鳥海山の神を降臨させる「チョウクライロ舞」秋田県にかほ市にて

2025年5月31日、秋田県にかほ市象潟町小滝の金峰神社土舞台で行われたチョウクライロ舞を訪れた。「長久生容」と書いてと書いてチョウクライロ舞だそうである。ぼくはこの舞いをインターネットで調べた時、どうしようもなく訪れたい気持ちでいっぱいになった。聞いたこともない舞い名前には土地の誇りやこだわりが詰まっていると直感したからだ。大事に大事に繋いできた舞いに違いない。少し調べたところ、1200年の歴史ある延年の流れを汲むという。

ここで延年について触れておこう。歴史的には平安時代に入ってから仏教行事としての延年が成立したが、これは背景には延命長寿の願いが込められていること、そして、子どもによる演舞が行われることが特徴とされる。似た芸能として舞楽があるが、これに比べるとより国家的よりは大衆に近く、娯楽性を伴っていると言える。それにしても延年が1200年前にはすでに成立していたのか?とは考えにくいから後世に少しずつ変化したものとも考えられる。いずれもその芸能の分化の歴史にも思いを馳せることができるのではないかという想いを胸に、夜行バスに乗った。

諸芸能の集合体である小滝チョウクライロ舞

夜行バスを降り立ったのは、山形県酒田駅だった。ここでバスを降りて数秒で充電器を忘れたことに気づき、バスに戻ったがバスの中にはなかった。不思議なこともあるものだ。先ほどまでバスの中で充電していた充電器がなくなっているのだから。後ほどバス会社に電話したら座席を外して4.5人で探してみてくれたそうだが、それでもなかった。さて、どこに神隠しに遭ったのだろうか。充電器は完全に消えてしまったのである。

朝8時前の電車に乗り込み、象潟へ向かった。車窓から見える鳥海山は残雪が残り、どこか堂々としているように見えた。「まだ夏なんかきていない」と重く低く呟いてくる。その反面で、田んぼに映るその姿は、風に揺れてゆらゆらと優しく僕に何かを語りかけてくる。美しい土地に来たと思った。鳥海山が間近に迫ってくると、反対側の車窓には海が広がり始めた。大きな大きな日本海である。海だけ映すのは勿体無いと思って、窓枠を含める形で海を撮影した。素晴らしい額縁だと思った。しばらく車窓の風景を楽しんでいると、乗客たちはパシャパシャと一眼レフやカメラで窓の向こうを映し出した。自分自身の旅情に浸れない虚しさと「やっぱりそうだよね」という共感とが入り混じった。そして、そのカメラおじさんのひとりと共に、象潟駅に降り立った。さて、ここからはバスである。

象潟駅からは石名坂というバス停までバスに乗り、そしてバス停から降りて30分ほど歩いた。途中に、小高い丘にお墓が小綺麗に並べられていて、その周りに畑、そして遠くの山の上には風車が並んでいて、この土地の人は自然と共に生きていると思った。美しい花畑も広がっていた。鳥海山へとどんどん進んでいく。このまま山頂まで登りたいという気持ちが湧いてきたが、「祭りに訪れるんだ」と正気を取り戻した。途中、黒と白の羽織袴のおじさんが車道の向こう側を歩いているのが見えた。そして、祭り関係者であることを直感した。

その関係者を横目に遠回りしながら、いよいよ金峰神社の鳥居に着いた。チョウクライロ舞の開始予定時間よりも1時間半も早いのに数人の見物客がすでに場所取りを始めていた。時間があるので境内を散策することにした。境内は散策経路があったが、どこか険しくて、大木や川や急坂などが張り巡らされた迷路のようで、さすがに修験道の聖地だと思った。奈曽の白滝という滝に向かい合うように、拝殿が存在した。10時から神事開始だったが、すでに9時50分ごろに到着した時には始まっているようだった。堂々とした迫り来るような拝殿は敷地内一杯に建てられていて迫力があり、その参道の中心にお神輿が置かれていた。神事は1時間以上続いた。そして11時が過ぎた頃、ついに拝殿内からわらわらと人が出てきて、白装束の人も鳥居方面から歩いてきて、そして徐々に行列ができていった。法螺貝ふき、そして陵王・納曽利の面や獅子頭(御宝頭)をもち、太鼓、笛、鉦、そして白塗りの子どもが花笠を被り、そして後方にお神輿が続き、行列をなし、鳥居前の土舞台「チョウクライロ山」に向かった。この場所は少し土が盛ってあって高くなった場所であり、この舞台を行列は3周して、11時半ごろにいよいよ演舞が始まった。

まずは十二段の舞(御宝頭の舞)である。この舞では12の所作があることが名前の由来となっているようである。獅子頭は権現様のような黒い頭に、白い紙垂(しで)が取り付けられた形式であり、比較的サイズが大きいように思われた。四方を払うような所作があり、舞台を回るように、祓い清めているように思われた。刀を抜いてサヤを口に咥えて、周囲を切り払うような所作が身体を上下させていて生き生きしているように感じられて印象的だった。その後に始まるチョウクライロ舞の舞台の汚れを祓い、清める意味を持つ。

その後にチョウクライロ舞という七演目からなる舞いが行われた。七演目はこちらである。かっこ書きは象潟町象潟町史 通史編上』(2002年3月)P338~339を参考にした舞いの意味である。

九舎の舞(豊作祈願)
陵王と納曽利の面をつけて、北、東、南、西と舞う。3回転するが、それぞれ烏帽子舞、袖舞、扇舞の順番で舞われる。これって、和歌山の三面獅子のオニワニっぽくもあるがどうだろう。てか陵王って天狗みたいだなと思った。ちなみに象潟町教育委員会『延年チョウクライロ舞』(1983年3月)の九舎の舞の紹介ページによれば、「陵王・納曽利面を必ずしも用いない」とある。

荒金の舞(平安祈願)
陵王が薙刀を持って注連縄を切る豪快さが印象的である。舞台を混沌と捉え、邪神魔神を切り裂く意味を持ち、東をからまず陽光を招くという意味もあるという。

小児の舞(延命長寿)
地域の人にとってはどうやらこの演目が「チョウクライロ舞」そのものだと思っている方もいるほどに、人気のある舞で、6人の男児が女装して花笠を被ってささらを持つ3人、鞨鼓をつけてバチを持つ3人の合計6人で舞う。 歌の歌詞に「チョウクライロ」が登場する。象潟町教育委員会『延年チョウクライロ舞』(1983年3月)P49によれば、「昭和十年頃までの社務日記には舞楽、長久良比呂花笠舞と記される」とあり、この演目がどれだけチョウクライロ舞の中でも花形だったかがわかる記録である。花笠の模様は先頭の2人が梅、中の2人が藤、後の2人が朝顔となっている。最初の1曲で舞うのが先頭の梅2人。あとから6人舞となる。子どもと花笠の「清浄さ」が際立つ演目で、枯衰なく栄えることを祈る舞いだ。

太平楽の舞(礼儀の舞)
4人の男児が木刀を持って演舞する。

祖父祖母の舞(万物の生長)
ジジババの面を被った2人が夫婦和合の舞いを行う。どこか舞楽の蘇利古面にも見えてきたが関連性は不明だ。神の国生みを表す舞い。

瓊矛(ぬぼこ)の舞(幸を願う舞)
ここではご神木を持った納曽利が、海原に瓊矛をおろして国造りをするように舞う。イザナギイザナミの神話が地方に伝播してアレンジされた形であろう。

閻浮(えんぶ)の舞(五穀豊穣祈願)
陵王と納曽利がそれぞれ笏を持って舞う。陵王は男役、納曽利は女役である。

舞いが終わると、注連縄や花笠を観客が奪い合うようにして持ち帰る。以上が演舞の流れである。実際にこの舞いを拝見して感じたのが、獅子舞とは基本形態を少し変化させてできた表出・分化に過ぎないということ。諸芸能と関連性を持って発展してきたのがこの延年という存在であり、獅子舞の研究は、諸芸能の中のひとつという意識が大事なのだと思った。花笠は関東の三匹獅子舞でも、富山県の獅子舞でもよくみる。そして鉦の拍子はどこか黒森神楽、鵜鳥神楽、下北の能舞にも通じる山伏神楽の系譜に位置付けられそうである。陵王はすなわち龍、雨乞いであり、三匹獅子舞の獅子にも思えるし、八岐大蛇的な分化とすれば百足獅子だ。岐阜や富山の蛇の獅子舞にも通じる。小児の舞がチョウクライロ舞の象徴とよくいうけれども、儀式的に最も大事な舞いは実際は陵王だと思った。人間がなぜこの陵王という演目を第一優先的に奉納したかと言えば、日本が農耕国家であり降雨が最も大事であったからかもしれないがどうなのだろう。

その後は昼休憩となった。会場いっぱいに敷かれたブルーシートの上で関係者は食事を始めたので、僕は回れていない境内の奈曽の白滝を眺めて、自然の雄大さに浸った。東京近郊の名所となっている滝にはみられないような奥深さと雄大さを持った滝だと思った。滝の大きさも面積も段違いに大きい。自然信仰から始まったのがこの境内と舞いであることを直感させた。

それから鳥居の外で掛け声が聞こえてきたので、向かってみることにした。「おいでーおいでー!(御出で!御出で!)」「おかえりーおかえりー!」などと叫んでいる。神社に向かっているときはおそらく「おかえりー!おかえりー!」なのでは?と思ったがどうなのだろう。お昼を食べる予定だったが、どこもお昼ご飯が食べられなかったので腹ぺこのまま歩き回った。途中休憩してビールやお茶?などを飲む姿も見られ和気藹々としていた。その合間にも御宝頭のみは忙しくて、全ての道と全ての家を歩き回っているように見えた。御宝頭は家の前に着くと、パクッと簡単に歯打ちをして、次の家に向かうという流れのようだった。大きなお家や関係者の家の前につくと、どうやら頭を噛んであげるということもしているように見えた。場合によってはそういうこともしてくれるようだ。御宝頭が戻ってくるまでは太鼓は鳴らしっぱなしにしていて、鉦のみは御宝頭に付いて歩くようにしていた。御宝頭は休むまもなく、回り続けていて、大きな役割があるように思えた。それから、道端でこの大行列を見守って、お盆のような漆塗りの入れ物に包み紙を見せる人もいた。これはご祝儀か?と思ったがよくわからなかった。ちゃんと聞いておけばよかったと思った。

町回りを14時ごろまで着いて歩くことができ、その後は同じ道を石名坂というバス停へと帰路についた。12時から雨予報なのに、30分も開始が遅れて、11時半から始まって、12時から雨予報なのに...と勝手にハラハラしていたが、そういう心配は無用で、13時のチョウクライロ舞終了どころか、14時の街歩きまでもずっと曇りの天気の心地よい感じだった。風が途中、12時半くらいにめちゃくちゃ強くなったので絶対に雨が降ると思っていたのに、降らなかった。これはよくある民俗芸能特有の不思議な現象である。

さて、帰路でも相変わらず鳥海さんは堂々とその山容を見せてくれていて、美しいと思った。田んぼに映る姿も花畑から見る姿も美しい。この山の恒久的な美しさと共に、チョウクライロ舞も長く長く受け継がれる舞いであり、それが現代で見られることが本当に素晴らしいことだと思った。バスに乗り込んで、象潟駅周辺でお昼を食べることにした。しかし、googlemapで営業中でも、なかなか営業していない。やとっとのことでたどり着いた駅前のお土産屋さんの上にあるカフェで広東焼きそばをいただけた。マスターはびっくりしたような顔でカフェに駆け込む僕を迎えてくれた。「まだ入れますか?」と尋ねると「入れなかったらドア開けないでしょう」などと言って出迎えてくれた。話してみると優しいマスターだった。東京で中華料理のお店に弟子入りしていて、一時期は鉄道会社に勤めたようだが、故郷の象潟に戻ってきて中華料理屋を開業したようだ。厳しい修行時代は厨房になかなか立たせてくれなくて、陰で味を覚えて腕を上げていったという昔話をたくさんしてくれた。途中からおばあさん2人が入ってきて、図書館に向けてこれから13分歩いていく話をしたら、「若いってのはいいことだんべー!」などと笑ってお話ししてくれた。焼きそばは餡掛けでホクホクしていて、混ぜて酢をかけて食べると美味しいらしく、実際にやってみると美味かった。酢をかけるのがコツらしく、何度もマスターは「酢をかけたか?」と聞いてきた。「かけましたよ!」と元気な感じで答えた。これから図書館に向かうことを伝えると、「自転車使うか?」「荷物置いてくか?」などと聞いてくださったが、そこまでは...と思ったので「ありがとうございます」と言って、その場を後にした。素晴らしいお店だった。

それから図書館で資料を調べてから、雨が降り出した道を急いで象潟駅から酒田駅までの電車に乗り、20時40分のバスに乗って帰路についた。さて、図書館の文献で調べた知識で、僕の体験を補っていこうと思う。

チョウクライロ舞とは何か

さて、まず大きな疑問はこの不思議な舞の名である。漢字で書くと、「長久生容(チョウクライロ)」となる。つまり、延命長寿の舞いとのことだ。

ただし象潟町象潟町史 通史編上』(2002年3月)P339によれば、髙橋富雄氏(元東北大学教授)の見解(「鳥海山の歴史と文化」『本荘市史』3)を紹介しており、「チョウクライロ」という名称は陵王からきているというのである。陵王とは羅陵王蘭陵王が本来の名称であり、中国北斎の王長恭が仮面をかぶって敵を欺いて戦いに勝利したことをもとに創作された。長恭羅陵王(チョウキヨウラリョウオウ)、すなわちチョウクライロへと略され変化された形だというのだ。

さらに言えば、鳥海山とは竜王の神そのものである。竜頭山と呼ばれ、吹浦では竜頭寺があり、小滝では竜山寺があるくらいだ。陵王は竜頭を持つことから、陵王の舞とは鳥海山の神自体が降臨する舞とのことである。そして、納曽利の舞は陵王の舞の答舞であり、それを迎える舞いとなる。双竜であり、第二の竜王の舞なのだ。

石倉敏明「龍王の川と鳳凰の卵 絡まり合う二つの神話」,にかほ市『「ジオカルチャー研究プロジェクト」研究レポート《手長足長》Vol.4』(2024年3月, NPO法人アーツセンターあきた)によれば、鳥海山の神が川に姿を変えて山を下り、奈曽の白滝で人界に降りたという歴史学者の髙橋富雄氏の解釈を紹介する。そして、チョウクライロ舞が行われるチョウクライロ山は古代インドの仏教神話において人間の住む世界を意味する「閻浮提(えんぶだい)」とされているようだ。また、鳥海山を竜や蛇に例える系譜については、『日本三代実録』に見られるという。貞観13年(871年)に大きな噴火が起こり、大小の蛇が溶岩とともに流れ出たという記録があるそうだ。つまり、火山活動と奈曽川の流れが、この舞によって現代に生きた神話として伝えられているわけだ。


チョウクライロ舞の起源と歴史

その起源は非常に象徴的である。昔、手長足長と呼ばれる悪鬼が住んでいて、鳥海山参詣に至る人々を食べて困らせていた。そこで天安元年(859年)文徳天皇の勅命を受けた慈覚大師・円仁が小滝村・蔵王権現の神前にて密法の護摩を焚き、37日間護摩密法を修行して祈願し、ついに悪鬼を退治した。その神の恩に感謝して、蔵王権現の社頭のアララギの大木で一丈六尺の観音像を彫り、陵王と納曽利の面を造り、土舞台と53段の石段を築き、チョウクライロ舞を演じ始めたというのである。この退治された手長足長という悪鬼は象潟町象潟町史 通史編上』(2002年3月)P338によれば、「先住民の蝦夷」のことだと考えられているという。つまり、チョウクライロ舞は新しい支配者層による土地と統治との統合を示唆する象徴的な舞いなのである。

時代は降って、明治維新神仏分離令によって、竜山寺蔵王堂が金峰神社となった。チョウクライロ舞がこのとき廃仏毀釈の影響をどのように受けたのかは明らかでない。いずれにしてもこの廃仏毀釈の影響を受けないため、統治のために必要であったという上記の開拓縁起を創作したとも考えられるが、どうなのだろう。真実は定かではない。ちなみに舞い手は以前は修験者だったが、明治以降は氏子へと変遷を遂げているようだ。

御宝頭の舞

象潟町教育委員会『延年チョウクライロ舞』(1983年3月)によれば、以前はにかほ一帯を巡り歩いていたという。おそらく黒森神楽や鵜鳥神楽のような「巡行」、すなわち門付けが行われていたのだろうと推測する。明治・大正・昭和の十年代までは、仁賀保町・金浦町・象潟町のほぼ全域を回っていたというのだ。いわゆる先祓いとして、チョウクライロ舞の前段として受けつがれてきた。その厄祓い意識は神社の境内のみならず、ぞれを地域の信仰として定着させるのに大きく寄与したに違いない。

参考文献
象潟町象潟町史 通史編上』(2002年3月)
石倉敏明「龍王の川と鳳凰の卵 絡まり合う二つの神話」,にかほ市『「ジオカルチャー研究プロジェクト」研究レポート《手長足長》Vol.4』(2024年3月, NPO法人アーツセンターあきた)
象潟町教育委員会『延年チョウクライロ舞』(1983年3月)