柳田國男 『獅子舞考』を読んだ

柳田國男の『獅子舞考』(『柳田國男全集18』,筑摩書房,1990年)は獅子舞の起源について考える上で、非常に重要な手がかりを示唆している。この論考は大正10年代(1920年代)に発表されたもので、言葉遣いが今とやや異なる。色々な意味で現在では語られざる貴重な記録を今に留めているように思う。以下、その内容に触れる。

 

雑賀貞次郎氏が報じた死屍分割の例(郷土研究3巻473頁)

柳田國男南方熊楠とも交流が深かったと言われる郷土史研究者の雑賀貞次郎による、死屍分割についての記述に言及している。その内容は以下の通りである。

・唐獅子の身体が3つに裂けたのを3国3処に分取した。

=源三位頼政が射殺した怪獣をバラバラにして堺の海に流したら、猿神、犬神、蛇神などの根源をなした。

香取郡豊和村大字大寺や竜尾寺では、けだし竜の一体を三箇所の大寺に分配した伝説あり。これは千葉氏を根拠地として発生したもので、神代紀のカグツチ系の話を縁起化したものであろう(柳田國男説)。『新撰佐倉風土記』参照。

=八岐大蛇伝説に関して、大原郡(出雲国)斐伊郷中簸川の辺りに杉八本あり蛇の頭を祀る。『出雲国式社考』『雲州式社集説』によれば、大原郡神原村八口神社にて、八岐大蛇の首を埋めたとある。

=参(三)河国における犬頭蚕(けんとうざん)の由来はこれに似る。

=参(三)河国碧海郡六ツ美村大字宮地と下和田にて、犬頭霊神及び犬尾霊神の2社には、身を殺して主人の命を救った義犬を祀ったと『犬頭社由来書』に書かれている。

=相州足柄郡曾我村大字下に名馬の首塚・胴塚あり。『山島民譚集 巻一』参照。

これらのように、野獣、家畜、人間など様々な死屍分割の例があり、首塚、胴塚、手塚、耳塚などが日本全国に見られる。これは獅子の信仰の起源につながる話だ。詳しくは後ほど述べる。

 

獅子舞の起源は?大陸説vs日本古来説

◯喜多村信節(きたむらのぶよ)著『筠庭雑考(いんていざっこう)』では、古来の田楽において獅子舞を舞わしめるのは西域亀茲国の伎楽を唐土を経由して輸入したもので、寺社仏閣の前面に獅子狛犬を置く風が、獅子舞普及の原因であるという。

◯藤井高尚著『栄花物語』布引滝の巻には、「獅子こま犬の舞い出たるほどもいみじゅう見ゆ云々」とあり、2種の獅子の根本を1つと見た例である。

田楽の漂白性から全国に獅子が広まったという説に関して、村々の祭礼に出て来る獅子頭を田楽法師が広めたのは納得できても、これが寺社仏閣の獅子狛犬と同一だとするのは疑わしく、昔の学者が名称に絆され易かったということを柳田國男は書いている。

→さらに、獅子舞が天竺方面由来の獅子ではない理由の一つとして、陸中附馬牛などの東北のシシには鹿同然の角があるからとのこと。樹枝を持って鹿角を擬すだけでなく、踊りや歌の章句に雄鹿が雌鹿を求め争う節がある。

=東京などの獅子頭は近世において次第にライオンの写生に近づいてきたが、元は今一段顔も長くかつ角があった。山中翁が元禄刊行の『人倫訓蒙図彙』にも、鹿のごとき枝角があったことを述べている(共古日録十三)。

=『筠庭雑考』において、『四神地名録』を引いて妙な話がある。江戸東郊二合半(こなから)領戸ケ崎村にある三つ獅子。角が2本あり、鶏の毛を飾る。宝永元年の洪水の際に、水練が達者なものが獅子頭を被って川向こうに泳いでいくと隣村の水を防いでいた村民が大蛇が来たと思い逃げてしまった。そこで水練が達者なものが堤を切って、自村の災難を免れたそうだ。

=下総印旛郡豊住村大字鍛冶内三熊野神社花見塚、黄金埋蔵伝説のある塚の上で獅子舞を舞った。獅子頭は牡中雌の3つである。竜頭のような角があり、鹿のような歌がある。

=羽前最上郡盂蘭盆にて獅子踊りを行う。最上家全盛の頃、萩野村の奥なる小倉山で猪(しし)が7匹出て踊った。

東村山郡山寺村立石寺には鹿子舞が伝わり、似たような猪の話がある。この寺は磐次磐三郎(郷土研究2巻19頁)を祀った霊地である。慈覚大師が寺にしたため殺生禁断の地となり、猪が悦び来たるので、それを始めとして舞い始めた。

→これらの事例より、獣肉を宍(しし)と呼ぶことから転じて、鹿(かのしし)や猪(いのしし)をシシと呼ぶような地域・時代があったというわけだ。『万葉』のシシは鹿で、『忠臣蔵』のシシは猪。これが仏教によく出て来る天竺の猛獣と音を同じくしていたという解釈である。これの証拠となるのが、角や口碑の存在だ。

 

獅子頭は信仰の当体であり、祭り具や伎楽具のみならない

・頭痛などの病を噛む獅子頭、病魔を駆逐するという発想の起源は単純ではない。

=下総印旛郡公津村大字船形字手黒の村社麻賀多神社の三箇の獅子面。左甚五郎の作で、毎年春祈禱にはこれを被って五穀豊穣の祈りをする。この面を水に映してその水を飲めば病気が治ると信ぜられていた。

→獅子舞の効験をもって獅子頭その物の威徳に帰せんとする例。祭礼に際し古作の獅子頭を当番の家に安置させお神酒や燈明などを供えてこれを祭るのはよく見られる。

→正月に氏子の家々で獅子舞に与うる銭・餅などを含物(くくめもの)というのは、本来はこれを獅子の開いた口の舌の上に置く風習があったからだ(伊勢浜荻一)。

獅子頭が霊宝となる理由、獅子が途上で激突

麻賀多神社において、ある年獅子面を箱に納めた時にその順序を間違ったところ、三つの獅子が箱の中で噛み合いをしたということで、三つとも今はその舌が抜いてある。獅子の噛み合いには類例がある。

=『遠野物語』において、奥州では一般的に獅子頭のことを権現様と言う。陸中上閉伊郡新張の八幡社と、同郡土淵村字五日市の神楽組のゴンゲサマが争い、新張のゴンゲサマの片耳がもげた。各村各家を舞って歩くゆえに、組のものはしばしば途上で激突するのだ。

=羽後仙北郡楢岡村の耳取橋では、村竜蔵権現の獅子が神宮寺村八幡社の獅子と闘って相手の耳を取ったという話が残っている。この時竜蔵権現の獅子は鼻を打ち欠かれ、憤って自ら長沼に飛び入りその主となった。

→耳取の昔話は、結局最初の境塚の問題に帰着する。これを説明する材料は、諸国の田舎に散在する獅子塚・獅子舞塚などの塚名や地名である。羽後国にはこの塚に関する口碑が多く残っている。『雪之出羽路』巻八、平鹿郡浅舞町の獅子塚の条に「昔この郡大森町に大森獅子舞あり。山田の獅子頭と闘いて戦負けたればここに埋むという。大森獅子舞の浅舞に入り来たりしという物語あり。また獅子塚も所々にありて由来同じ。昔このわざ大いに募り大いにあらび、組み合い蹈み合い喧嘩して死する者あり。これを埋めししるしなりともいう」とある。

→獅子の噛み合いとは獅子舞組の喧嘩のことで、耳を喰い切られたというのは打ち付けて壊れたということを意味する。

獅子頭を埋めたという風習は、他村の獅子舞の舞い込むのを防止したということ。これは、掛踊りの風習に基づくものである。昔は村に干ばつ・害虫、時疫が発生した場合、悪霊の仕業として鉦鼓喧騒してこれを村外に駆逐した。普通はこれによって迷惑するのが隣村であり、手前勝手の衝突なので、元来た方向に追い返した。これは当時の語では「踊りを掛けられた」「掛け返す」と称して、急な催しなので俄踊り(にわかおどり)と称した。普段は仲が良くても、祭りになると喧嘩するのが村同士の常であった。

→印地打、凧揚げの勝負による年占(消極的防衛)と、実際生活上の必要性(積極的努力)に分けられる。

→獅子舞が神楽に変化したとき、それは神を喜ばせる社頭の遊戯か?家々の門を廻って悪魔を払うという意味が不明になる。

→この風習はホイト(物貰い)の発明とも異なる。盆踊りが新仏のあった家の前で丁寧に踊られるのと同じで、御霊を信じた一種の清潔法であった。その証拠は中世の獅子が田楽に伴ったものであり、田楽は御霊会によって起こったものであるからだ。

=遊行門派の念仏聖で獅子を被って念仏踊りをする者がいた。信州上高井郡高甫村大字野辺における野辺座の念仏がこの類である。

=陸前牡鹿郡鹿妻村にて牝鹿の死を悼み、鹿野苑の周行に比して功徳肝心のためにうたう。

安房では旧長狭郡不動尊、7月7日にフリュウ(風流・盆踊りの古名)と称して獅子舞をする。

・中元の名残として8月15日に獅子舞を舞う場合が多い。この時期に重い祭りのある八幡神との関係性があるかもしれない。正月15日も悪霊退散の一季節として、獅子舞を舞う場合が多い。

甲州では一般的に正月15日に道祖神を祭り若連中が獅子頭を舞って人家に押し入り、時々乱暴して花婿花嫁をいじめる。

・伊勢の代神楽はなんとなく広範にわたって竃払いをする。疫病や不時の天災だけでなく、生活の悪事災難を払うという意味。

・含物(くくめもの)、おひねり、初穂などの金品は、耶蘇教のアルムスとは別。お盆の蓮の葉の飯や節分の豆のような一種の贖物である。

 

死屍分割譚の結末

・なぜ獅子頭を霊物視して村境まで持って行ったのか。

陸奥南津軽郡黒石町の付近でシシガ沢という所に100年前まで石上の彫刻があり、木の中にある小さな岩には鹿の首が彫ってあった。毎年7月7日に出現するとのことで、誰の仕業かわからない。この近村では、鹿踊りの獅子頭が古びたら岩の周辺に持ってきて埋めるのだとか(『真澄遊覧記』巻13)。2つの挿画によれば、1つは珍しい碑の所在地に関する記録。もう1つが上下左右の一定の方角なく彫られた鹿の頭であった。石面に鹿の頭を彫り始めた今ひとつ前には、本物の鹿を屠(ほふ)り神を祭っていたのではないか?

アイヌの熊祭など。牲に捧ぐる獣を邑内を曳き廻す他民族にも例あり。

=鹿の頭を供えるといえば諏訪。

=讃州三豊郡麻村大字下麻の首塚では毎年、鹿の首を諏訪の神に供えた。鹿を得なかった年に牛の頭を奉った所、神殿鳴動して永くこの祭が止んだ。

=京都の清水観音の鹿間塚は開基の際に、霊鹿が来て地を夷(たいら)げたという口碑がある。鹿の頭が寺の宝として永く伝えられていた。

→この殺伐な慣行は東夷に限られたことではなかった

=獅子舞の起源には、大陸系の獅子舞が渡来する以前に、死屍分割譚に関わる信仰が日本全土に根付いていた。

 

<獅子舞・獅子頭の起源に関する書籍・論文>

柳田國男柳田國男全集18』筑摩書房 1990年(大正時代の論考)

喜多村信節『筠庭雑考』 吉川弘文館 2007年(江戸時代の論考)

石川県立博物館『獅子頭』1998年

上杉千郷『獅子・狛犬の源流を訪ねて』 皇學館出版部 2004年

中山太郎『獅子舞雑考』 青空文庫POD 2015年

星野紘『ユーラシア域の祭祀舞踊ー神懸かりと動物模擬』2014年

李応寿『東アジア獅子舞の系譜:五色獅子を中心に』 2000年

 

 

 

 

 

 

 

獅子頭を封じるという行為について考察~千葉と石川の事例~

千葉県千葉市寒川神社という場所に、興味深い獅子頭がある。

(以下寒川神社のホームページ参照)

 

ここに保管されている獅子頭は桐で作られた漆塗りで、法隆寺獅子頭に似た造りをしていて、製作年代は鎌倉時代であるとのこと。2体で1組とみなす考え方があり、これに沿って考えると、酷似した獅子頭は宇治の平等院にあるという。

 

この獅子頭にはある言い伝えがある。漁師の投げ込んだ網に、獅子頭が入ったのでそれを神社に祀ったところ、神社の沖合いを航行する船の沈没が相次いだそうだ。これは獅子頭の祟りとのことで、神社の神殿の下に石室を作って封じ込めたところ海難事故がピタリと止んだという。この出来事があった年代は明らかでない。

 

獅子頭の内側にある朱漆の銘によれば、千葉一族の原氏が1481年に社殿再建と獅子頭の修復をしたとある。これが上記の漁師の網に獅子頭が入った前なのか後なのかという時系列的はわからない。

 

上記のお話に関して、2021年4月3日に寒川神社へお電話をして詳細を伺った。これらの話は、全て地域の人々の言い伝えであり、参考になる文献はないとのこと。この獅子頭が宇治の平等院方面から海を伝って流れてきた可能性もあるかと思い伺ってみたが、詳細はわからないようだ。

 

獅子頭を海や川で拾ったという伝承は関東地方で多く聞く話だ。これは何かの教訓を語り継ぐための遠野物語のようなお話なのか、それとも実際にそのような出来事があったということなのだろうか真相は定かでない。獅子頭を神社の境内に封じ込めたというのは、石川県金沢市波自加彌(はじかみ)神社の麦喰獅子の話と似ている。麦喰獅子の場合は、獅子が田畑の麦を食い荒らすから閉じ込めたという言い伝えがある。

 

千葉や金沢の事例に関して、何れにしても海が荒れることや、田畑が食い荒らされることという生業にとっての予測できないダメージを鎮めるために、獅子頭というモチーフが登場したことに違いはない。推測するに、自然と生きる中で生じる災厄を具現化したのが獅子頭という芸術であり、それを封じ込めることによって精神的な安定や祈りを体現していたということだろう。

 

福島県田村市にてお人形様をはじめ悪魔払いの習俗について考察

新型コロナウイルスの流行が続くなか、悪疫退散の本質について問い直したいと思い、2021年3月福島県田村市のお人形様を見て回り資料の収集を行った。

 

福島県田村市にあるお人形様

お人形様は地域の守り神であり、悪魔払いのため村境に作られる人形道祖神の一種。疫病などの災いが入ってこないように祀られたものだ。昔は福島県の三春町からいわき市に通じる道を磐城街道と呼び、この街道沿いに立てられた三春町芹ヶ沢、船引町屋形、朴橋、堀越、滝根町広瀬(一説には船引町光大寺)にあるお人形様を磐城街道の「五人形様」と読んでいた。現在あるのが4体で、屋形、堀越、朴橋(ほおのきばし)の3体と、船引(ふねひき)駅構内に作られたもの1体である。一番古いものが屋形のお人形様で、文政五年(1808年)だ。どれも体長が4メートルにもなる大型の人形道祖神といえる。腰に大きな刀、手に薙刀を持ち、鬼のような形相をしている。毎年各地区でお衣替えと称して衣装替えと化粧直しの祭礼を行う。古風な祭りの形態を示すと同時に、神様の心象を表現したものと言える。各地区の衣替えと祭礼の日程、及び現地を訪れて得られた情報は以下の通りだ。

 

船越のお人形様   

毎年4月の第2日曜日に衣替えを行う。衣替えの主体は氏子になっているヤシキと呼ばれる地縁組織の人達が材料を持ち寄って作り替える。祭礼は明石神社にあわせて、5月4日である。明石神社の由来は801年の坂上田村麻呂の戦勝祈願で、お人形様が立てられた起源は定かではない。明治40年にお衣替えや祭礼が断絶して、おそらく明治38年の大飢饉に由来するものだろうと考えられている。神社から150m西の場所の畑の中にお人形様の跡が残っており、平成4年に明石神社の境内にて復元された。他の3つのお人形様と異なるのが、屋根がついていてお参りの鈴と紐が取り付けられていることだ。

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朴橋のお人形様

毎年4月の第2日曜日に衣替えと祭礼を行う。起源としては、古い面や幟(のぼり)にあった安政元(1854)年の銘から少なくともそれ以前に存在していたことが伺える。顔の色調や信仰内容は屋形のお人形様とほとんど変わらないが、口元は小さく金歯で頬ひげもなくさっぱりとしている。一説によれば、女性を模しているともいわれる。幟には、「奉納 久比毘古命(くいびこのみこと)」と書かれており、古事記によれば「久比毘古命は今に山田の曾富謄(そほど)という」とある。曾富謄とは案山子(かかし)に与えられた神の名のことだ。現地を訪れて見て感じたのは目の威力の凄まじさと静寂に包まれた環境の素朴さだった。このお人形様の後ろには、黄色い内部が露出している切り株があり神秘を感じた。

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屋形のお人形様

毎年4月の第2日曜日に衣替えと祭礼を行う。昔は旧暦の3月15日に実施していた。朴橋とともに忌みがかりの家は参加を遠慮するが、屋形ではそれに加えて出産の赤不浄だと参加が難しい。起源としては、幟に文化15(1818)年、古い面に文化5(1808)年旧3月15日と記されていることから少なくともそれ以前には存在していたと考えられる。屋形公園内に西向きに立てられている。ご祭神は幟に「天由布都々神(あめのゆふつつのかみ)」であり、「由布都々」は金星のことである。この星に関わりのある「須佐之男命(すさのおのみこと)」のことだろうと言われている。一説によれば、男性を模していると言われる。実際に現地を訪れてみて、後ろ側から年記銘の書かれた内部の木を見ることができた。また、お人形様の製作に使われたと思われる竹かごが置かれていた。このお人形様の手前に紐と木で鳥居のようなものが作られており、神域を意識した。

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船引駅のお人形様

屋形、朴橋、堀越の各お人形様保存会が合同で「船引町お人形様保存会連絡協議会」を組織し、夏と冬の2回衣替えを行う。お人形様の維持は、交通安全や観光に寄与することなどから、JR 船引駅船引駅友の会、芦沢屋形お人形様保存会有志、船引町観光協会船引町商工会が会員となってはじまり、平成元年12月から設置している。

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お人形様観光化の現状

各場所を訪れてみて、訪問者は自分しか見かけなかったのと、お賽銭を入れている感じはなかった。お土産に関しても田村市のホームページには豊富に記載があるが、アンテナショップなどお土産を取りまとめる場所がなく観光客向けへの提供を積極的には進められていない。お人形様パンについては、5つ以上を事前に注文した場合のみ作るなど、常時作っていないものもある。予想以上に観光化は進んでいない印象で、船引駅構内のお店をアンテナショップのように活用するのもありだと感じた。ただ、個人的には素朴な暮らしの中にある風習として細々と続いた方が、観光により本質が失われるよりもずっと良いと思う。

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Ps. 悪魔はらいの獅子頭

民俗芸能とは別の文脈で、船引には悪魔払いの獅子があるという。とりわけ阿武隈川沿いの東側の地域、田村町·西田町(郡山市)、三春町に多く、船引町には芦沢·七郷地区に見られる。年の初めに家の中の悪魔を追い払うという意味で正月中に行われるものが多い。また、芸能を演じる必要がなく、獅子頭を単にもって歩くことで呪力を発揮することから、子供達が担い手になる場合が多くある。また、青年団や若者組によって行われるところも存在する。船引町堀越の井堀地区では、獅子頭が脱落して獅子の採物の幣束が代わりにお祓いして回る。また、田村市歴史民俗資料館の方によれば、(獅子頭との関連性は定かではないが)辻つまり村境に幣束を立てるという習わしがある村もある。船引町では、本郷、上区、石沢などで獅子頭を持つ悪魔払いが行われている。椚山は明治期に断絶した。これらの獅子の起源は太神楽で演じられる「悪魔はらい」から取り入れた行事だろう。

 

船引の芸能としての獅子舞の起源は、貞観八(866)年に坂上田村麻呂常陸国の鹿島大神宮より遷座した鹿島神社にて三匹獅子舞が奉納された時だという。これが本当であれば、日本全国の獅子舞の歴史からしてもかなり早い時期に獅子舞をしていたことになるためとても興味深い。その後は中絶して江戸時代に悪病と大飢饉に見舞われ獅子舞を奉納しようということになり、文化7(1810)年に会津の七兵衛から新しく舞いを伝授され、音曲は田村郡菅谷村の人を招いて教えてもらい獅子舞を復活したという。非常に興味深いのは、お人形様が作られ始めた時期と目的が獅子舞の復活とかなり近しいということ。秋田で2021年2月に人形道祖神を取材した時に、獅子舞と人形道祖神の分布は重なるという興味深いお話をちらっと伺ったのだが、その時の話が立証されたような気がする。

 

Ps.地蔵尊や祠の謎

3体のお人形様を徒歩で見て回る際に、見慣れない物をいくつか発見した。まずは、木の幹に立てられた幣束。地蔵尊の文字が微かに見られる。地蔵尊と言えば、お墓に向かう手前の道に地蔵尊と書かれた木札も乱立していた。その他、至るところに小さな祠があり、大きな神社というのが少ない代わりに身近に小さな拝む場所を設けているというところに、自然崇拝と原始的な祈りを感じた。

 

参考文献

船引町船引町史 民俗編』1982年

萩原秀三郎『境と辻の神』東京美術 1988年

その他 船引町お人形様保存会連絡協議会 観光パンフレットや田村市教育委員会作成の現地の看板など。

愛知県愛西市にて、日本最古の年記銘の獅子頭について取材

愛知県愛西市の年記銘付きの獅子頭で最古のものを取材させていただいた。なぜ最古のものが、愛知県にあるのかという謎を解き明かそうという試みだった。以下、オマツリジャパンで執筆させていただいた記事を一部転載させていただく。

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(以下、2021年3月5日に行った市役所インタビューや文献調査の内容等)

日本最古の獅子頭。どこにあるのかご存じだった方はいるだろうか?実は愛知県愛西市の日置(へき)八幡宮という場所に保管されている。これは「年記銘がある」という条件付きではあるが、記録が辿れる獅子頭の中では最古ということのようだ。なぜこの場所にこんなにも古い獅子頭が存在するのか、そのルーツを探るため現地を訪れてきた。コロナ禍で獅子舞が見られない中、獅子頭に着目してその知られざる歴史をお届けしたい。

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この地域では現在、獅子頭を作っている方は少なく、専業でされている方も聞いたことがないそう。仏像を彫る方はいるようで、獅子頭を彫れるとしたらこのような方々かもしれない。また、獅子頭に使うような木材(ヒノキやエノキなど)が豊富な土地ではない一方で、物や情報が行き交う流通拠点だった歴史があり、川が多いという特徴がある。例えば川の上流から木材を調達して作ったとか、どこかから獅子頭のデザインが持ち込まれたとかは十分考えられる。ただ、獅子頭の由来に関する記録はほとんど残っていないそうだ。江戸時代後期に編纂された『尾張名所図会』には「同(八月)十六日、神賓蟲拂ありて、古き弓矢・獅子頭及び經巻等を諸人に見せしむ」とあり、この獅子頭が古くから社宝として伝えられていたことはわかっている。

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この獅子頭の形態は上あごと下あごに分かれ、下あご部分はのちに修復された。上あごは建長四(1252)年製作で、下あごが享徳三(1454)年製作である。この神社では獅子舞をしたという記録はなく、現在も獅子舞を実施していない。獅子頭のみが神社の敷地内に保管されていた。県道の敷設に伴い、神社の移転をする時に整理をしていた際に出てきたとのこと。その後、元興寺文化財研究所に搬入され、獅子頭に「建長四年壬子八月」の文字が刻まれているのが発見されたようだ。これで製作年が判明し、2007年1月10日に愛西市の指定文化財に指定された。

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蔭山誠一著『愛知県日置八幡宮所蔵木造獅子頭考』(2008年)には、獅子頭の形態の変遷から日本全国の獅子頭のルーツを推測した記述がある。獅子頭のデザインに地域的傾向はあるもののモザイク状に分布しており、地方の神官や職人などが流入してきたものを元にして各所で獅子頭を製作したと考えられるようだ。中部地方や東海地方に分布する中世の獅子頭のデザインには、京都を起点として様々な類似性が見られるとのこと。愛知県愛西市日置八幡宮に関しては、鎌倉時代から室町時代前半まで源氏と縁の深い左女(さめ)若宮八幡社領であった点に注目。京都にある若宮八幡宮を起点に、八幡信仰興隆を背景として製作された獅子頭なのではないかとのこと。日本全国の獅子頭の分布から愛西市獅子頭について考えるのもとても興味深い。

 

▼上記内容はこちらのオマツリジャパンのサイトにて執筆させていただきました。

omatsurijapan.com

 

▼愛知といえば寄木型の獅子頭。石川県加賀市東山田町との関連性が考えられるが、今回の取材から明らかにすることはできなかった。もし繋がりがあるとすれば面白い。

ina-tabi.hatenablog.com

 

【2021年3月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺敷地町 冨塚町 下河崎町

今年度最後の石川県加賀市獅子頭取材を行った。小学生向けの獅子舞の本(2020年度版)の作成に向けた最後の取材だった。本の打ち合わせやイベント出店(カガコレ@竹の浦館)などもあり、とても充実した3日間の滞在となった。その最終日(2021年3月4日)に、大聖寺敷地町、冨塚町、下河崎町の3地区を取材させていただいたので、その内容を主に振り返る。

 

大聖寺敷地町

加賀市の獅子舞の中でも一番古い地域の一つとして、敷地町が挙げられることが多かった。ぜひ取材させていただきたいと思い、山口美幸さんにアポを取っていただいた。敷地町の役員をされている藤野幸三さんと青年団に関わっておられる小坂貴行さんに、敷地町公民館にてお話を伺った。ライター仲間のおばたみなこさんにも来ていただき、今回の獅子舞取材などを題材にしたYoutubeの撮影もしていただいた。その時に伺った話を記録しておく。

 

この地域の獅子舞は、春と秋のお祭りの時に行う。秋の獅子舞の流れが特殊で、加賀二ノ宮である菅生石部神社で奉納の舞をしてから、町内を回り、最後に田んぼで終える。この地域は農村地帯だったので、収穫感謝のお祭りだ。昔は、結婚式で「ノミの舞」を披露したこともあった。これは、東山田町の「ノミ取り」の舞いと同じ方かもしれない。獅子頭の特徴は顔が縦に長くて奥行きがあり、目が大きく、角が小さい。そして、髪は赤い。明治三十五年に作られたかなり古い獅子頭で、どこで作られたのかは不明。獅子頭の裏側には、「塗り師 佐藤寅吉、彫り師 材谷喜三郎」とお二人のお名前が彫られている。また、獅子頭の底面に取っ手がついているので平行に置くことが難しく、撮影をしようとすると少し傾いてしまう。この作りの獅子頭は非常に珍しい。大聖寺の菅生町の郵便局に飾られている獅子頭に似ている。獅子舞は現在、休止中だ。

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そのあとは天気が良かったので、車で菅生石部神社に移動して撮影。宮司さんにお話を伺ったり、獅子頭の写真撮影をさせていただいたりもした。門は随身が左右に控え、神様をお守りするという形である。江戸時代の終わりに、前田藩の山上善右衛門嘉広さんの系統の大工さんが手がけた門とのこと。門のところに掛けられていた絵馬が履物(下駄)の形をしており、正面で履物(下駄)を履き替えてお参りをして、後ろの門から出ると病が治癒するというお話にちなんで、履物(下駄)の形をしているとのこと。また、この神社は街道沿いに位置しているので、旅の安全や健脚になるという願いも込められているようだ。また、境内には県で二番目に古い狛犬があり、1600年ごろに作られた。前足が取れてしまっているので、土にのめり込むように置かれている。神社と竹割まつり(御願神事)は1300年の歴史がある。

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②冨塚町

冨塚町は獅子舞が盛んだと聞いて、山口美幸さんにアポを取っていただいた。青年団団長の木村脩生さんにお話を伺った。団長がなんと22歳!青年団が若いのが特徴である。青年団のLINEグループに入っているのが15人で、そのうち獅子舞のために稼働しているのが10人とのこと。青年団には高校1年生に入り、25.6歳で卒業する。冨塚町の青年会館で撮影させていただいたのだが、提灯の数と大きさにびっくりした。祭りは8月17日、18日で行う。7月中旬から1ヶ月ほど練習をする。獅子舞が町内を回るのは18日のみ。午前3時半くらいから準備を始め、午前5時くらいから町内を回り始める。夕方までで1日で100軒回る。獅子舞の演目は2部制となっている。棒振りは2人いて、それぞれが1部・2部という風に舞う。ご祝儀を払った人は値段と名前が木の板に書かれて張り出される。回る数は100軒以上である。基本的にはお金を出す人は変わらないが、金額が変動することはある。獅子舞の尻尾の木の材質が珍しく驚いたが、材質についてはわからなかった。獅子頭は2つあり、軽くて古いほうが練習用、重くて新しいほうが本番用となっている。

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ps. 2021年3月8日追記

冨塚町の獅子舞に関して、山口美幸さんが木村脩生さんのおじいさん(木村政幸さん)とおばあさん(木村富美子さん)から詳細なお話を聞いてくださった。『富塚史』によれば、獅子舞の由来について、白山麓より中谷忠作氏達が青年団時代(大正期)に習ってきたのではないかと言われ、それを出村春一氏が野田村に伝承したとされる。ただし、白山市ではなく粟生(能美市)から獅子舞が伝わったという話もある。毎年8月18日の秋祭りの他、4月10日に行われる「焼祭り(やきまつり)」でも獅子舞が行われる。これは冨塚大火の供養の意味があり、夕方5時頃から役員宅約8軒と火を出した家を回り獅子が舞う。今51歳の息子さんがなぎなたを振る(棒振りとは違う)とき、亡くなったおばあちゃんが赤装束と青装束の2人分の装束を縫って奉納した。赤はなぎなた用で、青は棒振り用である。その後は孫が役を引き継ぐことになり、今度はそのおばあちゃんが2人分縫って奉納した。

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ps. 2021年7月7日追記

木村政幸さんと木村富美子さんに追加で取材を行なった。

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その時にいただいたメモを貼り付けておく。基本的には、この内容に沿ってお話を伺った。今年はコロナ禍でも、8月17日に獅子舞を行うかもしれない。衣装は前の人の作ったのを見て、基本的に手作りで行なっているようだ。富塚の獅子舞の青年団が若い理由としては、祭りのために若い人が帰郷するからかもしれない。若い人が多い分、アイスクリームの差し入れを出してくれる家もある。

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③下河崎町

南郷地区の取材が十分にできていなかったこともあり、吉野裕之さんに下河崎町の区長である菅村修一さんにアポを取っていただいた。吉野さんと山口美幸さんに同行していただき、下河崎公民館にて獅子舞の撮影を行った。獅子頭は2つあり、新しい方は非常に大きく、井波で作られた。ぎょろっとした、かっこ良い表情をしている。鼻の塗りがはげたので、鶴来で修理をお願いした。古い方は髪の毛が抜けており、紐が髪の毛のように見立てて付けてあった。ベロが上に少し反っている。蚊帳は小さいが、中には2人入る。

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獅子舞は、昭和30年くらいに菅生町に習いに行った。春祭りで3月中旬ごろに行う。朝は8時から始まり、半日で終わる。青年団は4から5人しかいない。演目は2つで「マイ」と「マクリ」がある。舞は寝ているのを起こしてから暴れるような感じ。昔は今よりかなりゆっくり舞っていた。交代で10軒ずつ舞うが、重い獅子頭で祭が終わる頃には腕がぱんぱんになったそうだ。合計で50軒まわる。昔は家でやる結婚式で獅子舞をやった。「おめでたいことをやる」とかけて、「鯛をとる」という所作があった。獅子頭の口から手を伸ばして新郎新婦の間に置かれている鯛をとるということだ。現在は太鼓を叩ける人が少なくなったという印象がある。4月以降、Youtubeの配信や獅子舞のパネル展示も検討しているとのことで、ぜひ関わらせていただけることがあればと思っている。

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今回は実質3日間と短い滞在であったが、毎日とても充実した滞在となった。今年度末には獅子舞をまとめた子供向けの本が出来上がる。山口さんと吉野さんとは、最終調整に向けた会議も行った。今後の仕上げに向けて修正点を直して、後ほどお披露目したい。改めて、地域の皆様にとてもお世話になった滞在であった。

 

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ps. 石川県加賀市の竹の浦館にて3月末まで開催中の「カガコレ」。搬入が完了しました!ぜひ獅子舞のブースにお立ち寄りください。写真集「我が愛しの獅子鼻」、獅子舞Tシャツ(緑·白)、獅子舞の写真等を販売しています。もし在庫がなくなっていた場合、お問い合わせいただければ郵送します。ネットショップからもご覧いただけますのでぜひご覧ください。よろしくお願いいたします。

 

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本記事の写真:山口美幸さん, おばたみなこさん

 

おばたさんのyoutube 「みな旅チャンネル」はこちら。最近まで日本一周の旅をされていたようです。https://m.youtube.com/channel/UCL8OBoIeX6I_67EeOBfKcdA

 

獅子頭を埋める習俗を埼玉県吉見町や東松山市にて研究

日本各地に、獅子頭を土の中に埋める風習がある。この風習はどうして広まったのかということが以前から気になっていた。厄払いの一種ではあろうが、なぜ、舞ではなく埋めることによって厄を払ったのかがとても気にかかるのだ。

 Google Mapで獅子頭と検索したところ、関東圏では埼玉県吉見町というところに、「獅子封じ塚」なるものがあるらしい。きちんと立て札が立っていて、「数百年前にここに獅子頭を埋めました」と書かれているが、誰が建てたのかは不明である。ポンポン山公園という公共の公園の敷地内にあるとのこと。

 GoogleMapの写真をよく確認したところ、公園の看板に「公園施設についての連絡先」として吉見町の「まち整備課都市計画係」のお電話番号が掲載されていた。ここにお電話をしてみることにした。色々な部署の方に聞いていただいたようだが、結局、獅子封じ塚に関することをご存知の方はいないようだ。「地域のご高齢の方に聞いてみるしかないかもしれません。」とのこと。それでもご丁寧に対応していただき、本当にありがたい。実際に現地に行って、周辺でヒアリングを進めていくしかないようだ。

 この獅子封じ塚近くには、獅子塚神社という神社もあるらしい。それを含めて考えれば、獅子塚文化圏なるものが埼玉県吉見町から東松山市にかけて広がっていた可能性がある。それを考慮に入れて、北鴻巣駅あたりから東松山駅までの約16kmを歩き、獅子塚文化圏の謎を紐解くこととする(2021年2月21日に実施)。

 

①獅子封じ塚周辺の様子

獅子封じ塚は、ポンポン山公園の入り口の場所にあった。ポンポン山公園は、頂上付近の土を踏み鳴らすと、ポンポンという音がすることからこの名前がついたそうだ。地形上地下に空洞化小さな隙間のようなものがあるのかもしれない。ポンポン山公園の敷地は、一部高負彦根(たかおひこね)神社の社殿にもなっている。吉見町では最も古い神社のようで、710年には創建したと伝わる。この神社の鳥居脇に獅子封じ塚があるというわけだ。この関係性を考えると、神聖な場所に獅子を封じることによって、厄を鎮めるという意図が見えてくる。

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獅子封じ塚の立て札に書いてあった内容をここに引用しておこう。

昔、高生郷(現在の田中)には、獅子舞いの古い行事がありました。今から、数百年前ごろの旧暦六月の某日、悪疫退散のため獅子頭を冠り、戸毎を訪問する行事が行われておりました。しかし、ある年、痢病が著しく発生し、死者も多く出たので、村人たちは、これは産土神のお咎めではないかと恐れ、獅子舞を境内に埋没し、その上に、柊(昭和十二年に大柊は、県指定文化財となるが、現在は二代目)を植えて、獅子封じをしました。それ以来、痢病もおさまり、平和になったと言われています。

※痢病・・・腹痛や下痢の激しい伝染病の類。

産土神・・・その生まれた土地を守護する神、鎮守の神。

※高負彦根神社の三鉾・・・湊石(御神体)、大柊、菊水(湧水)

 この立て札は誰が書いたものかを吉見町の「まち整備課都市計画係」の方に尋ねたがご存知ないそう。この立て札を見ていると、様々な疑問が浮かんでくる。まず、なぜ悪疫退散のために、獅子頭を埋めねばならなかったのかということだ。獅子頭といっても、地域の人にとっては結構高価な買い物であった場合も多い。それを簡単に埋めてしまうという意図について知りたいのだ。獅子というのは、厄を食べてくれる一方で、厄そのものであり獅子殺しの対象とされることもある。その負の側面を強調した行為として、獅子頭を埋め厄を鎮めるということなのかもしれない。ただ、これは完全に個人的な推測の域を出ない。そして、「数百年前」とはいつ頃で、周辺でも当たり前のように行われていたことなのか。それらが明らかになれば獅子塚文化圏の謎も解けるであろう。

 以下の写真が、獅子封じ塚を裏側から見た様子である。看板を写さずにとって、その構成物を純粋に眺めてみる。木は4本植わっており、そのうち1本が先ほど看板の文章に出てきた柊(ひいらぎ)である。獅子封じ塚は石によって360度囲まれており、たまに丸く穴が空いた石がある。

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 周りを囲む構成物としては、他に石柱が2つあった。どちらも基礎となる平らな石の上に尖った石を乗せておいてある。刻まれた文字を解読することはできない。道祖神とかその類のものであろうか。

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ポンポン山公園や高負彦根神社にくる地域の方々にも獅子封じ塚について「何かご存知のことはありませんか?」というような風に尋ねてみたが、その存在自体気に留めたこともないというような返事で、詳細を知る者はいなかった。

②獅子塚稲荷神社周辺の様子

次に訪れたのは、東松山市の獅子塚稲荷神社だ。獅子封じにまつわる記述を見たわけでもないのだが、おそらくこの神社名から察するに獅子封じと関係の深い神社だと思われる。ただ、行ってみたところで、何かがわかるわけでもなかった。社殿は工事中で、中に何が祀られているかわからないが、比較的新しそうな印象を受ける。神社の両脇には、丸く刈り込まれた木が数本植わっており、周りは農地や茅場、まばらな家ばかりだった。梅の木に花が咲いており、印象的だった。

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 東松山市立図書館での文献調査

それでは最後の頼みの綱としてよく利用する図書館へ。こういう場所に行けば、大抵のことは解決する場合が多い。実際に獅子塚文化圏に関する記述はあるのだろうか。

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以下、読んだ内容をまとめておく。

・倉林正次, 『埼玉県民俗芸能史』, 1970年, 錦正社

この本の中で、「臨時に獅子舞を行う場合」として、2パターンの獅子舞の形態を紹介している。それが「雨乞い」と「悪魔払い(疫病除け)」である。まずは、雨乞いについて。埼玉県内には、獅子舞が出ると雨が降ると言われている地域がいくつかあり、頭が竜の形をしているから雨を呼ぶのだという。埼玉の獅子頭は獅子型と竜型に大別され、後者に関する話だ。利根川水系の地域では、竜頭が洪水の時に流れてきたとか、流木で作ったとかいう伝説も数多いという。この雨乞いが伝わる地域として、埼玉県春日部市銚子口、北川辺町児玉郡大里郡熊谷市石原、児玉町東小平東松山市神戸、加須市飯積などがある。飯積は、栃木県野本町や茨城県猿島郡などに雨乞いの応援に行ったこともあるそう。この雨乞い獅子の特徴としては、沼に獅子頭を沈めて祈祷したり、獅子を擦って辻々を廻ったり、雨乞いの歌(悪魔払いの歌)を伝ったり、東方より雨が降るように笛を吹いたりするようだ。

 それでは、もう一方の悪魔払い(疫病除け)についても見ていきたい。火伏せの獅子といって、火から家を守ってくれるような獅子がいるそうで、これは東北の権現様の話にもよく似ていると思う。また、コレラなどの伝染病や病気が流行った時には、各戸を獅子頭を持って練り歩くということをしたようだ。舞を神社や家の庭先で舞う場合もあもあるとのこと。これらの形態の獅子を持つ地域は、埼玉県越谷市下間久里、東松山市野本・神戸、白岡町小久喜、深谷市柏合、北足立郡上尾市平方、加須市樋遣川・飯積などである。ここでは、祈祷、辻固め、辻斬りなどの行事などとして開催される。以上のような「雨乞い」や「悪魔払い(疫病除け)」に近い考え方として、今回の獅子封じのような考え方も起こったのだろうと推測ができる。

 ちなみに、獅子舞起源説に関して、興味深い話がある。源氏の武将を起源としたものが多く見られるのだ。例えば、源頼義、義家、義光などが安倍氏を討った前九年の役後三年の役の時に、長期化する戦いの中で士気を高めるために獅子舞が始まったという説が埼玉県羽生市中手子林に伝わる。また、北川辺町飯積の獅子頭漂着譚としては、源義経の乳母が獅子頭と一緒に流れてきたとか、コウガケ(手足の甲を日光や埃から守る布)の笹竜胆は牛若丸の定紋だとか、大八車は弁慶の紋をかたどるとか、そういう話も伝わっている。

それでは、次に今回訪れた獅子封じ塚がある「吉見町田甲」と、獅子塚稲荷神社がある「東松山市東平」の獅子舞についてみていこう。

・吉見町町史編さん委員会, 『吉見町史上巻』, 1978年, 吉見町

吉見町田甲の獅子舞に関する記述はない。高負彦根神社の御祭神は高負比古命で、大宮氷川神社に伝わる『武蔵国系図』によれば、武蔵国造家の遠祖神である五十根彦(いねひこ)命と同一神であり、出雲建子(いずもたけこ)の孫の身狭耳命の子である。ちなみに高負はたけぶと読むことができ、雄叫びをする猛々しさを意味する。実際に、『日本書紀』の記述には、五十根彦命が荒々しいことを想定した記述がある。吉見町という大きなくくりで考えれば、獅子舞は奉納のものと水祝儀のものがあった。1788年に前河内村からの役所への願上書に水祝儀の記述が出てくるが、獅子舞が農業の束の間の娯楽として行われ、それが度々遊興の一種として禁令の対象とされていたというのだ。今、民俗芸能を継承しようという動きとは真逆で非常に興味深い。

東松山市教育委員会事務局市史編さん課,『東松山市史. 資料編 第5巻 (民俗編) 編』, 1983年,東松山市出版

東松山市東平では、大正時代中頃まで獅子舞を実施していた。伝右エ門さんという人物が最後の獅子舞の担い手であったという。獅子舞の最中にダイノコボ(男根)を振り回すシーンがあり、女子を騒がせたそうだ。あんまりしつこくてもダメで、真面目過ぎてもダメ、その塩梅が難しい役を務めたそうだ。そのダイノコボに当たると、「蚕が当たる」と喜んだとされる。小正月に削り花、まゆ玉などとともに、ダイノコボ(男根)、ショウノコボ(女のもの)などを作ったことが関係しているのではないかとのこと。獅子封じや獅子塚、獅子塚稲荷神社に関する記述はない。

まとめ

あれこれと調べてみたが結論から言えば、獅子頭を穴に埋めるという行為がなぜ行われたのかについて直接的に知ることはできず、間接的にいくつか近い事例を見つけることができた。手応えはさほど大きくはないものの、少なからず「雨乞い」や「悪魔払い(疫病除け)」系統の獅子の延長に、獅子頭を穴に埋めるという行為の存在を見て取ることができた。獅子塚文化圏なるものがもしあるとすれば、その世界観についてもっと知っていきたい。

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ps. 日本全国や海外という話で言えば、いくつか獅子頭を埋めるという行為についてわかっていることがあり、参考までに共有しておく。ここで語られるのは、仏教における「供養」を意味する獅子の存在だ。荒ぶる死霊を百獣の王・獅子の呪力で払い除けるという考え方である。『中華全国民俗誌』(下篇巻二)によれば、中国山東省では死人が出た時に親族や友人が獅子を作って棺の前で舞踏するという風習がある。同様に、日本各地でも供養に絡めて様々な奇習が存在する。葬礼の先頭に獅子頭を捧げて歩く風習が東北に見られたり、捕獲した鹿などの霊魂動物を供養すべく獅子頭を埋めて獅子塚を作り「霊地」としたり、除災を目的に獅子頭を焼いてしまったり。天皇が六十六カ国に獅子頭を埋めたなどという伝説すらある。これらの仏教における供養の意味での寺院を舞台とした話が、神社へと獅子舞の実施が移行するようになった時に、仏祭獅子から雨乞い獅子への変化が見られるのだ。寺院から神社への移行とは、すなわち渡来系の獅子舞が固有の芸能に神仏習合の考え方で附会したと考えるのが良いだろう。かなり漠然とした話ではあるが、先ほどの雨乞いの獅子ともここで話が繋がる。「中山太郎, 『獅子舞雑考』, 青空文庫POD, 2015年」や、「石倉敏明, 田附勝『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』, 淡交社, 2015年」などの文献には、それにまつわる話が掲載されている。

 

ps.2021年3月21日追記

獅子封じ塚の看板に「産土神のお咎め」とあるのは、外来の獅子舞に対してではないかというご意見もいただきました。そのお咎めを受けて、獅子頭を埋めたというわけです。確かに、江戸時代の復古神道などの流れの中で、奈良時代以降に流入した大陸関連の芸能に抵抗感がある人々がいたという可能性は無きにしも非ずですね。

【岐阜県郡上市】猪鹿庁の取り組みから考える猟師のこれから

都市部に住む若者が、山に住む猟師の暮らしを学ぶ。そんなきっかけをどこかに探していた。自分自身、肉を食べさせてもらっている1人消費者でしかなく、実際に獲物をとって解体する苦労も有り難みも知らない。現代の暮らしは効率的であることと豊かさが必ずしも一致するわけでもなく、それに気づきつつある都市部の若者は多いと思う。実際に獲物が取れるかもわからない、でも狩りにいく。実際に獲物が捕れない日もあり、一見非効率な営みである。でも、自然と対話する豊かさと捉えることもできる。

 

今日は都市部の若者が山に住む猟師に関わる方法を探るべく、猟師の方にオンラインでヒアリングを行った。岐阜県郡上市に「猪鹿庁」というグループがある。インターネットで検索してみると、猟師の業界では見たこともないほどキャッチーなHPが出てきた。単に狩猟をするだけではなく、ツアーやイベントなどを行い、積極的に狩猟の素晴らしさを発信されているとのこと。とても興味が湧いてきた。詳しい活動内容を知りたいと思い、友人にリーダーの興善健太さんを繋いでもらって、ZOOMでお話を伺った。

 

▼猪鹿庁のHPはこちら(写真はHPのトップ画像)。

inoshika.jp

 

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活動に至る経緯

まず、猪鹿庁というグループが生まれるまでの経緯について。

興善さん:初期のメンバーは移住者たちです。林間学校のスタッフをしていたが、冬の仕事がありませんでした。そこで、地域の方々に昔、冬は何して食っていたのかを聞いたら藁仕事とか夜なべがほとんどでした。一方で、イノシシの市場があって狩猟文化もあり、スキー客に振る舞うというお話も出てきました。それなら自給自足の一環として狩猟をやってみるかということで、今の活動を始めたのです。今まで経験してきたのは、グリーンツーリズムなど、自然の楽しみを伝えていくような仕事でした。それを狩猟の分野でも生かして体験ツアーなどを企画できるかもしれないと感じました。それが、この猪鹿庁の活動にもつながっているのです。僕らは、「猟師は里山保全者だ」と考えて、活動をしています。猟師として生きることは山を守ることでもあるからです。近年は、豚コレラが流行したので、イノシシ少なくなって、ジビエの事業が縮小しました。だから、どんぐりなどの実のなる木を植えて造林をすることだってありました。

 

次世代への継承と発信

興善さんの活動は狩猟という世界を広く捉え、山として保全してどう継承していったらいいのかという考えのもとに行動していることがわかる。それでは、次世代へ継承という意味で、狩猟の業界ではどのような発信を行なっているのだろうか。

興善さん:メディア戦略は、地元と外で完全に分けて考えています。地元に関しては常に謙虚な姿勢で、年長者を立てます。儲からないボランティアの仕事も率先して行います。外に関しては、ブログやSNS、狩猟体験ツアー、イベントなどで、少し茶化して発信します。それから、真面目な農水省との研修も丁寧に向き合っています。まずは、肉を食べてもらうことが重要です。ツアーは一泊二日にして、夜のバーベキューで肉を食べてもらうようにしています。外からの移住者という意味では、子供達と遊ぶ住み込みバイトや、郡上カンパニーの移住促進に向けた取り組みなどを経由して興味を持ってもらう場合が多いです。

 

猪鹿庁では、クラウドハンターという活動があるそう。罠の狩猟の現場に都市部の人を連れてきて、トレイルカメラにsimカードをさして、自分のかけた罠に獲物がかかると携帯に通知が来る仕掛けがあるとのこと。この仕組みを使えば、都会にいて山が身近になく地方移住ができない状況の人でも、関係性さえ作れば猟師になれる可能性も広がる。まさに、猟師の関係人口が生まれつつあるのだ。

https://inoshika-tour.tumblr.com/201810_c_hunter

 

和歌山県では、「山肉山分け」という取り組みもあるそう。罠を仕掛け、仕留め、解体するところをライブ配信しているとのこと。インターネットからでも身近に狩猟の現場を知ることができるというわけだ。

https://damonomichi.com

 

里山循環と今後取り組むべきこと

これからの狩猟とその背景にある里山の循環を考える上で、今後取り組まなければならないことについてもお話を伺った。

興善さん:脂ののった熊や猪は需要があります。鹿は普通に美味いが、熊よりは劣ると考えている人も多いです。猟師に美味い鹿肉があることを知ることから始めるべきかもしれません。低温調理をするのが肝、焼きすぎるとパサパサになります。あとは、有害駆除費、捕獲奨励金がもらえるから、捕った獲物を加工しなくても良いという考えもあります。でも、せっかく頂いた命なので、食べてもらった方が良いです。郡上市は4〜5箇所も食肉加工場があります。行政が率先して、それらの加工場を立ててくれるのです。200万円くらいで立てることもでき、地域に一つはあった方が良いでしょう。さらに、それを管理する人がきちんといることは重要です。

 

ジビエ工房めいほうという加工場があるそう。

http://gibier.meiho.info/meiho.html

 

獣害対策や野生生物管理に関するジョブマッチングもあるのだとか。

http://furusato-kemono.net

 

今回お話を伺ってみて、都市部の若者がオンラインやオフラインで、狩猟の現場に関わる機会は少しずつ全国で増えつつあることを実感した。しかし、実際に移住してどっぷり狩猟をしたいという人はまだ少ないようだ。10年間活動してみての実感だという。しかし、都市部にいながらも、自分がかけた罠の様子をチェックできる「クラウドハンター」というサービスや、オンラインでも狩猟の現場に立ち会える「山肉山分け」という取り組みなどは、とても画期的だと感じた。これがうまく自分でも主体的にやってみようという動機にもつながればと思う。自分は文章や写真を通じて、何かを発信していける立場でもある。今後、狩猟の業界にどう貢献しうるのかをまたじっくりと考えていきたい。