モグラ女に樺太からきた部族...カオスで不気味な見世物小屋から考える旅芸人の生き方

これは久しぶりにすごいものを見た。いや、見てしまったという方が正しいだろう。

2022年11月16日、新宿の花園神社で行われている酉の市を訪れた。そこで鳥居の真横に設置された見世物小屋のプリミティブな雰囲気に惹かれた。入り口のお姉さんの調子の良い掛け声に誘われて抗えず、吸い込まれるようにして有料エリアに入った。

 

潰れそうなトタン小屋の中にはお客さんがひしめき合い、息を飲む表情で舞台を見つめていた。時おり、ええ!という驚きや、きゃー!!という女性の悲鳴が響き渡る。そこで起きている出来事に自分の知覚を疑わざるを得なかった。

 

インドから来たという女は、鎖を鼻から入れて口に抜けさせ、それでバケツを持っていた。その後、5本のろうそくを口に入れてかき消した。

 

顔がボロボロで傷だらけのOLは、自分の体にひたすらホチキスを打ち込んだ。お客さんにもホチキスを打ち込ませていた。ビシッと決めた服装には血の跡がびっしり..。

 

タコ女は軟体すぎて、タコのような動きをしていた。昨日デビューした新人らしい。

 

モグラ女は暗い地底で生活していたというが、目が虚ろで、ウジ虫のようなものを食べていた。きちんと舌で噛み砕かれている様子を見せた。

 

樺太からきた部族はドライアイスを口に含みその煙が口から立ち込める姿がシュールすぎた。舌で扇風機の動きを止める技も見せていた。

 

あまりにも身体能力が並外れている。自分の身体能力など、この程度かと思わざるを得ない。江戸時代には見世物小屋が300軒もあったというのだから驚きだ。いくら身体能力が並外れているとはいえ、体に負担がかかることは言うまでもない。数十分に1回の感覚で自分の出番が回ってくる。

 

手塚治虫のキリヒト賛歌という漫画で、天ぷら油に衣つきの身体で入り揚げられる芸をする女が自らの芸で死すという話があるのだが、究極的な話でいくとあれを思い浮かべざるを得ない。身を削って得られるものは何なのだろうか。

 

見世物化された人間が自らの身体をさらし、生を全うする様は、どこか哀れさを彷彿とさせ、江戸時代に貧困が理由で諸国を巡業せざるを得なかった旅芸人の系譜を垣間見ざるを得ない。しかし、この芝居を通して本当の意味での幸せを掴みとっている人間もいるのだろう。どれだけ気味悪がられても、悲鳴を上げられても、その狂気的な自分をさらけ出すことへの快感を感じる人は少なからずいるはずなのだ。

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香川県の獅子舞が大集合!獅子舞王国さぬきを取材して考えたこと

日本全国を見渡せば、獅子舞が盛んな都道府県として、石川、富山、香川の3県が挙げられることが多い。ただ、そのなかで唯一取材が手薄だったのが香川県だ。関東圏からアクセスしようとすると、土日の飛行機代、あるいは新幹線代が高く、バスでも1万円かかることが多い。それでもやはり見に行かねばならない。どうせ行くなら獅子舞が一堂に会する場に訪問したい。そのような思いから、2022年11月6日、獅子舞王国さぬきを訪れた。

香川の獅子舞の起源

それではまず取材について触れる前に、基本情報として、香川の獅子舞がいつから始まったのか?について触れておきたい。香川県の獅子舞は中国の獅子舞の影響を強く受けており、平安時代南北朝時代に都の方から中国由来の獅子舞が伝えられたといわれているが、その詳細は定かではない。

最古の記録を辿る

文献で最も古い記録で言えば、室町時代の応永年間(1379~1427年)に書かれた富丘八幡神社縁起(小豆郡土庄町)に、永和元年(1375年)に放生会に使われる獅子頭が損壊したので彩色したと書かれている。放生会と言えば、奈良時代以来、日本の八幡系神社で行われているインド由来の殺生を戒める宗教儀式である。おそらくこの時代は八幡信仰が興隆したと考えられ、愛知県愛西市の日置八幡宮の日本最古の年記銘付き獅子頭は製作年が建長4年(1252年)と記されている。もしかするとこの八幡信仰圏が香川の獅子舞の起源に関わりがあるかもしれない。しかも放生会という儀式は殺生を禁止する目的で行われることから、形式的な生命に触れる行為としての獅子舞の存在意義も見出だせるというものだ。

その後の香川の獅子舞に関する文献上の記録としては、琴弾八幡神社(現観音寺町)において、享徳元年(1452年)の放生会における御配役記録が残されている。それには大行道の獅子の首に2人、舞車の役者に獅子舞、太鼓、小鼓、笛、狂言などが配された記録があり、この事から伴奏に合わせて舞う1人獅子がいたと考えられる。この獅子舞の記録から、四国本土には少なくともこの年代に、獅子舞が伝来していたことがわかる。そして、これも八幡神社での記録であることから、八幡信仰圏の足跡のようなものを感じざるを得ない。

また香南町由佐冠纓神社には永享9年(1437年)ごろに大獅子の記録があり、高さ165cm、横幅180cm、重さ150kg、目玉径15cm、鼻穴20cm、歯12cmの獅子頭があったという。それに加えて油単は長さ13cm、幅6mであり、竹のごんばりが7m×2本とある。江戸時代以前にこれほどまでの巨大獅子を持っていたというのはかなり珍しい。おみゆきのお供獅子として登場したもので、舞いに使われたわけではないらしい。

物的証拠で最古の記録

文献ではなく物的証拠という観点から言えば、大川郡水主神社(旧譽水町=現大内町)にある獅子頭の内側に文安5年(1447年)作、文明4年(1472年)彩色の記録があり、どちらも足利義政の時代のことである。獅子頭には着物を着ける穴があり、これを見ると伎楽の行道の獅子舞の系譜か、芸人の一人立ちの獅子舞のどちらかであろう。また、この獅子頭は木製であり、今日の香川の多くの獅子頭のように紙製ではない。

獅子舞が爆発的に増えた時期

今日のように地域コミュニティの中で受け継がれ、娯楽性の高い獅子舞になったのは、圧倒的に江戸時代末期以降である。それは今日の獅子舞の由来書の多くがこの時期を起源とするものが多いことからも想像がつく。比地中成行は天保14年(1843年)、親子獅子の綾南組は天保年間、丸亀金蔵寺三分一組は弘化元年(1844年)などである。その後の明治、大正、昭和時代における国の吉事、日清・日露戦争の勝利、天皇の御大典記念などの時期に爆発的に増え今日に至る。この傾向は石川県や富山県などとも近く、獅子舞伝承数が多い地域の特徴と言えるかもしれない。

獅子舞王国さぬきの役割

近年、香川県では獅子舞を各地域ごとだけではなく、集結させてお披露目するイベントも開催されつつある。最もそれが顕著に見られるのが、獅子舞王国さぬきの存在である。今回、2022年11月6日に開催されたこのイベントを訪れ、感じたのは「やっぱり香川の獅子ってすごい」という集まることで生じる熱気のようなものであった。司会の人が毎回「見所は?」と各団体に聞いていたのが印象的だったが、まさに自分たちの技を魅せ合い競い合う場でもあったわけだ。

今回はこのイベントの狙いなどについて、本部の十川(そごう)さんにお話を伺うことができた。

ー次世代への継承という観点から、このイベントが果たしている役割はどのようなことでしょうか?

十川さん: このイベントはまず、若手が活躍する場所です。若い担い手がテンション上がる場を作りたいという思いがあります。また、獅子組同士の交流を深める場所でもあります。過去の参加団体が出てくれるということが多く、多いときだと65組参加してくれた年もありました。

ー今年は23組とのことですが、コロナ禍での運営で困難なことはありましたか?

十川さん:やっぱり飲食ができないということですね。いつも出店が出るわけではないんですが、お酒を飲みながら獅子舞をすることができないなどの制約があるんです。

ーこのイベントが始まったのはいつからですか?

十川さん:2009年からなので、今年で14回目ですね。もともと商店街活性化のために広告代理店に持ち込まれた企画でした。獅子舞が盛んな土地なので、獅子舞で盛り上げたら良いだろうということで始まりました。私自身は1回目から舞い手として呼ばれ、4回目から運営にも関わるようになり、現在に至ります。

ー始まった頃と比べて何か変化したことはありますか?

最初の頃は自分たちの獅子舞を見せるという雰囲気だったのですが、徐々にこのイベントに来ることが目標になっていきました。つまり、最初は自分たちが地元の神社でやっているような舞いをそのまま持ち込んでいましたが、このイベントのために舞い方をアレンジして「魅せる獅子」も生まれてきたのです。

ー最初に商店街でやっていたものをこの栗林公園に持ってきたのですか?

最初は商店街のアーケードでやっていたのですが、お囃子の音が騒がしいということでお店の電話が聞き取れない人が出てきて、それならばということで、5回目から商店街でないところで開催することにしました。中央公園、高松港などを転々として、今行っている栗林公園は2回目です。

ー今後取り組んでいきたいことはありますか?

人手不足で辞めようかと検討している団体もあるので、このようなイベントを通じてもう少し頑張らなあかんなあと思ってもらえるようにしたいです。

ー色々な説があるかと思いますが、なぜ香川県は獅子舞がこんなに盛んなのでしょうか?

十川さん:伝え聞いた話では、神社に1つという意識があったこと、あるいは娯楽のない時代にお金が儲かるようになって始まったという話もあります。町ごとに競い合うような文化もありますね。

香川の獅子頭や油単づくり

また、獅子舞の演舞に合わせて、獅子頭や油単の展示、販売等を行っていたので関係者にお話を伺ってみた。

ー祭礼で使われる獅子頭はどのくらいの値段しますか?

5~60万円くらいですね。紙の張り子で作っており、持ち手の部分は木です。全体を木でつくる場合は少ないですね。塗りは漆で、カシューを使う場合も少ないです。獅子頭の工房は善通寺のかしまやさんなど、専業でされているところはありますが、かなり少なくなってきています。専業でできているのは修理が次々と来るからです。

ー油単作りはどうでしょうか?

染物屋さんが油単をつくっていますが、こちらもかなり数が少なくなっています。油単から派生してハンカチや巾着もつくります。油単は安くて90万円くらいなので、獅子頭よりも値段が高いです。他県は綿が多いんですが、香川県の多くは絹を使っておりかなり細かい柄が入るという違いがあります。最近はインクジェットで色を着ける場合もありますから、安いのも出てきてしまっていますけれど。昔から油単は大事なものをくるむという意味があり、油紙でくるむような感覚だったと思います。家具にかける布も油単ですね。

香川県の獅子舞の印象

まず今回の取材を通して、香川の獅子舞は鳴り物の数や種類が多く、音が高い印象が強かった。中国の爆音鳴り響く獅子舞の系統にも近そうだ。中国の獅子舞のように爆竹を鳴らすほどではないが、獅子舞王国さぬきの変遷について伺う限りでは、商店街が騒音に悩まされるほどの爆音が鳴らされていることは間違いない。中国の獅子舞は無礼講で音を鳴らしまくりだが、それが高松の商店街では受け入れられなかったという事実も興味深い。やはり、日本人は中国人に比べて静かな住環境を保ちたい民族なのかもしれない。それでも香川県は全国と比較すると断然鳴り物文化が根付いた背景には、お囃子や祭り魂が強い土地柄があるのだろう。

ものづくりの観点では、獅子頭は紙製、油単は絹製というのも面白く、多くは木製・綿製である。胴体が映える獅子舞という観点から言えば、金沢の加賀友禅の文化によって醸成された蚊帳の色使いの派手さを思い浮かべることもできる。蚊帳職人が「俺の作った蚊帳は獅子頭よりも目立っている」などと話していたことを思い出した。ただし、北陸文化圏よりも獅子頭の値段が安いのは、獅子頭の重量が軽く、その分舞い方が激しいという背景があるのだろう。また、北陸文化圏との共通点として、獅子頭の製作ワークショップが行われており、ダンボー獅子頭(通称:ダン獅子)の文化もあり、子供が獅子頭を作る、あるいは安いおもちゃの獅子頭を作って遊ぶという現象も見られる。

また足さばきの所作が美しい獅子舞も多かったので、お座敷獅子に近いとも感じた。石川県加賀市大聖寺という地域では、関所の役人から習った江戸の獅子が伝わっており、それが「お座敷獅子」と呼ばれている。大規模な祭礼が行われるにつれて、徐々に外での演舞に切り替わっていったものの、ゴザを敷いて足さばきの美しい獅子を舞うあのスタイルは依然として美しい。この獅子と香川県の獅子舞は全体としてスタイルが似ており、江戸後期に歌舞伎を取り入れた獅子舞のスタイルがそのまま受け継がれていると考えられる。

 

参考文献

高瀬町教育委員会「さぬきの獅子舞ー西讃地方を主としてー 」美巧社, 平成元年10月 

瀬戸内海歴史民俗資料館「香川県の民俗芸能ー平成八・九年度香川県民俗芸能緊急調査報告書ー」美巧社, 平成10年3月

獅子芝居とは何か?岐阜県岐南町にて、女性になりきる歌舞伎の獅子の成立背景に迫る

岐阜県岐南町で行われた「岐南地芝居公演」に伺ってきた。岐阜県といえば、地芝居や獅子芝居といったいわゆる魅せる演劇的な芝居ものが発達した地域である。その歴史や背景、現状の伝統継承の姿など多角的に迫っていきたい。

2022年9月「岐南地芝居公演」における伏屋の獅子芝居の様子

岐阜県の獅子舞の特徴

まず岐阜県の獅子舞の概観としては、東海と北陸、あるいは東日本と西日本の文化の結節点であり、全国の獅子舞の縮図的な年代と分布の多様性を持つことを特徴とする。流刑人の多い佐渡は民俗芸能のるつぼであり、石川県加賀市は山から海まで多様な地形と生業が存在する点で民俗芸能のるつぼと言え、このような多様性&るつぼ論は巷に溢れすぎているようにも思うが、一応、岐阜県の1つの特徴として触れておこう。

岐阜県に存在する獅子舞の形態といえば、郡上郡北部や大野郡西部で見られる近畿系の「大神楽」「大獅子」や、武儀郡加茂郡で見られる「神楽獅子」、近江から美濃山系を越えて流入した「伊勢大神楽」、飛騨で見られる伎楽獅子の行進後に行われた系譜に始まる「曲獅子」、またこれも飛騨を中心に伝承される獅子を成獣とみなさず田畑を荒らす害獣とみなすという我が国本来の田遊び系に端を発する北陸文化圏の「獅子殺し」などである。また美濃地方の代神楽系の分布の多さは多くの人々の往来を意味しており、戦国武将が美濃制圧に躍起になったように、この地域は人や物の流れの重要拠点であることが読み取れる。

また、岐阜県岐阜市とその近郊では、明治維新以降、獅子舞禁止令なるものが存在し、局所的に獅子舞が存在しない。例えば、各務郡(第三十番中学区)では「祭礼の歌舞妙得伎は冗費」とされ、山県郡(第三十三番中学区)では「風紀を乱す」として、各中学区取締から小区宛てに「獅子舞禁止」が通達された。

獅子芝居の始まり

神楽獅子の獅子頭には男獅子と女獅子の2種類があり、男獅子による舞は全国的に存在するものの、女獅子というのは嫁獅子の系譜であり、江戸時代の後期に始まったのでそう古いものではない。女獅子といえば、男性のかぶき者を女性として表現した出雲阿国の「かぶきおどり」を連想させる。どこか奇をてらい観る者を現実世界と芝居の世界で倒錯させるような魅力が存在するのかもしれない。女獅子というのも男性が演じるのと違ってどことなく優雅であり、滑らかな動きなどが魅力であると個人的には思う。

獅子芝居とは神前で疫病退散の祓いのために舞う神楽獅子(獅子神楽)の後に、獅子が女形になって演じるもので「神楽芝居」とも言われ、歌舞伎芝居の外題(歌舞伎芝居の題名のこと)を演じるという特徴がある。この獅子芝居に使われる獅子頭の特徴としては、耳が立っており白髪がないことである。獅子芝居(嫁獅子)の始まりは寛政年間(1789~1801年)に三河の岩蔵・岩治・作蔵の3人が原型を考え出し、天保年間(1830~1844年)に三河の寿作と諸桑(現海部郡)の龍介(市川竜介の記述もあり)がその3人から嫁獅子を習い、さらに広められたと考えられる。愛知県西部の江南市(布袋町今市場ほか)、東部の小坂井町院内(のち浦郡市形原町金平)が尾張の2大中心地となった。

獅子芝居における獅子は観客にとってどのような存在なのだろうか?通常獅子頭といえば、力強さやたくましさ、荒々しさを表現した有形物である。ところが、獅子芝居においては「人」に扮するために獅子頭を被るという性格上、緊張感や恐怖心、あるいは逆におかしみや嘲笑といった相反する感情を呼び起こすものとなる。獅子芝居における獅子頭をかぶる人は女性役であり、男性が求めてやまない広くて深い愛を秘めた女性像となっている。また現代の舞台美術が知識人を対象としているのに対して、獅子芝居は民衆に広く開かれたものであることも注目すべきである。これは社会に遍満する諸要素を知的記号として処理する手法をとると考えられがちな現代の舞台美術に対して、獅子芝居は物語の要素を単純化して劇的な起伏を激しくするとともに主人公の心の有り様を繰り返し述べることに重きを置いておりそれは感性の鈍化ではなくむしろ深さの提示とも考えられている。現代の飽き易さがむしろ芝居を遠ざけているようであるが、良質で伝統的な深みのあるエッセンスを現代の舞台美術に取り入れていくことも試行錯誤されていくべきとも感じる。

伏屋の獅子芝居

今回拝見した伏屋の獅子芝居は尾張の嫁獅子系のもので、幕末に前述の諸桑の龍介から伏屋の東五郎が習い伝えたものである。元々は神前に納める神楽獅子から発生し、祓うことが主体となって五穀豊穣・村内安全を祈願して氏神白山神社に奉納されてきた舞いに芝居が統合された形である。初期の頃、農耕に明け暮れる村人にとって獅子芝居は唯一の娯楽といっても良いものだった。

伏屋の獅子舞は伊勢神宮の御神木の川狩りの際の奉送迎、京都東本願寺の本堂改築の地築きでの神楽奉納、名古屋汎太平洋博覧会余興などに出演。昭和32(1957)年には犬山成田山での全国獅子舞大会に優勝、昭和47(1972)年に岐南町重要無形文化財に指定、また同年にNHKテレビ放映など、全国規模で活躍してきた獅子舞団体である。また、この昭和47(1972)年には、同時に伏屋獅子舞保存会が設立された。

獅子芝居衰退と活性化の動き

現在は後継者難であり、その背景には組織形態の変化というのが原因としてある。元々1897年まで存在した伏屋村があった頃、熟練者たちが「旭組」と称して獅子舞の活動を行なっており、その旭組の存立基盤として若連(後の青年団であり、伏屋では獅子組と呼んだ)の芸能活動があった。つまり、旭組の人々が師匠となり若連に獅子舞や獅子芝居の演技指導を行なっていたのだ。この芸能活動が鍛錬を必要とするものであったため、青少年が立派な大人になるための通過儀礼として考えられてきた背景がある。伏屋村が周辺の地域と合併した後もこの活動は続いたが、昭和30(1955)年代になるとその伝統は途絶えた。そこから、この昭和47(1972)年の伏屋獅子舞保存会設立への流れに繋がっていく。組織形態の変化は社会情勢の変化でもあって、地域行事の衰退と個人主義の台頭のみならず、大人としての通過儀礼を地域で作っていこうという考え方は徐々に薄れていったことも大いに関係していることだろう。

ちなみに、このあと触れる地芝居の文脈でも昭和30年代というのは1つのターニングポイントとなっている。これは昭和10年代の太平洋戦争による上演中止、昭和20年代には娯楽として映画やテレビの発達、昭和30年代には高度経済成長期に突入して人口の都市流入が活発化した。これらの背景により、地方の獅子芝居や地芝居が衰退したことは明らかであり、これは他の民俗芸能全般に言える現象であろう。これらの衰退を抑えるため、「全国地芝居連絡協議会」の発足や「全国地芝居サミット」の開催、「全国芝居小屋連絡協議会」の発足など全国組織や幕の内弁当的な大イベントを仕掛けることで盛り上げを図っており、この動きもその他民俗芸能と同じような傾向である。ただし、このような大きな組織やイベントが立ち上がることで、芸能の平準化や各固有の土地から湧き上がるような本質性が薄れるようにも思われ、個人的には違う方法も模索していかねばならないと感じている。

岐阜と愛知は「地芝居王国」

村芝居は地芝居とも言い、村人が演ずる芝居なので、都市文化に見られるプロの技とも異なる地域に根付いた芸能とも言える。地芝居は地域住民が演ずる芝居であり、地域に根付いた存在だ。地元の人々が演じることから「地」の字をつけて、「地芝居」と呼ばれている。その中には、地歌舞伎、人形浄瑠璃、能狂言、獅子芝居など様々な芸能が含まれる。素人の演技ではあるが、振り付けや化粧、衣装など全部自分たちで準備を行い、観客を感動させる芝居づくりは本格的である。また、観客も演者に向かって声を掛ける「大向こう」やご祝儀として紙の包みを客席から投げ入れる「おひねり」があり、参加型となっていることは特筆すべき特徴である。

安田文吉・安田徳子『ひだ・みの 地芝居の魅力』(2009年3月, 岐阜新聞社)によれば、地芝居団体は全国に約200あると言われており、岐阜県が最も多く30団体を有する。次が愛知県で17団体であり、合わせると47団体ということで、全国の4分の1を占めることになる。これは獅子舞が石川県と富山県という加賀藩領域に固まっていることと似ており、獅子舞の場合は約8000の獅子舞団体がある一方で、そのうち約2000(約4分の1)は富山県と石川県が占めている。この芸能における愛知県と岐阜県の関係性は、石川県と富山県の関係性に似ているようにも思われる。ちなみに地芝居団体は全国に約200あると言われている一方で、地芝居の舞台は廃絶したものを含めると全国で2000棟近く存在しており、都市芸能の舞台と区別するために「農村舞台」「野舞台」などと呼ぶこともある。また、地芝居の舞台が全てこの「農村舞台」「野舞台」というわけではなく、例えば岐阜県南西部の西濃では曳山の上で上演が行われるので、一概に地芝居の普及数として考えることは難しい。また、日本全国の地歌舞伎保存会の2割が岐阜県に集中しているという事実もある。

地芝居最古の記録

さて、地芝居の歴史は江戸時代の宝永3(1706)年に行われた岐阜県上呂にある久津八幡宮祭礼における上演が記録としては最も古い。この神社には「祭礼日記」なるものが存在しており、この頃に元々、元和元(1615)年に疫病退散を目的に演舞が始まった獅子舞があり、それが宝永3(1706)年の祭礼日記には、獅子舞に続いて「羅生門」という狂言が奉納されていたと記されている。これに使った鬼面が2つと駒形と呼ぶ馬の作り物も伝わっているそうだ。つまり、獅子舞に加えて娯楽性の高い狂言としての地芝居が取り入れられていったというわけだ。

都市で人気の歌舞伎というものを遠く離れた場所でも楽しみたいという思いから発達したのが地芝居であり、役者を都市から呼んできて歌舞伎を楽しむ「買芝居」は容易なことではなかった。近郷に住む旅役者に稽古をしてもらって、自分たちで演じることができるようになれば、毎度「買芝居」をしなくても済むというわけである。江戸時代に地芝居は原則禁止とされてきたが、祭礼の奉納芸あるいはお盆の行事などは例外的に許されてきた。つまり、旅役者から習ったものを自分の地域の行事などと絡めてアレンジして定着させた歴史があるのだ。

さらに、岐阜の中でも東濃地域が17団体と多く、かつて尾張藩領だった場所は芸事に寛容だったという歴史がある。また愛知県では旗本領であった東三河が規制のゆるい地域だった。そのような土地柄も影響して、愛知県や岐阜県には「地芝居王国」と言われるまでに地芝居が定着したのだ。

岐阜県における歌舞伎の最古の記録

ちなみに地芝居の記録ではなく、歌舞伎の記録として岐阜県内で最も古いのは天和3(1683)年、宿村(現在の瑞浪市宿町)の岩屋観音のご開帳の際に、尾張から歌舞伎の一座がやってきて余興として興行したことだという。これは歌舞伎が始まって80年後のことであり、現在の瑞浪市が山間部であることからもわかるように、100年足らずで田舎まで来ていた事実は興味深い。さらにこの上演から23年後には上呂の久津八幡宮にて地芝居が上演されている。都市から地方都市に一座がたち、田舎までの浸透するのは早かったのだ。それに加えて、岐阜では山村での上演記録が最古であることから、田舎での歌舞伎の浸透数が異様に高い地芝居王国としての性格の一端を垣間見ることができる。

そもそも歌舞伎の始まりとは?

1603年に徳川家康征夷大将軍になったのは歴史上の大きな出来事であるが、その直後に京都では出雲阿国という人物が初めて「かぶきおどり」なるものを踊り始めた。当時京都の街では異様に派手な格好をして歩き回り喧嘩をふっかける「かぶき者」が多かったが、彼らの多くは3年前の関ヶ原の戦いで敗北した西軍ゆかりの武将たちが腕の見せ所を失い、やり場のない鬱憤を晴らそうとする行為であった。さまよい歩く彼らの反抗には、怪しくも悲しい魅力があり、出雲阿国はこれに注目した。このかぶき者の様子を演じるのみならず、阿国という女性が男性の様を演じるという男女入れ替わりの倒錯した魅力を加え、「かぶきおどり」を創造して人気を博したのである。

歌舞伎の地方伝播

遊女や若衆など阿国の芸を真似る者が多く現れたほか、阿国自身も京都だけではなく清洲や桑名、家康の住む駿府やゴールドラッシュで沸いている佐渡まで巡業したとも言われている。これが一時的には歌舞伎ブームを起こすこととなった。ただし、阿国が作った女役者の歌舞伎は長く続かず禁止されてしまい、男役者ばかりで演じる「野郎歌舞伎」が生まれて、今日の歌舞伎の原型となった。これは「おどり」から「物真似」への転換でもあって、能や狂言など先行芸能に学びその演劇性も高めていくことで江戸幕府の禁止令を乗り越えていったのだ。まずは江戸、京都、大阪で人気となった歌舞伎は地方へ伝播し、3つの都市の公許を得た「大芝居」が伝播したほか、理由づけがしっかりしたものであれば100日上演の許可が出るといったこともあったようだ。ちなみにこの3都市の次に歌舞伎の流入が早かったのが名古屋であり、東西文化流入の最も進んだ中間点とも言える場所だったと言える。

 

参考文献

岐南町岐南町史 通史編』(1984年3月, 太洋社)

安田文吉・安田徳子『ひだ・みの 地芝居の魅力』(2009年3月, 岐阜新聞社

岐阜県教育委員会岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1999年3月)

岐阜女子大学地域文化研究所『岐阜県の地芝居ガイドブック』(2009年3月)

岐阜女子大学(代表者:持田諒)『岐阜県地芝居研究調査 岐阜県の地芝居を育む人と風土』(2009年)

岐南町『ふるさとの文化財』(2003年9月)

岐南町歴史民俗資料館『民俗資料集VI』(1990年2月)

 

 

 

獅子殺しの起源はいつか?

北陸地方の加賀獅子や岐阜県の金蔵獅子などに見られる獅子殺しの起源はいつであろうか?加賀獅子の起源は前田利家公が江戸時代に金沢城に入城した時に始まるという。これが軍事費を莫大にかけると反乱と勘違いされがちな外様大名ならではの文化面での武芸鍛錬政策として捉えるのは定説であり、この武芸鍛錬のために獅子殺しを生み出したとも言える。ただし、獅子殺しという成獣である獅子を害獣とみなす思想がそう簡単にポッと出てきたとは思えない。加賀獅子以前に、獅子殺しの思想というのは北陸や飛騨地方に存在したということは間違いないだろう。

岐阜県教育委員会岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1999年3月)に非常に興味深い言説が掲載されていた。飛騨を中心に伝承される獅子を成獣とみなさず田畑を荒らす害獣とみなすという、我が国本来の田遊び系に端を発する北陸文化圏の「獅子殺し」を金蔵獅子と結びつけるような言い回しがなされている。ちなみに、田遊び系とは田楽の一形態であり、元々田楽は田遊び系、田楽躍系、お田植え神事系の3つに分類される。岐阜県内で田遊び系の芸能といえば、益田郡下呂町森の森八幡宮に伝わる「田の神祭」では古風な田植え歌が歌われる。また、郡上郡白鳥町長滝の白山長滝神社で1月6日の祭礼で行われる延年もこの田遊び系の一種である。ただしこれらに獅子殺しの要素はなかなか見つからない。

ちなみに、この「獅子殺し」は古代から中世まで飛騨国が汎日本海文化の文化周圏地とされており、その上650年時点では祭政一致を旨とする当時の国司は天津社・国津社宮司を兼ねていたという話もある。つまり、政治家が神事芸能の指導まで行っていたということになり、当時の支配者層は帰化人である大野郡司高市麻呂(749年)、百濟王利善(766年)、秦忌寸伊波多紀(774年)などであったから、伎楽が流入していたことも頷ける。飛騨は以前からなぜこんな山奥にも1000年以上前から獅子舞が伝承されているのか不思議であったが、このような背景があるのだろう。結局、この大陸系の曲獅子と何処かのタイミングで生まれた獅子殺しが統合されて金蔵獅子が成立したことも念頭に入れねばなるまい。

なぜ獅子頭を被らないのに獅子舞なのか?扇子の動きに注目! 長野県奈川獅子舞に行ってきた

獅子頭も胴体もない獅子舞が存在するという。そんなことを聞きつけて、長野県松本市から車で1時間、上高地にも程近い秘境・奈川寄合渡に行ってきた。この地域には「奈川獅子舞」と言って、通常の獅子頭と胴体を身にまとう獅子がある一方で、それらを持たず扇子のみで獅子を表現するという演目がある。その演舞があるからということで、2022年9月3日、現地に行ってきたのだ。

獅子頭と胴体あり

扇子のみの獅子舞

youtu.be

奈川獅子舞の由来

天保9年(1837年)の『書上』によれば、奈川には駄賃稼ぎの牛が82組、415匹と記されている。これらの牛の駄賃稼ぎをする人が多く、JR篠ノ井線が開通した明治末まで続いたと言われている。牛は物を運ぶ運搬の足として重宝されたわけで、奈川寄合渡も元々はモノとヒトが行き交う賑やかな場であったはずだ。しかし、鉄道の発達とともに、そちらの方に需要を持って行かれてしまったわけだ。今では奈川寄合渡は小さな集落となっている。

この地域の獅子舞は獅子神楽の系統であり、氏神である天宮大明神のお祭りで奉納されている。その由来は富山県のキンマヒキ(彩漆塗職人)の横井市蔵という人物が、大正初期に寄合渡に移り住んで、地元の人々に教えたのが始まりと伝えられている(奈川寄合渡の天宮大明神前の立て札には、木馬引きの出稼ぎに来ていた横井市蔵が明治45年に神谷の自彊青年会に教えて、それが十数年後に後継者不足で継承困難となって寄合渡青年会に伝えられた。その際に寄合渡青年会は再び横井氏に教えを請うたとされている)。横井氏が伝承した獅子は富山県南砺市(旧平村)の獅子舞の形態であったようで、獅子に手踊りがあるのは南砺市の百足獅子の表現なのでは?という説もある。平成19年には松本市重要無形民俗文化財に登録された。

奈川獅子舞の流れ

奈川獅子の演目は1つの物語に沿っている。その物語の発端となるのが、飛騨の国境の山奥に潜むと言われる一頭の大獅子だ。この大獅子が村に出てきては田畑を荒らし、家畜に危害を加え、村人たちを苦しめていたという。この大獅子は神出鬼没で一夜のうちに七つの山を越えため、人間業では容易に討ち取ることができなかった。そこへ不思議なことに大天狗が現れ、狩人たちを助けてようやく討ち取ることができた。狩人たちは大獅子を討ち取った喜びに疲れも忘れ、互いに手柄話に花を咲かせていた。すると死んだと思っていた大獅子が息を吹き返し、狩人たちに猛然と襲いかかってきたため、狩人たちを再び苦しめた。狩人の中に薙刀の名手がいて、大獅子との大乱闘の末に、最後にとどめを刺した。この物語を獅子舞と手踊りとで表現しているのが、奈川獅子である。ちなみに獅子舞の棒振り役を「獅子捕り」と言うそうで、まさに大獅子を捕らえるという意識が反映された呼び名と言えよう。

獅子舞の演目は①祇園囃子②きよもり③よしざき④獅子ころし・きりかえし⑤薙刀の5つの場面で構成される。①の場面で獅子が田畑を荒らして村人を苦しめる。②③で棍棒や竹槍では獅子を打ち取ることができなかったが、天狗が技を使って最終的にそれを打ち取ることに成功。しかし④で手柄話に花を咲かせる村人をよそに獅子が生き返り⑤で天宮大明神の薙刀を天狗から受け取った村の薙刀名人が死闘の末に獅子を退治するというストーリーとなっている。

激しい雄獅子の獅子殺しが見所である。拝殿での神事ののち、大人の獅子舞→子供の獅子舞→子供の手踊り→大人の手踊りの順番で行われる。なお、ここで言う手踊りでは扇子を獅子に見立てて踊るということであり、身体的な動作は獅子舞も手踊りもほとんど変わらない。ただし、手踊りでは⑤の薙刀の演目が行われないという違いがある。

なぜ、扇子の獅子なのか?

扇子を使う理由は地域の方によれば「扇子で舞うことができなければ、獅子を舞うことはできない。扇子で舞うことができれば、獅子を舞うことはできる」という言い伝え?があるからだそうだ。獅子舞上達のための登竜門みたいなのが作りたかったのかもしれない。これは獅子は皆が演じることができる役ではなく、動きがとても激しくて技を磨くことが必要だし、中に入れるのは2人しかいないという特別な役柄であったことが関係しているのだろう。

最初見たときは蝶々みたいだなと思ったが、よくよく観察してみると、扇子の動きはシシっぽかった。ここからは僕の推測だが、扇子を扱うときに大振りに軽やかに練習してみることで、その身体感覚を染み込ませることができ、獅子頭と胴体を扱いやすくしている可能性もあるように思えた。

 

参考文献

奈川獅子舞保存会資料

小林幹男『信濃の獅子舞と神楽』(信濃毎日新聞社, 2006年8月)

巨大な魚を燃やす!?ぐず焼きまつりの秘密に迫る

8月27日、石川県加賀市動橋町のぐず焼きまつりを訪れた。巨大な怪物のような姿をした「化けグズ」を焼き払うお祭りであり、その迫力は圧巻だった。このモチーフはワニなのか?蛇なのか?様々に想像を掻き立てるこのユニークなまつりの実態に迫る。

ぐず焼きまつりとは何か?

毎年8月27日から29日の3日間、石川県加賀市動橋(いぶりはし)町振橋神社で行われるお祭り。前夜祭が行われる27日の夕方に、「化けグズ」と呼ばれる張り子の神輿を担ぎ町内を練り歩いたのち、神社の境内で燃え盛る火の中に「化けグズ」を投げ入れ、一気に燃やす。ところで、この「化けグズ」とは一体なんだろうか?グズとはゴリという魚(淡水に棲むハゼの幼魚)の呼び名で、この地域にある動橋川でよく見られる。今では河原が少なくなって川に入ることもなくなったが、子供達はよく川遊びで捕まえていた魚だった。食べても美味しくないから「くず」と呼ばれていたことがグズと呼ぶようになった語源だ。振橋神社にはこのグズという魚の像がある。

▽焼かれる前のグズ

 

ぐず焼きまつりの由来

動橋町の歴史は古く、人が住んでいた痕跡は古墳時代に遡る。動橋川は曲がりくねった川で、度々氾濫していたため、それに伴い川に架かる橋が揺れ動く様を「振橋」あるいは「動橋」と呼ぶようになったのがこの地名の語源である。大洪水が起こると田畑が荒れて飢饉が起こることも度々であったため、地鎮祭ということで稲の収穫前後に神様に祈りを捧げるお祭りをしてきた。動橋川の氾濫の様子を「怪物」が暴れる様子に見立てて、「怪物退治」を称してかがり火を立てることを大正時代に「屑焼き祭り」と呼んでいた。ただしこの屑焼き祭りのかがり火が大きくなりすぎたために、昭和2年に消防署からかがり火の禁止命令が出てしまい、「くず」を燃やすのではなく「ぐず」を担いだら面白いのでは?という意見が出てきて、それがぐず焼きまつりの基礎になった。

化けグズを災厄の象徴とする

くずからぐずへの転換には、災厄の象徴を変換する必要性があった。元々、火を噴く怪物としてのかがり火を神社裏の古い池に棲む「化けグズ」に変えて、毎年夏の夕刻にその姿を現すという風に転換したのだ。この「化けグズ」が田畑を荒らし村を壊す災厄の象徴としたわけである。この「化けグズ」が最後に退治される必要があり、そこにはこのような物語が構想された。

意地悪な長者の娘が人身御供(ひとみごくう)に出されることになるが、その娘には結婚を約束した青年がいる。古池から現れた「化けグズ」は娘に襲いかかろうとするが、大己貴神(おおなむちのかみ)が現れ、それを退治することに成功。最後は村人たちに焼かれて死ぬ。それから意地悪な長者は改心して良心的な人物になるという物語だ。この物語は「振橋(しんきょう)節」という民謡になり、今でも語り継がれている。

ヤマタノオロチ退治は揖斐川の氾濫を抑える意味があったように、日本全国各地で川の氾濫を抑えることとと毒蛇退治は密接に結びついている。ただし、動橋町のグズ焼きまつりの場合は毒蛇ではなく、地域の人々に親しみのある魚であるハゼをモチーフとしている点がとてもユニークである。また、屑や藁を燃やすという観点から、お正月の左義長どんど焼きと似ているが、左義長はグズ焼きまつりとは別で行なっているようだ。ちなみに、昔からグズ焼きまつりは雨まつりで、台風の時期でもあるし晴れる日は珍しいとのこと。龍神や雨乞い信仰との関連性すらも想像させる。

化けグズの素材

第一号の「化けグズ」が作られたのが昭和3年で、呉服屋の反物箱に太鼓を乗せ、竹や製材屑を紐で細かく編み込み、藁で外側全体を巻きつけた。設計図も何もない状態で大工を含む青年たちがたった1日で仕上げたという。太鼓の位置が変わったりウロコ模様が変わったりと年々グズの装飾は変化しているものの、藁や竹などを使うことは変わっていない。お金をかけずに地域の余り物を生かしてブリコラージュするように制作する工程はとても興味深い。グズは燃やすのは1匹だけで、他のものは展示している。駅前で10体以上、勢ぞろいさせることもする。

コロナ禍でのぐず焼きまつり

戦争時は1年のみ中止になっただけで、今までずっと継続してきたぐず焼きまつり。2020年、2021年はコロナ禍で中止になってしまい、これは今までで異例の事態だったようだ。今回は町内でも様々な意見が上がったものの、最終的には乱舞は無しでグズの展示と焼き払いのみを実施した。

動橋町の気質

動橋町は宿場町であり、電車の駅もあった関係で、日用品を買うために周辺地域から人が集まってくる町だった。イオンやアビオができる前、加賀温泉駅が出来た頃には、既に動橋町は少しずつ寂れていってしまった。車社会の浸透と大きな関係があるだろう。動橋町は商売人のプライドがあって、「オマケしない」「いただく物はきっちりいただく」という人の気質がある。その一方で「後で払うわ」と帳簿をつけて、掛売りをするという文化もあるのが特徴で、周辺の町内にはそのような気質はない。加賀市で一番最初にアスファルトを引いた橋本酒造さんをはじめ、行政に積極的に掛け合えるくらいの発言力や財力もあった。動橋町は〇〇区という班が分かれているが、獅子舞は町全体で行なっている。このことからわかるように、片山津温泉街などとは獅子舞の区分けの仕方が異なっている。

 

参考文献

動橋地区まちづくり推進協議会『ぐずやきまつりのすべて』(令和2年8月)

※上記の文章はこの冊子制作に関わった動橋町教養文化部会長の前川真一さんに伺った内容を含む。

 

 

まさに魅せる獅子舞!今治市にて、アクロバティックな「継ぎ獅子」を見てきた

愛媛県今治市には「継ぎ獅子」という珍しい獅子舞がある。肩の上に人が上り、上へ上へと伸びていき、ものすごく背の高い獅子が生まれるのだ。

てっぺんにいる子どもは獅子であるにも関わらず、獅子頭を被っていない。新潟県の角兵衛獅子のような子供の曲芸としての要素を感じる一方で、千葉県などの梯子獅子やつく舞のように天に向かって高く高く上っていく要素も持っている。江戸時代にもてはやされたアクロバティックさを今に伝える獅子舞と言えるだろう。

今だに子どもの担い手が途絶えないのは、観客を飽きさせない工夫と、晴れ舞台の高揚感が人の心を動かすからだと思う。その魅力について改めて知りたいと思い、愛媛県今治市で2022年8月7日に行われた市民祭り「おんまく」に行ってきた。

継ぎ獅子とは?

まず、基礎知識として、継ぎ獅子とは何か?について触れておきたい。継ぎ獅子は愛媛県今治市越智郡などで広く発達して演じられる曲芸的な立ち芸のことである。原型となる伊勢大神楽は人の肩の上に獅子が上がる「二継ぎ」の獅子が演じられるが、継ぎ獅子の場合は3段の三継ぎ、4段の四継ぎが当たり前だ。かつては五継ぎや六継ぎまであったこともあり、天へ届くように上へ上へと芸風を磨いていった結果とも言える。これは神様に近づきたいという表れであるとされる。また、獅子の長い胴幕が舞台幕となっており、舞い手が登場するときと帰っていく時に、この獅子の胴幕が入退場口として使われるというのは珍しい。頂点に登る子どもを獅子児(ししこ)と言い、扇や鈴を持ちながら舞う。獅子児は獅子頭をつけないという場合もある。

継ぎ獅子で獅子頭をつけない鳥生獅子舞

継ぎ獅子の由来

その起源は伊勢大神楽にあり、江戸時代中期の元禄年間(1688~1703年)に民間の間で盛んになり、春秋の祭礼や船下しの吉事に行われた。継獅子は二、三継の獅子が普通であり、今治市鳥生野間、越智郡大西町九王、越智郡菊間町、同郡波方町などで受け継がれている全国でも珍しい形態を持つ獅子だ。

今治の獅子舞の始まり

江戸中期頃、鳥生村三嶋神社の別当寺、妙釈寺の学信和尚が寺総代に「三嶋神社の祭礼の神輿渡御が貧弱だから獅子舞行列を加えたい」と申し出て獅子頭一頭と付属品全般を寄贈。氏子総代決議の結果、獅子舞修行を庄平氏に依頼。春から秋にかけて伊勢大神楽の流れをくむ獅子舞を習得して、村の若衆に教えたのが始まりとされている。今でも鳥生三嶋神社では、獅子発祥の地の石碑が建てられており、5月の祭礼では獅子が登場する。

※1845年の高山重吉によって明治初期に始められたのが継ぎ獅子の発祥という説もある。おそらく明治になってからの方が今の芸風にかなり近づいたということであろう。

今治市の市民祭り「おんまく」の様子

2022年8月7日に行われた今治市の市民祭り「おんまく」における継ぎ獅子の様子を振り返っておきたい。3組2回で、合計6組の演舞が行われていた。流れとしては概ね鈴をつけた通常タイプの獅子舞が登場したのち、胴幕と獅子頭を外して、人が肩の上に乗り出し、上へ上へと伸びていき背の高い継ぎ獅子が完成する流れだ。

これを2回繰り返して終演という場合が多かった。獅子舞が起伏に富んでいる上に激しく、観る者を飽きさせない獅子舞であると感じた。最前列で通常タイプの獅子の首振りを見ていると、かなり圧倒される。まさに「魅せる獅子」という言葉がふさわしい。

獅子頭と胴幕ありバージョン(阿方獅子舞)

獅子頭と胴幕をとった継ぎ獅子(阿方獅子舞)

参考文献

久保田裕道『日本の祭り 解剖図鑑』(2018年11月, 株式会社エクスナレッジ

阿方文化連盟会長 二宮大『阿方獅子舞・昭和~平成の歩み』(平成19年8月, 原印刷)

近藤晴清『愛媛のまつり』(昭和47年1月, 新居浜観光協会