高い梯子をのぼり、その上の櫓で舞われる獅子舞がいる。ただでさえも足がすくみ軋み揺れる足場の上で、舞う獅子舞がいるのは本当に驚きだ。しかもその動きが激しく、キビキビとしている。もともと素晴らしい演舞とは知っていたが、この獅子舞が猪の退治と供養を由来とすることを知って、ますます興味を持った。
不安が霧散した会場入り
2025年10月4日(土)、愛知県知多市の朝倉梯子獅子を訪れた。朝早く着きすぎたので、名古屋周辺で珍メニューも多い喫茶マウンテンにいったり南山大学の博物館に行ったりと諸々堪能してから、朝倉梯子獅子がおこなわれる朝倉に向かった。大雨が降っており、非常に心配だ。開催情報を聞くため、観光協会に電話をかけたがつながらない。ひとまず、開催地である牟山(むさん)神社にいって聞いてみよう。
17:30ごろに朝倉駅に辿り着くと、空は曇りとなっていた。静寂が辺りを包み、天上がりの静謐とした雰囲気をしばし味わった。それから歩いて数分で神社についた。高々と設置された梯子が見え、数人の関係者が準備しているのが見える。その光景を見た時に、「これは絶対に開催する」と直感した。もう祭りが開催されている光景がありありと見えるほどにその空間がエネルギーに満ちていた。それで安心しきって、開催情報を聞くこともなく、朝倉の梯子獅子の文献を調べるために颯爽と図書館に向かった。

途中で灯籠を灯した一団に出くわした。どうやら地域の家を一軒一軒回って太鼓や笛を奏しているようである。おそらく、これは梯子獅子のお囃子を務める方々なのではと思ったが獅子はいなかった。図書館に辿り着かないので先を急いだのでそれ以上の詳細はわからない。ペットボトルを持って歩いている2人のおじさんの後ろ姿を見かけた。祭り関係者だろうか。遠目からだとそのペットボトルが光り輝いてて小さな灯籠かと思った。町がどこか沸いてる感じがする。「朝倉の梯子獅子」の旗も立っている。
住宅街を抜けると黒い森が広がっていた。ここら辺一帯は自然が豊かなイメージはなかったが、それは見当違いだった。高い山はないものの、森が広がった土地であることを実感させられた。獅子舞の由来は猪退治(後述する)というから、それを強く現実感をもって捉えられた。辺りは暗くなった頃、18時には図書館についた。それからスイスイと調べ物が進んでまた引き返して神社に戻った。
さて、神社について間も無く、いつも位置どりを地元のカメラマンの動きを見て決めるのだが、今日はほとんどいない。ああ、良い祭りだと思った。カメラマンがあまりいない祭りを良い祭りだと思うのは、自分がカメラマンだからだろう。良いところも悪いところも全部知ってる。比較的朝倉の梯子獅子は、比較的観光化が進んでいるかと思っていたが、そんなことはなかった。
朝倉梯子獅子の形式的珍しさ
さて、演舞を振り返ろう。まずは獅子舞を構成するフォーマット的なことに触れたい。櫓はおよそ9メートルに及ぶ柱を3本立てる。31段の梯子をかける。獅子舞は獅子頭と胴身の2人立ちの獅子舞であり、前者の演者をカブ、後者の演者をウスと呼ぶ。足に履く足袋は黒白の配色であるが、カブとウスは左右対称に履く。これはおそらく先述の陰陽の舞いに即した衣装ということだろう。また、毎年の奉納する舞いの組数が7・5・3といった奇数に定められており、今回拝見したのは3であったが、その年の奉仕人員によって前後するとのことである。全てに意味があり、ノリで決めた感じがしない。これは歴史ある祭りの証左だろう。獅子頭は非常に小ぶりな印象で、軽いからこその激しい演舞を予感させる。名古屋の職人に頼んでおり、昭和34年の時は4000円、昭和39年は7000円で1頭を発注したという話もある。



3種のアクロバティックな舞い
梯子を登る獅子舞は天頂に届き、梯子や櫓を大きく揺らした。それはまるで大地に根を張る大木のように、その足元を確実に大地へと深く根を下ろしているようで、同時に演者の運動神経の良さを感じた。
舞いは3つあり、それぞれに囃子の曲がある。この3つの曲が、本日は3回繰り返された。曲目は運勢の舞(祈念の曲)、櫓上の舞(勤労の曲)、感謝の舞(豊年の曲)の3つである。これらが一連の流れとなり、ひとつの舞いを構成している。
運勢の舞は塩で浄めてお祓いした獅子が山を登ろうとして、すべっても屈せずに登っていく有様を表す。跳び上がっては転ぶ様子は七転び八起きを表すようだ。櫓を高い山に見立てて、ウスがカブを肩車して、山登りをする。途中、片足を梯子にかけて片足を梯子の横側へ後ろ向きに開く場面があり「ウンセイ」という掛け声を発する。「ウンセイ」とは運勢のことであり、吉兆を願う意味だそうである。ここには氏子の安全、豊作、大漁などの祈願が含まれる。

櫓上の舞では、山の上(天頂)に至ると、喜び勇んで渡っていく。農耕と漁業の勤労と収穫の喜びを表す。足の甲を横木にかけて、突然仰向けで下方に3度反り返る。この所作をアオルと呼び、神を3拝する意味を表す。農村にとっては稲穂の垂れ下がる姿、漁村では大漁の網を全力で出して揚げる姿を現す。その後、櫓の上で動物のような足さばきで歩いたり、ウスがカブの体越しに一回転すると、カブも続いて一回転したりする。これは歩くことさえも恐ろしい櫓の上で、非常に難易度が高い技であり、選ばれし者だけのなせる技という感じがする。また動物のノミをとる所作を真似たノミトリもある。これは農村にとっては雑草を取り除くこと、漁村にとっては漁の邪魔者を取り除く勤労の姿と伝わる。

それから感謝の舞では、すべり木を降りて、急な斜面を乗り越えて目指す里に到着した喜びで、舞台での演舞をして歓喜して終了となる。

ここからは余談ではあるが、1演舞目に何度も何度も、櫓の上に登り各所に塩を撒いていた。僕は一瞬、この塩は滑り止めになるのではないか?と思ったが、どうやら櫓や梯子にこの塩を振り撒くというよりも、その下の地上に向けて撒いているようである。お清めの塩なのだろう。
総じて、担い手の体力勝負みたいなかなりハードな舞いだと思った。演者は皆、ガタイが良い。スポーツ万能そうである。演舞の流れは後ほど詳しく述べるとして、アクロバティックすぎるので、選ばれし若者のみができる演舞という感じがする。これは同じく愛知県の大脇梯子獅子を拝見した時にも思った。どこかヒーローの誕生を思わせる獅子舞の形態だと感じる。

獅子舞だけでなく演舞と演舞の間に巫女舞が行われた。また獅子舞の後に、灯籠を持った太鼓や笛などのお囃子集団が神社の鳥居前に出るという行列もあった。これはどういう意味があるのだろうか。ひとまず、これを境にして、1日目の日程が終了した。


余談ではあるが、演舞の初めの運勢の舞あたりで、塩は舞台から最初に観客に向けてドバッといきなり大量に撒かれたタイミングがあった。全身が塩だらけ、カバンの中もカメラも全て塩だらけになってしまった。いやーこれはまいった。これはあとで祭りが終わった後に台湾料理屋にいったときに、注文の品が出てくるまでお手拭きでカメラを拭きまくったら、おおかた機材は無事だった。髪の中に紛れ込んだ塩はもうなかなかとれないので、恥ずかしながらにそのまま電車に乗ってそのまま宿でシャワーを浴びたらとることができた。
朝倉梯子獅子の由来
さて、ここからは文献を調べてみてわかったことを振り返ろう。文明11年(1479年)、牟山(むさん)神社の再建の折に、獅子舞が奉納されたのが最もはじめの記録であり、口碑に記されている。この時の獅子舞は、雌獅子の神楽獅子であり、幣の舞などをおこなう歌舞伎調のさまざまな舞いがあったという。それが、梯子獅子を追加するにあたり、雌雄いる獅子舞ができて、陰陽の舞として認識されるようになった。一方でもともとの神楽獅子は明治中期以降、伝来されなかったようである。
その梯子獅子の起源は愛知県知多市教育委員会『知多市文化財資料 第11集-朝倉の梯子獅子』(昭和45年)によれば、慶長の初めに朝倉村に獅子(いのしし)が現れ、農作物を荒らし、被害がひどくて村人はとても困窮していたという。そこで村人の惣右衛門という人が村人の協力を得て、慶長3年12月(1598年)に梯子攻めをおこない、猪を退治した。そうしたら、田畑が荒れることなく翌年に大豊作になったようだ。そこで村人たちは喜んで、豊年祭と猪供養を思い立って、翌年の慶長4年(1599年)に梯子に登る雄の獅子舞を演じたのがその始まりだという。ちなみにこの梯子攻めとは、四方から獲物を追い立てて、梯子などで柵を作り柵の中に獲物を追い込んで対峙する方法で、昔は犯人を捕えるのにも使われたようだ。
猪退治に関して、やっと邪悪な猪が退治されたというよりかは、猪が豊作をもたらしてくれたという感謝が込められているようにも思えたが、実際にはどうなのだろうか。昭和31年3月28日、朝倉の西屋敷貝塚発掘の際に、猪の骨がたくさん出てきて、昔は猪が数多く生息していたことがわかった。今の朝倉には猪が出るのかよくわからないが、少なくとも昔は猪だらけだったようだ。


参考文献
愛知県知多市教育委員会『知多市文化財資料 第11集-朝倉の梯子獅子』(昭和45年9月)
知多市誌編さん委員会『知多市誌』(昭和56年3月, 知多市役所)
愛知県知多市教育委員会『知多市文化財資料集第17集 知多市の文化財』(昭和55年1月)