してそれだけで舞うようになった。雄獅子を新調するに伴い、谷本さんという方が田尻町に養子に行った関係で、昭和の初めに田尻町から獅子舞を習った。田尻町の獅子舞は中学生が棒振りを行い、直下町も始めた当初はそうだったが、高校生、大学生、大学卒業後、と徐々に年齢が上がっていった。これは青年団に入る年齢とも重なり、青年団に入ったら若い人から棒振りを務めた。

 

祭りの様子

9月15日が祭りの日だ。獅子舞は朝5時から獅子舞を回り始め、夜19時ごろまでやる。その後は輪踊りをするとともに、最後に獅子舞を舞ってへとへとになる。階段を一段ずつ上がってお宮さんは入念に厄を払う。神社では30分ほど獅子舞をやり、最後は神社の石段の上を走って終える。祭りの後に、青年団はもらったご祝儀で温泉に行った。下呂やら城崎やら草津やら、遠いところまで行ったこともある。

 

舞い方

薙刀と棒振りの2つの舞い方がある。もしかしたら昔、鎖鎌もあったかもしれない。町内を回るときは、この舞い方を交互に行う。田尻町には10種類以上の舞い方が継承されているが、この地域ではそのうちの一部を習ってきたという形だ。直下町の獅子舞は片目で睨むような舞い方をしており、田尻町には上段、中段、下段という獅子を舞う位置が存在するが、直下町の場合は基本的に中段のみで舞う。また、日谷町や曽宇町が雌獅子が芸事をするように少人数で足合わせをする一方で、雄獅子は蚊帳の中にたくさんの人を入れて竹で支えるような獅子舞を行う。雌獅子に比べて激しい舞い方だ。竹を持つ人が4人で、それに加えて尻尾と獅子頭がいるほか、中に入る人も合わせれば8人は最低必要で、それに加えて子供がわあわあと蚊帳の中に入ってくることもある。

 

担い手

基本的に学校が終わったら、青年団に所属するという流れがあった。22歳で青年団に入って、23歳で青年団長になった人もいた。

 

歴史

昔、直下町は炭焼きで栄えた町だった。田んぼで生計を立てていた人は少しだった。炭を作って、前の日に仕込んでおいて、次の日の朝5時ごろに馬車にその炭を積んでおいて、北前船の到着する橋立に持って行って帰ってくるというのが仕事だった。サラリーマンはよっぽどええものかという憧れが最初はあった。ただ、地域の中で仕事ができているため、お祭りも3日続けるとか、平日のみで行うとか、そういうことも可能だった。学校や仕事が終わったら、棒振りの練習をするとか、そういうことも気軽にできた。田尻町は平気で3日間祭りができているが、ここは財力も町民の数も確保できる。直下町の場合は、仕事の形態が変わったことが獅子舞の簡略化や担い手不足を招いている。時代に応じて、獅子舞の形も変えていかねばらならない。ちなみに、この地域は聖徳太子の系列のお寺があり、白山信仰の地域ではない。神社は菅原神社である。

(取材先:中野さん)

 

*****

 

14:15~  曽宇町

青年団がなくても獅子舞を継承」

12~3年前に担い手不足で青年団が途絶えてしまった。しかし、その数年後には、青年団のOBをはじめとした有志が集まり、年代に関係なく獅子舞に関われる形で復活。親子で獅子舞に関わる人が現れるなど、そこに年代の垣根はない。

 

由来

白山信仰が根付いており、白山神社が地域の神社となっている。

 

祭りの日程

神社が昔は108軒あったが、今では75軒くらいに減っている。神社に始まり、これらの家々を回る。ご祝儀は平均5000円くらいで、女世帯などは3000円ということもある。町内の役の家では、キョウブリという難しい舞いをして、役の中でも低い役の場合はシャンシャンをする。多くは一番簡単なコンコラコンを行う。

 

結婚式の獅子舞

昔は結婚式を家の中で行っていたので、そういう時は玄関のところで舞ったり、お座敷の上まで顔を出したりして、獅子舞を披露した。特に来てくれと言われなくてもご祝儀目当てで舞いにいったことがある。結婚式で披露する獅子舞は2種類で、キョウブリやシャンシャンをメインで行なった。

 

体育大会の獅子舞

三谷地区では、小学校の運動場で行われる体育大会で、獅子舞を披露する機会がある。この運動会は毎年10月の体育の日に行う。直下町はいつもここで獅子舞を披露しており、日谷町もたまに獅子舞をやる。ただ、曽宇町は青年団がないので、そこまで獅子舞を披露するという機会がない。

 

担い手

獅子舞は12~3年前に青年団の担い手がいなくなって、2年ほど舞わなかったことがあった。その後、40代までの人が関わってそれを復活させた。青年団のOBたちを入れて、有志の人たちが町内で獅子舞を継続しており、特に獅子舞を運営する団体の名前はない。親子で獅子舞に関わるということもあり、年配の人は基本的に笛をする。

 

舞い方

雌獅子で日谷町の獅子舞ともにている。演目数は3つあり、日谷町よりも1つ演目が少ない。コンコラコン、シャンシャン、キョウブリの3つを行う。習った場所は同じと言われているものの、最初から演目数が1つ少なかったとも言われている。

 

獅子頭

ベンガラの漆を塗っている。今の獅子頭は3代目である。

 

歴史

この地域には昔、男用の神社と女用の神社があったが、それが1つになった。今、獅子舞の拠点となっているのが白山神社だ。また、仏教では観音堂(寺尾観音)があり、十一面観音を祀っていて、このお寺の歴史は非常に古く、養老元年に修験僧が建てたと言われているので、1300年の歴史がある。この御本尊は33年に1回のご開帳があったが、今では人生に一度もこれを見ることができない人も出てくるということで、16年目と17年目に公開するという風に変わった。曽宇町の曽は、このお寺の僧侶の僧の字に由来する。

(取材先:宮口武雄さん)

 

【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺上福田町(追加)

2022年1月20日

13:00~ 加賀市大聖寺上福田町

17歳から青年団に所属し10年以上獅子舞に携わったご経験のある横出さん(90歳)にお話を伺った。

 

由来

昭和20年代(おそらく1949年)に、下福田町の壁屋をしていた島崎三郎さんから獅子舞を習った。これは三谷地区の日谷町や曾宇町に獅子舞を伝えた人と同一人物だ。その時、舞い方を教えるために、島崎さんはわざわざ上福田町の公民館に通ってくれた。それまで青年団の活動といえば飲み会ばかりで、何か新しく始めようということになり、獅子舞を習い始めた。それから1年も経たないうちに春祭りと秋祭りで獅子舞を披露することができた。この時、獅子頭大聖寺の中で棒振り獅子がある地域から購入した覚えがある。

 

舞い方

獅子舞を島崎さんから教わった時には、棒振りがない獅子舞だった。基本的な型があったが、指導の仕方があまり厳しくなかったからか、少しずつ舞い方が崩れていったような印象だ。それはアレンジしていこうというよりは、長いものを短くという風な意識だった。昭和58年(1983年)の時点では、シャンシャン、カンカラカン、チョウチョウ、三番叟の1号・2号という5つの舞い方が存在し、この頃にはすでに棒振りの獅子舞が新しく取り入れられていた。

 

担い手

獅子舞を始めた当初は太鼓が1人、獅子が数人という感じだったが、はっきりした人数は覚えていない。途中、棒振り獅子は青年団が実施していたが、途中から「可愛らしい子供にやってもらった方が良いだろう」という話が出てきて親に了解をもらって、子供が棒振りを務めるようになった。

 

祭りの様子

元々春日神社のお祭りがあり、その中に獅子舞が取り入れられたという形で、獅子舞が始まった。春祭りは3月21日、秋祭りは8月21日で行う。獅子舞が始まった当時のご祝儀は200~500円くらいだった。もう少しきちっとした舞い方をしていたら、500円くらいは少なくとももらえたのではないかという気持ちもあったが、獅子舞を伝えた島崎さんもお年寄りになってなかなか強気で教えられなくなってから型が崩れていった。獅子舞を始めた当初から、隣の町内(朝日町など)にも舞いに行っており、とても人気のある獅子舞を実施していた。獅子舞の日程は朝8時半から出て夕方くらいまで実施しており、神社に始まり神社に終わるという獅子舞を行なった。町内は家を全体的に回るが、町外はお店やさんや事業者関係でお世話になっているところを中心に回る。最近は祭りの時にカラオケ大会をしており、皆が興味を持って1つになれる可能性を感じている。

 

獅子舞が継続する理由

獅子舞を純粋に楽しむというよりは、町の収入源になっていたことが大きい。バブルの頃は1軒につき1万円のご祝儀が上がったので、合計で100万円くらいの金額が集まった。その中で半分は自分たちの飲み会や旅館、スキー旅行などの自分たちの楽しみに使えて、あとは町の費用として貯金するというイメージだった。獅子舞は自分たちのところで途絶えさせてはいけないという意識があったが、そこには積極的に獅子舞をやっていこうという意識はなかった。現在は、担い手不足で継続がギリギリで実施できているという状況だ。担い手の数は6~7人で最低限の人数である。ご祝儀を出している地域の家々の意識としては、神社の初穂料を払うとか地蔵盆を受け入れるなどの習慣があるから「なんで出さないかんのや」という地域の人はいない。