日本の大動脈、隠された農民芸術「箕」の秘密を解き明かす旅、新潟県佐渡島 たかみ獅子に訪問

2024年10月16日、新潟県佐渡島の新町(しんまち)まつりで登場する「たかみ獅子」を訪問した。この獅子舞は農機具の箕を3枚かさねてつくる独特なもので昔は日本全国に広がっていたが今では数例しかないとも言われる貴重なものだ。その獅子舞を拝見したいと思い、弾丸で獅子舞を見に行った。

実際にたかみ獅子を見て感じたこと

朝っぱらから大変だった。夜行バスで東京から新潟まで来たのだが、大事な一眼レフカメラをバスの中に忘れてきてしまった。携帯一台で本日の撮影をしなくてはならない。これは大変なことになった。バスの車庫を探したが、電話も10時過ぎないとかからず、もうその時間には佐渡へのフェリーが出発している。

そういうわけで佐渡へのフェリーに乗り込んだ。身ひとつで生きていける。見ること、感じることはできる。それで十分だし、良い機会だから携帯での撮影を極めてみよう。そういうスタンスで佐渡島に降り立った。フェリーでは、うみねこが鳴いてて、船と鳥は平行に移動していった。佐渡は晴れていた。降水確率90%だったはずなのに、ここまで晴れるとは思わなかった。

佐渡両津港からすぐさまバスに乗り込み、13時過ぎには新町のエリアに辿り着いた。子ども神輿が休んでいる姿を見かけたが、しばらく歩いていると、ドンドンと太鼓が聞こえてきた。ああ、これは獅子舞だろう。直感が働いた。

獅子舞を拝見していて感じたのは極めてシンプルな舞い方であるということだ。祭りの日は紅白幕がかかっているが、それが獅子の舞い場とかぶるわけではなく、神主さんが回っていったところを獅子舞が舞うという順番で行う。神主が獅子に先立って玄関でお祓いして、それが終わると何やら玄関前に白い粉で円が描かれる。これがどうやら獅子が舞う場所の印であるようだ。その後に獅子が掛け声を掛け合いながら先輩に気合を入れられて、ガーーーと走ってきて、玄関先で住人の頭を噛むという流れである。

突如、住民が獅子舞の門付けを断る瞬間をみた。
「ししいらん」
ドアをピシャリと閉めてしまった。
祭りは楽しいものである反面、そうでない人がいることも知れた。
これが全国各地に広がる獅子舞お断り看板の要因なのだろう。
ただし、総じて住民参加型の素晴らしい祭りであることは確かだ。
楽しそうな担い手や地域の人々の姿が印象的だった。

途中、休憩の時に、獅子舞の継承が課題であると言う話を小耳に挟んだ。ちょうどその時に手に持っていたのが、おにぎり3個とカップ麺。「こういう飯が大事なんですよ」と会話していた。確かに獅子舞も大事だけれど、それを口実にご飯を食べたり飲んだりして楽しむこともそれと同じくらい大事なことだと思った。

たかみ獅子はオスとメスがいる。オスは黒色で新町の北部のエリアを回り、メスは赤色で新町の南部のエリアを回る。朝8:30から神事が行われたのちに各家々を回りながら、14時半すぎに新町の集会所で合流。長めの休憩ののちに、1番大きい南北を貫く通りを2頭で舞い歩き、両サイドの家々を順々に回っていく。この時、なぜか2頭で回る家もあり、おそらく獅子舞の担い手と親密な関係性か格式の高い家なのかも?とも思った。それで最終的には17時ごろに新町大神宮の鳥居の近くの道路で2頭がグルグルと回り追いかけながら、瞬時に2頭が横並びになり、鳥居を潜って、神社の拝殿の横で記念撮影をしてから、拝殿の中に獅子を納めて終わりという流れだった。

獅子頭がある注文の多い料理店風のお店

本日の訪問の最後を締めくくるのはどこが良さそうだろうか。17時半に新町大神宮で獅子舞が終了したので、その後に乗るバスまで約1時間あり、夜ご飯を食べることにした。新町の食事を検索すると洋風が圧倒的に多い。アルファベットの字面が並ぶ。こういうわかりやすいオシャレなお店がおそらく地元の人に受けるのだろう。観光客というよりは地元向けだろうと思う。

唯一あった海鮮のお店に行ってみると貸切か何かでお休みだったので、町の外れにあるカフェに行くことにした。もう真っ暗になった道を歩くと、お店の看板が...。表の道から奥まったところまで少し歩いていくと暗がりの中にカフェを発見。これは宮沢賢治の『注文の多い料理店』さながらの外観で、寂しさの中に暖かさを感じるような空間だった。たくさんの木の置物が置いてあって、その中には獅子頭もあった。お店の客が僕1人だったようで話さないのも気まずいので、「先ほど新町まつりに行ってきたんですが、これはお祭り用ですか?」と尋ねるとどうやら、「これは彫ったものですよ、ここにかかってるものもね(般若)」。すごい腕前である。

出てきた食事はワンプレートに、スパゲッティ、サラダ、ゼリー2つ、チーズがたっぷりかかった食パン2きれが乗っていた。混ぜこぜになってゼリーの蓋がスパゲッティの油でツルツルになっててなかなか開けられなかったが、全体的に美味しくてボリューミーだった。

食事を終えて、バス停でこのブログを書いている。暗がりで、言葉がたくさん出てきた。湧いてきた。なんか1日濃厚だったなと思う。変化のある毎日が刺激的で流動的に動き回り、帰ってきて、また出発して帰ってくる。そういう繰り返しが、言葉を生み出すのだ。

宮司さんにインタビュー〜参加型のたかみ獅子

今回の取材では、箕をどこで作られているか、本当にたくさんの方に聞いて回った。図書館の司書さんや、獅子舞の担い手、担い手のOBGの長老さん、神主さん、そして宮司さん。誰一人として明快な答えを持っているわけではなかったが、最後にお話を伺った宮司さんとご友人は唯一、その起源に迫るようなお話を聞かせてくださった。

ーー箕の頭はどこで作られたんですか?
宮司さん:最初はわかりませんけどね、代々、若い衆が修理してきましたよ。明治時代のものかどうか、それが佐渡博物館に元の獅子頭があるんですよね。誰が作ったのかはわかりませんが、今使っている獅子頭はこの博物館のものを見て作ったのかもしれませんね。今の獅子頭はいつから使われているのかはよくわかりませんが。

宮司さんの友人:歯がボロボロになってしまって、それを修理しようと思って。でも、それは直せんと言われてたんですが、八幡という地域に木を組んでくれるもんがおって、それで樫の木だったかをどっかからもらって、木をくり抜いて、歯をこしろうて、目もこしろうたかなあ。蚊帳を新しゅうする数年前だった。20数年前の話かなあ。はっきり覚えていないけど。

宮司さん:昔は農具で身というものが作られていた。でも今は作らないからねえ。これからはどうするんか。もともとは竹籠を作ったり、箕を作ったりする人がたくさんいたんですよ。伝承する人がいつ頃いなくなったのかはわからないです。だから今は箕を作らなくてもそれに近い職人に頼んで修理するしかないんですよね。

ーーそういえば胴体に入れているのも竹ですよね
宮司さん:これは真竹だね、特に芸がない竹使いだけど、修行しなければいけないっていうことは無いから、素人でも入りやすいことをプラスにして言うような人もいますけどね。ただ動いているだけだから芸がないんだ。(それが良いんだ)

ーーお話聞かせていただきありがとうございました。

宮司さんは祭りへの愛情をたくさんお持ちの方だった。「1年に1回だけ、青年が集まるんだ。これがないと寂しい」と強調されていた。そして、住民参加型の素人でも参加しやすい獅子舞を考案されてきたことを、ポジティブに捉えていらっしゃった。箕自体も農民芸術と考えれば親しみやすいモチーフと言えるかもしれない。たかみ獅子はどこまでも地域に愛される獅子舞なのだと実感できた。

蛇足になるが、宮司さんは「新潟には俵ぼっちという獅子舞もあるよ」と教えてくれた。佐渡から見たら、新潟市の方を「新潟」あるいは「越後」と呼ぶんだそうだ。僕のように外から来たものにとっては、佐渡島も新潟という認識だが、そこら辺の感覚が面白かった。

その他、「箕を作れる人がいないから新調するなら外の人に頼むことになるでしょうね」などという声も上がっていた。一方で「町の若者が修理するよ」などという声もあって、今、地産できるかできないかの瀬戸際のようである。少なくとも箕づくりのプロはいないようだ。


たかみ獅子のつくり

さて圧倒的に存在感のある可愛らしい獅子頭について考えてみたい。たかみは竹箕の略語であり、箕を3つ重ねて作ったことになっている。ただし文献によると藤箕を使用しているという話もあり、箕の種類はどうも判然としない。2枚分は口で、あともう1枚は頭頂部で使っているということだろう。目と鼻は木をくり抜いて付けられており、口には鉄板がはめられており口を開閉するとカンカン音が鳴るようになっている。ただし今日の雄獅子は「音がなんか鈍いな、ちょっと故障してるんかもしれん」みたいな会話も聞かれた。


獅子頭はどこで作られたのか

さてこの獅子頭が最も大きな謎である。

『真野町史下巻』によれば、佐渡の真野町の特産品として藤箕があり、新町まつりのたかみ獅子もこの藤箕を3枚組み合わせて作ったものだった。はじめは浜中のエリア、とりわけ山側の人が製作しており、盛んな時だと1日30本(1本9個)も作ったという。しかし徐々にその生産地が減り、真野や小川内(おごうち)に作る人が若干残るだけとなった。しかしこれは、
今回の調査で図書館や宮司さん、獅子舞の担い手などさまざまな人に箕を作る人がいるかを聞いて回ったが、一人も知らないというから、もうこの地域で箕を作れる人はいないだろう。また補足的な話になるが、佐渡島には竹を編んだつくりの獅子舞がもう一ヶ所あって、それが北田野浦の小獅子舞だという。しかし、関連性はわからず、こちらは箕というキーワードは文献では見当たらない状況だ。


たかみ獅子の起源とは?

この獅子舞が舞われる拠点となっている新町大神宮ができたのが、慶長5(1600)年に、伊勢の御師である三日市太夫次郎によって伊勢神宮皇大神宮(内宮)が勧請されて「神明社」が誕生したと言われる(これがおそらく新町大神宮のこと)。皇大神宮の摂社である宇治山田神社((うじようだじんじゃ)などがある宇治山田のエリアは一体として御頭神事(おかしらじんじ)が広がっており、以前はここで農機具の箕を用いた獅子頭を実施していた。これが農作を願う祈りが込められていたのだ。今は連年の使用のため、木の獅子頭になっているものの、たかみ獅子の起源はこの伊勢宇治山田の御頭神事にあると言っても過言ではないだろう。

物的な証拠としては五間余りのホロ(胴幕)が残存していたようだが、古老の言い伝えでは明治の半ばくらいまで使われたものだという。それ以来長いこと獅子舞は途絶えていたようだ。また「佐渡歴史博物館には古い獅子頭があるよ」という話も聞かれた。

復活したのは昭和52年10月16日の祭りからだったという。獅子頭2頭で町を練り歩くのみで、複雑な舞いはないが多少の芸をさせたいということで、太鼓のリズムに合わせて戸ごとに回ったという。人気だった新町相撲がなくなった中で、この獅子舞はとても人気があったが、10人ちょっとの人数で500戸を回るのはきついということで断絶の危機はあった。

しかし、「芸はできなくても旧来の形で大獅子をする」という案が上がった。復活した獅子舞は商工会から借りた間に合わせのものだったが、これを10人以上入れるような旧来の大獅子に戻そうというのである。昭和54年に氏子の家にあった古い胴幕を寄付してもらい、昭和55年には新しい胴幕が完成した。そして毎年図柄の違う獅子のお札を配布することになった。藤箕の獅子頭は渡部祐次郎(おそらく町内の人物)が作り、赤黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てて今日の獅子頭が完成した。


能登半島と繋がる予感

実際にたかみ獅子について歩いて、ある予感がよぎった。それは農機具の箕が竹で作られているのはもちろんのこと、胴幕の中に入っているのも竹である。中に入る10人ぐらいの担い手がこの竹を横に通して持ち歩き、胴幕がふわっと大きく見える作りになっている。あとは胴幕のデザインの巻毛の模様も特徴的だ。これらの特徴がどこか石川県や富山県の百足獅子の形態にも似ている気がする。能登半島の論田熊無エリアでも箕を見たことがある。

もしかすると、石川県や富山県の獅子舞の流れが海を伝って、佐渡島西部のこのエリアと繋がっていたのかもしれない。船の交易など、何か関係性があったのかもしれないと想像が膨らむ。『真野町史下巻』には佐渡島で生産された縄は富山県、石川県、福島県、越後方面と取引が活発であったことが記されている。

参考文献
真野町史編纂委員会『真野町史下巻』昭和58年3月, 真野町教育委員会