日本全国でも珍しい、カモシカのしし踊り!山形県新庄市「仁田山鹿子踊」

山形県新庄市仁田山。この地に、日本全国でも珍しいカモシカの踊りがある。2025年8月15日、現地へ取材に伺った。今回はふるさと歴史センターのご紹介で、日塔(にっとう)さんと繋がることができ、今回の訪問が叶った。

前夜に東京駅からバスに乗り、山形県へ。山形駅から天童駅まで電車でそこからレンタカーを借りて向かった。しかし、途中から雨が降り出して、「今日は中止になってしまいました」と朝8時過ぎに連絡が...。「ここまで来たけれど、今日は見られないのか...」ととても残念に思った。道具だけでも見せていただけたらという想いで、仁田山に向かった。

しかし、実際に仁田山の公民館についてみると、空は曇りで時折、晴れ間がさしている。開口一番、「今日はやることになったみたいです!」とのこと。非常に驚いた。こんなこともあるもんだ。それで、当初10時からの予定が、開始時間は1時間半遅れの11時半からとなったようである。これも大事な巡り合わせだと実感した。

仁田山鹿子踊のお話

鹿子踊が始まるまで、公民館の一室で日塔さんにお話を伺った。日塔さんは鹿子頭修理の補助金申請や仁田山鹿子踊のパンフレット制作の企画、広報などを10年ほど担ってきた女性の方である。担い手の他に自由に動ける役として、事務局の方がいるのは団体にとっても重要なことだと感じた。その時に鹿子頭修理の補助金獲得時の資料など、さまざまな資料を見せていただいた。「激しいところもあるけど、他の地域と比べて賑やかでない分、奉納の意味での厳かな踊りという印象が強いです」とのことだった。

メンバー構成については「現在12人くらいのメンバーで実施しており、一番下が40歳です。20代半ばからやっているので、それからもう20年くらい、同じメンバーで踊っています。建設会社とか内装会社とか、皆いろいろなところで勤めています。地域に住んでいる人はもちろん、近隣に住んでいる人もいます。おそらく新庄まつりの250年祭の時にメンバーがちょうど入れ替わり、今年が270年祭なのでわかりやすいですね。先代も20年以上やってて、その間は空白の世代なので、関わっていなかったです」とのこと。担い手は毎年勧誘するのではなく、世代でガッと集まって、習得してできるところまで続けて、次の世代をまた一気に探して...というサイクルのようだ。最近はもう慣れているメンバーなので、頻繁に練習しなくても皆本番で合わせられるという。先代の方にお話を伺う機会もあったが、「私たちは60くらいまで踊りました。昔の師匠は厳しかったんですよ」と昔のことを振り返ってくださった。

それから「最近は子どもが少なくて、次の世代はどうしようかと考えているところです。どこの団体も同じだと思います。活動に報酬をいただいているわけではないので、特にそれが仕事であるけれど、報酬をもらう仕事ではないので、好きの気持ちだけで続けていきました。そういう時に同世代の仲間がいるというのも大事ですね」という話だった。

練習〜本番を拝見

それから公民館で通しの練習が始まった。「先代の歌った歌をテープで流して、何回も聴いて歌の調子を覚えます。誰か楽譜作って欲しいけれど、まだ作っていません」とのことだった。練習が終わると、地蔵堂に移動することになり、車で向かう人と徒歩で向かう人とがいた。鹿子頭は風呂敷に包んで持っていく。

公民館から小川を越えて、牧草ロールのある小屋を抜けて、綺麗な実りつつある広い田んぼの左側に着替えの小屋がある。地蔵堂の前に位置するこの小屋は私有地だが高さが高くて、バスケットゴールも設置されていた。とても遊び心を感じる小屋だ。どうやら普段は農機具などを保管しているようだが、今日のような鹿子踊の日は、ゴザを敷いてここで着替えをしたり衣装を整えたりする。

その小屋の前にある地蔵堂には女のお地蔵さんが祀られており、その前には赤い鳥居が建てられていた。またその鳥居の真ん中の地面にお酒とご祝儀があり、ご祝儀はどんどん観客が集まってくるにつれて、高く積まれていった。地蔵堂の敷地にはジャングルジムや滑り台、ブランコなどがあり、遊具が寄付によって、建てられていた。年配の方々は「40〜50年くらい前に建てられたと思う」とお話しされていた。地蔵尊祭りの日のみ大正9年奉納の旗を立てる。ここには「奉納 地蔵菩薩」と書かれている。

昨年まではこの地蔵堂にて、8月15日にお祭りが開催されていたらしい。さまざまな出し物が登場したようだ。鹿子踊は16時くらいに実施して、18時ごろからは組まれたステージで、演芸を夜に開催していた。しかし、今年は鹿子踊のみの奉納となった。地域の年配の方は「鹿子踊はこの地域のシンボリックな存在です。全国的にもこのような踊りは他になかなかないですよね」とお話しされていた。急遽、区長さんの許可で、地蔵堂の真横にある無線で町内放送が行われて、「11時半から鹿子踊を開催します。ぜひお越しください」とのこと。

そして、鹿子踊が始まった。小屋から出てきた7頭の鹿子は、地蔵堂に向かって踊る。1番真ん中にいるのが中鹿子で、その左右前列にいるのが負鹿子と勝鹿子である。その後ろにいるのが舞子2頭ずつの4頭という構成である。本当に厳かな踊りだが、激しいところもあって緩急があって、とても素晴らしい踊りだった。幕をバッと振り上げるシーンなどが特にかっこいいと感じた。ささらやお酒が鳥居の真ん中に置かれていて、それを中鹿子が持ち上げるシーンもあって、どこか儀式的な側面もあるように思えた。踊りの時間は約20分ちょっとだった。



演舞が終わって、担い手たちは暑そうにコーラなどを飲んでいた。特に中鹿子はとてもハードだったろう。鹿子たちが踊っているときに晴れ間がさして、動画のISO感度を途中で調整しないといけないくらいにその場が明るく照らされ、そして気温がぐんと暑くなったことにはとても驚いた。踊った後にもお話を伺った。「動物って止まってないじゃないですか。こっち見たりあっち見たり、そういうのは一人一人工夫してますよ。右か左かわからなくなっていることもありますが(笑)」とのことだった。

それからカラッと晴れた暑い日差しの中、黄色くなりつつある田んぼを眺めながら帰路についた。今回は天候に翻弄された取材となったが、とてもご縁ある巡り合わせで、踊りを拝見できて本当に良かった。「見に来てくださって、本当に良かったです」と地域の方々がとても喜んでくださったのが嬉しかった。それから梅屋で取りもつラーメンをいただいて、新庄市立図書館で文献も調べた。僕自身が考えたことも踏まえて、ここで記しておきたい。


仁田山鹿子踊の構成

この鹿子踊は仁田山地区の鎮守である地蔵尊の祭りの日である8月15日とユネスコ無形文化遺産にもなっている新庄まつりで8月26日に毎年実施されている。演目は「入羽」から始まり、「舞子」「狂い」「投げ草」「引き庭」などで構成されて、全てを一連の流れの中で踊る。

ビジュアル的な構成は岩手県南部以南の太鼓系しし踊りと北部以北の幕系しし踊りの中間種的な構成に思える。どういうことかというと、長い幕を振り回すので一見幕系に見えるのだが、幕の中に鞨鼓と呼ばれる太鼓を持っていて、小さなバチでそれを叩きながら踊るのである。しかもその鞨鼓の太鼓には輪っかになった竹を装着することで、幕の中で太鼓を叩きやすい空間を作るという工夫が凝らされている。私見ではあるが、足も手も頭も使って、「非常に器用に舞うんだなあ」という印象を持った。ちなみに輪っかになった竹に関して担い手に尋ねてみると特に呼び名はないとのことだった。ただ、新庄市新庄市史 民俗編』(平成18年3月)P434によれば「幕払い」という記載がある。

この鹿子踊の構成員は7人である。中鹿子(なかじし)、勝鹿子、負鹿子が各1名、舞子(まりこ)が4名となっている。この7名構成というのも珍しく、考えさせられる。勝鹿子と負鹿子というのは、もみ太鼓(狂い)の演目の時に負鹿子が牝鹿子に会いにいき、怒った勝鹿子と争う部面があり、その際に中鹿子が争いを静めるため、はっきりと勝ち負けが決まる演目ではないが、この争いを元にして「勝負」の文字がつけられている。

また、ささらすりは2名で、ささらを摺るだけではなく、歌を歌うというのが特徴である。リズムは比較的ゆったりとしていて、例えば「あきぞら」という単語を引き延ばして、あ〜き〜ぞ〜らという風に抑揚をつけながら唄う。これでおそらく10秒以上はかかっている。こののんびりとしたリズムがとてもよい。ささらのリズムには「切分法」と呼ばれる「ズゴズゴズイ ズゴズゴズイ」という独特な要素が含まれるようだ。

鹿子頭のつくり

頭に被る鹿子頭はカモシカを模したものとのこと。7つともに鹿子頭は大正6年に野川陽山という先生が制作したようだ。どの鹿子頭ももちろん手作りなので、少しずつ顔の表情が異なるようである。総じて平べったい顔をしており、2本の角が生えている。角が短いものが雌で、長いものが雄だ。これは実際のカモシカの雄雌の角の造形にも似せていると感じる。鹿子頭と幕はくっついており、胴幕は赤、黒、青という配色でとてもカラフルだ。近年は破損が激しく、耳が皮ではなく厚紙、目玉がガラスではなくペットボトルのプラスチックで補強されていた。地域の方によれば「もともとのものではなく、かわいらしい感じになってしまっていた」という。そこで、10年ほど前に修繕に出すことにした。新庄まつりなどで活躍している能面師であり人形師である野川北山氏(新庄市在住)に制作を依頼したそうだ。これは大正6年に制作をした野川陽山氏の孫にあたる人物である。それで今の鹿子頭が完成したようだ。一頭につき2〜3ヶ月くらいの制作期間を要したという。また鹿子頭の手入れには「櫛で解くこともある」そうである。「踊った後に鹿子頭の羽を拾うと、健康に過ごせるという話があり、子どもがいるお母さんが羽を拾います」という話も教えていただいた。


仁田山鹿子踊の起源、1300年前の謎

新庄市新庄市史 民俗編』(平成18年3月)によれば、仁田山鹿子踊の起源は非常に古く、既に戦国時代末期〜江戸時代初期の山形城主最上義光時代には、山形城下で鹿子踊が実施されていたことが、享保末年に新庄藩士田口五郎左衛門が著した歴史随筆『新庄古老覚書』に記されているという。これが県内獅子踊りの最も古い記録とも言われる。しかし、これはあくまでも山形城下の話であり、仁田山の鹿子踊に対する言及ではないが、ただ同じような系統の鹿子踊だったのではないかというニュアンスである。この系統は現在、新庄城下では「萩野鹿子踊」と「仁田山鹿子踊」の2組しか伝承されておらず、他は途絶えてしまっている。昔は萩野と仁田山はひとつの村だと見られていたようで、山形藩の時代には「萩野村」で統一されていたらしい。ただ実際、現在伝承されている踊りは萩野と仁田山では異なるようだ。

仁田山鹿子踊に関して伝わっている話としては、「村人が小倉山に遊びたわむれるカモシカの群を見て、その面白さにひかれ、これを真似て踊ったのが始まり」あるいは「奈良時代大野東人(おおののあずまひと)将軍の東征の折、助十郎というマタギの首領が兵士を慰めるためにカモシカの頭骨をかぶり、クマの毛皮を着て踊ったのが起源とかの説がある」という。しかし、いずれも伝説にすぎず、確かなことがわからないようである。

大野東人将軍の話が正しいのであれば、先ほどの「県内獅子踊りの最も古い記録」という話は揺らぐことになる。それに加えて山形県立石寺にて慈覚大師が磐司磐三郎から土地を借り受け、殺生禁止の地として安心して土地に暮らせる獣たちが喜び、それを代表したカモシカが踊ったことを模したとされる山形市指定無形文化財・鹿楽招旭踊(からおぎあさひおどり)の起源である1200年前と年代的に近い部分がある。新庄市新庄市史 民俗編』(平成18年3月)によれば、「最上義光時代、当地方の鹿子踊りが山形城下の寺々を回ったというのは山寺での踊りも含まれていたのではないかと思われるのである」とあるように、仁田山鹿子踊は山寺と関係性が近いところもあったように思う。

大野東人将軍を調べてみると、どうやら長年蝦夷征伐に従った武将であり、陸奥鎮守将軍に任じられたのが729年であり、後年藤原広嗣の乱を740年に平定することになる。聖武天皇のもとで昇格をしていった大野東人はおそらく大崎平野蝦夷反乱や陸奥海道の蝦夷反乱の平定に追われ、そして多賀城建設などが行われていた720〜730年代に、この東北の地の平定に大きな貢献をした人物と考えられる。740年に大野東人にかわり、百済王敬福陸奥国を主導した東北経営に入るので、実質、大野東人が東北経営に力を入れていたのはここまでだ。そう考えると、今から1300年前ごろに、この仁田山鹿子踊が成立した可能性がある。

この話を整理していて思い出したのが、三重県椿大神社の獅子神御祈祷神事の起源の話である。山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年,たま出版)によると、「人間はみな神の子であるが、人間の心に動物霊が宿ると動物的となり、戦争をしたり殺人を犯したりする。大祓をして清めれば、再び神の子として立ち返ることができる、と神道では考えている。(中略)百獣の王である獅子に動物霊を追い払わせるという意をもって、聖武天皇吉備真備大臣(当時の総理大臣)に命じて椿の木で神面と獅子頭を彫刻して奉納し、獅子舞神事を始めた」とする。仏教思想を神道に導入しようとしているように思える。始まりのときに椿の木で獅子頭が作られたのは740年という年号である。これは大野東人将軍が東北経営を後任に任せた年号と重なる。偶然の一致ではあるまい。この年号には何かあると思っている。

聖武天皇東大寺大仏殿開眼供養を実施し、全国に神宮寺、国分寺国分尼寺を整備した天皇であり、とりわけ仏教的思想が強かったと思われる。675年に天武天皇が最初の肉食禁止令を発布してから、明治時代までに肉食は忌避されてきたのだが、その初期段階において思想的な統一を図るために、獅子舞、しし踊りを舞わせたという側面もあるだろう。おそらく東北地方には鹿、猪、カモシカと、動物由来のしし踊りが多数存在するが、仏教系の動物保護思想と、狩猟者による肉食促進&供養の思想の二極化がどこかで進んでいたのではないか。その一端で、仁田山鹿子踊も両派の影響を受けていたと思われる。

また、気になる話としてマタギと仁田山鹿子踊との関係性がある。新庄市新庄市史 民俗編』(平成18年3月)によれば「以前は仁田山で鹿子踊を踊る時は、必ず、踊りに先立って、村の助十郎家に行って同家が神棚に祀っている巻物を拝する風習があった。これを「巻物いただき」という。助十郎家の先祖は仁田山鹿子踊を始めた始祖との伝えがある。同家の先祖は、近くのマタギ(最上地方では「マタギ」の呼称は一般的にはない。「狩人」と言う。)たちの首領であったと言い、近郷のマタギたちが狩で獲物を得ると、その一部を助十郎家に持参する風があったという。また、同家が所蔵する巻物はまことに霊験あらたかな巻物で、子どもの腹痛のときや骨折の場合でも、この巻物で撫でてもらうと治るとされ、多くの人々が同家を訪れたという」とある。
実際にこの巻物には何が記してあるのか不明だという。しかし、これは全国どこでも狩りができるとする磐司磐三郎のマタギ文書であろう。この文書は磐司磐三郎の子孫としてマタギが同様の狩を許されているものを示すものであり、狩に出る時のお守りとして猟師が携帯した文書である。女性と子どもは閲覧ができず、主人でもこれに触れる時は手を洗い、口をすすいで、身なりを整えて礼拝をしてから開く物だそうである。仁田山の伊藤助十郎家もこのマタギ文書の一種を持っているということだろう。民俗学者柳田国男は「ばんじ」という名は、最初は山の神を意味する「磐神」と呼ばれたものが、次第に人の名になったとしている。先述の鹿楽招旭踊も磐司磐三郎伝説が起源に絡むので、こことの関連性も強いように思われる。

さて、仁田山鹿子踊は鹿の字を使う。これはカモシカの踊りなのに、鹿を使うのはどこか不思議である。カモシカはウシ科に属する動物であり、シカ科ではない。シカに似ている訳でもないのに、なぜ鹿なのだろうか。周辺の鹿系の踊りに影響を受けたのかなんなのか。その辺りは疑問が残る。


仁田山鹿子踊の多様な願い、農耕・狩猟・先祖供養

ところで、新庄市新庄市史 民俗編』(平成18年3月)によれば、仁田山鹿子踊のことを「作踊り」とも呼ぶようである。この踊りを踊ると、豊作になることから、この呼び名がついたそうだ。確かに、担い手の話によれば、豊作への願いが、中鹿子、勝鹿子、負鹿子の背中に立てる小幟(ぼんぼり)の文字にそれが現れているようである。小幟には「小倉山」「峯の紅葉」「五日風」「十日雨」という文字が書かれている。中鹿子の幟には裏表ともに「仁田山」、勝鹿子の幟には表に「五日風」裏に「十日雨」、負鹿子の幟には表に「小倉山」裏に「峯の紅葉」と記される。4人の舞子はこれらの文字が書かれた小幟ではなく、同じ形のボンボリを挿すようだ。


最後の2つに関しては、5日ごとに風が吹き、10日ごとに雨が降れば豊作になるということわざに基づくという。この話を伺った時に、僕は風は岩手県遠野市の幕系しし踊りの幕や、岩手県南部の太鼓系しし踊りのササラ、ザイ、幕などがいずれも対風呪術を持ってして五穀豊穣を実現しようとする願いも込められていることを知っていたので、風を痛めつけるというよりはむしろ吹かせようとする願いにやや疑問を持ったのだが、適度な風はあったほうが良いのかもしれないし、風を操ることで五穀豊穣が実現することは事実なので、もう少し僕自身が柔軟に解釈するべきかもしれないと思い直した。

さらに、お盆に実施することも関係ありそうだが、先祖供養の願いも込められているようである。地域の方のお話によれば、「仁田山在住で市内で身有名な藁細工の職人の方が、草履を作ってくれたり、踊りに使う藁の帽子を作ってくれたりした方が亡くなった時には、家の前で供養の意味で踊りました」とのことである。

祝い事、結婚式の時なども出たことがあるという話を地域の方から聞いたので、それも含めて考えると、非常に多様な願いがこの鹿子踊に込められていることが伺える。そういえば地域の年配の方が「この地域の象徴的な存在で、地域の人から愛されているんだよ」みたいな話をされていたのが興味深かった。さまざまな祝い事で家に鹿子踊を呼ぶ際に、門口に目印として、ススキやトウモロコシの茎を立てたようだ。

その他に地域外だと、宮城県栗原市のあやめまつりで、みちのく鹿踊大会があり、そこでも披露したという。この時は「他の地域は長くて白いササラをもち、背が高い印象を持った」ようだ。また地域の年配方によれば「昔は文部科学省関連の民俗芸能の大会にも出ていた」とのこと。賞がほしくてそれを狙っていたという。

本当に踊りの披露の機会は数知れず、地域に愛されている郷土芸能であることを強く実感した。僕個人としては、改めて全国でも稀にみるカモシカの踊りの起源を考えることで、非常にたくさんの気づきがあり、とても充実した滞在となった。日塔さんをはじめ、受け入れてくださった地域の方々に感謝である。

参考文献
新庄市教育委員会『萩野・仁田山鹿子踊り』(平成6年)
新庄市新庄市史 民俗編』(平成18年3月)
伊藤佐吉『我が人生』(平成27年7月)

・・・

周辺の民俗芸能に関する興味深い事実

さて、ここからは仁田山鹿子踊に関することではないが、新庄市立図書館で調べたことで、いくつか興味深い民俗芸能に関する事実があるので、触れておこう。

①ご祝儀を欲する獅子舞の話

数年前、Twitter(現 X)にて、「獅子舞お断り看板」に関してwebマガジンのサンポーにて執筆した記事を公開したところ、山形県鮭川村に実家があるという方からとあるコメントが寄せられた。「似たようなこと(獅子舞お断りの風習)が21世紀になってからも実家であった気がするんだよなあ......。」とのこと。詳しい様子について、「獅子舞を持った数人がラジカセで大音量の音楽を流しながら玄関先に入ってきて金をせびってたと思う。母が金を渡して帰ってもらってから忌々しそうに「たまにああいうのが来るんだ」と吐き捨ててた。」というのだ。

今回、鮭川村新庄市仁田山の隣なので、新庄市立図書館で今回の鹿子踊と同時に、この忌々しいと考えられて(お断りしたいとされた)獅子舞の実態についても、調べてみることにした。実際にどこまで情報が一致するか不明であるが、鮭川村鮭川村史』(昭和61年3月)P928~929によれば、「渡り神楽」の項目に、「本村で「神楽」というのは、獅子頭をかぶり、前後二人の舞手によって悪魔祓いとして舞うものをさしている。また、「渡り神楽」といって、初秋のころに各村々をまわるプロの一座もある」という。おそらく、後者の「プロの一座」のことか、あるいはそれを模倣する集団がいたということではあるまいかと予想する。

「弘化元年(1844年)ときの庄屋井上耕右衛門が、これをもって若衆が遊びふけるものとして厳禁し、その獅子頭を塵捨場で焼却した」という。しかし村人はそのことに穏やかではなく、安政のころ(1854〜59)八鍬才吉・高橋清三郎らが出資し、井上家の柳を伐り獅子頭を作らせたようだ。おそらくヤンチャな集団ではあったのだろうが、村にはなくてはならない神楽集団でもあったのだろう。これが上記の獅子舞と一致するかと言われると定かではないが、現状、鮭川村で獅子舞が戸ごとを訪問するといえば、この獅子舞のことなのではないかと思うのである。真偽は不明なので、言及はここまでにしておこう。

②カマキリの様子を表すエボボツ舞
どうやら非常に珍しい舞いが存在したようだ。鮭川村鮭川村史』(昭和61年3月)P1078〜1079によれば、「明治末年安彦戊吉により真室川町木の下から伝承されたもので、主として酒席での余興として踊られたものである。エボボツとは蟷螂(かまきり)の方言で、この地方では蠅などをとって食べるので益虫とされていた。細長い折れそうな体で大きな鋏を振り上げる格好はユーモラスで愛嬌がある。この踊りはめでたい席で喜ばれ、一座がそろって歌い、掛け声をかけて楽しむのが特徴である。」という。

その格好については不明なところが大きいが、「扮装は手拭いで頬かぶりをし、着物の裾をからげて脛をだし、鼻の下に藁のミゴをはさんで、滑稽な格好でエボボツが蠅を捕るしぐさをして踊る。そして、蠅の代りに一座の杯をとってまわる。蠅(はえ)は杯(はい)のいいかえである」という。

蟷螂をモチーフとした舞いといえば、祇園祭の蟷螂山から発展した静岡県森町の天王寺舞楽を筆頭に、全国でも数例しか見られないが、ここにも存在したとは知らなかった。しかも、お酒の杯を蠅に例えるというギャグを用いながらも、蟷螂が蠅をとって回るユーモラスな表現を確立しているのだ。

「戊吉の踊るエボボツ舞は天下逸品であったが、今では大芦沢の佐藤三蔵氏が伝承しているにすぎない」とあり、現在令和の今において舞われているのかは不明である。これは今後、地域の方々に聞き取りをしていかないとわからないような状況である。