宇宙的な壮大な世界を体現する、福井県若狭地域の王の舞。彌美神社にて

古代へと遡る奥深い信仰に誘われた気がした。僕は美しい浜のまち、福井県美浜に降り立った。もともと、氷見獅子の起源、もっと言えば北陸一帯に広がる天狗と棒振りが登場する獅子舞の起源を解き明かすことになるかもしれないという思いでこの地を訪れた。王の舞、読み方はおのまいと呼ぶ。この芸能の起源を知りたいという想いで、2025年5月4日に彌美(みみ)神社を訪れた。若狭町の宇和西神社とともに王の舞で極めて有名な神社である。

獅子塚古墳の謎

さて、当日の様子を振り返っていこう。晴天の空の下、美浜駅に降り立ったのはお昼前だった。駅前はどこか観光地化されていて、白くて大きな「MIHAMA」の文字がオブジェのように設置されていた。

そこからすぐに僕は古代日本にすぐさま誘われた。それが、「獅子塚古墳」である。この古墳はこの地を収める王の墓だったことが推測されるようだ。立て看板には「室毘古王」の文字。なるほど、この地を治めた室毘古王(むろびこのみこ)が1400年ほど前にこの地を統治して、この前方後円墳に埋葬された可能性があるのだ。さらにいうと、これから向かう彌美神社に祀られているのがこの室毘古王だということにすぐに気がついて、非常に驚いた。この前方後円墳という前振りが、彌美神社へ行くことをさらに掻き立ててくる。

それからこの地域には耳川という川があるが、この耳とは室毘古王が耳族の祖と呼ばれていることと何か関係があるに違いない。それで思い出すのは、獅子頭の耳のことである。柳田國男が『獅子舞考』にて記しているように、獅子塚が築かれる場所というのは、基本的に耳取り合戦が行われた場所という説があり、他村の獅子舞との激突が行われて破損した耳を地中に埋める。それが神の依代や認識法と関係するという話である。動物を直前まで生きながらえさせながらも生贄を認識管理する方法が耳取りだったわけで、すなわち耳とつく土地は霊地だった可能性が高い。神の占有物のため、動物の生贄が捧げられた場所が、結局その習俗が衰えて獅子塚として場所だけが残っていくパターンである。獅子舞は本物の獣を形式化したものと捉えれば、時代は獅子舞以前に遡る。長野の諏訪大社には耳裂鹿の話が伝わるが、それも依代としての認識法であろう。そう考えれば、彌美神社の「彌美」の読みは「耳」と同じ「みみ」であり、相当な霊地として語り継がれてきたに違いない。獅子塚はおそらく動物を生贄に捧げた霊地であるにもかかわらず、室毘古王の前方後円墳としての認識が生まれるというのは、なぜだろうか。古代信仰と新しく入ってきた王である室毘古王の一体化を狙った証ともとれる。もともと崇められていた霊地に新たな為政者である王が埋葬されたということも推測できる。果たして真実はいかに。

ゆったりとした王の舞の登場!

お昼ご飯を探した。魚料理はやたらと高くて1500円以上の定食しかなかったので、町中華に入ったら予想以上に良かった。回鍋肉、白ごはん、サラダ、コロッケ、そしてラーメンがついてきてたったの880円である。そこから図書館で非常に興味深い書籍を読み、彌美神社に向かった。

神社が見えてくるとそこを横切るように高速道路が突っ切っていて、これは...?と思った。神社の参道の上を高速道路が通っているなんて、こんなに美しい素朴な自然が存在するのになんか勿体無いと思った。

神社に到着したのが15:20ごろ。王の舞の入場が行われているところだった。予定が早く進んでいるようだ。早く着けて本当に良かった。実際に拝見してみて、王の舞は被り物に龍を戴き、天にも昇るような格好である。足を伸ばして折り曲げるような所作が、どこか富山県の獅子舞の天狗を思わせた。おそらくここは繋がりがあるだろう。

ゆっくりと優雅に進んでいくこの王の舞。非常に強い呪法が込められているというが、現代の我々からみたら、それを感じることは難しい。これがギャップであり、どうしたらそういう感覚って埋まるんだろうと考え込む。俗世的になる要因として、カメラマンが多かった。皆写真コンテストに応募するんだろうが、鑑賞する側からしたらシャッター音が気になったり、場所が占領されたりしている。大人しい鑑賞者でありたいと自戒を込めて再確認する。

暴れる獅子舞、田遊びのよう

それから獅子舞が登場した。口をぱくん!と大きい歯打ちをすることはあったが、基本的におとなしくてゆっくり動く獅子舞だと思った。時折共食いというか自分の体を噛む仕草が見られたが、これはノミ取りであろうか。胴体の中に何か傘のような丸いもの2つが入れられていて、後ろ側のそれを噛んでいるようだった。おそらく胴幕の中に入っている担い手は頭に傘か何かを被っているのだろう。それを噛んで動かなくなってまた動き出して大きな歯打ちをする。その繰り返しが行われた。

突如獅子舞が動き出して円形を囲む観客の淵に沿うように丸く走って暴れ出した。その暴れ獅子に止めに入ったような担い手(警護)は吹っ飛ばされていた。また「これで終わるなよ」みたいな掛け声が観客の中から聞こえてきて、それに呼応するように獅子舞が突っ込むような姿も見られた。

これは田楽に登場する牛に似ていると思った。静岡の法多山で拝見した田楽の牛も暴れてなだめられて、連れて行かれていた。これを考えると、石川県加賀市の塩浜町の引きずられる獅子舞も、塩屋町の拝殿前ダッシュも、大聖寺中町や京町の暴れ獅子もことごとくこれを起源とするのではないか。そう考えると農村系獅子舞ではなく商業地の獅子舞になぜ田楽系が流入したのか。そこら辺についても考えたくなってくる。おそらくこの田楽系の動きだろうと感じた。また、山形県長井市の黒獅子は11世紀の平安時代から継承されている獅子舞だが、これにも警護という役が登場し、獅子を手なづけて拝殿まで連れて行って獅子頭を納める。役割は今回の獅子舞と同じであろう。非常に気づきのある演舞だった。

獅子舞が終わると、全体の演舞は終了した。それから、拝殿内からさまざまなお供物が運ばれていき、片付けが始まった。

王の舞の特徴

真っ赤な着物にダテサゲという赤い前垂れをさげて、鼻高面をかぶり、鳳凰の冠をいただき、脇に白扇子と刀を挟む。橋本裕之『王の舞の民俗学的研究』(1997年2月, ひつじ書房)によれば、王の舞の特徴としてこのような例が挙げられる。

・祭礼の中では、行列を先導する機能を担っている。

・祭礼芸能の一環として、田楽・獅子舞などに先立って演じられる。

・しばしば裲襠装束を着用し、鳥兜に赤い鼻高面をつける。

・前段は鉾を持ち後段は素手で、四方を鎮めるかのように舞う。反閇の芸能化と理解することもできる。

・人差し指と中指を揃えて伸ばし、薬指と小指を親指で押さえる剣印が舞の要素をなしている。

・楽器としては、太鼓・笛が用いられている場合が多い。

※読み方は裲襠(りょうとう)

王の舞の起源

橋本裕之『王の舞の民俗学的研究』(1997年2月, ひつじ書房)P41〜 によれば、王の舞の名称の起源について錦耕三の説を紹介し、「中国系統の舞楽の蘭陵王の舞、あるいはインド系統の竜王の舞に由来している」というのだ。王とは陵と竜の判断がつかずに王だけ残った形らしい。ここに王の舞が生まれたわけであるが、確かに舞楽のこの手の演目と衣装も舞い方も非常に似ているように思う。また花祭りとの関係性についても言及しているという。すなわち「王の舞の所作に悪魔払いを意図する修験の行法の影響をも見ていた。例えば、三信遠の花祭りにおける鎮めの反閇(竜王の舞)で用いられるヒノウ・ミズノウの面系が、王の舞で用いられるそれと類似している事実から、王の舞を竜王の舞であり、鎮めの行法であるとする注目すべき視点を披瀝しているのである」とのこと。また折口信夫の見解としては、田楽と雅楽の接近の視点があったようで、田楽に雅楽の陵王が入ってきたとする。また新井恒易によれば、これはある一種の「王の舞はきわめて重い役とされるが、要するに舞楽の手法をとり入れながら、祭礼芸能の始めにあたって、先払いー方固めをする呪詛師の呪法として形成されてきたものといえよう」という。四方、すなわち東西南北を鎮める舞いでもあるのだ。

さて、王の舞の伝播に関して、京都や奈良の芸能が都市圏から地方へと伝播したようだ。弘安4年(1281年)には『弘安四年鶴岡八幡宮記』にて、鶴岡八幡宮で王の舞、獅子舞、楽人などが出演した記録があるから鎌倉にも伝わっていたようだ。橋本裕之『王の舞の民俗学的研究』(1997年2月, ひつじ書房)P9によれば、「平安中期以降各地に中央の大社寺などを領家とする荘園が成立してゆくにしたがい、領家による荘園支配の戦略として、精神的紐帯となるべき荘園鎮守社や寺院が荘園内に設置され、そこでの祭礼に領家の社寺が行っていた祭礼形態や芸能構成を模したミニチュアが採用・導入されたと考えられる」とある。芸能伝播論で大きな手掛かりになるのは、山路興造の論考。「荘園鎮守社における祭祀と芸能ー若狭三方郡を中心としてー』などに荘園と芸能伝播の関係性が描かれる。これはぜひとも参考にしていきたい。ちなみに錦耕三『若狭路の祭りと芸能 錦耕三遺稿集I』(2005年3月, 若狭路文化研究会)P15によると、王の舞は福井県若狭地方だけではなく、京都府、滋賀県、兵庫県にも少なからず分布しているものの、「天狗飛び」「竜王の舞」「ジョマイ」などと呼ばれている場合が多いようだ。

彌美神社の王の舞の位置付け

福井県三方郡美浜町宮代の彌美神社では、永禄5年(1563年)に御幣村、王村、獅子村、田楽村、御子などといった村の名前で登場する。もともと彌美神社は大宝2年(702年)に創建。嘉禄2年(1226年)以降二十八所社と称する古社であり、どの段階で伝わったのかは不明だ。

自然信仰、太陽、月、星の大日如来信仰から成立したこの彌美神社には、開拓の民が移り住み、当地を広める必要があった。そこで、登場したのが王の舞であった。王の舞は「おのまい」と読む。開拓の神、先払いの神としての性格が神輿の通り道を作る。日本神話の猿田彦の芸能化が王の舞とすれば、確かに開拓の神であり、先払いの神であることはうなづけるのである。それは獅子舞も同じことだ。

また錦耕三『若狭路の祭りと芸能 錦耕三遺稿集I』(2005年3月, 若狭路文化研究会)P15〜P17によれば、演舞の見事さを賞賛するために「大豊年!」と叫ぶ観客もいるようだが、これは演舞の見事さを伝えるだけではなく五穀豊穣を強調する意味があると考えられる。また王の舞は原則として一度しか舞えないので、一人前の村人として認められるための通過儀礼的な役割があり、それを若者が乗り越えるという試練的な要素があるようだ。

橋本裕之『王の舞の民俗学的研究』(1997年2月, ひつじ書房)P276にとても興味深い記述があり、「平安初期の荘園化の時代は国史一般に、古い神々が次第に忘却されてゆく時期でもあった」という。最初に登場した前方後円墳の時代と、新しい開拓の民としての荘園による統治構造の導入の間に、摩擦が生じたことは十分に窺える。「おそらくは荘園制の進行に伴い、古い民俗レベルの信仰は、新たに勧請された信仰の体系によって封印されて、地主神の位相に追いやられてしまったのではないか」。そこで園林寺が出てきて彌美神社を二十八所社として再考するに至ったわけで、その一方で王の舞のような荘園統治の繁栄のための芸能も取り入れられていったわけである。ここで出てきたのが真言密教だ。日と月は彌美神社のシンボルであり、それに星を巻き込む壮大な曼荼羅を組んだ園林寺は地域を宇宙論的秩序のもとで再構成したという。

彌美神社と地域、世界観、コスモロジー

そして、彌美神社の祭りを担う諸役の配当は村ごとで担っており、一本幣、七本幣、王の舞、獅子舞、大御幣が隙間なくうまく配置されているため、新しい集落の参入ができないようになっている。逆にいえば脱落できない構図になっているらしい。また氏子集団にもヒエラルキーが存在しており、斧の餅細工が祭礼に奉納する御膳に入るのは麻生と大三々のみであり、これが王の舞と獅子舞の奉納地域と重なるのだ。御膳を見ればいろいろなことがわかるらしく、宮山に対する山入権、芸能の奉納権、生産形態や特色などが浮かび上がってくるようである。

王の舞と北陸の獅子殺しのつながりを考える

彌美神社の王の舞を拝見して、これは確かに獅子あやしに見えなくもない。その後に獅子舞が出てくる連続性、それをひとつの芸能に合体させれば、天狗の登場する氷見獅子が誕生するわけである。佐伯安一『富山民俗の位相ー民家・料理・獅子舞・民具・年中行事・五箇山・その他』(2002年4月, 桂書房)P258によれば、能登には珠洲市法住寺の白山神社に中世の王舞面(鼻高面)が残されており、また応安5年(1372年)銘の獅子頭が残されている。これは王の舞が演じられた可能性が非常に高い。また、これに加えて三重県伊奈富神社の獅子あやしの「ふっとり」、そして後世の桑名太夫村の伊勢大神楽に登場する獅子あやしの「天狗」は四方の舞、跳の舞、扇の舞、楽々(ささ)の舞に登場する。この御頭神事から伊勢大神楽、そして全国への大伝播の流れを考えると、こちらの経路が北陸に到達した可能性について考えたいが、伊勢大神楽の天狗が持つのはささらである一方で、王の舞が持つのは鉾である。さらにいえば、個人的には伊勢系の獅子といえば石川県南端の加賀市や小松市くらいしかあまり見たことがなく、しかも天狗がここには登場しない。そう考えるとやはり、福井で受け継がれるような王の舞が氷見獅子へと影響を与え、それが能登獅子へと伝播したとも考えられるわけだ。

富山民俗の会『富山の民俗学は今ー富山民俗の会50周年記念論文集』(2006年7月, 桂書房)P68によれば、石川県七尾市中島町宮前にあるお熊甲祭りに関して、佐伯安一氏の言葉を引用して「この猿田彦が氷見獅子の天狗につながらないかとかねてから思っていた」「普通ならお熊甲祭りの猿田彦が能登獅子の天狗となり、氷見に伝播したと考えたいところではあるが、ことは逆なのである」「能登の天狗獅子のルーツをたどると、いずれも氷見獅子にたどりつく」というのだ。そして、著者としてはその意見に付け加えるように、お熊甲祭りに登場する猿田彦自体は、王の舞が変化した一例だろうとしているのだ。鳥甲、赤い鼻高面と行った衣装や、楽器としての鉦、太鼓が類似しているようである。若狭では現在鉦を使わないが、京都府綴喜郡宇治田原町の三社祭の王鼻やお熊甲祭りなどさまざまな王の舞系統の芸能で鉦が見られる。

さらに佐伯安一『富山民俗の位相ー民家・料理・獅子舞・民具・年中行事・五箇山・その他』(2002年4月, 桂書房)P259には大変興味深い文章があり、王の舞が持つ鉾が金沢の獅子殺しに影響を与えているのではないかということだ。「北陸系では採り物に矛を持ったために獅子を殺すストーリーになったものと思われる。金沢獅子が獅子殺しをするのも前史としてはこの流れの中で考えるべきかもしれない」とする。獅子対天狗の構図で言えば、越後では天狗が獅子に負けるが、富山に入ると天狗が獅子に勝つようになる。岐阜の金蔵獅子は同じく天狗が獅子に勝つ。北飛騨で考案された金蔵獅子と金沢で考案された加賀獅子の獅子殺しの共通性が垣間見える。岐阜と石川は白山信仰で繋がっているから、そこら辺が何か絡んでこないものかと個人的には思っているが、これはやや広げすぎ感もある。なぜ獅子殺しは胴長の百足獅子と結びつくのかといえば、これはまた違う観点が必要で、上記佐伯氏の著書では行道獅子の盛大化とあり、個人的には蛇獅子や蛇目と富山の土地柄の結びつきや、出雲族の到来と八岐大蛇などが絡み、胴長になるのだと解釈したいことを蛇足的に付け加える。また佐伯氏は「獅子の力が強ければ強いほど、それを征服することは手柄であり見ものとなったのである」と述べており、これは日本海で北上したところにある山形県の長井にて、「長井のひとびと」編集委員会『特集 おしっさま』(1997年年3月)の記述に獅子の威力を増すために胴長の大きな黒獅子が生まれたというような内容が見られた覚えがあるが、それともどこか繋がる話のように思っている。そして先ほども述べたように黒獅子と王の舞の獅子の共通点は警護が登場することだ。ここら辺が無限に絡まり合って、影響しあって大規模な伝播構造が見えてくるのである。ここで改めて獅子殺しの種類を確認しておくと、富山県では氷見獅子、砺波獅子、射水獅子、石川県では加賀獅子、能登獅子である。これらと王の舞との連関が見えてくるのである。

 

参考文献

橋本裕之『王の舞の民俗学的研究』(1997年2月, ひつじ書房)
錦耕三『若狭路の祭りと芸能 錦耕三遺稿集I』(2005年3月, 若狭路文化研究会)
斎藤槻堂『日本の民俗 福井』(昭和49年12月, 第一法規出版)
佐伯安一『富山民俗の位相ー民家・料理・獅子舞・民具・年中行事・五箇山・その他』(2002年4月, 桂書房)
「長井のひとびと」編集委員会『特集 おしっさま』(1997年年3月)

富山民俗の会『富山の民俗学は今ー富山民俗の会50周年記念論文集』(2006年7月, 桂書房)