獅子舞はなぜ地域コミュニティにとって必要なのか?

今日は取材する地域がなかったので、獅子舞がなぜ地域にとって必要なのか、次世代に繋ぐべきかを考えてみた。独断と偏見もあるかもしれないが、自分の今まで見聞してきたことをもとに参考資料なしで以下に綴る。

獅子舞の起源

元々獅子舞は厄払いが目的で始められた芸能だ。紀元前、西アジアでは獅子狩りは権威の象徴で、王座を守るのが獅子の役目だった。獅子は強い動物で、その獅子に守ってもらう、あるいはそれを倒すことによって人間は権威を保ってきた。それがインドや中国で宗教や祈りと結びついて、朝鮮半島を伝って日本に伝わった。日本では奈良時代から平安時代鎮護国家思想と結びついて、仏教を広めることで国家の統一を図ろうとした。それと同時に獅子舞も広まったのだ。今までの流れをまとめると、結局初期の獅子舞は「厄払い」の意味合いが強かった。(この当時の獅子舞は山伏や修験者の神楽や、神社の伎楽という形で広まった)

獅子舞の役割が変わった江戸時代

ただし、江戸時代から日本の暮らしも安定期に入り、その役割に変化が生じる。金沢発祥の加賀獅子の目的が武芸鍛錬だったし、富山や能登で作られた獅子頭工芸技術の熟達を象徴するような意味もあったろう。また、お座敷で人をもてなす獅子というのも生まれた。さらに伊勢参りを推進した御師神楽師などが各地域に広めた。獅子は庶民の暮らしと結びついて多様化したわけだ。各地域が自分たちの獅子が最も格好良いということで競い合う中で、オンリーワンの獅子舞が各地域に生まれ、同時に地域の集いを生んだと考えられる。さらに、この集いを生んだ背景としては、神社という土地の神様と獅子舞の結びつきが強いことも関係しているだろう。

戦中に断絶した獅子舞

獅子舞の役割を考える上で、第二次世界大戦の前後に目を向けることは重要だ。明治以降の殖産興業が推進される中で、獅子舞の役割は労働者にとっての「束の間の休息」だった。繊維産業や林業、工業といったものづくり産業従事者は獅子舞の小道具を作る技術を持っていたわけで、それを生かして獅子舞を生み出し、休日を楽しんだのだろう。ただ、戦時中は禁欲生活を強いられたわけで、多くの獅子舞がそこで断絶してしまった。その後、アメリカの占領等の影響もあり、戦後は日本の伝統文化保存の動きが強まり獅子舞が復活したという側面もあるだろう。また、「あの頃は良かった」「懐かしい」と感じる人々が再興したという側面はある。

現代における獅子舞

伝統を保存してきた我々にとって、誰のため何のための獅子舞なのかを再考しなければならない。娯楽やコミュニケーションを取るツールは増え、グローバル化や都市移住の動きから人の動きは流動的になり、農村部の獅子舞は担い手が減った。さらに、獅子舞の担い手の根幹だった第一次産業第二次産業の従事者が減って、東南アジアや中国など海外が台頭してきたわけだ。この状況下で途絶えさせてはいけないという危機感以上の意義を見出せないと単なる懐古主義に陥ってしまう。

継承する意味とは

石川県加賀市で獅子舞を取材していて、「祈りの対象」と「地域交流」という2つの目的を感じる。まずは前者について。ご年配の方で獅子舞は有難いもの、祈りの対象として考えている人は少なからずいる。荒谷を取材した時に、「人は何かにすがらないと生きてはいけない時がある」と答えてくれた方もいた。一方で、後者のように地域交流が促進されている側面はある。学校教育や地域行事などの後押しもあり、若い人にとっては、楽しいもの、かっこいいものとして映っている場合がある。例えば三木は「みきのこ」という団体が子供が獅子と触れ合うイベントを企画しているし、山中は祭りの派手さが際立っており、青年団の数も年々増えていると聞く。この結果として、地域に活気が出て、同時に多世代の人と触れ合い地域と繋がる場にもなっている。やはり、誰しも戸籍があり土地の恵みをいただき土に還るわけで、地域を抜きに生きることはできない。そこに、自治を行うという意味も加わり、物事を決めていったりお互いに助け合う必要があり、福祉的な事情も重なって、祭りや獅子舞のような顔を合わせて盛り上がり、ワイワイする場が重要となるわけだ。今後も、このような形で獅子舞がなぜ地域コミュニティにとって必要なのかを掘り下げながら、取材を進めていくこととする。