1300年前に何があったのか。日本全国の獅子舞の最初期のブームが今から1300年前、おおよそ西暦700年ごろにあったと考えられる。この頃、国づくりが進められ、租税制度も整い、中央集権的な政治の真っ只中の日本において、なぜ獅子舞は大ブームを巻き起こしたのか。これはおそらく、日本で最初の獅子舞の大流行だったのではないかとも思える。ここに、獅子舞を広めたがった政治家たちの思惑をちらちらと感じながらも、僕は現代の獅子舞と対話しながら、西暦700年ごろの人々とも対話をしてみたいと思っている。
さて、2025年10月12日、岡山県津山市の髙田の獅子舞を訪れた。この獅子舞も無論、1300年前に始まったと伝わる獅子舞だ。岡山県の獅子舞の中でも最も格式が高く有名な獅子舞のひとつである髙田神社の獅子舞。その起源を紐解きたいという想いで、この地を訪れた。
岡山駅から北上する列車の車窓は、のんびりとしたテンポ感のある田園風景となだらかな山々、そして時折谷を映し出す。津山駅でおりた。この土地に来たのは初めてかもしれない。SLがその広場にこじんまりと置かれている。バスに乗って北へ北へと進む。
ガストで作業をしてから50分歩いて、髙田神社へと向かった。途中、昼ごはんに困ったが、フランスパンにバナナクリームを塗った巨大なパンを発見して空腹を凌ぐことができた。途中、田んぼで稲刈りをしている親子に出くわした。小さな子どもたちはお菓子を食べながら、お父さんお母さんが作業をしている姿を眺めていた。僕はその光景がとても素敵だなと思って会釈して横を通り過ぎた。

それから急坂を登り、冷凍食品を製造している謎の小屋とか、草むらにたたずむ小さな大仏さんなどに出会いながら、やっとのことで髙田神社についた。暑い!今日は暑すぎる。境内は幸い木陰だらけで、まだ獅子舞は始まってなかった。12時半に到着したら神事をしていた。

この土地に住む方々は恰幅がよくあまり飾りすぎないようななたたずまいの方々が多いように思われた。遠く離れているところに住む方なのに、不思議とどこか近くに住んでおられるような感じがした。隣のばあちゃんが話しかけてきて、「あの〇〇さんは国会議員なんだよ。偉い人でボディガードまで来てるみたい」と囁いた。本当だ、スーツガチガチでしっかりした鞄を手に祭りを見守っている。また、演者の赤、青、黄の服装が印象的だった。津山郷土博物館 仁木様のお話によると、演者の衣装についても規則があるようだ。「岡山県無形民俗文化財に昭和32年に指定されていますが、その前段階として昭和30年に神社から岡山県教育委員会に提出した規則があり、それに服装の項目があります。概ねはこの規則に従って催行しています。それによると笛拍子=青、太鼓=黄、獅子舞連中=赤と記されています。ほかの役にもそれぞれ指定があるので、このときに定められたか、以前からあったものをこのとき整理したかと思われます」とのことだった。
さて、12時半から神社で神事や玉串奉奠をしてから、御旅所にいって、それからまた神社に帰ってくるという流れで、終了は15時ごろだった。その間に獅子は拝殿前で3回、御旅所前で1回、再び拝殿前で1回舞った。実際拝見して感じたのは、動きが非常にシンプルということだ。1300年前の美作国設置とともに舞い始めたというのは当時の伎楽の伎楽の獅子舞の動きを考えると確かに似ている部分もあると思ったが、獅子舞の胴幕に多くの人数が入ること、そして、肩車をすることは後世に付加された部分ではなかろうかとも思った。


獅子舞は拝殿の神前に向かって右(白)が雄、左(黒)が雌で、寝ている状態から始まる。左右に頭を振るわせながら、左右に歩いて合わさってずれて合わさってずれてを繰り返す。これを地練りというらしい。それが5分ほど続くのみなのだ。ようやく境内から御旅所へと向かうときに先ぬけの役割を果たして拝殿をぐるりと一周したので新しい動きが見られたと思った。それで御旅所でもまた同じ舞いが見られて、それからまた拝殿に帰ってくるときに、石段を登る際に肩車になったことには驚いた。ここで鳥居から勢いよく境内に入ってくる場面を「練り込み」と言うそうだ。獅子がぐんっと背が高くなり迫力を感じた。

それから、最後のフィナーレで肩車状態の獅子同士が噛み合う仕草が見られ、最後に拝殿の中に揃って入っていって終了となった。これはどうやら荒れては和合することの繰り返しのようだがそこまでの機敏な動きを察知できなかった。最後に演者に「ふたつの獅子が肩車をしながらお互いに噛み合うのはなぜですか?」と尋ねたところ、「子孫繁栄の意味ですよ。オスとメスが仲良くしてる様子を表すんです。自然の摂理ですわな。なかなか夫婦合体のことを表す言葉は使えないから、子どもの前ではあれは「キスだ」と説明していますよ(笑)」とのことだった。また、肩車だと思っていたが、文献を調べると、両手を出し合って台をこしらえる手車という方式もあるようだ。舞い方は獅子練りともいうらしく、地を練るという特徴があるらしい。



僕はまた髙田神社から歩きとバスで津山駅付近に戻り、津山市立図書館で資料を調べた。その後、津山駅近くのお店でホルモンうどんを食べて帰路についた。
髙田の獅子舞の由来
この髙田神社の獅子舞はかつて、久保神社の獅子舞であったし、また地域名をとって横野の獅子舞でもあった。あるいは植田神社の獅子舞であったとする話もある。神社も名前もどんどん変わって今の姿になっているゆえに、その歴史を遡るのも並大抵の話ではない。しかも岡山県下の獅子舞というのは、旭川流域に分布することが多いようだ。しかし、この久保神社の獅子舞は吉井川流域位置しており、その舞いも他と似ていないことから、特定の伝来元が見つからないという。しかも、その歴史が1300年前ととりわけ古く、非常に特異的な獅子舞という他ない。さて、非常にわずかな手がかりを頼りにその起源について考えてみたい。
この獅子舞がなぜ誕生したのか?『岡山県の文化財 第四集 祭礼行事 踊 伝統工芸』(昭和36年3月)をまずは参考にさせていただこう。この獅子舞が継承される横野という土地は「横野千軒、みな風呂屋」と馬子唄の歌詞にあるほど、製鉄業が盛んであったらしい。おそらく津山鶴山製鉄地帯の一環で、この獅子舞の継承される上横野にも製鉄の場所が設けられていたと考えられている。これが獅子舞の伝承を紐解く大きな鍵となる。
髙田神社の獅子舞が上横野に存在した久保神社の獅子舞と呼ばれていた頃、いわゆる江戸時代の文化・文政年間から明治時代にかけて、作州一ノ宮である中山神社の祭礼に出かけて、ここで舞うことが恒例になっていたらしい。久保神社の獅子舞が舞い始めないと、他の地域の獅子は舞うこともできず、獅子頭が収められている神庫の鍵を開けることすらできないと言われたほどに、特権と格式を与えられてきた獅子舞だった。中山神社の主神は金山彦命という鉱山の神様。また、相殿には鏡作尊(石疑姥命)や大国主命などの出雲系の神々が祀られている。それと同時に、獅子舞の舞い方にもどうやら出雲系の獅子舞の影響が見られるようである。つまりこれらを総合的に考えるに、まず出雲から製鉄と獅子舞の技術を持った人々がこの中山神社にその技術を伝承し、その中山神社から久保神社に直伝で特権級の獅子舞が伝承されたという流れを考えることができるわけである。
※大正2年(1913年)に久保神社の獅子舞は、上横野、下横野、植田、奥谷、倉木の5つの村の神社を合祀したことで髙田神社と改められた。
この地理的な読み解きとして重要なのは、『津山市史第1巻 原始・古代』(昭和47年3月)の記述である。「美作はかつては吉備の坂国であったと考えたい。古代の日本人にとって村境や国境は、境外からの至福を招き寄せる場所であると同時に境外からからの禍を防ぐ場所であった。(中略)まことに美作は山陽道から出雲へ越すための、最前線の国であり、その最先端の地に神を祭る場所を意味する大庭郡が置かれ、式内八社が祭られていたのであろう」。出雲への道のりも通じやすい立地であると言えるのかもしれない。

出雲から伝来?キーワードは百足獅子
さて、ここからは僕の勝手な予測である。手掛かりになるのは胴幕に複数人が入る「百足獅子」の形態だ。かつてこの獅子舞には、12人もの演者が胴幕に入っていたそうだ。昭和の資料を見てもまだ12人と記載されている。しかし、現地で地域の方に聞いたら「昔は9人ほど入っていたけど7人になった」と話していたから、徐々に入る人が少なくなっていることがわかる。動きは単純に見えるが、獅子頭を中で交代したり大人数が一糸乱れぬ動きをしたりするには相当な訓練が必要らしい。
このような百足獅子の形態は全国を見渡すと、北陸地方の石川県富山県、それと山形県置賜地方などに多く見られるが、山陰ではなかなか聞いたことがない。ただし、岡山県の近在では出雲地方に一例のみ存在する。それが多伎藝(たきき)神社の獅子舞(出雲市多伎町)である。背中の白黒の横縞模様や、実際に拝見したことはないのでネットの画像しか確認できていないがおそらく2頭一対の形式となっている点が非常に似ているように思われる。この獅子舞はもともと製鉄業を営む田儀櫻井家本宅と、鉄製品の積み出しなどで栄えた田儀港との中間地点に所在する神社で継承されている。そして田儀港には北陸との交易でさまざまな特産品などがもたらされたそうだが、その中で獅子舞も伝わったという。つまり、この多伎藝神社の獅子舞の源流は北陸の百足獅子にある。髙田神社にも鉄を介した交流で、多伎藝神社から獅子舞が伝わったのではないかと思ったが、北陸特有の獅子殺しの所作が多伎藝神社の獅子舞には存在するのに対して、髙田神社の獅子舞には存在しない。その点が疑問ではあるが、この獅子舞の影響を受けた可能性としてはゼロではないと思う。また、北陸の百足獅子系の獅子舞はおそらく江戸時代以降の創作であろうから、1300年前に髙田神社の獅子舞が成立した時の姿は全く違ったものだっただろうと思う。
1300年前との照合
今から1300年以上前、701年の大宝律令は、中国の古代王朝である隋や唐の中央集権的な国家体制の根幹となる法律の輸入で成立しているところがある。戸籍計帳の作成、班田収授法による新税制の確立、国・郡・里の地方行政区画の策定と国司・郡司による地方官制の整備も行われた。それと同時におそらく神社の形式や祭祀全般に対する改革も行われたタイミングだったはずである。これが「獅子舞1300年前に成立」の本旨なのだろうと思う。実際のエピソードとしては、この獅子舞は最初期の言い伝えとして、和銅6年(713年)に美作国府が完成して以来、毎年9月9日に総社宮に11社の神々とともにご神幸したと言われている。これが現在、1300年前の数字を決定づけているものであろう。
この1300年前に中央(奈良など)で実施されていたのは2人立ちの伎楽に登場する獅子舞であったろうから、まず胴体の大きさは小さかったはずである。胴幕も布というよりは毛だったかもしれない。そして、行道の獅子なのであまり激しい動きはせずに練り歩きが中心であったと思う。これが伝播した可能性はある。しかし、これも推測の域を出ない。ただ、この1300年前という数字は日本全国で聞くので、おそらく日本最初の獅子舞の一大ブームがあって、その流れで伝わったことは推測がつく。
またこの獅子舞の構成は、笛、太鼓、獅子2頭、獅子株名代2名である。僕が推測するに、この獅子株名代(なだい)とは、獅子舞が大陸から伝来してきた初期段階に存在していた伎楽の獅子に登場する「獅子あやし」の名残にも思える。ただし、獅子舞の指導と宰領や統率をおこなう獅子株と称する宗家の初見は、江戸時代の寛政年間(1789年〜1801年)とのことである。だから革新的なことは何も言えない。これは家柄というよりも人柄や技術によってその都度の氏子の推薦で決まるという。この獅子株とはいわゆる宮座のことで、祭司組織のことを表す。伝授するときは株を渡すという感覚、表現になるのだろう。世襲制でないことは興味深いし、この組織的な体制こそが伝統維持の秘密なのであろう。この獅子株の名代(なだい)2名が選ばれて、獅子舞演舞の際に獅子舞の横についてその演舞を見守りや指示出しをする。
いずれにしてもさまざまな想像が膨らむ、ロマンのある獅子舞と出会えたことに感謝したい。

参考文献
吉田研一(岡山県教育委員会社会教育課 監修)『岡山県の文化財 第四集 祭礼行事 踊 伝統工芸』(昭和36年3月, 日本文教出版株式会社)
津山市史編さん委員会『津山市史第1巻 原始・古代』(昭和47年3月31日, 津山市役所)
以上2冊を最も参考にさせていただきました。
高田地域歴史研究部会『高田の歴史と文化』(平成28年3月1日, 高田連合町内会)
津山市教育委員会『津山の文化財』(昭和58年3月, 行廣印刷所 印刷)
津山市教育委員会『津山の文化財』(平成10年3月, 株式会社日写サイバーリンク制作(印刷?))
津山市教育委員会『津山の文化財』(平成20年3月, 株式会社 廣陽本社 印刷)
岡山県大百科事典編集委員会, 山陽新聞社出版局『岡山県大百科事典 下巻』(昭和55年1月3日, 山陽新聞社)
神野力『岡山文庫②岡山の祭と踊』(昭和39年4月10日, 日本文教出版株式会社)
山陽新聞社津山支社『津山百景』(平成9年5月30日, 山陽新聞社)
岡山県教育委員会『岡山県の文化財(3)』(昭和57年3月, 岡山県文化財保護協会)
岡山県史編纂委員会『岡山県史 第十六巻 民俗II』(昭和58年3月31日, 山陽新聞社)
田中良和他『祭礼行事・岡山県』(平成7年12月5日, 株式会社おうふう)
出雲市多伎藝神社の獅子舞に関する参考URL
https://shimane-kodaibunka.jp/history/history-2903/
*お礼
津山郷土博物館 仁木康治 館長に、髙田神社の獅子舞に関する不明点をご丁寧に教えていただきました。また、津山市立図書館の皆様には、職員あげての文献大捜索をしてくださり感謝いたします。