【143日目】島根県出雲市にて!建築の世界を垣間見た記録〜知らない世界に一歩踏み出してみた〜

いつも自転車に乗っている。

田んぼの中を颯爽と走る。

秋の季節だから、田んぼの稲がまぶしく実る。

そこに紅の屋根の古民家が差し色を添える。

神々が集う場所でもあり山々は人が及ばないほどの威厳がある。

黄色、紅色、紫色、そんな色がよく似合う土地だ。

出雲の風は、暖かく心地よい。

頬を撫でるように僕を包み込んで通り過ぎて行く。

車輪をこぐ足取りは楽譜の上をリズミカルに

飛び跳ねるように快調。

さてこれからどこに行こうか。

 

僕にとって出雲は決意の場所だった。

前半と後半で見る景色が全く異なり、

どこか嘘みたいに景色が晴れ渡った。

その心情の変化と多くの学びについて、

書き綴っておきたいとおもい、

ブログの画面を久しぶりに開いてみた。

 

僕が9月1日からインターンシップをしているのは、

「江角アトリエ」という一級建築士事務所だ。

僕にとって、建築は未知の学問であり全くわからない領域だった。

最初の一週間は、自分がなぜ建築をやらねばならなかったのか?

という自問自答から始まった。

建築の大学を出たとか、学んでいるとか、そういう人しかいない現場だ。

いきなり建築を学んだことのない自分がこの世界に飛び込むとはどういうことか。

自分の根源にある理由を再度見つめ直し、

チャンスの後ろ髪はないことをわからせることが、

僕が建築という世界に生まれた最初の仕事だった。

 

 

9月3日「たたき」の作業

*「たたき」とはコンクリートで作った土間のことである。門の前後の土を掘り返し、掘り返した土をふるいにかけ石を取り除く。サラサラになった土に石灰を1対2の割合で加え、にがりを少々加えて混ぜる。水を加えて、団子ができるまで硬くなったら、あらかじめ掘っておいたところに少しずつ生成物を撒いていく。その上から、タコという木製の道具、またはたたき板とハンマーを用いて、固めていく。最後に小さな石を飾りとして撒いて、1ヶ月ほど待てば完成だ。

*どの程度の分量を作れば、きちんと人が通れるように水平に仕上がるかという「想像スル」視点や、どの程度の固まり具合になるまで水を入れるかという的確さとか、男が重い道具で固めて女が土を振り分けるという分業的な視点とか単純でも追求すれば奥が深い作業である。総じて体力が必要な作業だ。おもしろかった。

ところで、僕は最近自分の体の動かし方がハトのようだと感じることがある。どういうことかというと、草取りや掃除をしていると顕著なのだが、立ったり座ったりする動作が多いと動きが滑らかでないと感じる。例えば、ものを掴んで、それを的確な場所におくということがとても疲れるので、掴んだものを放り投げたくなるという性質である。仕事に慣れていないと、ハトのような動きが多くなる。このことから、つい最近まである仮説を立てていた。一般的に「体力がある」と言われる人々は、「体を動かしていても疲れないけど体の動かし方の効率が良くない棒人間」と、「体を動かしていたら疲れるけど体の動かし方が効率の良い枝人間」という性質が存在していて、自分は前者だと考えていた。しかし、この時は不思議とハトにも増して、滑らかな動きができたと思う。なぜだか非常に不思議だったが、自分の性質とは微々たるもので、その業務に対するモチベーションによる振れ幅がかなり大きいという結果にいきついた。たたきは自分にとって非常に面白いものに映っていたようだ。これは自分にとって大きな発見であり、アルキメデスが入浴中に「浮体の原理」を発見してエウレイカー!!!と叫んでフルチンで宮殿を走り回ったかのごとく大きな衝撃を受けた。よくよく考えてみれば、人々が当たり前で単純で白黒つけてしまいがちな物事や単純作業の裏側に、誰もが気づいていない大きな盲点があることを僕は人一倍噛み締めながら生きていきたいと改めて決意をした。

f:id:ina-tabi:20180904221132j:plain

 

 

9月4日「障子張り」の作業

*障子張りは、古い障子を水を含ませた雑巾で柔らかくしながら、障子の骨の部分(桟や組子)に残りカスがつかないように剥ぎ取る。水がついて湿気っているので、半日乾かす。そのあと完全に乾いたのが確認できてから、障子の骨の部分(桟や組子)に障子用ののりをつけて、まだ切っていない障子紙をその上からかぶせる。完全に乾いてから、ハサミやカッターではみ出し部分を切り取って微調整し、完成する。

*これは比較的簡単な作業だが、例えばのりがはみ出た状態で乾かしてしまって、上部と下部で紙の張り付き具合が変わり、切りたかった部分が切れなくてもどかしいみたいなことが発生する。また、ノリをべったりくっつけすぎると、乾いてからもノリが張り付いているのが見え見えで美しくない。その加減が難しいところである。

僕は古民家に住んでいたので障子の張り替えはお手のものだ。こういうところで、建築の世界と、自分の今までやってきた古民家の活動のつながりを感じることで、今まで自分が経験してきたことがとても意義深く感じることができるのである。最近気付いたのだが、目の前の仕事に対して人は時に異なる捉え方をする。「想像スル」ことで自分の仕事を開拓していくコロンブスのような勇気ある挑戦者と、今まで積み重ねた50の経験の上に50の経験を上乗せするように着実に仕事の歩みを進め、山の頂上まで1km近づいたぞー!などと声を張り上げる積み木人間がいると思う。僕は多分今までの人生をフル活用しないと気が済まない後者の人間である。僕はこのことを考える時、前者をレディガガ、後者を秦基博などと音楽の好みに例えて考えることを何よりの楽しみにしているのだが、まあこのような分類論はあてにならないことの方が多い。最近気付いたことがもう1つあって、目の前の人間は唯一無二で本当に掛け替えのない存在で、喧嘩するとか笑い合うとか全力で向き合うことで深く理解し合えて、瞬時に人の本質を読もうとする大局観とは無縁の世界があることこそ、自然を生きている動物に重ね合わせ、涙が止まらないほどに美しいことだと感じるのだ。

f:id:ina-tabi:20180915164337p:plain

 

 

基本毎日「模型作りの作業

*模型作りは、図面を見てそれを工作して立体的に作り、展示会やお客さんの前で見てもらうための作業である。家の構造などはスチレンボードや木の板を用い、中に配置する家具や人などは画用紙を用いてまず部品を作る。設計図を見てもわからない家具の扉の有無などは実際の写真などを確認して作る。作ったものは、ノリや木工用ボンドで貼り合わせて完成だ。シンガポールの大学では、こういう作業は3Dプリンターなどで代用してしまうと聞いたことがあるが、現状日本ではこの模型作りという作業が大多数の建築学生の当たり前となっている。これは本当に意味あることか?個人的にはまだ疑問が残る。

*基本的にものすごく細かい作業で、小さな1ミリ単位の狂いも許されない。それが一日中なのでかなり集中力が必要である。なおかつ、指先の器用さと丁寧さと正確さが求められる。建築家が真面目と言われるのはこの工程が必要であるがゆえで、常にこの建物は機能するのか?という視点で全ての作業を見つめている。これが絵描きや小説との違いで、ある決まりや制約のもと現実世界の利用者に対して作品を長年使ってもらうという「責任」を感じながら仕事をするのである。とはいえ、作品を作るという意味ではその他の芸術となんら変わりなく、黙々と目の前の制作に集中するという側面を持つ。お客さんに対して使用イメージをきちんと持ってもらうために必要なのがこの模型作りという作業である。お客さんが使用感について疑問を持ちそうなところはどこかについて想像するということも必要な仕事である。

 僕は自分のことを大雑把な人間だと考えていたので、この作業に適応できるのかいささか不安であった。しかし、なにかを始めると良くも悪くも周りが見えなくなるほどに集中できるので、その点では自信があった。直径数ミリほどの人間をハサミで切り出して、ピンセットで持って足の裏側にノリをつけて、建物の中に立たせるというのがとても難しかった。しかし、次第に慣れてきて例えばノリの量がほんの少し多いなとか、ほんの少し少ないなとかそういう加減がわかってきてからはうまく作ることができるようになってきた。たまにプロフェッショナル仕事の流儀とかを見るのだが、自分のプロフェッショナルな技能に関して大雑把な人はこの番組に出てこない。とことん追い込んで、すんなり行った時は逆に壊すとか疑うというくらいの心持ちでいる人の方が、良いものが作れる気がする。大雑把な性格は、とことん集中するべき時に集中できるという裏側の側面もあるのかもしれない。まあ結局やるかやらないかの世界でしっかりとやることを意識すればしっかりとできるものだと思う。さて、私達の生きる世界を作った最初の人物は、この模型作りで人や建物を配置するかのように、世界に必要であろうものを想像して配置していったのだろうか。何回も壊して、イメージを丁寧に正確に膨らませていったのだろうか。もしそうであるならば、この現実世界の「模型」とやらを見てみたい。世界という箱を利用する私たちにとっての「最も有効な箱の使い方」を知っているのかもしれない。

f:id:ina-tabi:20180915154727p:plain

 

9月10日〜14日「設計図面づくり」

*設計図面を作るには、まず現地の現状を確認する。周りの土地利用で隣に家があるとか、田んぼがあるとか、崖があるとか、近くの民家のペットの鳴き声が聞こえるとか、肌感をまず掴んでおく。それから、住み手の希望条件を確認してコンセプトを決めて、土地に対して適応する形と面積の家を考える。それを図面におこしていく作業だ。上から建物を見たときの内部を表す平面図、建物の外観のデザインを表す立面図、見やすい部分で切断したときの内部状況を表す断面図といった主に3種類の図面を作る。イラストや色鉛筆などを用いてわかりやすくする時もある。

*まずどういうコンセプトにすればハッピーかを考えるという企画の側面が強い。シンプルなコンセプトから逆算して、面白い発想が広がっていくという無から有を生む仕事なのだ。建築の知識とか経験をフル動員して、細部まで自分の手で家を考えるからとても難しいし、センスがいる仕事である。

僕はもともと建築の知識が少ないので無から有を生み出すことに苦労した。しかし、この設計図面づくりが全ての業務のうち最もワクワクした。これこそが僕のやりたいことであると感じ、本当に僕は建築の世界に行くべきかという多くの迷いを消し去ってくれた。それは何もないところに何かを生み出すということであった。やはり、自分の力点は「個性の発揮」ということにあると感じた。自分で作品を作って、皆の作品と比較して百花繚乱のプランを眺めていると、自分が世の中に生きる意味が見出せ、自分に血が通っていることを再確認できるのである。ただ、まだ設計を身につけるには足りないものが多すぎてこまる。自分のプランは環境適合性が足りないと言われたが、そういう1つ1つの学びに丁寧に向き合っていこうと感じた。まず何から始めたらいいかもわからないので、色々な人に聞いた結果、すでにあるものを真似ることの重要性に行き着いた。既存の建物のデザインを絵にしてみたり、図面を真似して描いてみたり、家具を利用している時は寸法を測ってみたり、そういう既存の創作物をよく観察して、自分の中に取り込んで行く作業が必要だと感じた。

僕は真似るという行為について、「組織の中で均一化されながら習得するもの」と「自分の中で主体的に取り入れて習得するもの」があると考えていて、前者はコンビニ、後者は絵画のグループをイメージすることが多い。本当は、後者の学びをしたいのだけれども、前者の学びが意外と役に立つ時もあるし別に過剰に避ける必要もないと最近考えるようにもなってきた。何れにしても、真似るのは自分にとって今ものすごく必要なことであるという意識が高まってきて、どこかで修行したい!という想いが衝動として湧き上がることも多い。

f:id:ina-tabi:20180915180358j:plain

 

まとめることもできないが。

建築は僕にとって古民家の延長線上にあるものだ。大学2年生以来、古民家鑑定士とか、古民家冒険家とか言って、古民家に住んで向き合った先に、木造とかの有機的な建物に対する探究心が湧き上がり、やはり建物について知りたいし深めたい!ということで今に至っている。自分が向かう先にあるものも少し見えていて、それに繋がるのは建築とも言える(空間デザイン〜建築士とかどのポジションを取るか考え中)。そういう必然性を感じ続けながら、知らない世界にまず一歩踏み入れてみた。建築界から見たら赤ちゃんのような僕に対して、丁寧に接してくれている事務所の皆さんや同じインターン生に本当に感謝したい。僕が今踏み出せるのは、暖かく迎え入れてくれている人々のおかげであることは最も強調すべき点である。

決めつけることもせず、多くの可能性を探りながらも、ひとまず一歩踏み出してみたのは自分の中では大きな一歩であった。なんだかんだ言って、職業に向いている向いてないとかそういうものは何もなくて、得意も得意じゃないもなくて、やるかやらないかで自分なりに方向が定まっていくという一面もあるなと。何もないところに対してあれこれ議論しても何も生まれないというかなにも喋りようがない空っぽの議論、何か議題があるところに対してあれこれ話してみて見えてくる収穫ある議論だったら後者が良い。さて、次なる大きな一歩はなんであろうか。今思索中だ。

 

ps.

ところで今日、出雲の神戸川を歩いていた時ふと絵を描きたくなった。

衝動で手元にあったスケッチブックに書きなぐってみたらこんなことになった。

大きな川と、川べりの草達、赤い屋根、田んぼ、周りを取り囲む山達。

朝見たトキのくちばしが妙に忘れられなくて、こんな生き物が誕生した。

これらの自然物は「縁」によってつながり、紡ぎ出されているのだ。

絵を描くことを通して感情を吐き出すという行為をこれからも大事にしていきたい。

f:id:ina-tabi:20180916183646p:plain