日本全国の獅子舞のルーツの1つ、伊勢大神楽の起源とその集団の特異性を考える

日本全国に獅子舞を伝え、その伝播の中心を担った伊勢大神楽。この芸能が各地の獅子舞の起源として語られることは非常に多く、その影響は計り知れない。2022年12月24日、三重県桑名市増田神社で行われた伊勢太神楽の総舞を拝見してきた。それとともに、桑名市立図書館で郷土資料の調査も実施した。そこでわかったことをここにまとめておく。

伊勢大神楽の縁起

伊勢大神楽の最初期の物語は、山本源太夫家に残されている『伊勢太神楽由来ノ抜キ書』(1661年3月)に遺されている。そこに記されている内容として、まず神楽の起源が述べられ、それは天岩戸神話の中の天宇受売命(あめのうずめのみこと)の「俳優(わざおぎ)」のことが記されている。「わざ」とは神のわざ(所作、行為、技)で神がのり移ったような振る舞いのことを表し、また「おぎ」は招くという意味である。転じて、「俳優」とは、神霊を招いておかしく振る舞いを演じて、なぐさめ、楽しませることをいうらしい。

その上で、白凰元年(762年)5月に大友皇子に襲撃を受けた大海人皇子は伊賀を経て伊勢国桑名にたどり着いた。第一皇子の高市皇子美濃国に派遣して大友皇子と戦わせたが大敗して、登保利(とほり)川で禊を行い、全将兵の祓いを行い、増田庄の霞ヶ岡に登って、伊勢神宮天照大神を遥拝して朝敵退治と宝祚万歳(皇位を表す「宝祚(ほうそ)」を歓迎すること)を祈願した。その後仮殿に入りまどろんでいた時に夢を見た。一つの星が天から降ってきて「我は天木綿筒(あめのゆうづつ)というものである。このたび天照大神の神勅により、助力するよう遣わされた。逆徒を征誅し、国土を安穏ならしめん」と告げた。語り終えると星は忿怒の形相をした猛獣へとその姿を変えて、天空へと飛び去った。夢から覚めると目の前に巨石があり、周囲3メートル以上もあった。それを叩いてみると轡の音がしてこれに力を得た大海人皇子は白凰元年(762年)8月27日に敵の軍勢を破って、大和に凱旋を果たして、無事に天武天皇として即位した。

これに感謝した天皇は、霞ヶ岡に天照大神、建御雷命、経津主命保食命の四神を祀り、「増田大明神」とした。また神麻続麻呂弗に天木綿筒飛行の像、中臣猿女・猿彦の面像を作らせ、古風の神楽や戯曲を演じさせ神慮を慰めた。これが伊勢大神楽の起源で、これ以降、増田神社神職は神麻続麻呂弗の後裔が務めている。ちなみに、伊勢大神楽の獅子は大海人皇子が夢に見た猛獣を象ったとされる。また、天木綿筒(あめのゆうづつ)とは宵の明星を「ゆうづつ」と呼ぶため、金星を神格化したものと考えられている。

どのような経緯で伊勢大神楽は生まれたのか?

元々伊勢大神楽の起源は、山田郷や高向などに御頭神事というものにあった。御頭神事では、獅子のことを尊び「オカシラサマ」と呼ぶ。これは東北の山伏が言うところの「権現様」であり、獅子頭そのものが神格化していることが特徴だ。増田神社ができる前、周辺には獅子舞関連の行事として家々を回る「門付け」や鏡餅などを獅子の口に入れて神饌献上品とするお初穂の「くくめ物」などが行われていたと考えられる。また、それらの獅子舞は元来、箕を2つ合わせて獅子頭の形を作り、祭りが終われば焼き払っていたそうだ。焼き払う理由は人間の厄を付けて村外れまで歩いてきた箕獅子を焼却することが厄払いになると考えられていたからだ。これは農村において獅子頭を自前で作る方法だった。ちなみに、三重県度会郡内二見町大字西では、平成に入ってからも箕獅子が伝承されている。またいつの頃からか彩色が施され木製で作られたためこれを焼き払うことは勿体無いということで、橋の上で太刀で切り払うということになった。そして、数百年もすれば産土神の神躰ともなった。ちなみにこの原型に近い獅子舞として、長野県千曲市雨宮の天宮坐日吉神社の「雨宮の御神事」において、橋の上に獅子頭を被った男を4名連れてきて、橋の上からイモムシのように水面近くの八メートル分逆さ吊りにして、その厄を水に流すという行事もある。何れにしても、これらの原型の獅子舞のようなものを参考に伊勢大神楽は創作されたのだ。例えば、橋の上で太刀で厄を切り払う所作などは、伊勢大神楽で言うところの剣の舞や剣三番叟の原型であろう。また厄を払う火の神事が御頭神事に含まれることから、これは伊勢大神楽の竃払いや火伏せに繋がったとも考えうる。また、伊勢大神楽の源流の獅子舞として、伊奈冨(いのう)神社の獅子神楽や、椿大神社獅子神楽で、どちらも三重県鈴鹿市で行われる。

その一方で伊勢地方にたまたま放下芸のチャリ師がいて、偶然にもそれと結びついたことから非常に複雑な舞いが誕生した。放下芸の起源は、中国、または韓国と言われている。放下僧という僧侶たちが日本に持ち込んだ芸能のようで、古くは正倉院の弾弓の模様に描かれている。放下芸の役割は、まさにべちゃくちゃと与太を飛ばし、面白おかしく人々を笑わすチャリ師の存在が欠かせない。おっちょこちょいで間違いばかりのチャリ師であるが、それが本芸を引き立てることに繋がっている。

放下芸との結びつきが成功したことで、万歳や地狂言浄瑠璃などを取り入れることにも繋がった。結果として余興が大半を占める伊勢大神楽のような神楽が生まれるに至ったのだ。

初期の伊勢大神楽

元々四日市の阿倉川というところに神楽組が12組あり、これが伊勢大神楽の代名詞となっていた。しかし、現在では1組も現存しておらず、滅亡してしまっている。現在は山本市太夫の神楽の系譜が最も大きい一団となっており、この一団の初期の活動は伊勢内宮に大半の拠点がある伊勢御師の手代(営業上の代理権をもつ使用人)となり、伊勢神宮の当麻(神譜)や伊勢暦を渡すとともに、参拝できない人のために「代神楽」(大神楽の漢字表記は様々)として奉納の代役を務めるような役割を担った。伊勢神宮には宮中で行う儀式舞が存在するが、獅子舞はない。この儀式舞は各地を巡るようなことができないため、その役目を代神楽という形で清めの獅子舞に託したという経緯である。

 

コミュニティとしての大神楽

伊勢大神楽の本拠地になった太夫村は、現在の桑名市太夫町に位置している。この村のコミュニティづくりは非常に興味深い。まず樹齢400年の楠の大木が中心にあって、その周りに僅か数十戸の神職の家々がある。全て神職の家ということで、どこかの殿様(松平定綱?松平家重?)が「太夫村」と名付けたらしい。この土地を開拓したのは、山本十右衛門と山本市太夫の2名である。この2名が太夫村の庄屋職に任ぜられ住み始めたのが慶長6年(1601年)6月だった。十右衛門は御師職である師職の支配頭であり、甲信越、関東、奥羽を回壇して下行きと呼ばれた。一方で市太夫は神楽職の支配を任され、関西、北陸、中国を回壇した。師職は神楽ができるものを連れて歩き、神楽職は師職の神札を持って歩いたので、実際はその関係性が入り乱れる状況でもあった。

太夫村に移り住んで来る人々は、元々陰陽師だったとも言われている。1700年代の太夫村の太夫は6名であったが、1800年代には12名になった。この江戸時代の文化年間は太夫村に12組だけでなく、東阿倉川村に8組もいたので、合計20組が日本全国を回っていたことになる。太夫村に関して、伊勢大神楽を行う12組の長(親方)が住んでおり、その名前は「勢桑見聞略史 下巻(昭和21年)」によれば、山本源太夫、山本市左衛門、山本春太夫、山本弥市、山本宗太夫、森本五兵衛、森本治右衛門、加藤忠太夫、岡田孫太夫、石橋勘右衛門、安田彦左衛門、松井嘉太夫とある。

その後、明治初期に禁止令が出され、苦難の時代を乗り越えてきた。国家神道の俗化を防ごうという国家の思惑がもしかしたらあったのかもしれない。東日本の下行きは滅んだ一方で、西日本の上行きはその後に隠れた支持者を得て再び盛り返すことができた。また、神札に比べて神楽という技芸は規制が緩かった。それが現在、関西周辺を中心に行われる伊勢大神楽の分布の経緯である。神楽組は平成の初めに9組に減っており、2022年現在は5組になっているという。他の職業とともに神楽師を兼ねる人が現れるとともに、担い手不足が顕著になりつつあるのだ。それでもここまで継承が続いているということは必ず理由もある。

伊勢大神楽のテリトリー

考えてもみれば、有名社寺には檀那場というものがあり、信仰を広める遊行僧のような人々がいて、どこに訪れるかは各社寺のテリトリーによって大きく制約を受けるものだった。当然獅子舞たちもそれに則り、舞場を旅したと言うことになる。そのテリトリーには宿坊という不動産があって信者たちはそこで泊まって参拝の旅の疲れを休ませることができた。ちなみに1つの村に対して熊野本宮・新宮・那智、白山・立山高野山など多数の信仰が共存することはできた一方で、1つの信仰の中のいくつかの組が1つの村に共存するという場合はなかったという。

 

伊勢大神楽の今

今回行われたのは16演目のうち9演目であり、四方の舞、綾採の曲、水の曲(皿の曲含む)、献燈の曲、神来舞、玉獅子、剣三番叟、魁曲が披露された。いつもであれば12時半から15時半くらいまで行っているが、今回は14時半くらいで終了となった。終了後、伊勢大神楽講社の方にとても貴重なお話を伺うことができたので内容を振り返る。

「全部で40名ほどの担い手がいて、今回はコロナで縮小して25名が参加しました。いつもはこの担い手が5組に分かれて持ち場を回っています。今回の行事に関しては、8舞と8曲で合わせて16演目を行い、全てを厄払いするという意味で総舞と呼び大神楽を奉納します。元々は徒歩で関東の方に向かったので、12月24日くらいに家を出ないと元旦にたどり着けませんでした。だから、新年初めの舞という位置付けであり、終わる1年に対する感謝と待ってくださる方への安全、道中の安全などを祈年します。今では大晦日に出れば車で間に合ってしまいますので、徒歩で移動ということはありません。昔よりは旅という感覚は少なくなりましたが、それでも一年出っ放しです。12月中頃まで回っていますから、「旅する獅子舞」ですね。近年はコロナで縮小していましたが、徐々に楽しみを復活させる意図で、演舞も復活してきています。来年は担い手の継承について考え、力を入れていきたいです。」

ーー総舞の起源はいつからですか?

詳しい起源は分かっていないのですが、ある時代からみんなで総舞をするようになりました。いざ町回りをすると、失敗ができないので若手のホープを使ってあげられないことがあります。野球で例えるならいきなり四番は任せられなくて、代打などになってしまいます。それで、自分たちの神社で総舞をすることで「若手が活躍する機会を増やす」という考えもあるんです。

ーー(放下芸では)わざと失敗した時とわざと失敗していない時がありますよね。

元々、真剣に(意図して)失敗しているのは年配の人がしている場合が多いですね。

ーー若手の勧誘はどうされていますか?

元々はパイプがあるわけではないので、門を開けて待っているだけです。興味を持ってくれたら、メールを送ってくれる方もいます。東京藝大など様々な大学で就職できるような案内も出しており、来年は東京大学の方も入ってくれることになっています。高学歴の方は普通の仕事でない何かを目指した時に、神楽がかっこ良いなとなるみたいです。賢い子ばかり入ってくれました。

ーー東大の方とかどういうことに興味を持って入ってくださるのでしょうか?

学者志望の方が多いんですよ。民俗学とか宗教学とか。学問をつき詰めて行った時に、お金とか権力に興味がない場合、知識で生きていくことが無意味であることに気づくんですよ。教養は世の中のために使っていくということですから、教養に変換できることを探しているんですよ。それで学者脳の人が実践しているというところが面白いところですね。喋るのは学者でもできるけど、芸に変換するのは神楽師しかできないとのことです。

ーー手先が器用など子どもの頃から何か秀でている方が来るのかと思っていましたが、そうでもないのでしょうか?一から練習して芸を身につけるみたいな感じですか?

そのような子はなかなかいないですね。いたとしたら、サッカーとか野球をやるんじゃないですか。みんな運動神経が良い人なんて少ないです。入ってきて無骨の状態で覚えるから魅力的で格好良くなれるのかもしれません。

ーー剣三番叟など、よく失敗して怪我をしてしまうこともあるんでしょうか?

たくさんありますね。私も練習してて怪我しますし、ここに傷があります。

ーー練習は旅しながら練習しているのですか?練習日と町回りと日を分けるのですか?

いやいや、朝から12時間町回りをして、帰ってきてからちょっとでも明るいうちに稽古をして、終わったら明日配るお札を準備して、夜寝るのは12時くらいです。朝は先輩の洗濯物を干して...と生活自体が大神楽師なんです。タイムカードを押している時だけは大神楽師という感覚の人はすぐに辞めてしまいます。こういう暮らしをしたかったという人が残ります。

ーー旅する暮らしのようなところに興味を持ったのですが、宿はお得意さんがあるんですか?

面白いのは神楽を昔から泊めてくださっているお豆腐屋さんとか醤油屋さんとかが、神楽を泊めているということで町で評判になって、そこが後に宿やホテルになるという場合も多いです。

ーー近年、舞う場所の変化はあるんですか?

丸々舞う場所がなくなるということはなくて、地方の過疎化が進行して都市部に移って住宅ができてというあの変化とともにあると考えていただくのが良いでしょう。基本的に舞い始めたところはずっと回っていきますが、地方が過疎化して人がいなくなったら舞うことができなくなります。舞場に関しては、こういう社会的な変化とともにあるという感じですね。

 

伊勢大神楽の16演目

1.鈴の舞

鈴クシロ(腕輪)、五鈴鏡、六鈴鏡などを使用し、清々しい音色によって、鎮魂(みたましずめ)の呪力を発揮する。振りは単純でゆっくりと優雅に舞うことが特徴。

 

2.四方の舞

御頭の呪力により、天地四方を清める舞。御頭につけてある白い紙(麻・ぬさ)は神職が使う祓麻(はらいぬさ)と同じ役割があり、それを左右左と振ることで四方を清める。最も古くて荘厳な舞の1つである。また鳥兜を被った猿田彦がササラを鳴らしながら獅子を誘い出す場面があり、まどろんでいる獅子は笛(鶏の鳴き声)によって起こされる。

 

3.跳の舞

「産霊(むすび)」とは、神道における観念で、天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働きのこと。産霊の法を使い疲れ果て眠っている獅子に、霊妙なはたらきで物事を成就に導く働きをする「奇魂(くしみたま)」をしずめ生気を蘇らせるのが、跳の舞の役目。つまり、奇魂の鎮魂の舞である。

 

4.扇の舞

扇は末広で発展を意味して縁起が良く、同時にこれが幸いをもたらす恵みの魂「幸魂(さきみたま)」を表徴している。猿田彦は扇をひらひらさせて獅子にじゃれかかり、獅子はその扇を得ようと必死に修練する。結果、獅子はこの扇を得て狂喜乱舞するに至る。

 

5.綾採(あやとり)の舞

大神に捧げる紙衣を織り成す緯糸経糸の筬(おさ)という、機織りを行う際に経糸に通された緯糸の目を詰める作業に使用する櫛状の道具の杼(ひ)の通いを表すものである。西洋に伝わるジャグリングのデビルスティックという芸と同じ所作である。元々、ジャグリングは日本の太神楽と深い関係があり、近代ジャグリングの父であるエンリコ・ラステリ(1896~1931)は20世紀初頭にロシアで大神楽の芸を身につけたタカシマという日本人に出会いジャグリングを完成させたと言われている。つまり日本の大神楽の曲芸がジャグリングという名前に変わり、それが日本に逆輸入された可能性が高い(因幡伝統文化遺産活用事業実行委員会『伊勢大神楽 加藤菊太夫とその先祖』(平成24年3月)より)。

 

6.水の曲

水を主宰どる神々をたたえ、感謝の誠を捧げる曲。とりわけ農事に関係した悪疫、水難、旱天などの災害を防ぎ、五穀豊穣を願う。竿によって高々と徳利や皿をつき上げる。

 

7.吉野舞

大海人皇子が吉野にひそまれたことにちなんで、吉野舞と名付けられた。天岩戸神楽の故事を称え、神々の鎮魂しずめの神楽舞である。

 

8.手まりの曲

手拍子に合わせて神楽歌を歌い、手毬を巧みに使い分ける爽快な曲。バチと鞠、扇と鞠が一つになって付かず離れずという芸を見せ、4つの魂(荒魂、和魂、幸魂、奇魂)の運行を表現している。

 

9.楽々(ささ)の舞

猿田彦と獅子は祈年の紙垂がつけられた笹(忌竹)を掲げ、田畑のあぜ道でどこからともなく襲いかかってくる悪霊や災厄を払いのけ、それらを見張る番をする。

 

10.傘の曲

日本傘の上に毬、茶碗、穴あき銭、桝などをなんでも乗せて回転させる。これは事理運行を意味している。最後に桝を回す理由は繁昌を願うため。

 

11.剣の舞

天地四方の邪気を切り払う悪魔払いの舞。獅子神楽の基本形であり、早い段階から採用されてきた。

 

12.献灯の曲

大神から受ける恩徳、ご加護、また恵み深い賜物をかしこみまつり、12個の茶碗を積み上げて献灯になぞらえる。献灯には不浄を焼き払う効果がある。

 

13.神来舞(しぐるま)

一年の払いをするため、笛の曲目は1~12月までの12曲があり、舞う方向は12通り、踏足は365歩と定められている。右手に鈴、左手に白幣(はくへい)を持ち、美しくしっとりと舞う。太神楽の舞の中では最も古くて歴史がある。

 

14.玉獅子の曲

玉は円満無欠であり、太陽であり太陰でもある。つまり、見る人によって様々な象徴として捉えることができる。善良な翁は玉(大神の和魂)を持っており、心が豊かである。しかし、獅子は玉が欲しくて翁にじゃれかかり、玉を取ってしまう。翁は玉を返して欲しくて、あの手この手を尽くす。獅子舞と放下芸の融合によって生まれた最も人気な演目のひとつで、子供たちに喜ばれやすい。

 

15.剣三番叟

数本の剣を使い分けて、上下四方八方の邪気を払い避け、正しい御霊を振り起して、気分を良くして験を祝う。戦前までは真剣を使っていた。

 

16.魁曲(らんぎょく)

最後を飾る圧巻の演舞。「花魁道中の曲」を縮めて魁曲と名付けられた。千変万化の妙を尽くし、次々に場面が展開される早業とアクロバティックさが魅力だ。

 

<参考文献>

鈴木武司『伊勢大神楽』(1992年)

田吉雄『伊勢大神楽』(1969年)

野津龍『伊勢大神楽ー成立と地方伝播』(2010年)

佛教大学アジア宗教文化情報研究所『国指定重要無形民俗文化財 伊勢大神楽』(2008年)

因幡伝統文化遺産活用事業実行委員会『伊勢大神楽 加藤菊太夫とその先祖』(2014年)