猿退治の謎やアクロバティックな獅子舞、京都府の農村的芸能「吉祥院六斎念仏」

京都において悪疫退散の願いが込められた六斎念仏。その中でも最も盛り上がってきた地域とも言われる吉祥院六斎念仏に、2025年8月25日に伺うことができた。最も拝見したかったのが、猿が登場する岩見重太郎と獅子舞および獅子と土蜘蛛の演目である。

京都に到着したのは早朝だった。それから資料探しに奔走して、京都中央図書館と京都右京中央図書館を回った。総合的な蔵書数が多いのが京都中央図書館ではあるが、郷土資料や民俗芸能関係資料だけでいえば京都右京中央図書館の方だった。

それから夕方ごろにゲリラ豪雨となり、六斎念仏は専用の舞台があるとはいえ、雨が大きく吹き込んでしまうほどの強い雨となった。しかし、instagramのストーリーの告知を拝見して、20時からの六斎念仏は決行とのことで、とてもほっとした。18時台に実施予定の子ども六歳も20時からに変更になったらしく、どちらも拝見できることになってとてもありがたいご縁である。

会場に到着したのが19時すぎだ。京都の中心に近い地理ではあるが、どこかのんびりとした空気を感じる。吉祥院天満宮横道には屋台がずらりと並び、境内にも屋台がずらりと並ぶ、その姿は圧巻である。お参りしにいくと、拝殿の中には子どもたちの絵が飾られていた。それにしてましたがとてもぬかるむ。靴を履くのにも苦労して滑って水たまりに浸かってしまった。歩いていても、小さな無数の水たまりを踏んでしまい、他人に水をかけてしまうことが申し訳なくなってくる。

舞台の前にたどり着くと、もう数人の観客が来ていた。ぬかるみで汚れないようにか、三脚にビニール袋を被せる人もいたが、かえって動きが取りづらくなるのでは?とも思ったので僕は直置きして後で三脚の先を洗うことにした。

実際に20時には子ども六斎が始まった。四つ太鼓の演目をするらしい。早打ちのリズムによって鼓動が震えるような思いである。

10分ほどののち、大人の演目が始まった。とりわけ、岩見重太郎の演目で猿のアクロバティックな動きはとても面白かった。最初は岩見重太郎と変化との対決のような感じで、とても緊迫するような場面が繰り広げられる。変化退治ののち、登場するのはヒヒ(猿)である。ライブカメラに向かってピースをしたり、ボクシングのようなポーズをしたり、かなり奔放に振る舞う姿がとても愛らしかった。その姿にはどう振る舞っても、観客は喜んでくれるような寛容な雰囲気の空気感が生まれていた。それから2つ後の「祇園囃」という演目にも猿が登場したのには驚いた。

獅子と土蜘蛛はやはり圧巻だった。担い手のアクロバティックさは並大抵の技芸ではない。あの分厚い着ぐるみの胴体を纏い、逆立ちのようなことをするのは鍛錬が必要だ。そしてきっとめちゃくちゃ熱いだろう。蜘蛛の糸を持ち帰るとご利益があるのだろう。数十人の子どもが舞台前に群がり、競ってその糸をとっていた。

それから六斎新聞なるものを配布していたのでいただいた。どこまでも町に開かれた夏祭りの六斎念仏であった。子どもたちのチャリンコがたくさん停めてありたむろしている公園を抜けて、夜の暗い川のほとりを歩きながら、帰路についた。ビールを飲んで、天下一品のラーメンを食べて今回も大充実の1日だった。

吉祥院六斎念仏が演じられる舞台

六斎念仏とは?種類とルーツ

さて、ここからは図書館で調べた資料をもとに、六斎念仏、そして、吉祥院六斎念仏のルーツに迫っていこう。

六斎念仏はもともとは、六斎日に唱える念仏のこと。六斎日とは、毎月8日、14日、15日、23日、29日、晦日のことで、悪鬼が災いをもたらすということで、家にこもって謹慎する習慣があった。郷土史研究会『京都の六斎念仏』(昭和57年3月)によれば、「わが国における六斎の語は、持統天皇5年(691)2月、公卿らに詔して六斎を行わしめたとある記事が初見とされる(日本書紀)」とのこと。六斎の観念が仏教とともに伝わり、すでに奈良時代以前には成立していたようである。六斎の普及は殺生禁断と結びつき、その際にその禁断を保つことが難しい猟師や漁師たちにとって、念仏信仰を受け入れることはある種の必然であった。個人的にはこの思想の始まりこそが東北の狩猟者の動物供養のしし踊りの普及に繋がったと考える。その背景として、しし踊りの起源を空也上人とする地域も多いからである。

さて話はそれたが、六斎念仏に関する最古の資料となると、時代は降る。郷土史研究会『京都の六斎念仏』(昭和57年3月)によれば、「今のところ京都における六斎念仏に関する最古の史料は、『言継卿記』永禄10年(1567)2月10日条である」という。当時は真如堂の統括にあったようである。京都近郊の村々ではすでに六斎念仏があり、こう集団の形成もされていたようだ。

現在六斎念仏は、空也開基にもとづく空也堂系と、道空開基にもとづく干菜寺系の2つの系統が存在する。もともとはほとんどが干菜寺系であり、僧侶による念仏六斎の儀礼的な側面が強かった。これはどうやら山路興造『京都 芸能と民俗の文化史』(平成21年)P189には「天正年間豊臣秀吉の墨付をもらって、信仰行事としての念仏六斎を掌握組織した」とある。干菜寺蔵の「六斎支配村方控帳」によれば、宝暦5年(1755年)には、当時干菜寺が支配下に置いた六斎念仏の講集団は京都近郊100余にのぼったという。しかし、その後、流行芸能などを取り入れて変化させ、芸能化を進めたい講は他の拠り所を求め、一方で、干菜寺は支配区域を広げるという対応が生じた。そのような中、拠り所として新しく現れたのが空也堂であった。山路興造『京都 芸能と民俗の文化史』(平成21年)P191によると、天明2年(1782年)板行の『空也上人絵詞伝』には、空也上人が松尾明神と会話し、その下に六斎念仏衆が描かれているようである。また文政6年(1823年)に空也堂が出した免許状なるものも残っているようで「日本念仏本山」との記載があるようだ。京都では皇族が亡くなったときに焼香式を実施したようで、六斎念仏講中にこの式への参列を許して焼香太鼓も奏して権威づけに結びついたとされる。

江戸時代中期ごろには講が寺院からの自立を果たして芸能化が進み、空也堂系の芸能六斎が一気に広がった。現在でも六斎念仏といえば圧倒的に空也堂系の芸能六斎が多い。ここに娯楽化が進んだという見方もできるが、しっかりとした儀礼をベースとして新しく進化を遂げてきたようである。

祇園囃子、本年はとりわけ素晴らしかったというSNSの口コミも拝見した

六斎念仏の獅子舞「生き返る獅子と、そうでない獅子」その違いは?

ほとんどの芸能六斎に獅子と土蜘蛛の演目が登場する。獅子が土蜘蛛と戦い一度倒れて「攻め太鼓」によって生き返り、「結願念仏」に続く流れとなる。しかし例外が2つある。桂六斎では源頼光と土蜘蛛が戦うため、獅子は登場しない。大蜘蛛を退治した源頼光は子蜘蛛の復讐に遭う。

また、吉祥院六斎と久世六斎では、「攻め太鼓」がなく、獅子は倒れたまま生き返らずにお開きとなる。そのため「結願念仏」に移行しない。この背景として、『京の風流踊ー講座記録 ユネスコ無形文化遺産「風流踊」登録記念』(令和6年3月)P19では「都会では獅子はめでたく土蜘蛛は悪疫とのイメージが強いが、農村部では獅子(=猪)は田畑を荒らす害獣で蜘蛛は害虫を食べる益虫と捉えられる。吉祥院・久世は以前農村地帯だったので生業の違いが反映しているのではないか」という推測を紹介している。

もともと六斎念仏の獅子舞は、伊勢大神楽に大きな影響を受けている。獅子あやしと獅子の関係があるのだ。ササラという楽器が呪的操作によって、獅子を鎮めることができる。力を持つ存在が自然のあらゆるものを鎮めるというものの象徴的所作であろう。

山路興造『京都 芸能と民俗の文化史』(平成21年)P186には天明七年(1787)の『拾遺都名所図会』に描かれる町廻りの六斎念仏の図には「二人立ちの獅子と、スリササラを奏する道化役が見える」とあり、現在の曲芸を主とした獅子よりははるかに伊勢大神楽に近いようである。

しかし、六斎念仏は新しい進化を遂げたのが18世紀である。ここから獅子に土蜘蛛が取り入れられるようになった。上記の六斎念仏の芸能化の流れと時代的に重なる部分がある。このことについて山路興造氏は大念仏狂言の影響を指摘している。壬生、中堂寺、千本など、大念仏狂言と六斎念仏の演者が重複する場合があるからだという。山路興造氏は『京都 芸能と民俗の文化史』(平成21年)P188にて、土蜘蛛の演目を創案したのは土蜘蛛を壬生狂言で演じていた壬生六斎、あるいは閻魔堂狂言を演じていた千本六斎あたりだったのではないか、また時期は幕末ごろだったのではないかとしている。ただし、能・狂言の世界では、土蜘蛛は頼光と土蜘蛛の話で登場するため、獅子との因果関係を持たず、そのほかにもどうやらさまざまな背景が関わってきそうなのである。ここで獅子あやしとしての土蜘蛛の存在が浮かび上がる。

この土蜘蛛導入によって、ささらが消失したことにも注目せねばならない。これと同じ役割を担うのが太鼓である。『京の風流踊ー講座記録 ユネスコ無形文化遺産「風流踊」登録記念』(令和6年3月)P28によれば、「獅子・土蜘蛛というキャラクターは、彼らが主役なのではなく、あくまでも六斎念仏が持つ太鼓の威力や功徳といったものを引き立たせる存在に組み替えられているのだ。太鼓衆の登場こそ、芸能や信仰の主体が六斎念仏であることを再認識させる構成なのである」とある。実際に太鼓の鼓動によって獅子は生き返り生を取り戻す場合が多い。

これが獅子舞の六斎念仏化の過程なのである。そう考えると、思い浮かべるのは関東の三匹獅子舞である。生と死の境界に立ち囃すササラこそが主役であり、大地への獅子の生贄を促すという構図を内包しているという話を聞いたことがある。全国的にも獅子舞はサブであり、囃子がメインという構成を持った獅子舞は散見されるように思う。

ちなみに獅子の碁盤乗りは、歌川国芳門下の浮世絵作品において、頼光の土蜘蛛退治図の退治の前段に碁盤がよく描かれることから、これが獅子の碁盤乗りに結び付けられたのでは?という話もある。

土蜘蛛と獅子

吉祥院六斎念仏の特徴

吉祥院天満宮菅原道真を祀り、全国で最初に創建された天満宮であり、その歴史は道真の没後31年目にあたる承平4年(934年)に遡る。吉祥院の六斎念仏の始まりは定かではない。ただし、慶応3年(1867年)の免許状が残されているので、少なくともその時期には実施されていたことがわかる。また、次のような伝説が伝わっているという。井上頼寿稿『京都郷土芸能誌』によれば、「秀吉と光秀とのかの山崎合戦の時、豊臣方の追撃を受けて吉祥院に逃げて来た明智勢の残党は皆討たれて悲惨な最後を遂げた。村人は戦場に棄てられた鉦鼓を拾って、干菜寺の六斎を模し之を弔った」という。まさにこの時期に六斎念仏の総本山とされていた干菜寺がその地盤を固めた時期と重なる。実際にこの当時の話は伝説的に語られているところがあるが、念仏六斎として実施されていたものがのちに芸能六斎に転換していったということだろう。

郷土史研究会『京都の六斎念仏』(昭和57年3月)P68によれば、六斎組の集中度と賑わいからして、吉祥院は京都における六斎のひとつの中心地であったとしている。というのも、最盛期には吉祥院だけで菅原組、東条組、西条組、北条組、石原組、新田組、中河原組、島組という風に8組の集団があった。組というのは青年会のことで、15歳〜30歳くらいの青年で構成された。これは戦前まで8組が演じていたものの、第二次世界大戦後に5組に減り、昭和30年代には1組だけとなってしまった。これは農村の地縁型組織体型から、都市型の暮らしに徐々に移行したことが関係しているのではと思われる。ここで残ったのが菅原組であり、これが今の吉祥院六斎念仏につながっている。現在は吉祥院天満宮の夏祭りが8月25日におこなわれ、ここで六斎念仏が披露される。曲目は以下である。

発願、つゝて、お月さん、朝野、鉄輪、四ツ太鼓、安達ヶ原、玉川(上・下)、さらし、大文字、祇園囃子、岩見重太郎、盛衰記(上・下)、羽衣(上・下)、獅子太鼓、獅子舞、土蜘蛛と獅子、回向唄

「安達ヶ原」は修行僧2人がウタに見る光景を手踊りで見せる様子、「祇園囃子」祇園祭の月鉾から取り入れられたお囃子である。本当にさまざまな演目がここに継承されている。もちろんその日によってメンバーが揃うか否かなどの都合もあり、演じられる演目とそうでない演目があるようである。

安達ヶ原の修行僧2名による所作

岩見重太郎のヒヒ退治とは?

さて、非常に興味深い岩見重太郎の演目について触れておこう。この演目は3段からなる。それが妖怪変化の地舞、妖怪変化と岩見重太郎の立ち廻り、ヒヒ(猿)と岩見重太郎の立ち廻りである。約8分間の演目であり、岩見重太郎が変化を退散させ、ヒヒ(猿)を追い込むという物語になっている。

ちなみに岩見重太郎のヒヒ退治を芸能化したのは、日本全国に見られるもので、山形県の新庄まつりの屋台などでも散見される。ヒヒとは巨大な体を持つ大猿のことで、人身御供を要求する荒ぶる神的な存在で、それを岩見重太郎が退治することで、その儀式は一変して、供養の祭りへと変換されるのがその物語に共通するものである。これはある種、川を大蛇に例えた八岐大蛇退治と同じ構造を持っており、これが治水を意味するように、退治と自然との共存の達成は同様の意味を持つようにも思う。

岩見重太郎誕生地の碑が福岡県にある。小早川隆景の剣術指南役の次男の出であるという。薄田兼相(すすきだかねすけ)と同一人物とされている。豪傑として知られ、福岡県若杉山の大蛇退治、奈良県大阪府の境の葛城山の山賊退治、長野県松本の狒々退治、京都府丹後大島の海賊退治などが知られている。豊臣秀吉・秀頼へと士官したため、大坂冬の陣・夏の陣と戦っており、夏の陣で戦死している。

ここで言うヒヒ(猿)とは豊臣秀吉のことで、それに追われた明智光秀軍が逃げて来た場所が吉祥院だから狒々退治の演目が生まれたという噂がある。しかし、それはどうも岩見重太郎が豊臣方に士官していたことを考えるとなかなか辻褄が合いにくい。つまり、吉祥院という明智軍が逃れて来た場所で、岩見重太郎という豊臣方の武将を強さの象徴として演じることは非常に謎である。これは大きな疑問として残るわけである。結局は歴史的な話よりも豪傑としての見栄えや娯楽性が重要視されて六斎念仏に取り入れられたということであろうか。本当に不思議な現象で、明快な答えが思い浮かばない。

吉祥院の獅子舞

獅子が寝入ると、土蜘蛛が現れて戯れ始め、やがて争いに発展する。その後、獅子が敗れることで終幕する。「セイ」と呼ばれる蜘蛛の巣を豪勢に撒くところが見所とされている。獅子と土蜘蛛を演じるようになったのは後世のことで、第二次世界大戦後のようだ。それまでは獅子太鼓-獅子-和唐内の順で演じられ、獅子と土蜘蛛の本曲は和唐内の演目がになっていた。和唐内という人物が獅子を押さえつける構成であり、ここに菅原組の独自性が見られたようだが、「演出面で時代にそぐわない」という話が出て、それから獅子と土蜘蛛が演じられるようになったそうである(参考:郷土史研究会『京都の六斎念仏』(財団法人 京都市文化観光資源保護財団, 昭和57年3月)。つまり、この演目の登場には、「魅せる獅子」を演じることで、六斎念仏の進化と生き残りを賭けた戦略が読み取れるようにも思える。

参考文献

山路興造『京都 芸能と民俗の文化史』思文閣出版, 平成21年11月

福持昌之, 山中崇裕『京の風流踊ー講座記録 ユネスコ無形文化遺産「風流踊」登録記念』令和6年3月, 京の風流踊振興会
福持昌之, 山中崇裕『京の風流踊ー講座記録2 ユネスコ無形文化遺産「風流踊」登録記念』令和7年3月, 京の風流踊振興会

郷土史研究会『京都の六斎念仏』財団法人 京都市文化観光資源保護財団, 昭和57年3月