獅子殺しの起源はいつか?

北陸地方の加賀獅子や岐阜県の金蔵獅子などに見られる獅子殺しの起源はいつであろうか?加賀獅子の起源は前田利家公が江戸時代に金沢城に入城した時に始まるという。これが軍事費を莫大にかけると反乱と勘違いされがちな外様大名ならではの文化面での武芸鍛錬政策として捉えるのは定説であり、この武芸鍛錬のために獅子殺しを生み出したとも言える。ただし、獅子殺しという成獣である獅子を害獣とみなす思想がそう簡単にポッと出てきたとは思えない。加賀獅子以前に、獅子殺しの思想というのは北陸や飛騨地方に存在したということは間違いないだろう。

岐阜県教育委員会岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1999年3月)に非常に興味深い言説が掲載されていた。飛騨を中心に伝承される獅子を成獣とみなさず田畑を荒らす害獣とみなすという、我が国本来の田遊び系に端を発する北陸文化圏の「獅子殺し」を金蔵獅子と結びつけるような言い回しがなされている。ちなみに、田遊び系とは田楽の一形態であり、元々田楽は田遊び系、田楽躍系、お田植え神事系の3つに分類される。岐阜県内で田遊び系の芸能といえば、益田郡下呂町森の森八幡宮に伝わる「田の神祭」では古風な田植え歌が歌われる。また、郡上郡白鳥町長滝の白山長滝神社で1月6日の祭礼で行われる延年もこの田遊び系の一種である。ただしこれらに獅子殺しの要素はなかなか見つからない。

ちなみに、この「獅子殺し」は古代から中世まで飛騨国が汎日本海文化の文化周圏地とされており、その上650年時点では祭政一致を旨とする当時の国司は天津社・国津社宮司を兼ねていたという話もある。つまり、政治家が神事芸能の指導まで行っていたということになり、当時の支配者層は帰化人である大野郡司高市麻呂(749年)、百濟王利善(766年)、秦忌寸伊波多紀(774年)などであったから、伎楽が流入していたことも頷ける。飛騨は以前からなぜこんな山奥にも1000年以上前から獅子舞が伝承されているのか不思議であったが、このような背景があるのだろう。結局、この大陸系の曲獅子と何処かのタイミングで生まれた獅子殺しが統合されて金蔵獅子が成立したことも念頭に入れねばなるまい。