能登半島の獅子舞の由来とは?獅子ペディアに会うため、中能登町に行ってきた

能登半島中能登町に「獅子ペディア」と呼ばれる人がいる。その名も、諏訪雄士さん。自らが所属する小竹獅子舞保存会が継承する獅子舞の展示と舞いの披露を行うとのことで、10月9日、実際に現地に伺ってきた。今回、会場となったのは、地域の交流拠点でもあるふれあい交流館・喜楽館という場所だ。

 

良川駅から徒歩30分。豊かな田園風景を眺めながら、道の駅などに寄り道しつつ、向かった。会場が見えてくると、もう獅子が舞っているようだ。慌てて早足で向かうと、太鼓を叩く諏訪さんはじめ、獅子舞を演じる保存会のメンバーとそれを見守る地域の老若男女が集っていた。獅子舞が終わってから、展示を拝見するとともに、諏訪さんにお話を伺う機会を得た。

 

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コロナ禍限定で昨年に続き2年目の展示開催だ。ご祝儀をもらった時のみ、喜楽館の玄関前でも蚊帳などなしで獅子舞を舞う姿が見られ、14時~16時まで3度、ご祝儀をまとめて読み上げて獅子舞を各回複数、披露する機会があった。個人的には口上が「金貨一千万両 御酒肴は...」という風に続き、何度も調査に伺っている石川県加賀市橋立地区や、三谷地区直下町などと同じだったのが興味深かった。元々、祭りは9月20日→10月20日→10月第2土曜日という変遷をたどったようで、この展示が開催された10月9日は普段であれば、お祭りがある日だ。今回展示が開催された喜楽館は普段展示を行う施設ではないが、獅子舞の練習で使っている施設とのこと。馴染みのある場所での展示開催となったわけだ。

 

▼披露された獅子舞

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石川県中能登町小竹の獅子舞の始まり

現在の小竹神社の参道を境に七尾側の「タカデ」(上とも言う)に「住吉神社」、羽咋側の「ウラデ」(下とも言う)に「火宮神社」があり、それぞれの神社に獅子舞があったのを明治40年に合祀し、現在の小竹神社となった際に獅子舞が合併した。 合併以前の獅子舞の始まりは定かではないが、江戸時代まで遡れるかもしれない。また、明治22年~23年の時に、氷見市十二町島沖崎地区の人が冬に仕事がない時に、この地域の村長さん宅に泊りに来ていた。その村長さんのお宅に出入りしていたのが小竹の人でその時に氷見獅子を習ったという話もある。昔から宮司さんの勢力圏や仕事関係の移動などにより、人の交流が活発だった地域だったようだ。

 

また、小竹の獅子舞が東西に存在していたことについて、以前、私が諏訪さんに直接facebook で伺ったことがあり、その時の回答を以下に引用させていただきたい。

 

高畠は地区の東と西に神社があって、それぞれの神社に獅子舞があった名残が現在の形だと考えます。東は住吉社(山王、常盤社は同殿)。西は西宮社で、稲荷社は農業や商業の神として祀られていたのかと考えます(宿場町でしたので)。明治政府の合祀策で一村に一社となりましたが、獅子舞がそのまま残った背景には組の独立性や対抗意識もあったのかもしれません。高畠のような大きな地区は20程の班があって、数班を束ねた「○○町」があって、更に複数の○○町の集合体の組があって地区の諸々の行事や決め事の際に機能しているようです。現在はそんなに東西で対抗意識があるようには見えませんが、お互い競い合って来たでしょうね。地元では雄獅子と雌獅子と呼び区別しているようです。私の地区も合祀以前は村の上と下にそれぞれ神社があって獅子舞、曳山もそれぞれありました。合祀によって獅子舞は別々の系統が合わさって、12種類の演目がありますが、曳山は対抗意識が強く現在も2つあります。合祀時に神社は地区の中央に建設し、参道の真ん中が上と下の境界線となっているといいます。

 

町内の東西に獅子舞が存在していたという例は、石川県加賀市でも複数見られる。例えば、石川県加賀市下福田町東組西組に関しては名前から推測するに、中能登町小竹同様、東西がひとつに合わさり獅子舞を始めた1つの例であろう。東西に分ける理由は神社が違ったから、競い合うため、など様々に考えられるが、行政区としては1つの町なのに、獅子舞が町内で2つに分かれているという場合を調査していくと、獅子舞の面白い特質が浮かび上がるかもしれない。小竹地区に関しては、獅子舞の東西が分かれていた時、獅子頭の小道具などもお互い使い回していたこともあったようで、そのような交流関係も興味深い。

獅子舞の演目数がかなり多い

また、僕が諏訪さんにお話を伺ってびっくりしたのが、獅子舞の演目の数が非常に多いこと。小竹の獅子舞の演目は12個ある。演目名は以下の通りである。

 

・ヨンブリ

・ヒトアシ

・ケン

・ソデカブリ

・バンガエシ

・エッサリ

・サッサイ

・ドウチュウブリ

・タチフリ

・チリリン

・キリコ

シシコロシ

※神社へ入る際には「七五三のオネリコミ~ヨンブリ」を舞い、慶事のあった家ではタチフリの前段に天狗と獅子の攻防を加えた「ニラミのタチフリ」、更に特別な場合に披露される「ヨンブリクズシ」等これらを含めると演目は15にも及ぶ。

 

一番最初は必ずヨンブリから始まり、ドウチュウブリは神社に入る時と帰ってくる時に行い、チリリン、タチフリは神社や古墳、当屋と呼ばれるクジ引きで選ばれた宿の前だけで舞う。また、獅子舞の祭りの最後はチリリン・キリコ・シシコロシの順番で締めくくられるが、喜び、眠らせる、断ち切るという意味が込められている。諏訪さんはこれらの演目について表記した「獅子舞タオル」を作って、今回の展示に合わせて配っておられた。タオルに演目を表記するという発想自体、今まで持ったことはなかったので、とても斬新な取り組みと感じた。やはり、この地域には演目に対する意味合いとか、愛着のようなものが強く、それを積極的に舞えるようになろうという意識がある。

 

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また、獅子舞のカードも作られたそうで、三角マークは厄よけの意味があり、獅子舞の由緒が書かれている。また、先ほどの神社の東西の話に関して、住吉神社という水の神様と火宮神社という火の神様、それぞれに分けて青と赤でカードを作ったようだ。

 

▼表

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▼裏

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獅子舞の運営に関わる人が多い

演目の数が多いだけでなく、担い手の数も多い。最初、獅子舞を運営していたのは15歳から25歳までが所属する青年団だったが、それだけでは維持できないので、昭和62年に保存会が発足して年齢制限なしで30人くらいで実施されている(諏訪さんが獅子舞を始めたのは平成9年)。最年長では60歳代の方がいて、7キロくらいの獅子頭を持つこともある。壮年団を作っても、青年団が卒業して壮年団にシフトするから、年齢を区切ると人が足りなくなることに変わりはない。結局、できなくなるときが来るのであれば、年齢制限を撤廃しようということで、いま保存会の形で運営している。昔、小竹に住んでいて、いまは違うところに住んでいる人でも、祭りの日は帰ってきて獅子を舞うこともある。子供も何年生に何人いるというのをすべて把握していて、長期育成システムでいつになると何人になるかを計算しているし、いつどこでどの舞いを誰がしたのかを記録しているという徹底ぶりだ。地域外に出ている大学生などが祭りの時だけ帰ってきて舞うこともあるようだが、地域内の世帯数は130~140軒のみなので、これだけの担い手と仕組みを作れるのは特筆すべきである。そのモチベーションの源泉は、皆獅子舞に対して想いを持っているということ。背景的なものは抜きに、純粋にそういう気持ちに皆動かされている。諏訪さん自身も体力づくりのため、40歳を過ぎてからは獅子舞の祭りの前に1~2ヶ月はランニングをするらしい。また、中能登町全体で言えば、獅子舞の元々ある数に対して継続率が高いことも特徴と言える。現在でも継続しているのが8割くらいだ。また、一昨年、大学コンソーシアムで金沢大学の学生が取り上げてくれて、動画制作も行われた。このように、大学と連携する中で、外部の人が関わる機会もあるのは重要な機会だ。

 

獅子舞に込められた「祈り」について

昔獅子舞をしていた人は、神様に祈るという行為を考えていた人も多かっただろう。今回、お話を伺う中で、近年は地域交流の要素が強まる中、「祈り」としての要素が獅子舞に現れているのか?という話にもなった。諏訪さん曰く、お祓い的な要素として、必ず招待のお宅に行った時、玄関で獅子の口を3回鳴らして入って、玄関に頭を置いておいて、また、獅子舞をする時に、家の中から獅子の口を3回鳴らして出るという行為があるという。これを聞いて、私は秋田県男鹿半島のナマハゲが玄関で足を3回踏み鳴らすことを思い浮かべた。一種の来訪神的な意味合いで、この2つの習慣を捉えることができるかもしれないと感じて、ワクワクした。剣先を獅子に向けるとか、頭を捻る時に髪がふわっと浮くだとか、獅子が下を向いて睨みを効かせるとか、そういう1つ1つの動作に祈りが込められているというお話もされていた。

 

獅子舞の起源について

また、諏訪さんのお話で興味深かったのは、獅子舞の始まりについての話。石川富山の獅子舞について、加賀獅子の歴史は古く、直接影響を受けたのが砺波獅子と考えられる。 氷見獅子の獅子頭のデザインにも「ライオン」に似せた加賀獅子の影響が感じられる。 一方能登獅子は陸路からの北上以外に海からの伝承も考えられ、こちらも歴史は古いであろう。 七尾市中島町の「お熊甲祭り」に登場する「猿田彦」が能登獅子や氷見獅子に登場する天狗のルーツになったのかもしれない。 能登獅子の獅子頭には偏平で細長い「龍頭型の獅子頭」が多い。 よって今日の氷見の獅子舞は加賀と能登の影響を受け独自の形に変化したものと考えられる。

宝達志水町の神社は山伏か復職した宮司さんが多く、1744年に蓮行院大徳が正大先達の位を受けた慶祝のため、付近24か村の獅子舞が子浦地区に集まったという言い伝えがある。氷見獅子は1800年より新しい記録がなく、初出は1835年の古文書である。結局、もし1744年の裏付けがしっかり取れたら、能登獅子の方が氷見獅子より古いことになる。また、能登獅子でも氷見獅子でもない田鶴浜三引の獅子舞というのは大変興味深い。これは山伏系の獅子舞かもしれない。また、自分が以前、羽咋から氷見まで歩いた時に、途中その境の熊無というところで、藤箕の行商が立山修験がらみの人で、獅子舞も伝えてみたいな話を聞いた。山伏の動き方に注目して、獅子舞の伝来経路を模索するのは非常に興味深く、加賀獅子でも能登獅子でも氷見獅子でもない、知られざる獅子の文化圏が立ち上がってくる可能性がある。

結局、伎楽の行道の獅子から舞う獅子になって民間に普及したのは江戸時代以降が主となる。それ以前は、舞っていたのかどうかはわからない。ただし、石川県の現存最古の獅子頭である小松市立博物館のもの(1322年)の次に古い、珠洲市獅子頭(1372年)には、蚊帳が取り付けられた跡がある。加賀獅子の棒振りは、山伏の棒術が各地にまずあってそれが元になっていたのではないか。宝達志水町の神社は位の高い山伏から復職した神主さんが多く、1744年に付近24ヶ村で獅子舞が始まった。加賀獅子は道場が作られて、土方流と半兵衛流がの2大巨頭ができて初めて、民間に伝播した。

加賀獅子の起源について諏訪さん曰く、前田利家公入場に加賀獅子の起源を求める人もいるが、それはもしかすると中央の獅子舞であって、まだ加賀獅子という形を取っていたかという点については再考の余地があるとのこと。加賀獅子は庶民が暮らしやすくなってから広まった舞いでもある。また、加賀獅子が武芸鍛錬と結びついていたという点についても、それだと一揆が起きてもおかしくは無いということになる。どちらかというと、一揆を見張る側だったのではないかと。そのようなお話を伺っていて、個人的には加賀獅子の解釈について、より娯楽性が高いものとして考える必要性があるとも感じた。以上、諏訪さんのお話は非常に幅が広く知識も豊富で、自分としても多方面に刺激を受ける内容だった。

 

pa. 今回のヒアリングの成果と課題

今回、10月9日から10日の能登半島の獅子舞調査を行なった。お会いしたのは、宝達志水町の蚊帳職人である玉作さん、中能登町で獅子舞の展示をされた諏訪さん、のと里海里山ミュージアム獅子頭づくりのワークショップを実施された久宗獅子舞工房さんである。獅子舞のこれからを考える上で、とても貴重な方々にお会いできたことに感謝させていただきたい。また、個人的に七尾市立図書館等で資料を探して文献も当たってみたが、わからなかったことが3つあった。それが、田鶴浜の建具職人の山口半次郎が加賀市に獅子舞を伝えたことの詳細、羽咋市柳町或いは酒井市に住んでいた清水何某が石川県加賀市三木地区に獅子舞を伝えたことの詳細、福浦港周辺に朝鮮半島の渡来系の人が移住して、獅子舞を伝えたのではないかという事の詳細(仮説の検証)である。これらは今後の課題だ。また、諏訪さんがおっしゃっていたように、山伏の動向については非常に気になるものがある。田鶴浜、宝達志水、熊無..。獅子舞伝播の古層には、山伏の動きが大きく関わっていたことが明らかになった点では、個人的に考える能登半島の獅子舞の分布について新たな気づきが生まれた調査だった。