【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材2日目 小塩辻・宮地町・千崎町

2020年10月22日

昨日の獅子舞取材は、小塩辻でヤギの飼育などをされている宇谷さんのご案内で、金明地区の3地域を回ることができた。以下、各地区で聞いた話をまとめておく。

①小塩辻町

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小塩辻町の獅子舞は、青年会館に置いてある。公民館ではなく、青年会館というのがポイント。運営主体が青年団になっているのだ。青年会館は鍵が開きにくいが建物自体はとても綺麗で、そこに獅子頭2体と小道具が保管されていた。1つは鼻が少し擦れている年季の入ったもので、もう1つが舞っているときに鼻を地面に叩きつけてしまい割れたが修理したというものだった。この地域は、祭りが始まる朝6時からお酒を飲んで舞っているので、酔いが回りやすく鼻を誤って叩きつけてしまったとのこと。獅子頭のデザインを見ると、白山市鶴来で作られたような形をしている。小塩辻町ならではの特徴は、お花代の額が高額であること。平均的に1万円が相場となっており、区役となると3万円出すところがある。他地域では3000円くらいが一般的。背景としては、競り合いの相乗効果で自然と花代が高額になっていき、区長になるためには家柄やお金がないとなれなかったことが関係している。また、舞の演目が「新と旧」の2種類しかないというのも特筆すべきである。周辺地域は8~10ほどの演目があるので、数が少ない。加えて、近年はどんどん舞い方がシンプルになっているらしい。昔は、目や耳を動かす獅子頭を使用しており、その動作も今より細かかったという。舞い方は独自のものがあり、芋掘りの動作を意識して練習させられるという。蔓を持ってぐーっと手繰り寄せて、獅子の中から芋が出てくるイメージだそうだ。周辺に農家が多かった名残であろうか。

②宮地町

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次に伺ったのが、宮地町である。この地区は青年会館と公民館が隣接しており、青年団の部屋には漫画やお酒などが置かれていて何やら楽しげであった。ここに獅子頭が1つだけ保管されている。宮地町の獅子頭の特徴は、非常に軽いことである。何キロか測ることはできなかったが、これほど軽い獅子頭はなかなかみたことがない。耳の部分が踊ると動く仕組みになっているが、紐で止めてある造りなので、自分で操作することはできない。獅子舞の伝来経路は橋立経由で伝わったそう。昔の橋立は祭りの時に関所のように酒を飲まないと道路を通せんぼするなど、やんちゃで激しく勇ましくて、なかなか近づかなかったという。一升瓶に「愛のメモリ」というのが打ってあったらしい、松崎しげるのオマージュである。今から30年くらい前に、酔いすぎの若者を注意した時に喧嘩になって死亡事故も起きた(ここに関しては真偽不明)。そのイメージがあって、この小塩辻や宮地をはじめとする金明地区の人は橋立は怖いから近づかなかったそうだ。橋立は今ではかなり丸くなったようだ。舞の種類は8パターンもあるが、全部覚えてはいないという。棒振りがゆっくり動くことに特徴がある。舞い方に関しては決まりがあるわけではなく、継承されていくうちに少しずつ変化していく感覚があるらしい。この地域の花代は5000円、歴史のある主屋が1万円、区役がその上となっている。金額によって舞いを変えるわけではない。お花代が高額である背景としては宗教が絡むと助成金をそっくりそのまま受け取れないなどの背景もある。今年は高校生が3人入ったのでピザパーティーをしたそうだ。

③千崎町

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最後に伺ったのが、千崎町である。この地域では獅子舞の小道具が非常に整然と几帳面に収納されている。獅子頭は黒色の雄で、周囲の地域に雌が多いので、その分角があり獅子のサイズも大きいのが特徴である。重さも当然重い。平成二年に制作が行われたと獅子頭の裏側に書かれている。この地域の獅子舞の担い手は非常に若い。小学生から29歳までが青年団で、それ以上が壮年団ということになる。近年は人手不足で、壮年団が青年団の獅子舞を手伝うこともあるらしい。ただし、棒振りは次世代への継承や評判を考えて小学生が行う場合が多い。ここも橋立から獅子舞を習ったと言われており、橋立が獅子舞の中心地域の1つだったことがわかる。舞の種類はなんと10種類もある。お祭りは毎年シルバーウィークにやる。

 

ps. 2021年6月5日追記

メールで獅子舞の動画をお送りいただいた方に、詳しいお話を伺った。千崎町には、手棒という子ども同士で担いで投げるなかなか珍しい踊りがある。あと千崎町には尼御前サービスエリアがありそこで披露するため、旅行者でも獅子舞を見れるチャンスがある。田尻町の獅子は歯の表面が金属なので、噛み付く音に迫力があると感じる。千崎町の獅子舞は田尻町の隣りの小塩町から70~80年前に習ったそうだ。

【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材1日目 山代温泉 市之瀬神社 服部神社

2020年10月21日

今回の加賀市への滞在は11月上旬まで。適宜ブログを更新していくこととする。初日は山代の獅子舞を取材。山代温泉は1区から25区まであるが、獅子が置いてあるのは服部神社と市之瀬神社のみだ。服部神社の宮司をされている野尻さんのご案内で、その2地区の獅子舞取材が実現した。

①山代20区

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まずは、山代20区。獅子頭が保管されている公民館横の市之瀬神社は、天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)、大穴持命(おほあなもちのみこと)、山代日子命(やましろひこのみこと)が御祭神。山代日子命は「山代」の語源とも言われ、大国主命(おおくにぬしのみこと)の子供である。境内にある樹齢600年のシイの木の御神木が非常に神秘的だ。この辺りは前田利家の時代に用水工事を行ったらしく、その際に神の助けが多かったことから、市之瀬灌漑の20あまりの村の総社として神社が祀られている。この地域の獅子舞の由来としては金沢まで習いに行ったとも言われていて、横のつながりで広まったとのこと。武芸鍛錬と獅子殺しが特徴である。また、この地域の獅子頭(1体)は神社ではなく村の人が管理をするという形体を取っている。獅子は井波で作っているそうで、蛇の目や二重の眉毛といった富山の獅子の特徴が所々に感じられる。

山代温泉

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一方で、山代温泉の獅子舞は2回目で、服部神社で取材をさせていただいた。服部神社は和銅年間(708~714年)に筑紫国宗像大神のの工女が山代に来て、機織りや裁縫の技術を伝え、天羽鎚雄神(あめのはづちをのかみ)を祀った所だ。服部神社の社務所の2階倉庫に獅子頭3体が保管されている。白木彫りが2体あり、酒をかける習慣があるため1体は色があせてカビが生えてしまい、もう1体は新調したものである。目や舌が動く仕組みになっているのが香川の獅子舞を彷彿させる。一方で、風貌は橋立の獅子に似ている。この地域の最後の1体は犬のような面をしていて、下ひげが生えており異形である。おそらく、修行僧が伝えた行道の獅子を少しずつ修繕・新調を繰り返して使っているのかもしれない。また、狛犬の系譜とも近い獅子だろう。獅子頭の内部にはビスが打たれていた。山代温泉の3体の獅子はいずれも白山市鶴来で製作されたものだ。

 

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最後に、しめ縄づくりの仕事場を見学させていただいた。藁は市場価格だと1束300円くらいで売られていることもあるが、農家からみると高いと感じることがあるという。しめ縄は、藁の外側のわらしべを取って、3本の藁を絡ませながら製作する。1本1本は時計回りにねじるが、3本を絡ませる際に反時計回りにねじることによって丈夫に作ることができる。短いものから長いものまでしめ縄の種類は様々。短いものは個人宅の神棚などに使用される。しめ縄がそもそも何を意味するかについては3つの説を教えていただいた。1つ目はしめ縄を雲・紙垂を雷とする説、2つ目は五穀豊穣や自然への感謝であるという説、3つ目は神様の領域を分ける結界をつくるという説である。

 

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夜は、PLUS KAGA5期生2人のプレゼンテーションを聞きにいった。預金講の話を加賀で聞いたことがなかったので知らない世界を知ることができた。講といえば、伊勢講のように旅行やお参りという目的に向けて、みんなで貯蓄するようなイメージがあったのだが、飲む口実を作ったり気軽に集まったりするための講もあるそうで多様性を感じた。また、映画を撮るというワクワクする提案もあった。映画を撮るとなると、いろいろ出演者や協力者の名前がポンポン出てきて、地域の人が関わりやすくて盛り上がれる企画だと感じた。また、ルロワさんがフランスパンや種類豊富なチーズなどを差し入れてくれて、フランスパンにも様々な種類があることを知れた。

 

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<追記  山代の獅子舞について>

参考文献①:かが風土記 加賀市総合民俗調査報告書, 加賀市, 2013年3月

服部神社の獅子舞の獅子頭は4人がかりで演じる。囃子方の演奏を「獅子がうなる」と呼ぶ。また由来としては「半兵衛流」の棒振り獅子がもとになっており、獅子退治役は舎熊(しゃんが)を被り、棒、長刀、槍、十手などを用いて、獅子と戦う。旅館がたまに御神酒を出さないときは「獅子、走れ」の掛け声とともに獅子が暴れ、旅館の高張提灯を壊したり土足で旅館の中に踏み入ったりすることもある。

 

参考文献②:やましろ街事典, やましろ街事典編集委員会, 1996年6月

服部神社には獅子舞文庫という仕組みがある。これは八朔祭り(はっさくまつり)の獅子舞で集まったお金を、山代小学校の児童の図書購入に役立てるための寄付制度で1986年に始まった。また、獅子舞の始まりは1930年に金沢(大野)から田中半兵衛流を習い、翌年に重さ10kgの桐の獅子頭を制作したことに始まる。運営主体は青年団→獅子舞保存会→山代倶楽部と変遷している。舞いは「渡辺流」と呼ばれており、トンボの図柄の袴を履くため「トンボ流」とも呼ばれている。獅子頭が老朽化したため、平成7年に鶴来の知田清雲さんが新しいものを制作し、重さ9kgで桐の一木造り、初代と同様に目が動く仕様となっている。

 

(2020.11.5 追記 :金沢から山代に住んだ人がいた。金沢に神田神社というところがあり、そこから獅子舞が伝わったと言われる。八朔祭の始まりと獅子舞の始まりは同じである。昔、春と秋に祭りがあったが、今では秋の八朔祭だけ残った。)

 

能登半島 羽咋-氷見 23km 徒歩 〜知られざる獅子舞集団の道〜

2019年1月より、石川県加賀市で獅子舞の撮影と取材を続けている。今まで33地区回る中で面白いと感じてきたのは、獅子頭多種多様なデザイン伝来経路が不明であることだ。とにかく奥深い世界が広がっている。獅子舞は日本で最も数の多い民俗芸能と呼ばれ、各地域ごとにユニークな舞いと小道具のデザインが素晴らしい。ナンバーワンではなくオンリーワンであることが獅子舞にとって重要なこと。その土地の人々の気質や気候風土など様々な要因が合わさり、地域コミュニティの中で現在の獅子舞という芸能が成立している。

知られざる獅子舞集団が能登半島にいたのではないか

ところで、獅子舞の取材を進める中で1つ疑問だったのが、石川県加賀市能登半島の関係性である。石川県加賀市片山津温泉や荒谷など多くの地区で、能登半島の人々が獅子舞を伝えたという伝承が残る。例えば片山津温泉は建具職人の山口半次郎という人物が、能登半島田鶴浜から獅子舞を伝えたという。また、荒谷では木こりが出稼ぎに来ていて、仲間内で獅子舞を舞っていたらしい。また、輪島塗の職人が獅子舞に関わっていたという話もある。特筆すべきポイントは、初期の獅子舞は地域行事というより仲間内で見知った者同士が楽しんでいた可能性があるのだ。

 

これらの事実を時代と照らし合わせた時に、ある1つの仮説が浮かび上がってきた。それは「明治時代に、能登半島を南下した獅子舞を舞う芸能集団がいたのではないか」ということだ。彼らは今までの調査の結果、建具職人や林業に従事する人々であることは明らかである。しかし、生活の実態など真相は明らかにされていない。この獅子舞集団は一体何者だったのか。そして、能登半島のどこを南下したのかが気になった。そこで、今回能登半島の西端から東端までを横切り、それを突き止めることとした。

獅子舞伝来の道を探る

では、どこをスタートして、どこをゴールとするかである。そこで僕は獅子舞に関する展示を行う博物館があり、日本屈指の獅子舞実施数を誇る「石川県羽咋市」と「富山県氷見市」の2つの地域に着目した。そして、羽咋駅から氷見駅までの23kmを歩き、道中の観光案内所、博物館、役場、図書館など様々な場所を訪れて聞き取り調査を行うことにした。

 

羽咋民俗博物館で判明した「熊無と論田」の重要性

2020年10月20日午前9時半ごろ、羽咋駅に到着した。羽咋といえば、UFO伝説で有名な町だがそれはスルーして、羽咋市歴史民俗博物館に向かった。羽咋駅からは徒歩10分の距離である。行ってみるとなんと展示準備のために休館!しかし、獅子舞の調査報告書を見せていただき、質問には丁寧に答えてくださった。そこで印象的だった事実としては以下のようなことが挙げられる(画像は「羽咋市獅子舞調査報告書, 平成31年3月, はくい獅子舞保存活性化実行委員会」より抜粋)。

 

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まずはこの調査報告書の右下を見て欲しい。越中獅子の大元を辿れば、すべて論田(ろんでん)と熊無(くまなし)という2つの地域に行き着くのだ。調査報告書によれば羽咋の獅子舞の伝来ルートは6つで、8つの獅子舞グループに分かれているという。しかし、多くは近隣地域との交流によるもので、この論田と熊無という2つの地域が圧倒的に特異な存在に見える。熊無は氷見に行く途中で通るので、ここには行くしかないと思った。

 

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その他にも、発見はいくつかあった。能登から南下する獅子があるのかと思いきや、金沢から北上してきた獅子舞もある。金沢の料理人が食事とともに芸を見せるために獅子舞を舞わせたという伝承がある地域もあるそうだ。また、羽咋の獅子舞の特徴は天狗の面をつけた人物が獅子と対峙すること。天狗といえば日本神話でいう道案内の神・猿田彦大神のことであり、伊勢との繋がりも彷彿とさせる。しかし、この天狗が「獅子殺し」という獅子を殺す演技をすることから、金沢発祥の獅子との遠からぬ縁も感じるのである。

 

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上の画像は、休憩スペースに展示してある獅子舞の写真。実際に使う獅子頭などの小道具は祭りのない2~3月に、一堂に会して企画展示が毎年行われている。岩手県遠野市で遠野祭りの話を聞いた時もそうだったのだが、基本的に盆地型の地形をした地域は獅子舞を一堂に会するという習慣があるように思う。つまり、中心的と周辺という地域の構造がそうさせるのかもしれない。石川県加賀市のように3つの温泉街や城下町などよって形成される地域ではこのような話は聞いたことがない。逆にいえば、獅子舞の多様性も担保されているように思われる。

 

神小原スポーツセンターで獅子に遭遇

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さて、先ほども言ったように、熊無には何かがある。そう思ったので、先を急ぎ論田に向かう。途中、神小原という小さな町があり、トイレに行くことにした。公衆トイレがなかなか無くて、神小原スポーツセンターにお邪魔すると、たまたまガラスケースに入った獅子頭に遭遇!なんだか賑やかである。獅子頭のデザインから推測するに、これは井波の獅子だろう。蛇の目に二重眉毛。まさに、富山の獅子の定番だ。それに加えて、僧侶が使っていた行道(※)の面が気にかかる。これはもしや、かなりの年代物かもしれない。周りは山に囲まれた小さな村だが、鎌倉か室町まで獅子舞の歴史が遡れると思った。

※僧侶がお経を読みながら歩くこと。752年の東大寺大仏殿開眼以来、日本全国に僧侶が仏教を広めて歩いた。これが、日本全国に獅子舞が伝播した最初の要因だと思う。

 

熊無で最も獅子舞に詳しいおじさんに電話をする

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さて、13時ごろに熊無に足を踏み入れる。最初に聞き取り調査を行おうと考えたのが、「お休み処 くまなし」という農産物の直売施設である。ここは、地域の方しか訪問客がいなかったが観光案内所も兼ねているそうなので、思い切って店員のおばちゃんに獅子舞について聞いてみた。すると、「それならこの人に聞けばいい」と言って、いきなり"村一番に獅子舞について詳しい"というさかぐちさんに電話を始めた。

 

このおじさん、実は藤箕(ふじみ)という民具を作る職人らしい。藤箕とは藤や矢竹などを使って頑丈に作られた、農作業に使う道具のようだ。なぜ、民具を作る職人が獅子舞について詳しいのか。大きな謎はすぐに解けた。以下は電話インタビューを抜粋して書き記したものだ。

***

店員A「昔はお祭りの時に、羽咋の町に獅子舞を振りに行ってたんですよ」

僕「そうなんですか!獅子舞調査報告書によれば、熊無から羽咋の獅子舞は始まっているんですよ。」

店員A「昔、歳いったじいちゃんが教えに行ってたみたいね」

僕「熊無はどこから獅子舞が伝わったのでしょうか。」

店員A「そりゃあ、村誌を見たらわかるわいね。図書館いかないと。」

店員B「それなら、さかぐちさん(Sさん)に聞いてもらえば。今から電話してみよっか?」

僕「ええ、いいんですか。」

(電話を始める店員Bさん)

僕「(電話を代わり)突然、お電話すみません。今、熊無の獅子舞を調べていて、どこから伝わったのかを知りたいのですがご存知ですか。」

Sさん「それは600年前から始まったんですわ。自分たちで作ったんや。」

僕「え!自分たちで作ったんですか?ということはここが獅子舞の発祥?」

Sさん「いやいや、600年前にお坊さんが来て(それを元に)作ったんです。」

僕「へえ、そのお坊さんはどこから来たのでしょうか。」

Sさん「それは、わからん。」

***

最後に「何かあったら、なんでも聞いて!」と言って、電話番号を教えてくれた。

 

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ひとまず、お坊さんが獅子舞の伝来の根幹に関わっていたことが判明。後から、店員さんがいうには、「藤箕も600年前から伝わった」とのこと(上記写真が現在作られている藤箕)。獅子舞の伝来時期と被ることから、お坊さんが獅子舞と藤箕を同時にこの地に伝えたのだろう。つまり、芸能と手仕事を両立していたということだ。そして、そのお坊さんは立山修験の人かもしれない。論田には修験の権現様もいるらしい。岩手県遠野市でもそうだったが、山伏や修験者、僧侶が民俗芸能の最初期の伝道師であり、それを元に獅子舞の原型を作り出した事例が散見される。

 

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道中、藤箕の制作体験ができる小屋も発見した。

 

ひみ獅子舞ミュージアムでおばちゃんと出会う

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富山県氷見市のゴールは間近。15時過ぎに獅子舞の博物館に到着した。そこで事務の仕事をされている「そうながです」を連発するおばちゃんに出会った。「そうながです」は「そうです」の意味である。このおばちゃんに獅子舞の調査報告書や獅子舞の映像を見せてもらった。氷見の獅子舞は非常に激しく、太鼓は台が豪華絢爛だと思った。これは、海の獅子だからだろう。石川県加賀市橋立の獅子を彷彿とさせ、蚊帳などにも類似点を感じる。そして、太鼓台が非常に豪華だ。山の上に神社がある場合が多く、太鼓台を上げたり降ろしたりするのが大変のようだ。氷見は日本で最も獅子舞が盛んな富山県の中でも、一番団体数が多い地域と言われている。貴重な獅子舞を後世に繋いでいってほしい。

 

氷見市立図書館で、獅子舞の資料を探る

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明治以降については文献が豊富にある印象だ。『熊無地誌』によれば、「明治十年(1877年)2月、論田の坂下甚三郎が箕の行商に歩いて、立山の麓の岩峅村(いわくらむら)に行った」とある。その際に不思議な夢を見て、立山権現が「現れ功徳を広めたいから論田に連れて行ってくれ」という。それゆえ、論田には立山権現が運ばれ、立山権現講が行われるようになったとのこと。600年前に獅子舞が伝来した記述は皆無だったが、少なからず立山信仰と活発な交流関係にあったことがわかる。このエピソードから、明治の神仏分離令の際に坊主が神主になったため、阿弥陀仏としての立山権現が論田に遷座されたという社会的背景も重なりそうだ。

 

また、戦前戦後の歴史を見ると、熊無にとって獅子舞は娯楽・レクリエーションの一環だったことがわかる。戦中には禁欲を強いられ途絶えてしまったが、戦後に復活したようだ。当時は軍人や工場労働者が多く、厳しい労役に服していたことから娯楽に飢えており、地域を活気づける意味合いとして獅子舞が行われていたと考えられる。

 

熊無の獅子舞は、戦後某年のNHK「ふるさとの祭り」、昭和63年と平成6年の「氷見祭り」、平成元年と4年の「羽咋祭り」など、戦後様々なところで舞いを披露した為、羽咋市の的場町、御坊山町などから獅子舞を習いたいという申し出があった。獅子舞の伝播の一部は、このようにエピソードが残っているようだ。

 

また、藤箕の制作由来に関しては、興味深い記述が見られる。「伝説によれば、大よそ600年ばかり前に、天台宗の修行僧が人家の少ない論田の山地に来住して草庵を結んで仏教修行に励んだ」とある。これぞまさに、獅子舞と藤箕の伝来時期と重なる。それからというもの、多くの修行僧が来住するようになり、修行の傍、農耕に励む者が現れたそうだ。藤箕が生まれた経緯は「たまたま竹を割って箕を編み、農具として利用した。しかし、割り竹だけでは破損しやすい為に、巧者がこれに藤皮をまじえて編んで、甚だ丈夫なものになった」と記載してある。田畑だけでは生活が成り立たない為、生活の知恵であり好適な産業として、藤箕が生まれたのだ。

 

藤箕生産は普通の行商とは異なるビジネスモデルを構築した。今でいう6次産業化にも近い発想で、生産から販売までを一括して行ったらしい。つまり、修行僧でありながら、職人であり行商人であるというハイスペックな職業人が熊無や論田に住んでいたと考えられる。彼らは町に出て藤箕を売りさばいていたので、交友関係も広い。それが獅子舞伝播の架け橋にもなったのではないかと僕は考えている。

 

総合するに、まずは修行僧が獅子舞文化のネットワークを作ったのだろう。彼らは優秀な職人集団であり、藤箕や漆、木材など山の資源を街に還元していたと考えられる。熊無では修行僧が藤箕の職人になり、行商として各地を巡り、芸能も伝播したのだ。田鶴浜では建具屋、輪島では輪島塗りという風に、山林資源を職能とした人々がいて、芸能の担い手でもあったわけだ。こうして考えると、産業と民俗芸能の結びつきはとても強く、それをセットで考えていないと読み解けない文脈があるということに気づかされる。

 

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さて、帰りは氷見で美味しい魚を食べると決めていた。食事処を探していたが、なかなか見当たらない。最近はコロナ禍で廃業して行くお店が後を絶たないという。結局、地元客を抱えた気前の良さそうなおじさんがやっている、少し高めの寿司屋でお寿司を食べた。それから、まだお腹が空いていたので、今川焼きとたこ焼きを48年も続けているおばあさんの所でたらふく食べさせてもらった。コロナ禍でも客が絶えないお店は本物だ。タダでもらった冷めているたこ焼きを頬張りながら、そのようなことを考えていた。18時51分の電車で、氷見を後にして石川県加賀市に向かった。さて、明日はどんな出会いがあるだろうか。

 

ps. 2021年2月5日 追記

加賀市の獅子舞の伝来経路-能登半島から南下の可能性

能登方面から南下した獅子舞については、「百足獅子」の可能性があるようです。

加賀市の獅子舞は大きく3系統あると考えてまして、

1.内灘方面から入ったとされる「加賀(金沢)獅子」

大きな獅子頭に大きなカヤ(胴幕)、棒振が薙刀や太刀を用います。

2.能登方面から入ったとされる百足(ムカデ)獅子。

細長いカヤ(胴幕)に3~5人が入り、棒振として天狗(烏帽子に天狗面)が登場する。

3.小松市街地で盛んな伊勢系統の獅子舞。

カヤに2人の場合が多く、棒振等の獅子トリは登場しない。

他に能美市方面から入ったものもあればそれも加賀獅子系だと思います。永年の間に形が変わり、加賀市内の中でも混ざり合って、独自(その地区)の獅子舞となって行っているように思います。古来の獅子舞は行道獅子といった、祭りの行列の先頭を猿田彦神(天狗の元)とともに歩く(露払い)もので、後に舞う獅子舞に変化します。

(石川県羽咋市 獅子舞研究家 諏訪雄士様より)

 

 

 

2018年に僕が考えていた地域コミュニティの理想的な姿

資料を整理していたら、以下のメモが出てきた。

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コミュニティの考え方

 

信託

共有地をたくさん作って、みんなで管理して、平等分配。狩猟民族は獲物をとってみんなで分けた。個人の投資物件をつくって、売れたら次行くみたいなのは、ただの金儲け。茅葺を継承したい!というのはオーナーが変わればその意向に流されて想いが実現できない。100件の茅葺一棟貸しを目指すのであれば信託のコミュニティ作っちゃった方が早い。

https://www.shintaku-kyokai.or.jp/trust/

 

重要伝統的建造物群保存地区

綺麗で美しいけど面白くない。伝統を守ろう、古き良きを残そうみたいな文脈。コミュニティは維持されるが、時代に乗れるか商売として成り立つかみたいなベンチャー精神は育ちにくい。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html

 

メトロノーム同期

日本人は説明してルールを明文化しなくてもその場に居続けることで馴染んで来る感じがある。空気を読んでその文化を吸収する。祭り、イベント、食事会など。

https://www.youtube.com/watch?v=suxu1bmPm2g

 

アルベルゴディフーゾ

町全体で世界観作り上げちゃう。過疎にお金の流れを作る方法。収益還元法で活用可能性が物件価値を上げて行く、投資物件広げる。

http://coinaca.com/4517

 

寛容と排他

寛容な空間は、多様な価値観が一緒になってバチバチする。排他的な空間は宗教的になりがちでなんか怖いのと飽きやすい。ベストなのは、プライベート空間を確保しつつも好きな時に交流できる分散棟型エコビレッジか銭湯のような交流を強制されないけど所属感がえられる場所。

http://ina-tabi.hatenablog.com/entry/2018/07/02/223646

 

中心と周辺

http://ina-tabi.hatenablog.com/entry/2018/03/20/235501

 

考現学

http://ina-tabi.hatenablog.com/entry/2018/03/21/221840

 

お金

コミュニティヘルプが個人的に一番気持ちよくて、各々がすでにプロフェッショナル。

http://ina-tabi.hatenablog.com/entry/2018/03/20/222236

 

コミュニティのつくり方には3つある。

1つ目が大金持ちになって、お金でヘルプする。

2つ目は貧乏だけど労働や時間でヘルプする。

3つ目は頭でヘルプする。

コミュニティは何らかの形で恩送りができないと成り立たない。

薄っぺらい関係になる。

そのコミュニティでは、自分が何かを相手に売りつけようとするんじゃなくて、相手のものを売れば良い。

(by ハムザ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【長野県】古民家の宿場町(妻籠、奈良井、木曽平沢)の素朴な暮らしの魅力とは?

長野県の古民家の宿場町を巡る

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長野県の中央西線沿いには、江戸時代に整備された宿場町(※)がある。前々からブータンを連想する桃源郷のような懐かしい街並みと谷に惹かれて、いつか訪れたいと感じていた。先日、8月24日に取材で訪れることができたので、その特徴と感じたことをまとめておく。実際に訪れたのは、妻籠、奈良井、木曽平沢という3つの宿場町だ。南アルプスに囲まれた谷と川の恩恵を受けながら、その桃源郷のような美しい集落の人々はどのように暮らしているのだろうか。

 

※主な宿場町に、中津川宿、馬籠宿、妻籠宿、三留野宿野尻宿須原宿、上松宿、福島宿、宮ノ越宿藪原宿奈良井宿贄川宿などがある。

 

①街並み保存の最先端地域「妻籠宿」

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ここは、日本全国でも最も早い時期(1968年)に集落保存に着手を始めた場所である。生活と保存を一体化させ、住民、行政、学者の三者一体となり進めたところに特徴があった。寺下地区を中心に26戸を解体復原工事。その後、国指定の重要伝統的建造物群保存地区に指定された(1976年)。

 

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このエリアには多くの神様が祀られており、寒山拾得(かんざんじっとく)や叶ぴんころ地蔵などが見られる。前者は道祖神の一種で、禅僧を模した石仏であり、寒山智慧、拾得は行動を意味する。後者は長寿地蔵尊とも言われ、この地域は長寿の人が多いようだ。地産地消の素朴な食生活、勤勉さ、信仰の深さなどがその要因とされている。

 

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このエリアで印象に残ったのは花を生ける習慣だ。多くの家の格子戸に木をくりぬいて作られた花瓶のようなものが結わえつけられており、そこに花が挿してある。これを見たとき、インドのパキスタン国境にいる少数民族・花の民の村を訪れたことを思い出した。生活文化に花を添える、とても美しき文化を持った人々であると感じる。

 

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あとは、食文化も豊富だ。五平餅とおやき、蕎麦が定番メニューである。他の宿場に比べると、食べ物の値段が安く、漬物やお茶を出してくれるなどサービス精神が旺盛だ。山間部とあって味噌が美味しい。あと初めて食べたのだが、赤飯饅頭。饅頭の皮で赤飯を包んだもので、甘いわけでは無い。南木曽駅の観光案内所の方が、「あれはおやつではなく、ご飯がわり」という話をしていた。

②計画性と賑わいを感じる「奈良井宿

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戦国時代に武田氏が定めた宿駅で、江戸時代に中山道が通った。南北両端に神社があり、街並み背後の山裾に5つの寺院が配置されている。しかも一本道の宿場町であることから、非常に計画的に設計されているように感じる。この点が妻籠との違いかもしれない。なぜ、奈良井が賑わったかというと、中山道最大の難所・鳥居峠に向かう人が休む場所だったからだ。

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家は低い2階建てで、屋根勾配が非常にゆるく、奥行きが長いという特徴を持つ。昔は石置き屋根が多かったようだが、現在は鉄板葺きが主流となっている。二階正面に袖壁(※)を持つ家もある。昔、中津川宿に行った時に見たウダツとは防火構造が少し違う。

※上記写真の丸印の部分で、建物の外部に付きだした壁のこと。防火上の目的で設けられることが多いが、構造耐力を負担する壁にすることもできる。 外壁が建物本体からベランダへと延長されるときの、ベランダ部分の壁。ウダツも同様に防火構造だが、装飾性が強い。

 

③静かな漆器の街並み「木曽平沢宿」

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奈良井宿からは徒歩40分ほどで到着する。奈良井川が大きく歪曲した河川敷に発達した集落で、成立は1598年の周辺地域を結ぶ道の整備時と考えられる。この地域にはとても多くの漆器屋さんが見られる。近世前期は「木曽物」という漆器奈良井宿で生産されていたが、近世後期はこの地を舞台に「平沢塗物」が非常に盛んになったとのこと。現在でも日本有数の漆器の産地として名高い。

 

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この地域の家は街路と一定の空地(アガモチ)をとって配置される。山加荻村漆器店の方に、家の作りを詳しく教えてもらったところ、基本的に「間口は狭くして税金を安くしてもらう」とのこと。京都の町屋のように、土間が奥に長くて中庭がある。奥には漆職人の作業場であるヌリグラや納屋、物置があり、山加荻村漆器店の場合はギャラリーもある。ヌリグラは漆器生産に適した形で開口部を広く取り、湿度や温度を保ちやすい設計となっている。中二階建てで、切妻平入りが伝統的な形式だ。昔は板葺き石置き屋根だったとのこと。

 

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また、山加荻村漆器店に漆器生産の現場についても伺った。現状は後継者不足で厳しいとのこと。世襲で行なっている店が多く、若い人が経済基盤を求めて都会に出てしまう傾向があるようだ。もともと木曽平沢漆器は旅館やホテル、料亭むけに、大きなサイズの漆器生産を行うことで有名だったという。基本的に営業はせず知り合いの繋がりの中で仕事がまわり、他の店が入っているところには手出しをしないという縄張り意識の元で成立しているそうだ。昔はどの店も伝統的なものを作っていたが、最近は店ごとに個性も出始めており、料理人とコラボして制作した現代風の漆器も見せていただいた。また、変わったものとしてはセミ型の花挿しや蒔絵の入った兜形の作品もあった。

 

▼山加荻村漆器店のHP

www.yamaka-japan.com

 

 

 

【岩手県遠野市】しし踊り撮影をして1ヶ月、自然との対話を通して作品作り

最近考えていること。僕は写真や文章を通して、地域の魅力を伝えていきたい。ただし、自分がやっていることについて、あまりよくわからないという方も多いと思う。やはり、きちんと自分の言葉で噛み砕いて伝える必要を感じる。そこで、現状を簡単にブログでまとめておく。

 

先日、遠野でクリエイターインレジデンスに参加。遠野の神秘的な空気感に引き込まれ、その魅力を肌で感じながら、写真の作品を作った。タイトルは「しし踊りの記憶」。人間はどうして、民俗芸能を生み出したのか。その原点を探りたいと思い、しし踊りの担い手を訪ねるとともに、その踊りのモチーフとなる鹿と対峙する猟師を訪ねた。これは言い換えれば、人間は如何に自然と対峙してきたかを掘り下げることになると思った。 

◆◆◆◆◆

 

思い返せば、自分は自然がとても好きである。

雲の様子とか、太陽の光とか、川の流れとか、自然の表情から、

美しさや繊細さを教えられた。

大学2年生の時に、農業やら林業やら地方の現場を見て歩き、

アルバイトやインターンシップを経験して、

自然とともに生きる豊かさを知ることができた。

しかし、自分は手と足を器用に動かして、自然と直接対峙することの難しさを感じた。

物を運ぶとかレジ打ちをするとか人が当たり前のようにできることが、

不思議なくらいにできない...

一方で、写真や文章を使って何かを表現したり、経験を共有したりすることは楽しいし、

多少は褒めてもらえることも多かった。

 

それで、大学卒業して1年半後に紆余曲折あり、写真を学ぶ学校や、ライターの養成講座に通って、今の生き方に繋がった。

 

◆◆◆◆◆

 

最初は、旅をしながらその場限りの驚きとか出会いを、写真や文章に残すという形が多かった。しかし、後に残るのは虚しさばかりである。その場で感じたことが果たして、本当の理解に繋がっているのだろうか。笑顔で一晩泊めてくれた人や路上で出会った人が自分に十分心を開いてくれただろうかと考えてしまう。相手が赤の他人であると感じながら撮ると、自分よがりで瞬間を盗むような写真しか生み出されないように感じるのだ。それで、僕にとっての表現は対話であることを知った。長い時間をかけて、その被写体、あるいは地域に向き合うことによって、生み出されるものがある。それによって、人にも何かを感じてもらえるではないか。

 

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そのように考えた僕が、最初のフィールドに選んだのが、石川県加賀市だった(2019年〜「KAGA SHISHIMAI project」)。この地域は、日本全国の中でも獅子舞が多く実施されている地域。五穀豊穣など自然に対する祈りや、厄払いの意味が込められ、何より獅子頭のデザインに惹かれた自分は、これをたくさん撮影してみようと考えた。加賀市の獅子舞は伝来経路が多様であり、石川県内や富山、伊勢など、様々なところから伝わった。そのため、獅子頭のデザインもバラバラで非常に奥深い世界が広がっている。人に会うたびに発見があり、どんどんのめり込むほど世界が広がっていく感じが面白い。海、山、川、城下町、温泉街と多様な地形が存在し、中心地の定まらない地域特性を作品作りの過程で体感できた。そして、この特性から育まれた民俗芸能を撮影することで、地域を再発見しようと考えたのだ。

 

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一方で、今回滞在した遠野もしし踊りという「民俗芸能」に注目しているが、アプローチが異なる。加賀では、自分が水平方向に地域の多様性を感じ面白さを表現しようと試みているのに対して、遠野では垂直方向に対話を行う。盆地を中心に山に囲まれた地形の遠野では、言わば神域と俗世を行き来するような感覚があるのだ。しし踊りのモチーフである鹿が地域内に存在するので、山にいる鹿という生き物<神域>と、里に伝承されるしし踊りという芸能<俗世>を双方に深めることで、その境目を見出そうという発想になってくる。例えば、鹿が踊っている姿を見てしし踊りを発想したのかもしれない。実際はそこまで単純な話ではないのだが、その踊りの源流を遡れる面白さがあることは確かだ。

 

遠野では、今後何をやりたいのかという話をしておきたい。

①まずは猟師の方に、鹿を打つ瞬間、それを裁く現場、それを頂く食卓、あるいは自然に還す現場を案内していただき、自然との対話を深めて、より自分ごとにしていく。

 

地域の伝承や実体験(自然に対する畏怖など)に基づく小道具のデザインや踊り方について事例をたくさん集めていき、写真で表現してみたい。例えば想像の話だが、鹿が顔を左右に振り回しながら走っていたのをみて驚いたから、しし踊りにそういう動きを取り入れたとか。山で遭難していた時に、鹿の通る道を跡をつけたら里に帰れたから、その道で感謝の念を込めたしし踊りを開催するようになったなど..。ある出来事があって、そこに畏敬の念や感謝が生まれて、しし踊りにつながったという過去をよりリアルに辿ることで、自然と対話する感覚を示せるのではないか。

 

 

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③あともう1つやってみたいのは早池峰山の山頂から遠野駅までを歩いて下ること。単純に遠野市内の一番高いところから一番低いところまで一筆書きで歩いてみたら、先ほど書いた神域と俗世の境目を身体で体感できるのではないかと考えるからだ。人は山で自然の脅威を感じ畏怖の念を持ち、里に帰ってそれを共有することで物語が生まれた。それならば、自分が写真家として物語の語り手になってしまおうという考えである。これはまだ雪が降らない次回の滞在の時(9月)に実施したい。

 

昨今、新型コロナウイルスの流行や環境問題の深刻化などが叫ばれる中で、人間のもっとも大きな問題の1つに自然との向き合い方があると感じる。過剰に森林を破壊すれば、多くの生き物の住処を奪い空気を汚すことになり、人間もしっぺ返しを食らう。しかし、貧困や食糧供給など多くの問題が複雑に絡み合い、解決は非常に難しい。自分にできることは小さなことだが、表現の世界で人の心に残るようなものができたらと感じている。

 

結局、写真の作品は現場をそのままお届けすることはできない。世界を直接捉えることはできず、撫でることくらいしかできないのだ。アートの視点は受け手に委ねられているとはいえ、まず注目してもらえるようなモノを作らねばと思う。分厚いけど手に取りたくなるような写真集を何年かかけてどどーんと作りたいという妄想はある。あとは、つくる大学での講座をさせていただくなどして、地域の方との出会いを大事にしていきたい。今、急いで何か作るのはやはり時期尚早だ。今はまず、様々な撮影を試してみたい。

 

▼前回、初めての遠野滞在(7/4~12)は写真展を開催しました。次回の滞在(9/3~8)では、引き続き写真の作品づくりを考えています!(※新型コロナウイルスの影響も考えて、場合によっては日程変更も視野に入れながら行います。)

 

 

【2020年7月】石川県加賀市獅子舞取材 大聖寺大新道・大聖寺魚町・片山津温泉5区・大聖寺弓町・大聖寺菅生町・大聖寺関栄・片山津温泉1区・山中温泉荒谷町・動橋町・中島町

2020年7月の獅子頭撮影をした際に見たこと、聞いたことをここにまとめておく。ブログ記事というよりかは一次資料に近い形で、とりとめもなく情報を羅列しておきたいと感じ、ここに記す。

 

2020年7月14日撮影

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大聖寺大新道(加賀神明宮・太田真也さん)

・加賀神明宮の中に1頭保管されている。拝殿内で撮影。

 

大聖寺魚町(加賀神明宮・太田真也さん)

・加賀神明宮の拝殿の神棚の右に設置してある獅子頭箱に1頭保管されている。拝殿内で撮影。

 

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③④⑤片山津温泉2~4区(末友哲二さん・山口美幸さん同行)

・5区の集会場に保管されている。2~4区は共同の獅子頭が1つあり、それで地域の獅子舞を行なっていた。現在は、小道具が残るのみ。

・後に2~4区は5区と合体された。

 

片山津温泉5区(末友哲二さん・山口美幸さん同行)

・5区の集会場に保管されている。集会所は一見、民家でわかりにくい所にあるが、もともとは芸妓さんが練習などを行なっていた場所。

・踊り手の着物が真っ白で、巫女さんのような印象を与える。

・子供への化粧がとても手が込んでいる。目元がはっきりした印象。

・獅子舞に関する会計の記録は毎年一冊ずつ帳簿にまとめて大事にとっている。

・ホテルでお客さん向けに獅子舞を踊っていた時代があった(32年前の写真あり)。各旅館の浴衣を来て踊った。尻に獅子がかぶりつくような演技があった。

 

2020年7月15日撮影

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大聖寺弓町(区長の中野さん・地区会館中村さんの紹介)

・弓町の公民館に保管している。

・雌獅子がある。ずっと子供の頃から獅子を見ている。

・どこから獅子が伝わったのかは不明。

・耳が大きめの獅子頭が1頭ある。

獅子頭は鶴来で作っている。

・小学校五年生の時に獅子舞を始めた。その時は子供獅子があり、大会もあった。3位になったことがある。

・法華坊とかの方が華やか。

・菅生の人に獅子舞を教えてもらった。

・一番初めに寝ているところから獅子舞が始まり、狩りをするという獅子の動き。

・太鼓の名人がいないと獅子が生きてこない。リズム感が必要。

 

ps. 2021年10月5日 追記

大聖寺菅生の奥野貴浩さん取材時に、追加ヒアリングを実施。奥野さんは菅生神社の総代である一方で、弓町の青年団もされており、現在も大聖寺弓町で獅子舞を舞っておられる。大聖寺弓町の獅子舞は4月の桜まつりの時のみ実施しており、その時に近隣の町の本陣に舞いに行くこともある。昔は十万石祭りの時にも獅子舞をしていた。現在、青年団は現在12~3人で、一番若い人で30歳くらい。それ以上の人が基本的には所属しているが、実際年齢の制限は設けずに獅子舞に関わってもらっている。奥野さんは今41歳だが、現役の青年団だ。弓町は獅子舞を大聖寺岡町に習った。太鼓2人と獅子3人で実施する形で、現在も岡町に似ている獅子舞を行っている。

 

大聖寺菅生町(区長の中野さん・地区会館中村さん紹介)

・公民館がないので、郵便局に飾られている。

・一方向に穴が空いている箱に入っている。

・獅子は顔が縦長で昔のデザインを彷彿させる。文政3年3月に制作された。

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大聖寺関栄町(区長の加藤さん・地区会館中村さん紹介)

・関栄(せきえい)親子獅子保存会が行なっている。青年団がない。

 ・親子の獅子頭と古いもの1つの合計3つが保管されている。昭和30年代のものでも、かなり綺麗な状態で保存されている。毎年塗り直しているそう。

・胴幕が緑で、子供が使う。鈴がついている。

・子供を一回崖に落とし、崖から這い上がっていくという逸話があり、それにまつわる小道具を使っている。崖に花が咲いているような衝立のような小道具がある。

・藩政時代には関所があったので、この地域は関町という名前になった。関所の人に獅子を習ったと言われている。

・基本的には座敷の獅子で、外では舞わない。イベントでやってほしいという依頼がある。

・子供獅子の背中が虎のような模様になっている。

・この地域の獅子舞は連獅子をアレンジしたとも言われる。

Ps. 2021年3月4日追記。関栄の獅子舞はおんぶをする演目がある。

 

2020年7月16日撮影

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片山津温泉1区(はさばさん・山口美幸さん同行)

・明治の後半に、能登田鶴浜から山口半次郎が伝えた。建具職人で、幼い頃から獅子舞を習っていたものと思われる。

能登の獅子は富山や井波などの関連性が高い。昔盛んに行われていたのは石動(いするぎ)付近の獅子かもしれない。そこら辺から能登に伝わったのだろうか。

・鼻には紐を通して、すり減らないように保護している。同様に、耳にも耳あてをしている。

・目が小さくて鼻が高い印象。

・井波で作っている、加賀獅子らしい顔。

・子獅子と大獅子の2つがある。

 

※荒谷町獅子舞

荒谷の獅子舞は途絶えてしまった。なぜ途絶えて、そこに人々のどのような思いがあったのかを探るべく、林さんのご紹介でかつての舞手を務めた宮啓二(1950年生まれ)さんにお話を伺った。以下、インタビューの一部をそのまま書き起こして掲載する。

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稲村「獅子舞が途絶えたことに関して伺いたいです...」

宮「僕が小学校6年くらいに途絶えて、平成元年ごろに復活。しかし、平成8年ごろにまた途絶えてしまった。小学校5年から中学校3年の人が少なくなったので、若い棒振りができる人がいなくなった。」

稲村「復活した時は何人くらいでされていたのですか」

宮「子供3人、笛吹く人、結婚した人...。30人くらいおったかもな。私が38~9歳くらいの時やわ。その時、陶芸家のマサキさんが復活させたんやわ。」

稲村「その時復活させようとしたのはどういう経緯だったんですか。」

宮「マサキさんが若かったし、外から入ってきた人で3〜4年経った時になんか寂しいなあということで、昔の芸能を年寄りに聞いてやろうということになった。マサキさんは私が何でも準備するということで... .絵が描ける人だったから、半紙に獅子舞を描いて東谷の8ヶ村にポスターとして貼って宣伝した。笛を吹ける人がなかなかいなかったから、滝町のあんちゃんに頼んだ。あとはカヤに入る人や太鼓を叩く人は荒谷の人が務めた。8月のお盆、12~14あたりの日にお宮さん(荒谷神社)に集まった。それから、荒谷と今立の一軒一軒をぐるっと回った。それから、毎年やっていたが、横笛を吹ける人がおらんようになった。横笛は縦笛と違ってなかなか難しい。大抵息が切れるから、2人は必要なんじゃが。それで、徐々に獅子舞ができんようになった。子供も減ってきてしまった。獅子舞は60歳くらいまでしかできん。笛が2人、太鼓が1人、頭が1人でそれも入れて中に入る人が4~5人、棒振りが1人くらいは必要。最低でも合計8人は必要やわ。」

稲村「もっと昔の獅子舞について知っていることはありますか」

宮「昔、荒谷は林業が盛んやった。明治の終わり頃から40年くらいの時に、能登の方から木を伐採する木こりが出稼ぎに来ていた。炭焼きをして、木を植えて30~40年くらい生かして、それを伐採した。その木こりの何人かが(荒谷で)獅子舞を始めた。酒飲むだけじゃつまらん、ということで自分たちの地元の獅子舞でも舞おうということになった。最初はそのグループの中でやっていただけで、地域で始まったというわけではない。」

稲村「その獅子舞はいつまで続いたんですか?」

宮「それはかなり続いたんやわ。大正、昭和くらいまで続いたんじゃないかな。昭和の戦争(第二次世界大戦)で木こりさんは戦艦を作るために忙しかった。昭和35.6年まではやっとったんじゃないかな。徐々に獅子舞は地域のものになってった。でも、石油とかガス、電気の時代になってきて、昭和30年ごろから炭焼きの需要もなくなってきて、人が都会に出て行くようになってしまった。」

稲村「獅子舞の衰退と林業の衰退は同じ時期だったのですね。」

宮「昭和45年くらいには、炭焼きをやるもんもいなくなってしまった。」

稲村「(宮さんが)中学校ぐらいまでは獅子舞が行われていたのですね。」

宮「そう、それくらいまで(昭和35.6年)はやっていたんだわ。そのあと私は大聖寺に働きに出てしまった。ちょうどバブルの弾けた昭和50年に結婚した。それからはずっと大聖寺に住んでいる。」

稲村「いま荒谷の住民はどれくらいいるのでしょうか。」

宮「10人くらいかな。私が小学校の時は50軒くらい(家が)あった。明治の頃は100軒くらいあったんじゃないかな。減少の一番の影響はその燃料の需要がなくなったこと。炭焼きをして人工林を植えるサイクルができていたから、炭焼きの人がいなくなって森を綺麗にする人がいなくなってしまった。昭和50年に最後の人工林が植わった。人工林は15年手をかければ、ほっといても自然に育つ。でも、もう40年もそれらがほったらかし。クマが木の皮を剥いで、蜜を舐めにくる。冬眠の時に手についた蜜を舐める。木は荒れている。」

稲村「獅子舞には、木こりの森に対する畏怖の念もあったんでしょうか。」

宮「そうそう。お宮さんで山まつりというのもあった。能登にはあえのこともある。」

稲村「獅子舞の動作には、森に対する畏怖の念が込められているのでしょうか。」

宮「荒谷の獅子は退治型。獅子は悪いことをするやつということで、それを退治するのが荒谷の獅子や。牛若丸が棒振りで、弁慶を操ったようなものだ。それから、神社には男と女が祀ってある。白山が女の人の白い体に似とるということで、加賀には女の神様がより多い。荒谷のご神体は白山や。人間の弱さかな。なんかにすがるというか。なんかにすがらんと生きてかれん。だから、信仰が生まれるんや。拝むことでよし明日から頑張ろうっていう張りが出てくる。私は今仕事をしていないが、信仰がなかったら人間がダメになってくる。そこらへんの石ころでもいい。拝むことで、自分の精神を奮い立たせられる。(森ならではの獅子舞というのはなさそうで、典型的な加賀獅子の話をしている。ただし、宮さんの考えはアミニズムにも近そうだ。)」

 

以上、インタビューは約1時間半続いた。宮さんの力強く熱のこもった故郷への思いに感激した。そして、今はなき獅子舞の話を聞いて、産業の衰退と並行して信仰や暮らしの衰退がおこるという気づきを得た。

 

2020年7月17日撮影

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11動橋(振橋神社神主さん・平井さん同行)

・五十鈴流で伊勢の獅子。棒振りがない(はさばさん談)。

・橋立から踊りを習った。北前船との関連の中で、交流が活発だったのかもしれない。

・鶴来で獅子頭を制作したようだが、個人的には岩手県の海岸沿いの犬のような風貌の獅子に似ているように思える。

・獅子の歯がかけないように、入れ歯のようなプロテクターが歯に装着されている。

・この周辺は土質が良くないので、橋をかけても振れたことから「振橋」という名前が生まれた。「振れる」は現地の方言で「いぶる」なので、動橋(いぶりばし)となった。北前船の歴史も関連しており交易が行われたことから、北海道にも「胆振(いぶり)」という地名がある。

 

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12中島町(平井さんと山口美幸さん同行)

・地区会館の調理室にて撮影。

・獅子に耳はあるけどすぐ取れるので、取って舞う。

富山県の井波で獅子を制作している。

 

<今回の滞在で学んだこと>

・やはり加賀市の獅子は多様で、由来や歴史を遡るのが面白い。2020年版の獅子頭撮影の写真集を作成する予定だが、獅子頭のストーリーをまとめた小冊子か本の最後に文章を多めにつけたい。

・一人一人のアポ取りで撮影していってもあまり広がりが出ないので、一対多の場所により多く顔を出していきたい。例えば各地域のまちづくり協議会に出席して、本や活動の紹介、獅子頭の撮影地域を募集していくとか、地区会館のような場所に問い合わせるなど。

 

今回の撮影はほぼ全て山口美幸さんの人脈の中で実現しました。急な訪問にも関わらず、本当にありがとうございます!そして、16日夜にご馳走してくださった陶芸家の山下一三さんや、アジフライを食べさせていただいた塩屋のとやまさん、ビールの差し入れをくれた北出さん、アポ取りをたくさんしてくださった大聖寺地区会館の方々、影で支えていただいているあくるめ財団関係の方々など、滞在中には本当にたくさんの方にお世話になりました。これからも加賀の獅子舞の魅力を発見できるようプロジェクトを頑張ります。撮影した写真は、こちらのインスタのアカウントに載せていきますのでご確認ください(下記写真は2020年7月18日現在)。

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https://www.instagram.com/kagashishimai/