火の輪をくぐる勇猛な獅子!山形県川西町「小松豊年獅子踊」

火の輪をくぐる獅子舞がある。本当に熱くないの!?と思うほどに狭い輪っかを獅子舞がくぐる。この勇猛果敢な獅子舞があることを知り、ぜひ拝見したいと強い興味を抱き、2025年8月16日山形県川西町の小松豊年獅子踊を訪れた。

山形駅を朝に出発して、米沢をまわり、置賜に至る。羽前小松駅を降りると、どこか食事どころがたくさん軒を連ねる通りがあって、そこをまっすぐ大光院に向かってく。途中空き地に「三度目の正直」という看板が立っていて、裏側にも同じ言葉が書かれていた。これはどういう意味なのだろうと思って、でも特にそれが解決することもなく、通り過ぎた。それから、遊び心のある看板を数個見かけて、それから大光院に到着した。門をくぐると、蛇がいた。安心しきって、頭を少し降ったり止まったりしながら日向ぼっこをしていた。それから少しいくと、カタツムリが伸びていた。野生生物たちがのびのびと生きている土地に思えた。

それからお堂の前に辿り着くと、すでにカメラマンが数人、到着していた。その中で早くからNHKが場所取りをしていて、この角度だと、火の輪くぐりがうまく撮影できるのか?なるほどと思いながらその横に陣取った。お囃子の音が聞こえてきて、門の外で行列をなして、お堂の前まで辿り着くと、9時ごろにちょうど始まった。演舞は20分ほどだった。花笠などが取り囲んでいることや、獅子の体格的にどこかスリムで軽快な獅子踊りだと思った。途中、火の輪が上下に揺れながら登場した。赤々と燃える火の輪を前に、獅子は狂い悶えるような動きを見せていた。それから潜ろうとするそぶりを見せてやめてを繰り返したのち、ついに、その火の輪の中を潜った!それはもう華麗な動きで潜ったのだ。相当な運動神経が良い若者がやっているのだろう。それからご祝儀ありがとうの意味で獅子が頭を下げて、少し舞ってからこの演舞は終演となった。

それから獅子踊りの担い手たちは大光院赤御堂に移動。今回の演舞では唯一、この場所では火の輪くぐりがなかった。それから街に出た。小松豊年獅子踊りは家を一軒一軒回る門付け方式ではなく、地域の比較的土地面積が大きい敷地で舞う。それは空き地だったり、駐車場だったりする。その周辺の人(主に敷地の人)がご祝儀を持ってくるという感じである。これぞまさに僕が獅子舞の生息できる土地には年設計に余白があるという仮説などに基づく「獅子舞生息可能性都市」の発想の好例とも言える素晴らしい光景だ。私有地を公共的な土地として開放し、そこで芸能が行われるというのも、素晴らしい発想である。今回の演舞場所の一覧はこちら。

大光院 9:00
大光院赤御堂9:40
やまか10:20
繁昌軒 11:00
綿屋 11:30
三枡屋 12:00

踊り①大光院

踊り②大光院赤御堂

踊り③やまか

踊り④繁昌軒

踊り⑤綿屋

踊り⑥三枡屋

演舞の流れとしては中学生の郷土芸能クラブの子どもたちがまず踊り、その後に大人の踊りがあるという流れだ。中学生の踊りでは赤い布がついた輪っかが使われるが、本物の火をつける輪っかは大人の時のみである。
個人的には中学生の踊りの方が型がはっきりしていて、大人の方が少し崩し気味に踊っていたように思う。それから非常に熱いのにも関わらず、クオリティの高い演舞をずっと保って進んでいたのはすごいことである。
街中での演舞は基本中学生が踊った後に大人という順序であったが、最後の三枡屋のところでは、広い芝生があって、それを横長に広く使って、中学生と大人が同時に舞うという形式だった。いつも以上に盛り上がる踊りになったように思う。この一連の流れが終了したのが、12時半ごろだ。半日ついて回ることができて、本当に良かった。小松豊年獅子踊は県内でも稀に見る勇猛果敢なところが格好よくて魅力的な獅子だと感じる。


小松豊年獅子踊とは?

小松豊年獅子踊は毎年8月16日に大光院と、27日諏訪神社を拠点として実施される獅子踊りである。米沢藩時代には「勤倹勤労」のため、不作の年にはこの踊りを禁じ、豊作の年には許可したので、「豊年獅子踊」と呼ぶようになったらしい。昭和55年に山形県指定無形民俗文化財に指定。山形県には田川系、飽海系、村山系、置賜系、最上系の獅子踊があり、このうち米沢市の万世、梓山の獅子踊りなどとともに置賜系の典型と言われている。
以前は上小松、西、北、中小松などにも獅子踊があったが、それらが全て途絶えて、現在は上小松の南地区と田町六角東陽寺前の青年団などを中心として継承している。戦時中の断絶を乗り越えて、昭和24年に獅子踊が復活したものの、資金難により厳しくなり、有識者の熱意によって獅子踊保存会や後援会が作られて、昭和29年に復活した。近年の後継者不足は新山中学校のクラブ活動として若い中学生の踊り手が練習をするなど奮闘している。
獅子頭は3頭で、黒紺色の「牡獅子」、赤褐色の「牝獅子」、黄色の「供獅子」の3頭である。このうち火の輪をくぐるのは牝獅子である。そのほかに太鼓7人(仲立ち1人、花笠2人、早乙女4人)、纏持ち1人、火の輪持ち1人、笛と唄が数人ずつという構成である。以前には「メンスリ」という道化役がいて、踊りを左右逆にして踊りのボロを隠す役割がいたらしいが、現在ではこれが継承されていない。


小松豊年獅子踊の起源

『川西町史 下巻』(昭和58年)によれば、平安時代の大同元年(808年)ごろに法相宗の高僧であり恵美仲麻呂藤原仲麻呂 / 恵美押勝)の子である徳一上人が、宗派間で教義の優劣や真偽を議論する争い「法論」の罪(咎)で東国に流されたようだ。常陸会津を経て置賜に入った。置賜平野を一望できる藤ヶ森(今の置賜公園)に庵をむすんだようである。上人の郷愁を慰めるために始めたと言われるのが、この小松豊年獅子踊だ。徳一上人は高畠町亀岡に大聖寺をその後に開山したことから、この地域の人々が獅子踊を習い覚えたと伝わる。それから近村に広まり、多数の継承する団体が生まれた。その最初となった小松の獅子は腰に注連縄のような白布の回しをつけるようになったそうである。貞観元年(859年)に弘法大師の高弟である柿本紀真済僧正が松光山長岡寺大光院を開山後、縁日の日に獅子踊をこの地でも踊るようになった。
この獅子踊には大念仏や田楽、散楽の要素が見られ、関東、越後、信州の獅子踊りの形態も移入しているとのことで、越後街道、会津街道、白石街道、出羽街道への宿場として交通の要衝として栄えた地理的な条件も相まって、複合的な獅子踊りがここに誕生したのだ。

さて、他の山形県の獅子踊りの起源と比べても、何故こんなに山形県は歴史が古い獅子踊りが多いのだろうか。全国と比較したときに、伎楽の大陸系獅子舞が伝来したのが奈良であり、そこから非常に遠い土地のはずなのに、非常に古くから獅子舞が伝わっているのである。山形県山形市の鹿楽招旭踊の起源がそういえば、1200年前というのを聞いたので、小松豊年獅子踊と始まりの時期が似ているように思う。仁田山鹿子踊はこれよりも百年弱古いはずだ。小松豊年獅子踊の起源である大同年間という年号はおそらく、全国の神社の御祭神が書き換えられた時期でもあると思う。ある種の宗教改革、激動の時代に生まれた獅子だったのではとも予想している。大同年間といえば、岩手県の鵜鳥神社、早池峰神社などの非常に重要な神楽が継承される神社ができた時代であり、役小角岩手県鬼剣舞の元となる念仏踊を作りそれが出羽国羽黒山中で本舞踊が実施された時代でもある。


火の輪をくぐる意味

小松豊年獅子踊において、最も見どころとなるのは、獅子が火の輪をくぐる瞬間である。火の輪は針金を輪っかにしてそれに布を巻きつけて、石油を浸して、火をつけるという手順である。それを牝獅子が飛びぬける。火をつけるのは本番だけだそうである。

子獅子をさらわれた母獅子が探し歩き、狂った様子が表現されているという話もある。子どもを想う気持ちが表現されているとのこと。
(参考: http://okibun.jp/sisiodori01/)

ここからは僕の推測である。「牝獅子かくし」という歌詞がおぼろげに聞こえた後に、牝獅子のソロ演舞が始まり、火の輪くぐりへと続いていくような流れに思われた。つまり、この牝獅子は火の輪くぐりをする場面は、牝獅子のみがある種の異界へと足を踏み入れる瞬間でもあるのではないか?ということだ。

僕はもともとこの獅子舞の起源には修験道の火が絡んでいるのではと考えていた。富山県には火の上を足で歩くという修行が獅子舞に組み込まれたものもある。それから富山県射水市一帯のタイマツを持つ天狗が獅子舞と対峙するパターンの獅子舞もある。これらと近い関係性にあるのではと思っていたのだ。それとの関連性はよくわからなかった。

それから、輪を潜るという行為にも着目したい。会津の彼岸獅子は弓を潜る瞬間に歓声が上がるという演目を持っている。これと近い意味が存在するだろう。ある種の動物を操ることや制御することの達成、あるいは獲物を獲得したことを意味するのかもしれない。

中国の仮装動物戯や日本の平安時代の獅子舞には紐が首につけられており、犬の散歩をしているような風貌だったわけだが、そのような獅子舞は現代ではほぼ見られない。しかしその名残として、輪を通すという所作は手懐けるという意味を持っていることはほぼ間違いないだろう。
飯野敬太郎「獅子踊りを見るにあたって」『川西小松豊年獅子踊保存会々報 第2号』(平成16年7月10日)によれば、「火を恐れるはずの獣が何故火の輪をくぐるのか?とよく尋ねられます」という。確かにそれはもっともな話である。それに対して飯野氏は「此の獅子踊りはこの地区の青年達の団結と鍛錬の場であって、地区のリーダーとして度量と勇気を養う場でもあったと伝えられ、舞の内容も本来は花に戯れる「花輪くぐり」から、火の輪(勇気の象徴)に変化したものであり、平安時代発祥の番楽・散楽の流れをたくみに織り混ぜた貴重な民俗舞踊として県指定無形民俗文化財として県指定無形民俗文化財として認定されたわけであります」という。

また須藤正夫『心に残る 置賜のまつりと歳時記』(1998年4月)によれば、「火の輪をくぐり抜けるものなどは越後獅子の形態を取り入れたものであろうと言われている」とする。同様の内容が小松豊年獅子踊保存会他『山形県指定無形文化財 小松豊年獅子踊 パンフレット』(発行年不明)にも記述されている。

大光院での火の輪くぐり

繁昌軒での大人の火の輪くぐり

繁昌軒での中学生の火の輪くぐり

綿屋での火の輪くぐり

三枡屋での火の輪くぐり

小松豊年獅子踊の所作の意味

『川西町史 下巻』(昭和58年)によれば、花に酔って、火に狂う獅子の所作の中には、「1年間の農作業の動作が織り込まれており」という。踊りの流れは、道行き、入り庭、前の庭、中の庭、末の庭、道中、狂い獅子、火のくぐり、花吸い、歓喜の舞と続いていき、これがひと続きの演舞になっている。飯野敬太郎「獅子踊りを見るにあたって」『川西小松豊年獅子踊保存会々報 第2号』(平成16年7月10日)によれば、「田植え、草刈、馬屋への草の投入れ、刈り取り、俵積みなど踊りの進行につれ、 細かな形態描写が取り入れられています」という。また「唄の節は流行歌の原点とも伝えられている「今様」の節に似ているとの事で、平安時代の片鱗を窺うことができます」との事である。近隣にもこのような生活の歌がそこかしこに取り入れられており、これが生活物資の流通や文化交流などの手掛かりになるかもしれないらしい。


小松豊年獅子踊りの獅子頭

梵字固めと言って、寺社の祈祷札を漆で貼り合わせたもので作られているようだ。全体は黒で塗られ、唇は赤く塗られ、金色の歯を持つ。牡獅子には角の後に突起(角)1本と歯に牙2本があるが、牝にはその両方がない。供獅子には小さな牙が2本ある。獅子頭は平成17年(2005年)に長井市の彫り師である渋谷正斗氏が木型を作り、塗師・江口忠博氏が漆で張り固めて新調したとのことだ。

参考文献
川西町史編さん委員会『川西町史 下巻』(昭和58年3月)
飯野敬太郎「獅子踊りを見るにあたって」『川西小松豊年獅子踊保存会々報 第2号』(平成16年7月10日)
冊子「山形県指定無形文化財第九号 川西町指定無形文化財第一号 小松豊年獅子踊」(著者 年代不明 保存会関係資料と考えられる)
渡邊敏和「川西町の「獅子頭」について」『山形県地域史研究 第33号 所収』(2008年2月22日)
渡邊敏和「置賜の3匹獅子踊」『置賜の民俗 第18号』(2011年12月)
須藤正夫『心に残る 置賜のまつりと歳時記』(1998年4月)
小松豊年獅子踊保存会他『山形県指定無形文化財 小松豊年獅子踊 パンフレット』(発行年不明)