【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺魚町(追加)

2021年11月6日

15:00~ 大聖寺魚町

田中自動車の田中宏造さんに町内のカフェ「FUZON KAGA Cafe and Studio」でお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。田中さんには町内の10人ほどの方に聞いて回って情報を集めてくださり、大変ありがたかった。獅子舞は25年くらい前まで行っていたが、現在は実施していない。

獅子舞の歴史は「すみやたつおさん」という現在喫茶店をされている方の父親が奥谷町から引っ越してきた時に伝えたことに始まる。この獅子舞は能登半島から富山県の井波を経由して加賀市奥谷町に伝わったという流れがある。この獅子舞を継承しているのが、大聖寺瀬越町、奥谷町、大聖寺魚町などだ。鳥のような烏帽子を被った演目もあり、大聖寺魚町が大聖寺瀬越町からこの烏帽子を借りたこともある。獅子舞は一時期途絶えており、奥谷町の人から習って復活したという流れなので、その前には違う獅子舞をしていたのかもしれない。

獅子舞の写真(1995年4月16日撮影)を2枚、屋台の写真(撮影年月日不明)を1枚見せていただいた。写真を見る限り、太鼓2人、獅子4人、横笛数人、子供の棒振り数人という構成だった。ただ、子供の棒振りに関しては1~2年間のみ小学3年生くらいの子供が棒振りをしていただけで、その他は青年団のみが獅子舞をしていた。見せて頂いた写真だと、男性のみが担い手となっているが、女性が横笛を志願したこともあったかもしれない。獅子舞の演目は6種類はあった。棒振りは獅子殺しの意味合いがあるものだった。大聖寺で棒振りをしていた獅子というと、他に大聖寺法華坊町と山田鍛冶町があった。通常、ご祝儀(あがり)を頂いた時は1種類の演目を披露したが、ご祝儀の額が高い場合は難しいもの含めて2種類の演目を特別に舞うこともあった。

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獅子頭は最初白い木がむき出しのものを使っていた。しかし、その獅子頭は現在残っておらず、今存在するのは2代目のものである。顎が一度割れたことがあり、60~65年前に田中さんが区長をされていた時に、富山県の井波でこの顎を修理してもらったことがある。現在、獅子頭は加賀神明宮に保管されており、獅子舞が途絶えてからそこに預けている。獅子舞をしていた時は、お囃子の屋台が置けるような大きなスペースがある所が本陣の向かいにあり、そこに獅子頭も一緒に保管していた。

獅子舞は現在の旧中木家住宅を本陣として、2年に1度行われた。裏年と表年があって、表年には青年団がこの家を借りて、桜祭りの4月16~17日の2日間、本陣を構えていた。逆に裏年には本陣を開けることはなかった。この家は元々北前船が橋立に寄港した時に、品物を運び込んで商品を販売した商家だった。武家の時代より刀を使えないように天井を低くしている作りが特徴的だ。獅子舞は大聖寺魚町の場合、自分の町の本陣と他の町の本陣を回るのみで、町内の一軒一軒で舞うということはしなかった。本陣は今の金額で20万円ほどを用意して、番をする人が常にいて受付を行い、他町から舞いに来た獅子舞の担い手に対してその資金の一部でご祝儀を包んだ上に、お茶をお出しすることもあった。その他に、運営資金は旧中木家住宅の借り賃などにも使われた。また、祭り前にこの家を本陣として借りるにあたって掃除に伺い、祭りが終わったら後片付けをして、ご苦労様会ということで最後に料亭で料理を食べるということもした。お昼の弁当代などの資金も必要だし、こういうことを含めて1回本陣を構えるのに今の金額で20万円ほどの資金が必要だった。この資金は町内の費用の貯金によって賄われた。その都度、お金を集めるとなると、誰がいくらでという風に差がついてしまうので、そのようなやり方はしなかった。町内には21軒ほどの家しかないので、町としての規模はそれほど大きくない。それでも運営資金が確保できたというのだから、そういう意味で、お金の回し方が非常に上手だったのかもしれない。祭りの時に資金が余ったらすぐに使わずに1万円程度は貯金に回すこともあった。また、納税貯蓄組合を形成して市から資金のバックがあると全部貯金していたようで、これも注目すべきポイントかもしれない。普通大聖寺の各町は、他町の個人商店を回るなどしてご祝儀をもらい、それによって資金を作るという町は多いが、そのような形で稼ぐことはしなかった。他の町内から魚町の商店に舞いにくることもあったが、逆に舞いにいくということも無かったのだ。この点では、資金の作り方が特殊で面白い。

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元々、大聖寺魚町は土地が低くて水に浸かりやすい下町で、江戸時代には西魚町と東魚町と分かれていて、そこには武家が住んでいなかった。ただ、1786年の記録では魚市場が17軒も並んでいたように、昔から魚関係の商売を行う食文化の町であった。今でこそ車文化になって駐車スペースがないということで魚市場が幸町に移転したものの、昔は町中に法螺貝の音が響きセリが始まるような賑やかな場所だった。小さい町だから獅子舞を教えに行くような余力はなかったものの、屋台が出せるほどに祭りに力を入れていた。屋台が出せるのは他に、隣の大聖寺中町と本町といった規模の大きい町しかなかった。囃子方の練習場は、昔魚市場で現在はFUZONというカフェになっている建物の2階部分だった。女の子は福田町の泉先生という方に教えてもらうとともに、この建物にも来ていた。獅子舞はどこで練習していたのかよくわからない。それにしても、大聖寺魚町の獅子舞文化とそれを支える貯蓄の知恵は特筆すべきものがある。