北極星に願う港町、熊本県八代妙見祭でボーダレスな獅子舞を観る

中国から渡ってきた獅子舞は、九州の祭り人たちに揉まれながら、独自の発展を遂げた。2025年11月23日、八代妙見祭を訪れた。もともと妙見信仰も亀も非常に気になっていたし、昨年からずっと訪れたかったこともあり、今回貴重な機会となった。

八代妙見祭、獅子舞との出会い

熊本には久しぶりに来た。東京から九州に行く場合はやはり福岡が圧倒的に多い。しかし、今回、新鮮な気持ちで高揚感と共に熊本の地に降り立った。前泊をして朝、7時ごろに移動を開始。熊本駅から八代駅への鉄道に乗り込む。朝の眩しい光が車内を照らし、また車窓に広がる田園風景が輝いていた。熊本は火の国とのことである。火山を眺めると地球奥深くに存在する熱源を操るように、熱は人間の暮らしを覆い、また見守っているような感覚がある。

早朝、9時前に八代駅に着くと、まもなく子ども獅子が始まった。お囃子の鳴り物がラッパ、太鼓、銅鑼とあり、高く雄々しく響き渡る。とても色鮮やかで多彩な衣装である。子ども獅子が終わった後、駅での演舞待ちの行列を遡っていくと、そこには木馬や神馬、傘鉾などが後に続き、少しずつ進んでいる。神馬の逞しさには本当に驚いた。一歩一歩重い体を動かしながら懸命に走っている。白い毛がふさふさして可愛らしさもある。家を一軒一軒門付けして、家主に撫でられ、次の家を回るという風にしていた。

途中でさつまいもの天ぷらを配っている人々がいて、「これはいくらですか?」と聞いてみると、「これは祭りを支えている方々に配っています」とのことだった。「お裾分けですよ」と見ず知らずの自分にも、分けてくださった。とてもありがたい。分厚くて熱を帯びたさつまいもの天ぷらはとても美味しかった。

川沿いに立ち上がる舞台

妙見神社の方角へと向かった。途中でビールを混ぜて作った食パンが売られており、美味しそうだったので買った。それから、神社に近づくにつれて人は多くなったし、食べ物の屋台も多くなった。とにかく食べ物の屋台の数が多いことが非常に興味深かった。とくに変わったものはなく、基本的にどこでも売られているようなものが多い。それから、神社の境内に着くと、人が溢れかえっていた。なかなか前に進めない。神社は赤色を基調として、華やかな印象である。そこに獅子舞は到着した。

舞い場が予想できなくてなかなかうまく撮影場所の確保が難しかったが、三脚の足をひとつにまとめてそれを片手で持ち上げてやっとのこと少し撮影できるという感じだった。それから河原でも演舞が実施された。河原の対岸を舞台装置として、向こう岸から観るというのは面白いやり方だと思った。舞台近くで観るには5500円を払わねばならない。対岸であっても、川の斜面の段々にはあらかじめ場所取りをしている人々の敷物が無数に敷かれているといった感じ。その敷物たちの後ろでその他の観客が眺めているという感じである。僕は無論、その他の客に紛れた。遠くから俯瞰的に観るということが意識された。途中、いろんなものが舞台から客席へと投げられた。おそらく何か食べられるものだと思う。劇場空間には舞台と観客の相互コミュニケーションも生まれているようだ。そこから一度道を戻って、妙見神社を経由して、うどん屋でうどんを食べた。


サンタクロースおじさんとの出会い

それから午後は、妙見中宮に向かった。途中、サンタクロースの人形などクリスマスグッズを家の軒先で販売されている男性に出合った。そこで大変興味深い話を伺った。

ーーもう少しでクリスマスの時期ですねえ。これはご自身で作られたものですか?
いいえ、そうではありません。あなたはどこからきたのですか?

ーー東京からです。
いいねえ、東京行きたいなあ。昔は横浜に住んでいたけど、ここに戻ってきたんです。

ーーへえ、こちらのご出身なのですね。昔はお祭りはどんな感じでしたか?
昔は何にもないから、サーカス呼んでたんです。本物のゾウやライオンがきていました。学校から観に行っててね。見世物小屋も建てられて芸が披露されていて、賑わっていたんです。

ーーええ!そうだったんですか。ライオンとか特に掘って置いたら危ないと思うんですが、檻などに入れられてきていたのですか?
ああ、そうです。檻があってそこに入れられていたんです。

ーー食べ物の屋台はとても賑わっているように感じますが、昔はどうだったんですか?
今、屋台は賑わっているけれど、昔はこんなに賑わっていませんでした。どこかで外の業者に委託するようになったんです。

会話は本当に数分だったが、衝撃的な話である。八代妙見祭にはゾウやライオンなどの生き物が登場していたようである。今回お話を伺った方は「70いくつ」と年齢をおっしゃっていたので、その方が子どもの頃、つまり60年前くらいの話だろうか。1960年といえば、戦後の急成長期で、混沌としていた時代であろう。その頃に八代妙見祭は今とは全く違う姿を持っていたようである。同時に、近年のユネスコ世界遺産登録をはじめ、この祭りの再評価の機運が高まってからは、観光化の機運が高まったと思われる。屋台の賑わいはもちろん、河原における舞台装置的な見せ方や祭りの観覧席の設置というのはまさに祭礼が都市化していることを示す。人口12万人のまち、八代はどこか田舎の雰囲気も漂うが、非常に集客力のある祭りであることを僕自身も実感した。人が多すぎてろくに撮影ができないお祭りというのは、なかなかそう多いものではない。

それから僕は再び河原を見ると、亀蛇がぐるぐると回転して川の中に突っ込んでいた。なかなかアクロバティックな感じなんだなと思った。

午後は山へと向かう

それから川を上流に遡って、妙見中宮に行くと、獅子舞が行われていた。ここでの獅子舞は本当に素晴らしかった。妙見中宮の立地が山の中なので、静かでなかなか観光客も気軽に来るような雰囲気でもなかった。だからこそ人が少なくて、ようやく演舞を集中して拝見することができたのだ。後光が指すように山の奥に差す翳り出した太陽が獅子たちの背中を照らし、ふわっと優しい雰囲気を纏うようになる。

それから山を降りると、川沿いのお寺が獅子の宿になっていた。担い手たちが集まって休んでいる。先ほど演舞していた人々もここに合流する。子どもがこけて泣いていて、それを助けようとする他の子どももいた。総じて、年齢層が若い。そして人数が多い。この獅子舞集団の勢いは獅子にもしっかりと現れているように思う。さあ、その姿を眺めたのち、今度は八代市立図書館に向かった。八代妙見祭に関する調査報告書は非常に豊富であり、なかなか読みきれない。書庫からもたくさんの資料を出してもらって、祭りの展示が行われているでんでん館はその間にしまってしまった。しかし、本質的には、祭りの真髄たるものに触れることが目的なのだから、訪れられなくても良い。どういうルートでも良い。結果的にその真髄に触れたと思えば満足なのである。祭りの取材というのは予想外が多く、全てを完璧にこなすことはできない。しかし、毎回何かしらの形でその真髄というものを考える時間がある気がする。それから案の定、納め式の獅子舞開始が早すぎて見られず、かろうじて亀蛇の最後の舞いを見られた。

それから食事に行くことにした。バスがなかなかタイミングが合わず、行きたい中華屋に向かったが、予約者のみと言われるなどして、結果的に1時間くらいあるいてやっと八代飯店に行けた。それで、待ち時間30分、注文30分でようやくご飯にありつけた。ご当地名物の太平燕(たいぴーえん)は食べられたが、もう火傷しながら5分で食べて、獅子舞の最終演舞に走って向かった。いつもこんな感じである。思い通りには進まない。

船着場での素晴らしい演舞

本日の演舞の中で、最終演舞が最も良かった。前川という港町・八代の船着場がある場所のほとりで、煌々とあかりに照らされ、その下で獅子舞はもう舞いはじめていた。19時半からと聞いていたが、15分前に着いた時にはもう舞いはじめていた。いつも八代妙見祭は進行が早い。予定表より30分前に始まると思って行動した方が良い。ギリギリで組んでいると、全部見られないということも当たり前に起こりそうである。ただし、最終演舞は、また同じ流れで2度目の演舞をしてくれたので本当に助かった。なんというか、夜の川のほとりで舞う獅子舞は素晴らしすぎた。ラッパも太鼓も銅鑼も据えてが遠く遥か彼方に響き渡るようにして、その恒久の発展を思った。そして、今年で卒業するという子どもが演舞して、最後に獅子の背の上に乗せてもらい、雄と雌、交互に2頭、その背に登った。そして、最後に胴上げされて、とても歓喜の声が上がった。普通、こんなことはさせないそうである。獅子の上に跨るというのは、このような特殊な時のみ。その空間を取り囲む大勢の観客たちはそれを嬉々とした表情で見守った。一体感が生まれた瞬間だった。それから、例のごとく獅子は観客の頭を噛んで歩き、赤々とした提灯に照らされた宿のような場所に帰って行った。

そこで大勢の担い手とその家族が集まる中、「ありがとうございました」の声と共に解散したが、なかなか皆その場を離れようとせず、話に花を咲かせていた。その姿を振り返り何度も眺めた。巨大なカッパが近くに2体座っていた。不思議な町の一角だと思った。霊的なものを感じる場所である。先ほどの演舞場は川のほとりで船着場であったろうが、それと同時に紙垂によって結界が張られていることに後で気づいた。祈るようにその場所を後にして、土手沿いを八代駅に帰った。

コインロッカーに預けていた荷物を取り出し、そして、熊本駅の方へ戻り、翌朝の始発の飛行機で東京へと帰った。翌朝の飛行機は奇跡的に窓側の席で、一瞬見えた阿蘇山が非常に美しかった。うっすらとその滑らかな山陽を横たえ、その山から下流へと降る白川の蛇行する流れがあまりにも美しすぎて、身体が震えるような想いがした。東に向かう飛行機は、明るい空の下、明け方の国の朝焼けの空を捉え、ぐんぐんと進んでいた。改めて地球の鼓動や力というものを体感する、壮大なエネルギーを沸々と感じる旅だった。海ほたるがイカに見えた。その穂先にある羽田空港に終着した。

八代妙見祭とは?

八代市妙見町にある八代神社(妙見宮)の秋の例大祭。毎年十一月に行われ、長崎諏訪神社おくんちや博多筥崎宮放生会とともに九州三大祭りのひとつに数えられる。11月22日に妙見宮から御旅所である塩屋八幡宮へ向かう「お下り」、翌23日に塩屋八幡宮から妙見宮へと帰る「お上り」がある。異国情緒豊かな特徴を持ち、メイン行事であるお上りでは、長崎から伝わった獅子舞や江戸から伝わった奴、そして、豪華な傘鉾や妙見伝説に由来を持つガメという通称を持つ亀蛇(きだ)などが行列をなして練り歩く。行列の長さは1kmにも及び、全て見て回るには1時間を要するという規模感である。球磨川河口の重要な港町である八代の繁栄を伝える。「八代妙見祭の神幸行事」として、平成23年(2011年)、国の重要無形民俗文化財に指定され、平成28年(2016年)には「山・鉾・屋台行事」の構成遺産として、ユネスコ無形文化遺産に登録された。平成2年(1990年)からふるさと創生事業として祭りの出し物の復活事業が本格化したようである。傘鉾への認識が新たになったようだ。


八代妙見祭の獅子舞の所感

この地の獅子舞はドラや太鼓、ラッパに対して、獅子舞が軽快に舞う。獅子あやしによって獅子が起こされて、その手に持つポンポン?によって、誘われ遊ばれる。これ沖縄の獅子舞の鞠遊びの演目にも見られるように、獅子が鞠と戯れ集中することでいることで、人間に危害を与えないという言い伝えの身体化であろう。玉を持っている狛犬が日本各地に見られるが、それと同じような来歴を持つものと察する。音楽によって畳みかけられて起こされて歩き回り引っ込むことを繰り返すその所作は、大いなる猛獣の力解放と抑制の揺らぎの中に、押して押し戻される繰り返しの対峙・交歓の連続性をみる。

この獅子舞のルーツを辿ると、江戸時代に八代町の商人・井櫻屋勘七が商用で長崎を訪れ、長崎諏訪神社例祭(長崎くんち)でみた獅子踊りである「羅漢獅子」に感銘を受けて、元禄4年(1691年)にそれを通り入れたのが始まりとのこと。この時の見た獅子踊りの唐獅子は青い獅子1頭だったようだが、これをそのまま取り入れるよりは長崎で見た中国やオランダの風俗を取り入れながらオリジナルの獅子舞を作り上げたとされている。また元禄4年(1691年)以前の昔の獅子は1頭で、尻が籠製の獅子を車をつけて引き廻していたというから、またこれとは異なる形態であったことが窺える。現在でも使われている竹製の大きな尾は、この篭獅子を参考にして取り入れられたのではという話もある。この獅子舞の形態変化は、町人の経済活動によってもたらされた祭礼行列の大きな変化と言える。また長崎くんちの踊町(出し物の披露)は7年に一度が巡回していくやり方なので、その披露する年は非常に注目を集めることになり、前回と同じではなく流行を取り入れて趣向を凝らして、少しずつ変化させていくことを重視した。それもあって、現在、長崎の獅子舞の中に羅漢獅子は存在しない。

どうやら井櫻屋勘七の子儀右衛門が報告したものと、舞い方や楽譜も記されているものと、2つの由来書が伝来しているという。これら2つを総合的にまとめて由来を考えるようである。まずは勘七が長崎沖で遭難しかけた時に、兼ねてから信仰していた妙見宮に一心に祈ると、妙見宮の御神体が現れ、獅子楽を授けたと書かれているようだ。チャルメラが非常に難しく、「ちゃんめら伊兵衛」という名人のもとで稽古をして習得したようだ。それを八代に持ち帰り、街に根付かせるまでの間には、八代城主の松井家の理解もあったようである。「獅子楽器之事」によると、井櫻屋だけで獅子の運営をしていくことが難しいだろうから、八代町で経費負担をしていくこととなった。また、チャルメラの稽古を他の迷惑にならないように、城内で実施して良いという沙汰があったという。

獅子舞の形態としては、角が2本で赤と白の胴衣が雄獅子、角が1本で赤と黄の胴衣が雌獅子である。長く垂らした耳、毛むくじゃらの胴衣、大きな尻尾が非常に特徴で、全体的に華やかで色鮮やかな印象である。その獅子の舞いを玉を持った中国風の衣装を着た玉振りの子どもがあやし、楽器はヒゲドラ、チャルメラ、長ラッパ、鉦、太鼓が盛り上げる。この獅子舞は陰と陽を表す雌雄の獅子舞が、同時に阿吽の気を持っているとされ、楽器に関してもヒゲドラが阿、ラッパが吽というふうに、それぞれの楽器が阿吽のどちらかを表すとされる。またチャルメラのシャギリ(唐人笛のお囃子)は一番が吽、二番が阿とされる。阿は口を開いた時に最初に出す音で、吽は口を閉じて最後に出す音なので、宇宙の始まりと終わりに接続しようとした思考のようである。また釈迦が法華経を説く前で獅子が喜び戯れている様子を示すともされており、阿吽の構成は仏教に全てが基づいていることの表れにも思える。また八代市立博物館未来の森ミュージアム平成23年度秋季特別展覧会 八代の歴史と文化21 大妙見祭展 ~華ひらく祭礼風流~』(2011年)P39によれば、チャルメラのメロディーを教わった早川氏の経験談として、「チャトレーヤートレーヤー」というような「歌」として教えられたそうで、これは仏の教えを表しているという話も聞いたようだ。ここまで奥深い仏教の世界観が反映されているとは驚きだ。この獅子舞は八代をはじめ周辺地域にも非常に驚きをもたらし、宇土市宇城市小川町など、この獅子舞を習って自分の地域に取り入れようと考える地域も多く現れた。6地域に伝承したとも言われている。またドラ打ちの人は昔は塩屋町の漁師が務めていて、妙見祭に出たおかげで豊漁となったと言う人々もいたという。ドラは雄ドラと雌ドラがあり、道中では雄ドラは雄獅子の前で、雌ドラは雌獅子の前で交互に歩いて叩く。

近年は八代市の観光計画によって祭礼の拡大化が起こり、平成5年から獅子も「先発・本隊・子ども獅子」という3つを出すようになった。八代駅前での子ども獅子の演舞の際に、「奉納の獅子舞は妙見宮に着くまで演舞できないから、その手前の箇所では平成5年から後継者育成事業の一環として子ども獅子が舞っている」という話をアナウンスしていた。また、先発の獅子は本来の奉納獅子、本体が行列獅子と呼ぶようだ。この後者の行列獅子は平成に入ってから組織されたものだという。つまり、魅せる獅子と奉納の獅子の切り分け現象が起こっており、これは沖縄県の神獅子と交流獅子の分化と傾向が似ているように思う。そして、その3つの獅子を組織するべく、中嶋町獅子連中保存会(獅子組)ができ、祭礼の前に練習から本番までの運営管理をしているようだ。この組織は中島町町内会とは異なり、町内会の外からの人も多く受け入れている。ただし、明治・大正時代には中島町に形状だけでも籍を置いたり、中島町の保証人を必要としたりということもあったようで、これは江戸時代に中島町居住者にしか獅子組加入の資格がなかったことの名残であるとも言われる。

亀蛇という象徴的な存在

亀蛇の造形はどこか中国の青龍・白虎・朱雀・玄武の4神のうち玄武に類似し、玄武に蛇が巻き付いたような水の神を表すとともに、北の方角を意味する。妙見祭における亀蛇(きだ)の始まりは、天和・貞享年間(1681〜1687年)に遡るという。足軽が多く住む出町というエリアから出現した。次第に祭礼に参加を始め、当初は「粗末」なものだったというが、20年ほどで「華美」になったそうだ。亀蛇は亀と蛇が合体した想像上の生き物で、妙見神が海を渡ってきた時の乗り物である。一見、甲羅を背負った亀であるが、甲羅部分の白い縁取りが白蛇であると言われているらしい。八代では「ガメ」という愛称で呼ばれることも多い。外観上の造形はもちろん動作が魅力的であり、中には5人の担い手が入り、そのうちひとりが首を伸ばしたり縮めたりする役割を担う。首の伸縮だけでなく、くるくる回ったり、観客の波の中に突っ込んだりという様子が人々を狂喜させてきた。亀蛇は作られた当初からどんどん外観変化が激しい作り物とされており、縦横無尽に走って暴れるため20年に1回は作り替えられるとも言われる。修理や新調は傘鉾などよりもはるかに多い。そのためか、周辺地域の亀蛇のデザインは個性が溢れ、同じようなものがないのが特色である。毎年、亀蛇を入れている家には恒例で入るほか、子どもが生まれるなどの吉事があったときは、亀蛇を縁起担ぎで呼ぶという。逆に葬儀などがあった場合は遠慮する。亀蛇を担ぐ勢子をナカと呼び、日雇いで昭和30〜40年代には日当8000円ほどで雇っていたという。八代のイ草の刈り取りが日当6000円の時代であり、それが平成8年には日当2万円まで上がったという。


妙見祭は城と町を繋ぐ存在

八代市教育委員会八代市文化財調査報告書第九集 妙見祭笠鉾ー八代神社祭礼神幸行列笠鉾等基本調査報告書1ー』(1996年)に非常に興味深い記述があった。古文書『妙見一山』によると、どうやら宝永3年(1706年)、八代城城主の松井氏が本丸の月見櫓から妙見祭の祭の出し物を見物していたことが記されている。当時、町の出し物は妙見祭終了後に八代城内に入り、松井氏やその家臣の上覧を得ることが恒例であったという。町の人々にとってはなかなか普段入ることができない城に入る機会を得るわけで、領主と民衆との間に祝祭の雰囲気が醸成されていた。ここに封建体制下における領主と民衆をつなぐ核として妙見祭とその出し物が機能していたというわけである。
近年ではこの「八代城主に対して披露する」ということの重要さを体感することは時代背景的にも難しいが、違う現象も起こっている。妙見祭は中心市街地の空洞化現象と町の人口減少が起こっているが、それを助けるために町外の人の参加が広がり、逆に町内の人々の祭り意識が高まりつつあるという相乗効果も見られるようだ。このように妙見祭は空間や地理的境界の内と外を繋ぐという意識がどこか存在するように思われる。


妙見信仰は北極星・北斗七星への願い

日本人の星に対する認識は、夜空を見て移動するアジアの遊牧民などに比べれば、発達してこなかった。その背景は小村純江『妙見信仰の民俗学的研究ー日本的展開と現代社会ー』(2000年)によれば、「日本の空は水蒸気が多くアジア大陸のように澄みきっていないため、はっきりと空の星を認めることが困難な自然環境である」あるいは「日本人ははるか遠く弥生時代からの農耕民族であり、朝早くから夕暮れまでを太陽の光のもとで田を耕して過ごし、星の出る夜は眠るという生活を営んできた民族であった」という。星を表現する五光星や五芒星は魔除けの意味を持つ。そのため、陸軍の階級章、海女の手拭いや道具などにも用いられている。

また、星に関する信仰で、連想されるのはまず七夕である。また、冬至や節分に行われる星祭りもその類だ。そういえば、12月に行われる銀鏡神楽も星にまつわる信仰の神楽であることを聞いたことがある。北極星、北斗七星系の信仰は沖縄などの南の地方で広がったという。一方で金星の信仰は日本各地にあり空の星が降ってきて埋蔵鉱物になったなどの話が伝わっている。星の信仰の大元には、密教系信仰と陰陽師系信仰に分かれるという話もある。北極星の中国名は「北辰」であり、辰は「日・月・星」の総称であるとする。また北斗七星の斗は液体を入れる柄杓のような柄付きの量器のことを指す。これは星の形状と量器の形状を重ね合わせたものであろう。フェニキア人は北斗七星のことを大熊と呼んだが、北アメリカのインディアンも同様に北斗七星を大熊と考えていたらしく、面白い一致である。そういえば、沖縄の操り獅子取材のため今帰仁を訪れた時に、太陽と月が祀られた神社が鬱蒼と茂った森の中にポツンと存在していたが、あれは沖縄の北極星・北斗七星信仰の一端であったかもしれないと思った。

出雲晶子さんの『星の文化史事典』という本によれば、中国の漢民族は皇帝は天の命によって人を治めるとされ、その道を天道と呼んで、皇帝は天では北極星であったという。また北斗七星は天帝の車であるとする。北極星を中心に回る北斗七星という存在は皇帝の権威の象徴たる存在でもあるのだ。また、北極星は天の中心にあって動かず、その周囲を星が巡ることから天を統べる星とする。北斗七星は一昼夜でその周囲12方向を指すことから時を定め、寿命の長短を司るものとして神格化された。

これが日本に北辰信仰として伝わり、平安時代の貴族の星占いというものが流行する流れができるのだ。その流れの中で、北極星を神格化した菩薩「妙見菩薩」が生まれ、それが北斗七星の信仰とも合体されて、すでに平安時代には定着したと見られる。妙見菩薩の所見は正倉院文書の「仏像彩色料注文」」に見られるようだ。これは752年に聖武天皇妙見菩薩を修理するよう依頼した文章であり、奈良時代には天皇の守護神として妙見菩薩が存在していたというわけである。最初こそ鎮護国家思想と結びついた天皇や貴族のための信仰というふうであったが、鎌倉時代室町時代を経て徐々に武士の間で武神として信仰されたり、延命や招福のような現世利益の意味で民間信仰として広まったりした。妙見信仰の分布を見ると、日本全国に平均的に広がったものではなく、むしろ偏りがある。本州、四国、九州の海岸部に多く見られ、関東、近畿、中国地方の西側、瀬戸内海岸、九州北部と一直線に分布するところが面白い。少なからず海の民族に広がりやすかったと言える。

また小村純江『妙見信仰の民俗学的研究ー日本的展開と現代社会ー』(2000年)によれば、「八代は耕作地の多い方ではなく海上生話者も多く、女の海上における北辰北斗注視もともなっていたため、江戸時代には、武士だけでなく、多くの大衆も妙見を尊崇し、大衆からの寄進もあったという」とある。

妙見祭において北辰信仰との結びつきは、神徳に沿うように、天下太平・長寿と子孫の繁栄・災害滅除などの祈願に関連づけられる。星に対する信仰と港町である八代が結びついたわけである。中嶋町獅子舞保存会『三百三十年の歴史 獅子舞楽』(2020年12月)によれば、妙見宮実紀や社記などによると、天武9年(680年)秋、中国明州(寧波)から妙見神が亀蛇に乗って海を渡り、八代郡北郷八千把村竹原津に上陸し、この地に約三年間仮座したのが始まりと伝えられている。また妙見神は百済聖明王の第3皇子である淋聖太子であるという説もある。祭神は国常立之尊・天御中主神である。

それから上宮、中宮、下宮と徐々に整備されていって、現在に至る。上宮は桓武天皇の勅願により延暦14年(795年)に三室嶽に作られて、その後、中宮が1169年、下宮が1186年に創建された。山から里への流れを感じる。相良氏が八代を治めていた16世紀にはすでに、妙見宮から中宮への神輿の神幸、舞楽流鏑馬など、多くの見物人がいる祭礼となっていたようだ。関ヶ原の戦い以降は加藤氏、細川氏の復興もあった。元禄時代以降に、獅子や笠鉾などがお供し、現在の神幸行列の原型が作られた。

八代妙見祭は埼玉県秩父地方の妙見信仰との共通点を見出せるという。それが以下のような観点とのこと。
・生産神としての特徴
・水が豊富な地であり水との関わりが深い
・紙漉の産業が盛ん
・妙見が山の上から里に渡ってきた
・渡来人伝説がある
・亀蛇という象徴
・妙見祭が御田植祭と対になる祭り
・近代に都市祭礼として発展
・祭りが観光化され鉄道会社が大きな力となった
(都市祭礼の莫大な集客力は観光や地域振興に大きく貢献)

なるほど、海側の地域でもない秩父がなぜ妙見信仰を取り入れたのかも興味深いが、八代妙見祭ではとにかく星の信仰がキーになっていることがよくわかった。昔の人は海を通じて、獅子舞という文化を輸入し、それを土地の風土と重ね合わせながらうまくそれを自分たちの文化として取り入れていった。星を見るのは世界共通であるし、海と同様に本来的には垣根のない存在である。先述のように城と地域住民との間の関係性を解けさせる意味でも、八代妙見祭はどこまでもボーダレスな発想が付きまとう。このような土地だからこそ異文化を受け入れ、独自の獅子舞として完成させていったのだろう。

参考文献
小村純江『妙見信仰の民俗学的研究ー日本的展開と現代社会ー』(2000年3月, 青娥書房)
中嶋町獅子舞保存会『三百三十年の歴史 獅子舞楽』(2020年12月)
八代市教育委員会八代市文化財調査報告書第9集 妙見祭笠鉾ー八代神社祭礼神幸行列笠鉾等基本調査報告書1ー』(1996年3月)
八代市教育委員会(文化課)『八代市文化財調査報告書第43集 八代妙見祭』(2010年3月)
八代市立博物館未来の森ミュージアム平成23年度秋季特別展覧会 八代の歴史と文化21 大妙見祭展 ~華ひらく祭礼風流~』(2011年10月)
八代市立博物館未来の森ミュージアム『妙見祭民俗調査報告書』(1996年3月)