広島県の獅子舞はまだ訪れたことがなかった。そこで興味本位に広島県の獅子舞についてネットで調べるうちに、最も格式高く歴史があり、そして何か匂うなと思ったのが福田の獅子舞だった。ひとまず現地に行ってみようと思った。未知への遭遇という感覚が近いかもしれない。2025年10月5日、広島県竹原市の福田の獅子舞に伺った。
簡素化する行事に霊威をみる
前日の取材地である愛知県から始発の電車で、広島に向かった。車窓はまるで秋色の田畑が美しく、穏やかな山々や海を眺めながら、僕は竹原市に辿り着いた。東海道に比べると、まだまだ秋になりきれていない残暑の雰囲気を感じる。むっとしたこもった温度感に汗ばんでしまう。僕が降りたのは大乗(おおのり)という駅である。駅を降りると、のんびりと自転車を漕ぐ少年や、田畑の草刈りをしている途中、小屋の陰で休む老人の姿が見られた。その老人がスッと僕の方を向いた。その眼差しはどこかふとした出来事を包み込むようでそっけない眼差しだった。
小道を進んでいくと、徐々に道は狭くなって、公民館が見えてきた。そこ玄関のところで、子どもが白い化粧をして、色とりどりの衣装を着て準備をしているのが見えた。今回、僕は現地に知り合いがいなかったので、本当に開催されるものか不安だったが、なんとか開催されるようでほっとした。

それから演舞の会場でもある稲生神社に行った。鳥居の横の旗が風と共になびいて、ざわざわと揺れている。その側のスッとそそり立つ直立した感じがとても堂々としていて、それでいて優しい感じだった。人がちらほら集まっていたが、皆地域住民のようだった。ケーブルテレビの人が来ていて、何かの番組で取り上げるようで、カメラの位置を検討しているようだった。それから拝殿前でぐるりと円ができてきて、その真ん中に太鼓と笛を吹く人のゴザが敷かれている。13時半から巫女舞があったようだが、知らずにこれは拝見することができず、獅子舞から拝見できた。
14時になったら、獅子舞が始まった。広島県無形民俗文化財、福田の獅子舞。牡丹の花笠を被った神童が32通りに打ち分けるという太鼓の舞い。それに合わせて獅子が戯れあそぶという内容である。その太鼓のパターンの多さには非常に驚く。ただ現在、神童である子どもはたった2人。16通りしか打ち分けていないとのこと。華やかな獅子舞はそれでも輝いていた。子どもの動きの可愛らしさ、そして獅子舞の耳が上下する愛らしさがとても印象的だった。あまり動きは激しくなく、どこか優雅にゆったりしたように思える。



担い手にお話を伺った。「練習はいつ実施するのですか?」と尋ねてみると、「一月前くらいから子どもメインで練習をします。本来は小学校5年生が実施しますが、今年は6年生ですね。子どもが少ないのは、厳しい状態です。ケーブルテレビさんやポスター掲載などで、広めてもらっています。町自体の人数が少ないんですよね。親がやっていたら自分もやろうという流れとなります。竹原市内の小学校で、発表会を縮小版でやっています。ただその小学校も来年に閉校の予定です」とのことだった。人が少ない中でも工夫して繋いでいこうという想いを感じた。Youtube掲載の話をしたところ、「ぜひそういうのはどんどん上げてもらえたら」とおっしゃっていただいた。
演舞が15分ほど行われたのち、演者たちは公民館に戻っていった。そして、30分ほど神社で神輿の出発を待った。拝殿内では神事が実施されている。拝殿の横の建物の軒下で、おばあちゃんたちが数人座りながら談笑している姿がとても印象的だった。獅子舞が終わったあとは多くの方々が帰ってしまったが、数人は話をしながら神輿を待った。しばらくすると、白い服を着た人々が集まり始めた。先ほど獅子舞を演じていた大人たちである。

さて、神輿が拝殿前から動き始めて、いくつか不思議に思ったことがあった。まずは神輿の横について歩いている獅子舞がいて、先ほどの神社奉納が行われていた福田の獅子舞とは違う、赤い獅子頭に胴幕は緑色である。この獅子舞は神輿の周りを一緒に歩きながらも、周囲の住民の頭を噛んでいく。特に舞うことがなくただ歩いている感じだった。獅子頭を被るよりは形式的に持っているという場面が多かった。人々はこの獅子舞のことを「ゴト」と呼んだ。「警護係の獅子舞で、守る頭ということなんですかね。どこでも天狗さんと獅子がありますよね。あの獅子舞ですね」とのことである。「御頭という漢字で書くかもしれないがよくわからない」とある人が言っていた。


また「チョウサチョウサ」と言いながら担いでいて「ここら辺はどこもこの掛け声で言うわね」とのこと。不思議だったのがこの町の神輿、なぜか道の曲がり角に来ると「わっせわっせ」と掛け声をかけながら高速回転する。合計で4箇所回るポイントがあるという。これは何かしらの意味を含むと思うのだが、解読できない何かがあった。どこか異界に連れ込まれるような感覚があった。その回るポイントには縦長の石が設置されている。これを「立石」と呼ぶという。道の方向を指し示す標識のようだが、単なる看板と違って石に何が書いてあるのかわからず、なかなか読解がしにくい。この石が建てられている道の角で、神輿は回転するのである。これには深い意味が隠されていると思う。じっくり考えたい。


この神輿と獅子舞の後ろを、色とりどりの旗を持って、獅子舞関係者が神輿に続いた。この旗のことを人々は「梵天」と呼んでいることを教えてくださった。梵天といえば、祭礼行事に登場する場合は、神の霊を宿す依り代となる大きな御幣を示すものであり、たくさんの人々が手にしていた御幣は、まるで神に対する大きな訴えかけのようなものを感じさせる。この梵天はただ手に持っているだけで、とりわけ何かに使うこともなく、歩くときの杖のように使っている場合が多かったように思う。子どもが多かった時には、フキアシと言って昔は、手拍子や太鼓も付いて歩いたようだ。また、子ども神輿もあったようである。
この神輿は家々の間を縫うようにというよりかは、ただ最短距離でとある山の中の神社(大乗神社)へと向かった。昔は「あっちいったりこっちいったり」としていたという。大筋としてはこれから向かう大乗神社と先ほどの稲生神社とを神輿が往復するという行事の仕組みのようで、神輿の保管もこれからいく神社で実施しているようだ。「鳥居が本来あったのですが、道が道路の拡張によって、石の柱に変わった」という。昔、鳥居のところに30mのしめ縄を作って、それをくくりつけていたという。「蛇みたいなもんや。祭りの1週間前に巻いていた。」とのこと。

その場所を抜けて川を越えると鳥居が立っていた。ここに移動したのかな?と思う。その途端、手に持っているカメラが地面にこぼれて、コロコロと転がってしまった。ああ、しまった!!!これはもうカメラが使えないかもしれない。周囲の地域の方々も大丈夫ですか!?と駆け寄ってくる。電源をつけたところ、無事について本当にほっとした。それで動画を再び回し始めたのだが、その後に写真を撮ろうとしたら、全く映らない。シャッター音はするのだが、画面は真っ暗。撮れているはずなのに像を結ばないのである。これは困った。写真が全く撮れない...。
鳥居の前でカメラが破損した。これは神域でカメラを向けてはいけないということなのだろうか。そう考えると、ぞっととして恐ろしくなった。それから神輿は暗い森の中に突入した。その森の中には非常に急坂の階段が上へ上へと続いている。皆必死の形相で登っていく。これ神輿を担いで登っている人はどれほどの苦労だろうかと思うが、それを構っている余裕はない。薄暗い森の中の階段を抜けると、そこには小さな拝殿があった。この拝殿の先に神輿を収めると、担い手たちは「お疲れ様でした」と労をねぎらった。そして、飲み物を配り始めた。僕はただついてきた観客のひとりで、神輿を担ぐ苦労も知らない余所者なので、飲み物を受け取ることが躊躇されて、「ここら辺で駅に向かいます」とお礼を数人に伝えてその場を去った。
帰りの電車を待つ時間、何度も何度もカメラを触った。写真をいくら撮っても真っ暗だ。これはおかしい。それから一駅電車を乗って図書館に向かって文献を調べてから電車とバスで東京へと帰った。お好み焼きも10分で食べてあまり観光的な観光はできなかったが、今回も素晴らしい旅にはなった。
翌日、カメラのメーカーに問い合わせたところ、「そのようなカメラの症例は見たことがないですね」という。ひとまず修理をするので2週間くらい見ていただけませんかと言われて配送を依頼されたが、次の取材までにそれでは間に合わない。そこで、カメラの買取を依頼することにした。ジャンク品扱いになってしまうだろうなと思ってカメラ屋を回ったところ、ある店舗での買取査定終了タイミングにカメラがなぜか直った。「あれ、この画面、写真撮るとき真っ暗になってませんでしたか?」と尋ねたところ、「不安になってきました」とお店のスタッフがもう一度調べ始めたが、全く、画面は暗くなっていない。それでよくよく話を聞いてみると「もしかしたら露出補正をいじってしまったのかもしれませんね」などという。いや、僕は露出補正をいじってはいない。ただカメラが転げてしまっただけなのだ。不思議なこともあるもんだ。ひとまずカメラが直ったので、そのまま売らずに使わせていただくことにした。カメラが直って本当にほっととしたが、その一方でこの出来事があってから、今回の取材を通してなぜかとても恐ろしい神域の奇妙さの片鱗に触れたような気がした。行事自体は簡略化しているが、その本質は何も失っていない。そこには霊域が存在することを非常に強く感じたのである。そして、それと丁寧に丁寧に向き合う必要があること、忙しい時ほど特に物を大事に扱わねばならないことを改めて考えさせられた。
福田の獅子舞の由来
江戸時代中期、四国讃岐伊予地方で盛んに行われていた獅子舞が伝来したと伝わる。当時の状況として、旱魃や水害などの天災や疾病が相次いで、悩んでいた人が荒神社(稲荷神社)に獅子舞を奉納して、五穀豊穣や部落繁栄を祈念したという。文久3年(1863年)、獅子頭新調のため伊予に出かけた記録があり、この船が帰ってきた時に、獅子舞が盛大にそれを迎え入れ舞われたようで、この時からより一層、獅子舞が盛んになったとされている。
また、福田の獅子舞は「呉竹の獅子舞」とも言うようである。文献を調べていると、そのような表記も多々見られた。「たけはら広報 第39号」(昭和31年1月11日)によれば、福田の獅子舞の起源について、こう書かれている。「唐崎常陸介が伊勢の谷川淡斉の門に入り、宝暦7年(1757年)竹原へ帰るときに獅子舞を奉納した」という。また呉竹の獅子舞の名前の由来について「頼山陽45才の時、唐崎先生の旧邸を訪ね、この獅子舞を見て呉竹の獅子舞と名付けたという」とある。唐崎常陸介は江戸時代中期に活躍した勤皇家であり、谷川淡斉は国学者である。伊勢地で学問を学びつつも、伊勢の獅子舞を習得したと言う見方もできる。また頼山陽は『日本外史』と言うベストセラーの著作を世に出した人物であり、日本の歴史書として、幕末の尊皇攘夷運動や勤皇思想に大きな影響を与えた本である。この政治的な思想のつながりが、獅子舞にも影響を与えていたようにも思える。また呉竹とは、中国の呉から伝来した竹の意味である。節が多くてまっすぐに伸びることから、物事が長く続くことを意味するとも言われる。また、しなやかさや静かさ、穏やかさを意味するともいうが、実際にそれは福田の獅子舞の姿にもどこか重なる部分はあるようにも思う。さて、実際になぜこう名付けられたのかはよくわからないので、推測の域を出ない。
また『大乗百年史 大乗小学校創立百周年新築落成記念』によれば、隣村の能地部落でも同時期に同じ形態の獅子舞を四国から移入したという。しかし、現在では獅子舞が抜けて、獅子太鼓のみが残るという変容を見せており、「この二つの地域の生活環境のちがいが、郷土芸能へどのように影響していくかの一つのモデルとして面白い例」と述べている。

福田の獅子舞の本来的な意味
もともと太鼓打ちの子どもは12歳となる男の子の中から選抜されてきた歴史がある。その経緯は12歳の子どもが最も疫病で亡くなることが多かったという経緯があるようで、ある種の厄祓い的な要素があったと思われる。実際に太鼓打に選ばれた子どもはとても名誉なことで、なかなか誰でもなれるものではなかった。バチの持ち方や足の払い方など、細かく非常に厳しい訓練の先に、技術を習得したようだ。そのため、祭礼の際には「神童」として大事にもてなされたようである。
もともと1頭の獅子に2人の太鼓打ちの構成だったが、昭和29年に福田が竹原と合併して、その頃から福田の祭事が竹原へと拡大した関係で、2頭の獅子に4人の太鼓というふうに構成が倍増したと考えられる。この2頭の獅子は親子獅子とされる。昭和52年4月に広島県指定無形民俗文化財に指定された。2024年からは2頭の獅子に2人の太鼓打ちとなっており、これは子ども不足の影響であるという。
またこの花笠と獅子の関係性について、本来的には獅子がさまざまな方向から噛みついてくるので、それを払い避けつつ太鼓を打ちつづけてついに太鼓の完成をさせるという苦行を課すことで、豊かな逞しい大人へと成長することへの約束を意味するという。しかし、その一方で、牡丹の花笠に向けて獅子が戯れ遊ぶ様を表現しているという2面性があり、これこそが、この獅子舞の見どころであり醍醐味であると言えるだろう。あとは太鼓打以外は基本的に年齢層もさまざまであり共同体の協力体制が築かれていること、そして門付けをするでもなく、神社の奉納に特化した獅子舞であることも大きな特徴である。

参考文献
今井定雄『竹原聞きある記』(竹原市老人クラブ連合会, 平成6年11月)
竹原郷土文化研究会『竹原郷土文化研究会々誌 竹原春秋 郷土史と民俗第1号〜第10号』「たけはら広報 第39号」(昭和31年1月11日)
大乗小学校創立百周年新築落成記念事業実行委員会『大乗百年史 大乗小学校創立百周年新築落成記念』(1977年3月1日)