現代における獅子舞の住処

獅子舞をはじめ、麒麟や龍、鳳凰、亀など想像上の生き物の住処がなくなってきている。これはどのような事態として捉えるべきなのか。

これらの生き物は全て家畜化されていない動物をモチーフとしていることは重要なポイントだ。最も主要なモチーフを取り上げると、獅子はライオン、麒麟は鹿、龍は蛇、全て野生の生き物である。そしてこれらを作り上げたのが、全て「定住農耕民」であったことは重要だ。狩猟民でも遊牧民でもなく、これらの生き物たちを作り上げたのはあくまでも定住型の農耕民であったのだ。つまり農耕の生活様式がこのような生き物の創造に繋がったことは、暮らしや気候、風土などと合わせて考える必要がある。

それに加えて、例えば狩猟民がいつも狩りの対象として現実的な動物を見ている一方で、農耕民はそのような動物を生で見る機会がなく加工された肉ばかりを見ているということが大きな要因にも思える。農耕民は伝聞により生き物の姿を常に妄想し、その強い体躯を想像して、新しい生き物を創造していったのだろう。そして、この生き物たち、獅子や龍、麒麟などが本当に存在すると信じて疑わなかった。その想像力こそが人々の心の中に獅子舞の住み着く余地を作っていたのかもしれない。

これを脳科学の視点から掘り下げると、人間の本能である「性」や「飢え」「争い」などと動物の本能的なイメージがリンクして、夢に現れるということもある。これは猫や犬のような現実的な動物が個人的な体験と結びつくのに対して、獅子や麒麟のような想像上の生き物は民族とか人類とかもっと幅が広くて深い無意識の中から生まれた生き物であると言える。このような深い無意識を帯びた人は現代では非常に少なくて、例えば犯罪者のような苦しみを味わったような人々の心に住み着くという場合もあるだろう。

それでは獅子の形態の変遷を見ていこう。狩猟採集時代に写実的だったライオンは、エジプトにおいて半人半獣のスフィンクスのような形で構想された。これはもっと素朴な村単位の信仰において、頭は動物で体が人間であり、その動物は血族とつながるというトーテムの思想とも重なる。それが、インドでは仏教と結びつき、神様の乗り物となった。ここで人間と動物との力関係が変化して共生→支配という構図に変わる。中国に至ると完全な霊獣として写実性はほとんどなくなる。

この過程は人類が狩猟民から農耕民や牧畜民へとその生活スタイルを変化させた歴史にも重なる。支配者を生むという組織化の過程の中で倫理的な方向づけをするのが強力な想像上の生き物の存在だったのだ。龍はカオスの象徴だからそれを殺すことが秩序の生成だと考えられていたり、安らかに治まっている時代には他の動物に危害を加えることの無い麒麟が現れたり。想像上の生き物が人間社会のまとまりを作っていた側面は少なからずある。産業を生み出すこと、科学が進歩すること、文明を創ること、それらはまずこの精神面での改革から始まり、それらが技術的な確信を刺激したと言っても過言ではない。人間よりも強い生き物、現代でいえばゴジラとかキング・コングとか、その類いのものが実は切望されている。しかし、近代の合理性によってその住処は限りなく少なくなっているというのが現状であり、このようなSFの世界から再び関心が高まっていくと面白いなと感じている。

参考文献

江上波夫他『夢万年ー聖獣伝説』昭和63年4月24日