なぜ獅子頭を被らないのに獅子舞なのか?扇子の動きに注目! 長野県奈川獅子舞に行ってきた

獅子頭も胴体もない獅子舞が存在するという。そんなことを聞きつけて、長野県松本市から車で1時間、上高地にも程近い秘境・奈川寄合渡に行ってきた。この地域には「奈川獅子舞」と言って、通常の獅子頭と胴体を身にまとう獅子がある一方で、それらを持たず扇子のみで獅子を表現するという演目がある。その演舞があるからということで、2022年9月3日、現地に行ってきたのだ。

獅子頭と胴体あり

扇子のみの獅子舞

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奈川獅子舞の由来

天保9年(1837年)の『書上』によれば、奈川には駄賃稼ぎの牛が82組、415匹と記されている。これらの牛の駄賃稼ぎをする人が多く、JR篠ノ井線が開通した明治末まで続いたと言われている。牛は物を運ぶ運搬の足として重宝されたわけで、奈川寄合渡も元々はモノとヒトが行き交う賑やかな場であったはずだ。しかし、鉄道の発達とともに、そちらの方に需要を持って行かれてしまったわけだ。今では奈川寄合渡は小さな集落となっている。

この地域の獅子舞は獅子神楽の系統であり、氏神である天宮大明神のお祭りで奉納されている。その由来は富山県のキンマヒキ(彩漆塗職人)の横井市蔵という人物が、大正初期に寄合渡に移り住んで、地元の人々に教えたのが始まりと伝えられている(奈川寄合渡の天宮大明神前の立て札には、木馬引きの出稼ぎに来ていた横井市蔵が明治45年に神谷の自彊青年会に教えて、それが十数年後に後継者不足で継承困難となって寄合渡青年会に伝えられた。その際に寄合渡青年会は再び横井氏に教えを請うたとされている)。横井氏が伝承した獅子は富山県南砺市(旧平村)の獅子舞の形態であったようで、獅子に手踊りがあるのは南砺市の百足獅子の表現なのでは?という説もある。平成19年には松本市重要無形民俗文化財に登録された。

奈川獅子舞の流れ

奈川獅子の演目は1つの物語に沿っている。その物語の発端となるのが、飛騨の国境の山奥に潜むと言われる一頭の大獅子だ。この大獅子が村に出てきては田畑を荒らし、家畜に危害を加え、村人たちを苦しめていたという。この大獅子は神出鬼没で一夜のうちに七つの山を越えため、人間業では容易に討ち取ることができなかった。そこへ不思議なことに大天狗が現れ、狩人たちを助けてようやく討ち取ることができた。狩人たちは大獅子を討ち取った喜びに疲れも忘れ、互いに手柄話に花を咲かせていた。すると死んだと思っていた大獅子が息を吹き返し、狩人たちに猛然と襲いかかってきたため、狩人たちを再び苦しめた。狩人の中に薙刀の名手がいて、大獅子との大乱闘の末に、最後にとどめを刺した。この物語を獅子舞と手踊りとで表現しているのが、奈川獅子である。ちなみに獅子舞の棒振り役を「獅子捕り」と言うそうで、まさに大獅子を捕らえるという意識が反映された呼び名と言えよう。

獅子舞の演目は①祇園囃子②きよもり③よしざき④獅子ころし・きりかえし⑤薙刀の5つの場面で構成される。①の場面で獅子が田畑を荒らして村人を苦しめる。②③で棍棒や竹槍では獅子を打ち取ることができなかったが、天狗が技を使って最終的にそれを打ち取ることに成功。しかし④で手柄話に花を咲かせる村人をよそに獅子が生き返り⑤で天宮大明神の薙刀を天狗から受け取った村の薙刀名人が死闘の末に獅子を退治するというストーリーとなっている。

激しい雄獅子の獅子殺しが見所である。拝殿での神事ののち、大人の獅子舞→子供の獅子舞→子供の手踊り→大人の手踊りの順番で行われる。なお、ここで言う手踊りでは扇子を獅子に見立てて踊るということであり、身体的な動作は獅子舞も手踊りもほとんど変わらない。ただし、手踊りでは⑤の薙刀の演目が行われないという違いがある。

なぜ、扇子の獅子なのか?

扇子を使う理由は地域の方によれば「扇子で舞うことができなければ、獅子を舞うことはできない。扇子で舞うことができれば、獅子を舞うことはできる」という言い伝え?があるからだそうだ。獅子舞上達のための登竜門みたいなのが作りたかったのかもしれない。これは獅子は皆が演じることができる役ではなく、動きがとても激しくて技を磨くことが必要だし、中に入れるのは2人しかいないという特別な役柄であったことが関係しているのだろう。

最初見たときは蝶々みたいだなと思ったが、よくよく観察してみると、扇子の動きはシシっぽかった。ここからは僕の推測だが、扇子を扱うときに大振りに軽やかに練習してみることで、その身体感覚を染み込ませることができ、獅子頭と胴体を扱いやすくしている可能性もあるように思えた。

 

参考文献

奈川獅子舞保存会資料

小林幹男『信濃の獅子舞と神楽』(信濃毎日新聞社, 2006年8月)