東海道がシルクロードの延長だとするならば、それは小國神社の十二段舞楽によって唯一証明されるだろう。2025年4月19日、静岡県森町の一宮である小國神社の十二段舞楽を拝見した。この十二段舞楽は、小國神社の左舞(荒々しい舞い)と天宮神社の右舞(ゆっくりした舞い)という男女一対的な発想のもとで作られ、そして山名神社で後世に動物舞へと変革されたひとつの形態である。
旅の始まりは突然にやってきた
もともとこの日は、獅子舞を見る予定ではなかった。しかし、20日の愛媛への取材が、コロナ禍の延長で獅子舞実施がないと知り、それでは他の獅子舞を探そうということになった。それで、今回十二段舞楽の獅子を訪れようと思い立った。それがなんと当日の朝8時のことである。もう思い立ったら止められない。1時間後には、静岡への電車に乗っていた。
掛川からは天竜浜名湖鉄道に乗る。初めての乗車であったが、なんと座席にオートバイなどの写真が貼り付けられていて、なんか面白かったし、電車の先端部に刀と書かれていたのが印象的だった。たどり着いた遠州森駅は木造のこじんまりした素晴らしい駅で、駅前の中華料理屋に入り、大盛りのラーメンを食べてから、それでも足りなくてスーパーでパンを買って、森町立図書館に向かった。そこではコピーに戸惑ったが、たくさんの貴重な資料を拝見できた。それから遠江一宮から出る最終の夕方バスに間に合わず、歩いて小國神社へと向かった。

田園地帯を抜けると川沿いの谷間を歩いた。一本道ゆえに沿道の家の方々がこちらを見てくる。「小國神社に行くんですか?」と気軽に話しかけてくれるおじさんもいた。優しい世界だと思った。右の山の上には真田城があるらしい。非常に興味深かったが、今回は少しでも早く小國神社に向かいたいと思い、先を急いだ。
到着して、参拝したらまもなく、舞楽の方は1時間ちょっとの休憩時間となった。舞い手たちは「もっと飲めもっと飲め」と酒盛りを始めた。すごい大酒飲みたちの集まりに見えた。笑い声が静かで深いひっそりとした森の中に響き渡った。これは神々たちの祝杯にも聞こえた。参拝客は非常に少なく、そういう点でもひっそりとした神社だと思った。山道手前の商店が並ぶところでほうれん草の野菜チップスを買って腹を膨らませておいて、17時40分からの舞楽を拝見した。ぞれぞれ感じたことについてここで記しておこう。実際に拝見できた曲のみ、ここで振り返る。

精霊から人間へ「安摩・二の舞」
まずは安摩からだ。安摩は顔を隠し何やら奇怪的な形相である。静粛な安摩が、二の舞へと移り変わると、ひたすら酔っ払った1名を含む2名の舞いとなった。最後はその1名がぶっ倒れ、奥から来た2人の仲間たちに腕をひかれてひきあげていった。先ほどの酒盛りが響いたらしい。わははは!という笑い声が相変わらず、神の声に聞こえる。にぎわし神である。なんかそこには異界が広がっているというよりもむしろ人間に近い舞いだと思った。
尾崎富義『小國の神 遠江國一宮 小國神社誌』(1997年4月, 小國神社)によれば、「同じように布面を付けて舞う舞に春日大社の「細男(せいのお)」や福岡県志賀海神社のかっこ舞があるが、志賀海神社では、かっこ舞を舞うのは阿度部磯良(あどべのいそら)という神で、長い間海底にいたために、顔にカキなど貝類がいっぱい付着していて人に顔を見せられない。そこで、布で顔を隠して舞うのだと伝えている。阿度部磯良は海底に鎮まっていた安曇(海人)族の精霊である。そのために顔が醜い(=人間と異なる姿をしている)といわれるのだろう。当社で布面をつけたこの舞を「安摩の舞」というのは、これがこのような海人族の精霊舞から出発した歴史を持つ舞であることを暗示している。阿度部磯良は、舞うことにより鎮められ恩寵をもたらすエビス神にかわる。このエビス神の舞が次の「二の舞」にあたる。いうまでもなく、「二の舞」は各地で「もどき舞」といわれるもので、精霊の舞としての「安摩の舞」を人間の舞として繰り返すものである(...)」とする。どうやら、このもどき舞というのは田楽の影響を受けているようである。


雨乞いと豊穣の舞「陵王」
この陵王という舞は中央の舞楽でいうところの「蘭陵王」である。その目的は雨乞いと農作物の繁栄。これは龍王の舞であり、こちらの舞楽面の上部には龍蛇が見られることからも、すなわち降雨を祈るものであるとわかる。
突如としてお囃子は止まり、舞い手のみが舞いを続けるという拍子がないパートがあり、そこで「呪術的な舞いの所作があったと言われている」と担い手の方がおっしゃっていたが、現在は伝承されていないらしく、その内容は謎に包まれている。実際に拝見してみて、鳥のさえずりがお囃子を奏でているような気もした。不思議な時間の余白がそこにあった。
それからこの舞を見ていることもたちが口々に音のリズムが「セー、ラー、ムーンだ!」と言っていた。なるほど、陵王は現代におけるセーラームーンなのかもしれないと面白おかしくそれを聞いていた。

大陸の物語「抜頭」
こちらは中国の西方民族の物語を元にしており、怒り狂う様の表現ともいわれ諸説あるようだ。本来は大人舞いであるが、稚児舞として小國神社では表現されているとのこと。全曲を舞いおさめるのが19日、翌日20日は稚児がさらわれるため、全曲舞わないとのこと。さて、稚児がさらわれるとはどのような意味があるのだろうかと疑問は残るため、また詳細に調べてみたいと思った。実際に拝見していて、子どもが耳の周りをぐるぐると円を描きなでるような所作が見られてこちらの意味も気になった。

納蘇利
こちらはどうやら陵王と対になる舞いであり、こちらもどうやら龍にまつわる舞いのようである。小國神社では2人舞ではなく、1人舞として継承されているとのこと。実際に拝見してみて、表情がどこか恐ろしげで、舞台に出てくる時に薄暗い廊下を歩いている時の表情が最も異形の面であり恐ろしさを感じた。しかし、それをみていた子どもは怖いというよりは興味津々な表情で見つめていて、あまり怖がっている風でもなかった。

獅子伏せ役に制御される「獅子」
本日の十二段舞楽の最終演舞である。初見の印象として、獅子をコントロール天狗?の構図がどこか、動物調教を思わせた。特に尻尾を左右に振らせてそれを一人前にできるようになったら手を離すような動作(?)があった。あるいは、獅子の尻や頭を上から地面に押し付けるような所作があったが、これは人間が獣をコントロールをしていることを思わせた。獅子頭が非常に大きいのが印象的だった。相当重いだろうなと思った。そして、比較的平べったかった。

森町史編さん委員会『森町史資料編5 舞楽・民俗芸能・民俗資料』(1996年3月, 森町)によれば、獅子は舞楽法会が盛んだった古代の獅子というよりは変容しており、「獅子伏せ」と呼ばれ、「悪魔調伏と五穀豊穣を祈る舞」とされているとのこと。また獅子伏せ役が鼻をかむ所作が見られる。捨てた紙を風邪除けのお守りとして見物人が争って拾うとのこと。こちらは天宮神社の獅子を詳述したものだが、現在はこの争って拾う部分が残されているかは不明である。実際に今回、小國神社で拝見したところ、鼻をかんだ紙は獅子伏せ役が自らポケットの中にそれをしまっている光景が見られた。
また、尾崎富義『小國の神 遠江國一宮 小國神社誌』(1997年4月, 小國神社)によると、獅子伏せ役の鼻をかむ所作は、愛知県鳳来町鳳来寺・天竜市懐山・引佐町寺野などに伝わる田楽形の獅子舞に通じるという。鼻をかむの本来の意味は「花拝み」であり、神の依代である常磐木(榊)を拝むことを表すらしく、獅子伏せ役は「榊の葉を押戴き2つにちぎり左右に捨てる所作があるが、これが本来の「花拝み」である」という。この誤解釈とも言える部分に関して著者は「舞が当社に伝わったのではなく、文献で伝わってきたか、あるいは長い中断のあったことを推定するのである」としている。

静寂の中、帰路に着く
さて、獅子の演舞が終了したのが20時前だった。少し予定よりも進行が早かったようである。あたりは真っ暗で、見物客はもちろん、担い手も早々に片付けを済ませて、車で帰ってしまった。僕は静寂の神社の参道をゆっくりと歩を進めて、神社を後にした。この大木の森の中で、深淵なる芸能を見られたことは、本当に贅沢なことであると振り返る。この舞楽を訪れたことで、大陸伝来以後の初期の獅子舞の姿を少しでも解明できたらという思いであった。
遠州森駅まで、相変わらず1時間の徒歩で帰路に着く。カエルの声が響き渡る。本当に家と田んぼしかない道が続く。街灯もまばらだ。茶畑の横を歩いている時なんか、街灯なんて皆無で、遠くに見える市街地の灯りをたよりに、携帯の明かりを揺らしながら、横をたまに通る車に存在を知らせるために細い暗い歩道を歩いていく。こんな時、人工物にはなぜか安心する。茶畑も人工物である。森を切り開いて作られた人間の営み。そういう微かな営みによって、僕は暗闇の恐ろしさを紛らわした。
スーパーは閉まる時間の5分前。パンも変えずに、コンビニに寄って、かろうじて浜名湖の藻が入ったおにぎりを買ってご当地グルメを食べた気分になって、遠州森駅に到着。ひっそりとした駅の待合ベンチで食べてから電車に乗って、帰路についた。帰りは新幹線で終電に間に合い、なんとか帰ってきた。本当に超速すぎる旅路だったが、非常に充実した1日だった。
小國神社 十二段舞楽の曲
さて、ここからは文献で知ったことについて、補足的に触れておこう。まずは十二段舞楽の曲についてである。小國神社の曲はその名の通り12曲であり、連舞、色香舞、蝶舞、鳥の舞、太平楽舞、新まっく舞、安摩の舞、二の舞、抜頭舞、陵王舞、納蘇利舞、獅子舞の十二番で、番外に花の舞がある。
水原渭江『民俗芸能における舞楽的要素の考察』「静岡県森町天宮神社に伝える十二段舞楽についての研究」(1969年, オーム書店)において、天宮神社の十二曲は小國神社と名前が異なるが内容が一緒であるとしており、天宮神社では延舞、色香、庭胡蝶、鳥名、太平楽、新靺鞨、安摩、二の舞、陵王、抜頭、納蘇利、獅子となっている。十二段舞楽を中央の舞楽と照らし合わせたとき、延舞は「振鉾」の当て字であり、色香は「菩薩」、庭胡蝶は「胡蝶楽」、鳥名は「迦陵頻」とする。
また色香は「菩薩」であることから、神事の舞ではあるものの、仏教との深い繋がりがあることを感じさせる。小國神社が神宮寺としての蓮華寺との神仏混淆の要素を持っていたことからして、仏教法会の流れからこの舞楽が取り入れられたことも推測され、森町史編さん委員会『森町史資料編5 舞楽・民俗芸能・民俗資料』(1996年3月, 森町)によれば、「少なくとも、小國神社のような、諸国の一宮という格式をもった神社の神宮寺の祭礼においては、地方的に変容したものであっても、舞楽を奏さねばならなかつたのであろう」とある。
小國神社十二段舞楽の歴史
次は小國神社の舞楽の歴史についてである。小國神社の創建は555年(欽明天皇16年)とされているが、舞楽がこの地で奉奏されるようになったのはいつの頃なのだろうか。
尾崎富義『小國の神 遠江國一宮 小國神社誌』(1997年4月, 小國神社)によれば、『延宝の記録』に大宝元年(701)に勅使御覧のもとで舞楽が始まったとするが、大宝元年は雅楽寮が律令制によって整備された年とのこと。このタイミングですでに開始されているとは考えにくいようだ。山路興造氏によれば、「舞楽の地方拠点について、律令体制の変化にともない国家による舞楽の地方伝播の拠点であった国分寺が衰微すると、一の宮がそれにとってかわったと分析している。しかし、遠江国の舞楽の拠点が山路氏が指摘するように国分寺から一の宮に移行したものかどうか、これを明確にする史料は手元にはない」とのことである。この記述は山路興造「伎楽・舞楽の地方伝播」(「民俗芸能研究」創刊号 民俗芸能学会 1985年5月)を参考にした記述である。なるほど、この記述からは、獅子舞がなぜ寺院から神社へと移ったのかについて、国分寺の衰退が関わっていたのかと大きな気づきがあった。
一方で小國神社の広報誌「令和7年4月19日、20日 奉奏 1300年前から続く伝統の舞楽」『玉垂 No.71』によれば、「大宝元年(701年)2月18日には都から勅使(天皇のお使い)が出向き、現在の社地に里宮を開き、十二段の舞を奉納したことが舞楽の始まりと伝承されています。(中略)十二段舞楽の原型となる様々な芸能が渡来してきたのは8世紀初頭、西暦700年頃と考えられています。その後、都では盛んに舞楽が奏でられ、平安時代初頭には早くもその黄金期を迎え、十二〜十三世紀にそれらが地方に伝播したと学術的には考えられています。しかしながら、当社への舞楽の伝来は8世紀初頭と早く、都と当社の関係性の深さを伺わせます。そして、当社の舞楽の細部には、中央で失われたとされている所作が部分的に残っていることからもその古さがわかります」とある。
701年といえば大宝律令制定の年であり、天武天皇の律令国家が整備された年だ。国の力が強くなったタイミングで、なぜ国分寺のような地方統一の象徴的な場ではなく、地方分権の象徴たる一の宮で舞楽が始まったとされるのか。これは日本の数多くの芸能が「1300年前に開始」とする場合も多いことの謎の真意を捉えているような気がする。どこか「国家に敬意を払っていますよ」と頭を下げているようで、物語がどこかで作られたような気がしてきた。それは明治維新の神仏分離令あたりの話だろうか。定かではないが、1300年前という言葉が妙に何かが引っ掛かる。獅子神御祈祷神事(三重県)をはじめ聖武天皇由来の獅子舞というのは多いが、この701年というのは聖武天皇が誕生した年なのだ。文武天皇とは、聖武天皇の親にあたる人物で、あの国家建設に奔走した持統天皇の孫である。考えすぎかもしれないが、隠岐国分寺蓮華会舞のように国分寺で継承されている舞楽は純粋に741年の国分寺設置以降に早期導入された舞楽だと推察できるが、一の宮がなぜ701年という早い段階で舞楽を導入していたのか。これは実際に本当の話かもしれないが、再度詳しく調べて調べてみる必要がありそうだ。
森町史編さん委員会『森町史資料編5 舞楽・民俗芸能・民俗資料』(1996年3月, 森町)によれば、伝播の順番としては、まず小國神社に伝わり、そこから天宮神社、山名神社へと伝わっていった。天宮神社に伝来したときは極めて類似した舞楽の形式であったが、山名神社の方は猿楽座の能楽的な要素が加わったことで「舞楽的能楽」へと変わっている。山名神社に伝わったのが、山名神社の『舞楽指南書』によると、明応5年(1496年)に浪華派の舞楽を伝えたのち、100年後に伝承が途絶え、文禄4年(1595年)に浪華派の舞楽を学び直した形で、現在に伝わっている。小國神社が奈良方の舞楽に対して、山名神社は天王寺方の舞楽を学んだとされる。
小國神社の地政学
森町史編さん委員会『静岡県周智郡森町の芸能 舞楽装束(小國神社・天宮神社・山名神社)』(1996年3月, 森町)によれば、小國神社と天宮神社の関係について、天宮神社は小國神社よりも土着的な機能を持っていたと考えられ、中央の政治的施策によって土着信仰を自然な形で包括したということらしい。小國神社の左舞(荒々しい舞い)と天宮神社の右舞(ゆっくりした舞い)となっており、これは舞楽伝承の中枢を担っていたであろう三方楽所(南都・京城・四天王寺)のように左方と右方が同じ場所で演じられるのではなく、一宮を左方・右方に分割してそれを全体的な宇宙観として形成したというわけである。個人的には、ここには和魂と荒魂の思想が表れているようにも感じる。また、小國神社と岩室寺が金剛界、天宮神社と蓮華寺を胎蔵界として寺社が一体となりながら、金胎両界思想が形成されてきたと言われる。それとともに本祭は小國神社から天宮神社に至る15日間のさまざまな行事が執り行われるという形式で実施されてきたこともそれを表している。獅子舞は小國神社が角のない赤塗り、天宮神社が角がある青塗りであるというふうに色々な所作や道具の装飾が対照的に作られている。
小國神社の立地は森町の穀倉地帯である円田から一宮川の上流に遡ったところに遷座している。この背景には熊野信仰の伝播、国府の行場である岩室寺との融合、神領の一円支配などのいわゆる国家的政策によってつくられられてきたのだ。広大な水田が経済的な基盤として機能することを見越してのことだっただろう。これが舞楽の伝承の財源になっていったことは想像に難しくはない。
ここには平安時代中期以降の不輸不入権の成立、そして荘園の成立が関わっている。つまり、それまでは大寺院のみが仏教信仰を広めるため、そして鎮護国家思想のために税(輸祖)が免除されていたが、有力な地方の貴族たちが自らも税免除を要求するようになる。当時は税収減によって貴族たちへの給与支払いが滞るなどの状況が発生したため、税を免除した荘園がここに成立したのだ。自分たちでなんとか稼いでくれ!という状況である。不輸とは税金の免除、不入は土地調査の免除であり、税金徴収がないなら、土地調査もするなという叫び声が聞こえてきたわけである。これは太政官符遠江小國の神主として清原則房が補任した1082年、清原氏による一円支配の執行権が握られたあたりの話と繋がってくる。これは現代における地方分権の推進や、フリーランスの勃興などと、どこか似ているような気もしている。歴史は繰り返すということかもしれない。
Ps. 猿笛について
尾崎富義『小國の神 遠江國一宮 小國神社誌』(1997年4月, 小國神社)によれば、小國神社のおはらい受付所の裏手のひょうの木の実を猿笛といい、乾燥した時に殻に穴が空くのでそこに息を吹きかけると「ひょー」という音が出るそうである。言い伝えでは、ご祭神の大己貴命がこの笛の音で、女神を呼び寄せて娶ったという。女神はこの笛の音に魅せられたことから、縁結びの木とされているようだ。とてもほっこりするお話でとても素晴らしいお話だと感じた。
参考文献
尾崎富義『小國の神 遠江國一宮 小國神社誌』(1997年4月, 小國神社)
森町史編さん委員会『森町史資料編5 舞楽・民俗芸能・民俗資料』(1996年3月, 森町)
森町史編さん委員会『静岡県周智郡森町の芸能 舞楽装束(小國神社・天宮神社・山名神社)』(1996年3月, 森町)
水原渭江『民俗芸能における舞楽的要素の考察』「静岡県森町天宮神社に伝える十二段舞楽についての研究」(1969年, オーム書店)
山路興造「伎楽・舞楽の地方伝播」(「民俗芸能研究」創刊号 民俗芸能学会, 1985年5月)
小國神社の広報誌「令和7年4月19日、20日 奉奏 1300年前から続く伝統の舞楽」『玉垂 No.71』(印刷年月不明)