【2020年7月】石川県加賀市・獅子頭の写真撮影まとめ

2020年7月の獅子頭撮影をした際に見たこと、聞いたことをここにまとめておく。ブログ記事というよりかは一次資料に近い形で、とりとめもなく情報を羅列しておきたいと感じ、ここに記す。

 

2020年7月14日撮影

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大聖寺大新道(加賀神明宮・太田真也さん)

・加賀神明宮の中に1頭保管されている。拝殿内で撮影。

 

大聖寺魚町(加賀神明宮・太田真也さん)

・加賀神明宮の拝殿の神棚の右に設置してある獅子頭箱に1頭保管されている。拝殿内で撮影。

 

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③④⑤片山津温泉2~4区(末友哲二さん・山口美幸さん同行)

・5区の集会場に保管されている。2~4区は共同の獅子頭が1つあり、それで地域の獅子舞を行なっていた。現在は、小道具が残るのみ。

・後に2~4区は5区と合体された。

 

片山津温泉5区(末友哲二さん・山口美幸さん同行)

・5区の集会場に保管されている。集会所は一見、民家でわかりにくい所にあるが、もともとは芸妓さんが練習などを行なっていた場所。

・踊り手の着物が真っ白で、巫女さんのような印象を与える。

・子供への化粧がとても手が込んでいる。目元がはっきりした印象。

・獅子舞に関する会計の記録は毎年一冊ずつ帳簿にまとめて大事にとっている。

・ホテルでお客さん向けに獅子舞を踊っていた時代があった(32年前の写真あり)。各旅館の浴衣を来て踊った。尻に獅子がかぶりつくような演技があった。

 

2020年7月15日撮影

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大聖寺弓町(区長の中野さん・地区会館中村さんの紹介)

・弓町の公民館に保管している。

・雌獅子がある。ずっと子供の頃から獅子を見ている。

・どこから獅子が伝わったのかは不明。

・耳が大きめの獅子頭が1頭ある。

獅子頭は鶴来で作っている。

・小学校五年生の時に獅子舞を始めた。その時は子供獅子があり、大会もあった。3位になったことがある。

・法華坊とかの方が華やか。

・菅生の人に獅子舞を教えてもらった。

・一番初めに寝ているところから獅子舞が始まり、狩りをするという獅子の動き。

・太鼓の名人がいないと獅子が生きてこない。リズム感が必要。

 

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大聖寺菅生町(区長の中野さん・地区会館中村さん紹介)

・公民館がないので、郵便局に飾られている。

・一方向に穴が空いている箱に入っている。

・獅子は顔が縦長で昔のデザインを彷彿させる。文政3年3月に制作された。

 

大聖寺関栄町(区長の加藤さん・地区会館中村さん紹介)

・関栄(せきえい)親子獅子保存会が行なっている。青年団がない。

 ・親子の獅子頭と古いもの1つの合計3つが保管されている。昭和30年代のものでも、かなり綺麗な状態で保存されている。毎年塗り直しているそう。

・胴幕が緑で、子供が使う。鈴がついている。

・子供を一回崖に落とし、崖から這い上がっていくという逸話があり、それにまつわる小道具を使っている。崖に花が咲いているような衝立のような小道具がある。

・藩政時代には関所があったので、この地域は関町という名前になった。関所の人に獅子を習ったと言われている。

・基本的には座敷の獅子で、外では舞わない。イベントでやってほしいという依頼がある。

・子供獅子の背中が虎のような模様になっている。

・この地域の獅子舞は連獅子をアレンジしたとも言われる。

 

2020年7月16日撮影

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片山津温泉1区(はさばさん・山口美幸さん同行)

・明治の後半に、能登田鶴浜から山口半次郎が伝えた。建具職人で、幼い頃から獅子舞を習っていたものと思われる。

能登の獅子は富山や井波などの関連性が高い。昔盛んに行われていたのは石動(いするぎ)付近の獅子かもしれない。そこら辺から能登に伝わったのだろうか。

・鼻には紐を通して、すり減らないように保護している。同様に、耳にも耳あてをしている。

・目が小さくて鼻が高い印象。

・井波で作っている、加賀獅子らしい顔。

・子獅子と大獅子の2つがある。

 

※荒谷町獅子舞

荒谷の獅子舞は途絶えてしまった。なぜ途絶えて、そこに人々のどのような思いがあったのかを探るべく、林さんのご紹介でかつての舞手を務めた宮啓二(1950年生まれ)さんにお話を伺った。以下、インタビューの一部をそのまま書き起こして掲載する。

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稲村「獅子舞が途絶えたことに関して伺いたいです...」

宮「僕が小学校6年くらいに途絶えて、平成元年ごろに復活。しかし、平成8年ごろにまた途絶えてしまった。小学校5年から中学校3年の人が少なくなったので、若い棒振りができる人がいなくなった。」

稲村「復活した時は何人くらいでされていたのですか」

宮「子供3人、笛吹く人、結婚した人...。30人くらいおったかもな。私が38~9歳くらいの時やわ。その時、陶芸家のマサキさんが復活させたんやわ。」

稲村「その時復活させようとしたのはどういう経緯だったんですか。」

宮「マサキさんが若かったし、外から入ってきた人で3〜4年経った時になんか寂しいなあということで、昔の芸能を年寄りに聞いてやろうということになった。マサキさんは私が何でも準備するということで... .絵が描ける人だったから、半紙に獅子舞を描いて東谷の8ヶ村にポスターとして貼って宣伝した。笛を吹ける人がなかなかいなかったから、滝町のあんちゃんに頼んだ。あとはカヤに入る人や太鼓を叩く人は荒谷の人が務めた。8月のお盆、12~14あたりの日にお宮さん(荒谷神社)に集まった。それから、荒谷と今立の一軒一軒をぐるっと回った。それから、毎年やっていたが、横笛を吹ける人がおらんようになった。横笛は縦笛と違ってなかなか難しい。大抵息が切れるから、2人は必要なんじゃが。それで、徐々に獅子舞ができんようになった。子供も減ってきてしまった。獅子舞は60歳くらいまでしかできん。笛が2人、太鼓が1人、頭が1人でそれも入れて中に入る人が4~5人、棒振りが1人くらいは必要。最低でも合計8人は必要やわ。」

稲村「もっと昔の獅子舞について知っていることはありますか」

宮「昔、荒谷は林業が盛んやった。明治の終わり頃から40年くらいの時に、能登の方から木を伐採する木こりが出稼ぎに来ていた。炭焼きをして、木を植えて30~40年くらい生かして、それを伐採した。その木こりの何人かが(荒谷で)獅子舞を始めた。酒飲むだけじゃつまらん、ということで自分たちの地元の獅子舞でも舞おうということになった。最初はそのグループの中でやっていただけで、地域で始まったというわけではない。」

稲村「その獅子舞はいつまで続いたんですか?」

宮「それはかなり続いたんやわ。大正、昭和くらいまで続いたんじゃないかな。昭和の戦争(第二次世界大戦)で木こりさんは戦艦を作るために忙しかった。昭和35.6年まではやっとったんじゃないかな。徐々に獅子舞は地域のものになってった。でも、石油とかガス、電気の時代になってきて、昭和30年ごろから炭焼きの需要もなくなってきて、人が都会に出て行くようになってしまった。」

稲村「獅子舞の衰退と林業の衰退は同じ時期だったのですね。」

宮「昭和45年くらいには、炭焼きをやるもんもいなくなってしまった。」

稲村「(宮さんが)中学校ぐらいまでは獅子舞が行われていたのですね。」

宮「そう、それくらいまで(昭和35.6年)はやっていたんだわ。そのあと私は大聖寺に働きに出てしまった。ちょうどバブルの弾けた昭和50年に結婚した。それからはずっと大聖寺に住んでいる。」

稲村「いま荒谷の住民はどれくらいいるのでしょうか。」

宮「10人くらいかな。私が小学校の時は50軒くらい(家が)あった。明治の頃は100軒くらいあったんじゃないかな。減少の一番の影響はその燃料の需要がなくなったこと。炭焼きをして人工林を植えるサイクルができていたから、炭焼きの人がいなくなって森を綺麗にする人がいなくなってしまった。昭和50年に最後の人工林が植わった。人工林は15年手をかければ、ほっといても自然に育つ。でも、もう40年もそれらがほったらかし。クマが木の皮を剥いで、蜜を舐めにくる。冬眠の時に手についた蜜を舐める。木は荒れている。」

稲村「獅子舞には、木こりの森に対する畏怖の念もあったんでしょうか。」

宮「そうそう。お宮さんで山まつりというのもあった。能登にはあえのこともある。」

稲村「獅子舞の動作には、森に対する畏怖の念が込められているのでしょうか。」

宮「荒谷の獅子は退治型。獅子は悪いことをするやつということで、それを退治するのが荒谷の獅子や。牛若丸が棒振りで、弁慶を操ったようなものだ。それから、神社には男と女が祀ってある。白山が女の人の白い体に似とるということで、加賀には女の神様がより多い。荒谷のご神体は白山や。人間の弱さかな。なんかにすがるというか。なんかにすがらんと生きてかれん。だから、信仰が生まれるんや。拝むことでよし明日から頑張ろうっていう張りが出てくる。私は今仕事をしていないが、信仰がなかったら人間がダメになってくる。そこらへんの石ころでもいい。拝むことで、自分の精神を奮い立たせられる。(森ならではの獅子舞というのはなさそうで、典型的な加賀獅子の話をしている。ただし、宮さんの考えはアミニズムにも近そうだ。)」

 

以上、インタビューは約1時間半続いた。宮さんの力強く熱のこもった故郷への思いに感激した。そして、今はなき獅子舞の話を聞いて、産業の衰退と並行して信仰や暮らしの衰退がおこるという気づきを得た。

 

2020年7月17日撮影

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11動橋(振橋神社神主さん・平井さん同行)

・五十鈴流で伊勢の獅子。棒振りがない(はさばさん談)。

・橋立から踊りを習った。北前船との関連の中で、交流が活発だったのかもしれない。

・鶴来で獅子頭を制作したようだが、個人的には岩手県の海岸沿いの犬のような風貌の獅子に似ているように思える。

・獅子の歯がかけないように、入れ歯のようなプロテクターが歯に装着されている。

・この周辺は土質が良くないので、橋をかけても振れたことから「振橋」という名前が生まれた。「振れる」は現地の方言で「いぶる」なので、動橋(いぶりばし)となった。北前船の歴史も関連しており交易が行われたことから、北海道にも「胆振(いぶり)」という地名がある。

 

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12中島町(平井さんと山口美幸さん同行)

・地区会館の調理室にて撮影。

・獅子に耳はあるけどすぐ取れるので、取って舞う。

富山県の井波で獅子を制作している。

 

<今回の滞在で学んだこと>

・やはり加賀市の獅子は多様で、由来や歴史を遡るのが面白い。2020年版の獅子頭撮影の写真集を作成する予定だが、獅子頭のストーリーをまとめた小冊子か本の最後に文章を多めにつけたい。

・一人一人のアポ取りで撮影していってもあまり広がりが出ないので、一対多の場所により多く顔を出していきたい。例えば各地域のまちづくり協議会に出席して、本や活動の紹介、獅子頭の撮影地域を募集していくとか、地区会館のような場所に問い合わせるなど。

 

今回の撮影はほぼ全て山口美幸さんの人脈の中で実現しました。急な訪問にも関わらず、本当にありがとうございます!そして、16日夜にご馳走してくださった陶芸家の山下一三さんや、アジフライを食べさせていただいた塩屋のとやまさん、ビールの差し入れをくれた北出さん、アポ取りをたくさんしてくださった大聖寺地区会館の方々、影で支えていただいているあくるめ財団関係の方々など、滞在中には本当にたくさんの方にお世話になりました。これからも加賀の獅子舞の魅力を発見できるようプロジェクトを頑張ります。撮影した写真は、こちらのインスタのアカウントに載せていきますのでご確認ください(下記写真は2020年7月18日現在)。

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https://www.instagram.com/kagashishimai/