獅子芝居とは何か?岐阜県岐南町にて、女性になりきる歌舞伎の獅子の成立背景に迫る

岐阜県岐南町で行われた「岐南地芝居公演」に伺ってきた。岐阜県といえば、地芝居や獅子芝居といったいわゆる魅せる演劇的な芝居ものが発達した地域である。その歴史や背景、現状の伝統継承の姿など多角的に迫っていきたい。

2022年9月「岐南地芝居公演」における伏屋の獅子芝居の様子

岐阜県の獅子舞の特徴

まず岐阜県の獅子舞の概観としては、東海と北陸、あるいは東日本と西日本の文化の結節点であり、全国の獅子舞の縮図的な年代と分布の多様性を持つことを特徴とする。流刑人の多い佐渡は民俗芸能のるつぼであり、石川県加賀市は山から海まで多様な地形と生業が存在する点で民俗芸能のるつぼと言え、このような多様性&るつぼ論は巷に溢れすぎているようにも思うが、一応、岐阜県の1つの特徴として触れておこう。

岐阜県に存在する獅子舞の形態といえば、郡上郡北部や大野郡西部で見られる近畿系の「大神楽」「大獅子」や、武儀郡加茂郡で見られる「神楽獅子」、近江から美濃山系を越えて流入した「伊勢大神楽」、飛騨で見られる伎楽獅子の行進後に行われた系譜に始まる「曲獅子」、またこれも飛騨を中心に伝承される獅子を成獣とみなさず田畑を荒らす害獣とみなすという我が国本来の田遊び系に端を発する北陸文化圏の「獅子殺し」などである。また美濃地方の代神楽系の分布の多さは多くの人々の往来を意味しており、戦国武将が美濃制圧に躍起になったように、この地域は人や物の流れの重要拠点であることが読み取れる。

また、岐阜県岐阜市とその近郊では、明治維新以降、獅子舞禁止令なるものが存在し、局所的に獅子舞が存在しない。例えば、各務郡(第三十番中学区)では「祭礼の歌舞妙得伎は冗費」とされ、山県郡(第三十三番中学区)では「風紀を乱す」として、各中学区取締から小区宛てに「獅子舞禁止」が通達された。

獅子芝居の始まり

神楽獅子の獅子頭には男獅子と女獅子の2種類があり、男獅子による舞は全国的に存在するものの、女獅子というのは嫁獅子の系譜であり、江戸時代の後期に始まったのでそう古いものではない。女獅子といえば、男性のかぶき者を女性として表現した出雲阿国の「かぶきおどり」を連想させる。どこか奇をてらい観る者を現実世界と芝居の世界で倒錯させるような魅力が存在するのかもしれない。女獅子というのも男性が演じるのと違ってどことなく優雅であり、滑らかな動きなどが魅力であると個人的には思う。

獅子芝居とは神前で疫病退散の祓いのために舞う神楽獅子(獅子神楽)の後に、獅子が女形になって演じるもので「神楽芝居」とも言われ、歌舞伎芝居の外題(歌舞伎芝居の題名のこと)を演じるという特徴がある。この獅子芝居に使われる獅子頭の特徴としては、耳が立っており白髪がないことである。獅子芝居(嫁獅子)の始まりは寛政年間(1789~1801年)に三河の岩蔵・岩治・作蔵の3人が原型を考え出し、天保年間(1830~1844年)に三河の寿作と諸桑(現海部郡)の龍介(市川竜介の記述もあり)がその3人から嫁獅子を習い、さらに広められたと考えられる。愛知県西部の江南市(布袋町今市場ほか)、東部の小坂井町院内(のち浦郡市形原町金平)が尾張の2大中心地となった。

獅子芝居における獅子は観客にとってどのような存在なのだろうか?通常獅子頭といえば、力強さやたくましさ、荒々しさを表現した有形物である。ところが、獅子芝居においては「人」に扮するために獅子頭を被るという性格上、緊張感や恐怖心、あるいは逆におかしみや嘲笑といった相反する感情を呼び起こすものとなる。獅子芝居における獅子頭をかぶる人は女性役であり、男性が求めてやまない広くて深い愛を秘めた女性像となっている。また現代の舞台美術が知識人を対象としているのに対して、獅子芝居は民衆に広く開かれたものであることも注目すべきである。これは社会に遍満する諸要素を知的記号として処理する手法をとると考えられがちな現代の舞台美術に対して、獅子芝居は物語の要素を単純化して劇的な起伏を激しくするとともに主人公の心の有り様を繰り返し述べることに重きを置いておりそれは感性の鈍化ではなくむしろ深さの提示とも考えられている。現代の飽き易さがむしろ芝居を遠ざけているようであるが、良質で伝統的な深みのあるエッセンスを現代の舞台美術に取り入れていくことも試行錯誤されていくべきとも感じる。

伏屋の獅子芝居

今回拝見した伏屋の獅子芝居は尾張の嫁獅子系のもので、幕末に前述の諸桑の龍介から伏屋の東五郎が習い伝えたものである。元々は神前に納める神楽獅子から発生し、祓うことが主体となって五穀豊穣・村内安全を祈願して氏神白山神社に奉納されてきた舞いに芝居が統合された形である。初期の頃、農耕に明け暮れる村人にとって獅子芝居は唯一の娯楽といっても良いものだった。

伏屋の獅子舞は伊勢神宮の御神木の川狩りの際の奉送迎、京都東本願寺の本堂改築の地築きでの神楽奉納、名古屋汎太平洋博覧会余興などに出演。昭和32(1957)年には犬山成田山での全国獅子舞大会に優勝、昭和47(1972)年に岐南町重要無形文化財に指定、また同年にNHKテレビ放映など、全国規模で活躍してきた獅子舞団体である。また、この昭和47(1972)年には、同時に伏屋獅子舞保存会が設立された。

獅子芝居衰退と活性化の動き

現在は後継者難であり、その背景には組織形態の変化というのが原因としてある。元々1897年まで存在した伏屋村があった頃、熟練者たちが「旭組」と称して獅子舞の活動を行なっており、その旭組の存立基盤として若連(後の青年団であり、伏屋では獅子組と呼んだ)の芸能活動があった。つまり、旭組の人々が師匠となり若連に獅子舞や獅子芝居の演技指導を行なっていたのだ。この芸能活動が鍛錬を必要とするものであったため、青少年が立派な大人になるための通過儀礼として考えられてきた背景がある。伏屋村が周辺の地域と合併した後もこの活動は続いたが、昭和30(1955)年代になるとその伝統は途絶えた。そこから、この昭和47(1972)年の伏屋獅子舞保存会設立への流れに繋がっていく。組織形態の変化は社会情勢の変化でもあって、地域行事の衰退と個人主義の台頭のみならず、大人としての通過儀礼を地域で作っていこうという考え方は徐々に薄れていったことも大いに関係していることだろう。

ちなみに、このあと触れる地芝居の文脈でも昭和30年代というのは1つのターニングポイントとなっている。これは昭和10年代の太平洋戦争による上演中止、昭和20年代には娯楽として映画やテレビの発達、昭和30年代には高度経済成長期に突入して人口の都市流入が活発化した。これらの背景により、地方の獅子芝居や地芝居が衰退したことは明らかであり、これは他の民俗芸能全般に言える現象であろう。これらの衰退を抑えるため、「全国地芝居連絡協議会」の発足や「全国地芝居サミット」の開催、「全国芝居小屋連絡協議会」の発足など全国組織や幕の内弁当的な大イベントを仕掛けることで盛り上げを図っており、この動きもその他民俗芸能と同じような傾向である。ただし、このような大きな組織やイベントが立ち上がることで、芸能の平準化や各固有の土地から湧き上がるような本質性が薄れるようにも思われ、個人的には違う方法も模索していかねばならないと感じている。

岐阜と愛知は「地芝居王国」

村芝居は地芝居とも言い、村人が演ずる芝居なので、都市文化に見られるプロの技とも異なる地域に根付いた芸能とも言える。地芝居は地域住民が演ずる芝居であり、地域に根付いた存在だ。地元の人々が演じることから「地」の字をつけて、「地芝居」と呼ばれている。その中には、地歌舞伎、人形浄瑠璃、能狂言、獅子芝居など様々な芸能が含まれる。素人の演技ではあるが、振り付けや化粧、衣装など全部自分たちで準備を行い、観客を感動させる芝居づくりは本格的である。また、観客も演者に向かって声を掛ける「大向こう」やご祝儀として紙の包みを客席から投げ入れる「おひねり」があり、参加型となっていることは特筆すべき特徴である。

安田文吉・安田徳子『ひだ・みの 地芝居の魅力』(2009年3月, 岐阜新聞社)によれば、地芝居団体は全国に約200あると言われており、岐阜県が最も多く30団体を有する。次が愛知県で17団体であり、合わせると47団体ということで、全国の4分の1を占めることになる。これは獅子舞が石川県と富山県という加賀藩領域に固まっていることと似ており、獅子舞の場合は約8000の獅子舞団体がある一方で、そのうち約2000(約4分の1)は富山県と石川県が占めている。この芸能における愛知県と岐阜県の関係性は、石川県と富山県の関係性に似ているようにも思われる。ちなみに地芝居団体は全国に約200あると言われている一方で、地芝居の舞台は廃絶したものを含めると全国で2000棟近く存在しており、都市芸能の舞台と区別するために「農村舞台」「野舞台」などと呼ぶこともある。また、地芝居の舞台が全てこの「農村舞台」「野舞台」というわけではなく、例えば岐阜県南西部の西濃では曳山の上で上演が行われるので、一概に地芝居の普及数として考えることは難しい。また、日本全国の地歌舞伎保存会の2割が岐阜県に集中しているという事実もある。

地芝居最古の記録

さて、地芝居の歴史は江戸時代の宝永3(1706)年に行われた岐阜県上呂にある久津八幡宮祭礼における上演が記録としては最も古い。この神社には「祭礼日記」なるものが存在しており、この頃に元々、元和元(1615)年に疫病退散を目的に演舞が始まった獅子舞があり、それが宝永3(1706)年の祭礼日記には、獅子舞に続いて「羅生門」という狂言が奉納されていたと記されている。これに使った鬼面が2つと駒形と呼ぶ馬の作り物も伝わっているそうだ。つまり、獅子舞に加えて娯楽性の高い狂言としての地芝居が取り入れられていったというわけだ。

都市で人気の歌舞伎というものを遠く離れた場所でも楽しみたいという思いから発達したのが地芝居であり、役者を都市から呼んできて歌舞伎を楽しむ「買芝居」は容易なことではなかった。近郷に住む旅役者に稽古をしてもらって、自分たちで演じることができるようになれば、毎度「買芝居」をしなくても済むというわけである。江戸時代に地芝居は原則禁止とされてきたが、祭礼の奉納芸あるいはお盆の行事などは例外的に許されてきた。つまり、旅役者から習ったものを自分の地域の行事などと絡めてアレンジして定着させた歴史があるのだ。

さらに、岐阜の中でも東濃地域が17団体と多く、かつて尾張藩領だった場所は芸事に寛容だったという歴史がある。また愛知県では旗本領であった東三河が規制のゆるい地域だった。そのような土地柄も影響して、愛知県や岐阜県には「地芝居王国」と言われるまでに地芝居が定着したのだ。

岐阜県における歌舞伎の最古の記録

ちなみに地芝居の記録ではなく、歌舞伎の記録として岐阜県内で最も古いのは天和3(1683)年、宿村(現在の瑞浪市宿町)の岩屋観音のご開帳の際に、尾張から歌舞伎の一座がやってきて余興として興行したことだという。これは歌舞伎が始まって80年後のことであり、現在の瑞浪市が山間部であることからもわかるように、100年足らずで田舎まで来ていた事実は興味深い。さらにこの上演から23年後には上呂の久津八幡宮にて地芝居が上演されている。都市から地方都市に一座がたち、田舎までの浸透するのは早かったのだ。それに加えて、岐阜では山村での上演記録が最古であることから、田舎での歌舞伎の浸透数が異様に高い地芝居王国としての性格の一端を垣間見ることができる。

そもそも歌舞伎の始まりとは?

1603年に徳川家康征夷大将軍になったのは歴史上の大きな出来事であるが、その直後に京都では出雲阿国という人物が初めて「かぶきおどり」なるものを踊り始めた。当時京都の街では異様に派手な格好をして歩き回り喧嘩をふっかける「かぶき者」が多かったが、彼らの多くは3年前の関ヶ原の戦いで敗北した西軍ゆかりの武将たちが腕の見せ所を失い、やり場のない鬱憤を晴らそうとする行為であった。さまよい歩く彼らの反抗には、怪しくも悲しい魅力があり、出雲阿国はこれに注目した。このかぶき者の様子を演じるのみならず、阿国という女性が男性の様を演じるという男女入れ替わりの倒錯した魅力を加え、「かぶきおどり」を創造して人気を博したのである。

歌舞伎の地方伝播

遊女や若衆など阿国の芸を真似る者が多く現れたほか、阿国自身も京都だけではなく清洲や桑名、家康の住む駿府やゴールドラッシュで沸いている佐渡まで巡業したとも言われている。これが一時的には歌舞伎ブームを起こすこととなった。ただし、阿国が作った女役者の歌舞伎は長く続かず禁止されてしまい、男役者ばかりで演じる「野郎歌舞伎」が生まれて、今日の歌舞伎の原型となった。これは「おどり」から「物真似」への転換でもあって、能や狂言など先行芸能に学びその演劇性も高めていくことで江戸幕府の禁止令を乗り越えていったのだ。まずは江戸、京都、大阪で人気となった歌舞伎は地方へ伝播し、3つの都市の公許を得た「大芝居」が伝播したほか、理由づけがしっかりしたものであれば100日上演の許可が出るといったこともあったようだ。ちなみにこの3都市の次に歌舞伎の流入が早かったのが名古屋であり、東西文化流入の最も進んだ中間点とも言える場所だったと言える。

 

参考文献

岐南町岐南町史 通史編』(1984年3月, 太洋社)

安田文吉・安田徳子『ひだ・みの 地芝居の魅力』(2009年3月, 岐阜新聞社

岐阜県教育委員会岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1999年3月)

岐阜女子大学地域文化研究所『岐阜県の地芝居ガイドブック』(2009年3月)

岐阜女子大学(代表者:持田諒)『岐阜県地芝居研究調査 岐阜県の地芝居を育む人と風土』(2009年)

岐南町『ふるさとの文化財』(2003年9月)

岐南町歴史民俗資料館『民俗資料集VI』(1990年2月)

 

 

 

獅子殺しの起源はいつか?

北陸地方の加賀獅子や岐阜県の金蔵獅子などに見られる獅子殺しの起源はいつであろうか?加賀獅子の起源は前田利家公が江戸時代に金沢城に入城した時に始まるという。これが軍事費を莫大にかけると反乱と勘違いされがちな外様大名ならではの文化面での武芸鍛錬政策として捉えるのは定説であり、この武芸鍛錬のために獅子殺しを生み出したとも言える。ただし、獅子殺しという成獣である獅子を害獣とみなす思想がそう簡単にポッと出てきたとは思えない。加賀獅子以前に、獅子殺しの思想というのは北陸や飛騨地方に存在したということは間違いないだろう。

岐阜県教育委員会岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1999年3月)に非常に興味深い言説が掲載されていた。飛騨を中心に伝承される獅子を成獣とみなさず田畑を荒らす害獣とみなすという、我が国本来の田遊び系に端を発する北陸文化圏の「獅子殺し」を金蔵獅子と結びつけるような言い回しがなされている。ちなみに、田遊び系とは田楽の一形態であり、元々田楽は田遊び系、田楽躍系、お田植え神事系の3つに分類される。岐阜県内で田遊び系の芸能といえば、益田郡下呂町森の森八幡宮に伝わる「田の神祭」では古風な田植え歌が歌われる。また、郡上郡白鳥町長滝の白山長滝神社で1月6日の祭礼で行われる延年もこの田遊び系の一種である。ただしこれらに獅子殺しの要素はなかなか見つからない。

ちなみに、この「獅子殺し」は古代から中世まで飛騨国が汎日本海文化の文化周圏地とされており、その上650年時点では祭政一致を旨とする当時の国司は天津社・国津社宮司を兼ねていたという話もある。つまり、政治家が神事芸能の指導まで行っていたということになり、当時の支配者層は帰化人である大野郡司高市麻呂(749年)、百濟王利善(766年)、秦忌寸伊波多紀(774年)などであったから、伎楽が流入していたことも頷ける。飛騨は以前からなぜこんな山奥にも1000年以上前から獅子舞が伝承されているのか不思議であったが、このような背景があるのだろう。結局、この大陸系の曲獅子と何処かのタイミングで生まれた獅子殺しが統合されて金蔵獅子が成立したことも念頭に入れねばなるまい。

なぜ獅子頭を被らないのに獅子舞なのか?扇子の動きに注目! 長野県奈川獅子舞に行ってきた

獅子頭も胴体もない獅子舞が存在するという。そんなことを聞きつけて、長野県松本市から車で1時間、上高地にも程近い秘境・奈川寄合渡に行ってきた。この地域には「奈川獅子舞」と言って、通常の獅子頭と胴体を身にまとう獅子がある一方で、それらを持たず扇子のみで獅子を表現するという演目がある。その演舞があるからということで、2022年9月3日、現地に行ってきたのだ。

獅子頭と胴体あり

扇子のみの獅子舞

youtu.be

奈川獅子舞の由来

天保9年(1837年)の『書上』によれば、奈川には駄賃稼ぎの牛が82組、415匹と記されている。これらの牛の駄賃稼ぎをする人が多く、JR篠ノ井線が開通した明治末まで続いたと言われている。牛は物を運ぶ運搬の足として重宝されたわけで、奈川寄合渡も元々はモノとヒトが行き交う賑やかな場であったはずだ。しかし、鉄道の発達とともに、そちらの方に需要を持って行かれてしまったわけだ。今では奈川寄合渡は小さな集落となっている。

この地域の獅子舞は獅子神楽の系統であり、氏神である天宮大明神のお祭りで奉納されている。その由来は富山県のキンマヒキ(彩漆塗職人)の横井市蔵という人物が、大正初期に寄合渡に移り住んで、地元の人々に教えたのが始まりと伝えられている(奈川寄合渡の天宮大明神前の立て札には、木馬引きの出稼ぎに来ていた横井市蔵が明治45年に神谷の自彊青年会に教えて、それが十数年後に後継者不足で継承困難となって寄合渡青年会に伝えられた。その際に寄合渡青年会は再び横井氏に教えを請うたとされている)。横井氏が伝承した獅子は富山県南砺市(旧平村)の獅子舞の形態であったようで、獅子に手踊りがあるのは南砺市の百足獅子の表現なのでは?という説もある。平成19年には松本市重要無形民俗文化財に登録された。

奈川獅子舞の流れ

奈川獅子の演目は1つの物語に沿っている。その物語の発端となるのが、飛騨の国境の山奥に潜むと言われる一頭の大獅子だ。この大獅子が村に出てきては田畑を荒らし、家畜に危害を加え、村人たちを苦しめていたという。この大獅子は神出鬼没で一夜のうちに七つの山を越えため、人間業では容易に討ち取ることができなかった。そこへ不思議なことに大天狗が現れ、狩人たちを助けてようやく討ち取ることができた。狩人たちは大獅子を討ち取った喜びに疲れも忘れ、互いに手柄話に花を咲かせていた。すると死んだと思っていた大獅子が息を吹き返し、狩人たちに猛然と襲いかかってきたため、狩人たちを再び苦しめた。狩人の中に薙刀の名手がいて、大獅子との大乱闘の末に、最後にとどめを刺した。この物語を獅子舞と手踊りとで表現しているのが、奈川獅子である。ちなみに獅子舞の棒振り役を「獅子捕り」と言うそうで、まさに大獅子を捕らえるという意識が反映された呼び名と言えよう。

獅子舞の演目は①祇園囃子②きよもり③よしざき④獅子ころし・きりかえし⑤薙刀の5つの場面で構成される。①の場面で獅子が田畑を荒らして村人を苦しめる。②③で棍棒や竹槍では獅子を打ち取ることができなかったが、天狗が技を使って最終的にそれを打ち取ることに成功。しかし④で手柄話に花を咲かせる村人をよそに獅子が生き返り⑤で天宮大明神の薙刀を天狗から受け取った村の薙刀名人が死闘の末に獅子を退治するというストーリーとなっている。

激しい雄獅子の獅子殺しが見所である。拝殿での神事ののち、大人の獅子舞→子供の獅子舞→子供の手踊り→大人の手踊りの順番で行われる。なお、ここで言う手踊りでは扇子を獅子に見立てて踊るということであり、身体的な動作は獅子舞も手踊りもほとんど変わらない。ただし、手踊りでは⑤の薙刀の演目が行われないという違いがある。

なぜ、扇子の獅子なのか?

扇子を使う理由は地域の方によれば「扇子で舞うことができなければ、獅子を舞うことはできない。扇子で舞うことができれば、獅子を舞うことはできる」という言い伝え?があるからだそうだ。獅子舞上達のための登竜門みたいなのが作りたかったのかもしれない。これは獅子は皆が演じることができる役ではなく、動きがとても激しくて技を磨くことが必要だし、中に入れるのは2人しかいないという特別な役柄であったことが関係しているのだろう。

最初見たときは蝶々みたいだなと思ったが、よくよく観察してみると、扇子の動きはシシっぽかった。ここからは僕の推測だが、扇子を扱うときに大振りに軽やかに練習してみることで、その身体感覚を染み込ませることができ、獅子頭と胴体を扱いやすくしている可能性もあるように思えた。

 

参考文献

奈川獅子舞保存会資料

小林幹男『信濃の獅子舞と神楽』(信濃毎日新聞社, 2006年8月)

巨大な魚を燃やす!?ぐず焼きまつりの秘密に迫る

8月27日、石川県加賀市動橋町のぐず焼きまつりを訪れた。巨大な怪物のような姿をした「化けグズ」を焼き払うお祭りであり、その迫力は圧巻だった。このモチーフはワニなのか?蛇なのか?様々に想像を掻き立てるこのユニークなまつりの実態に迫る。

ぐず焼きまつりとは何か?

毎年8月27日から29日の3日間、石川県加賀市動橋(いぶりはし)町振橋神社で行われるお祭り。前夜祭が行われる27日の夕方に、「化けグズ」と呼ばれる張り子の神輿を担ぎ町内を練り歩いたのち、神社の境内で燃え盛る火の中に「化けグズ」を投げ入れ、一気に燃やす。ところで、この「化けグズ」とは一体なんだろうか?グズとはゴリという魚(淡水に棲むハゼの幼魚)の呼び名で、この地域にある動橋川でよく見られる。今では河原が少なくなって川に入ることもなくなったが、子供達はよく川遊びで捕まえていた魚だった。食べても美味しくないから「くず」と呼ばれていたことがグズと呼ぶようになった語源だ。振橋神社にはこのグズという魚の像がある。

▽焼かれる前のグズ

 

ぐず焼きまつりの由来

動橋町の歴史は古く、人が住んでいた痕跡は古墳時代に遡る。動橋川は曲がりくねった川で、度々氾濫していたため、それに伴い川に架かる橋が揺れ動く様を「振橋」あるいは「動橋」と呼ぶようになったのがこの地名の語源である。大洪水が起こると田畑が荒れて飢饉が起こることも度々であったため、地鎮祭ということで稲の収穫前後に神様に祈りを捧げるお祭りをしてきた。動橋川の氾濫の様子を「怪物」が暴れる様子に見立てて、「怪物退治」を称してかがり火を立てることを大正時代に「屑焼き祭り」と呼んでいた。ただしこの屑焼き祭りのかがり火が大きくなりすぎたために、昭和2年に消防署からかがり火の禁止命令が出てしまい、「くず」を燃やすのではなく「ぐず」を担いだら面白いのでは?という意見が出てきて、それがぐず焼きまつりの基礎になった。

化けグズを災厄の象徴とする

くずからぐずへの転換には、災厄の象徴を変換する必要性があった。元々、火を噴く怪物としてのかがり火を神社裏の古い池に棲む「化けグズ」に変えて、毎年夏の夕刻にその姿を現すという風に転換したのだ。この「化けグズ」が田畑を荒らし村を壊す災厄の象徴としたわけである。この「化けグズ」が最後に退治される必要があり、そこにはこのような物語が構想された。

意地悪な長者の娘が人身御供(ひとみごくう)に出されることになるが、その娘には結婚を約束した青年がいる。古池から現れた「化けグズ」は娘に襲いかかろうとするが、大己貴神(おおなむちのかみ)が現れ、それを退治することに成功。最後は村人たちに焼かれて死ぬ。それから意地悪な長者は改心して良心的な人物になるという物語だ。この物語は「振橋(しんきょう)節」という民謡になり、今でも語り継がれている。

ヤマタノオロチ退治は揖斐川の氾濫を抑える意味があったように、日本全国各地で川の氾濫を抑えることとと毒蛇退治は密接に結びついている。ただし、動橋町のグズ焼きまつりの場合は毒蛇ではなく、地域の人々に親しみのある魚であるハゼをモチーフとしている点がとてもユニークである。また、屑や藁を燃やすという観点から、お正月の左義長どんど焼きと似ているが、左義長はグズ焼きまつりとは別で行なっているようだ。ちなみに、昔からグズ焼きまつりは雨まつりで、台風の時期でもあるし晴れる日は珍しいとのこと。龍神や雨乞い信仰との関連性すらも想像させる。

化けグズの素材

第一号の「化けグズ」が作られたのが昭和3年で、呉服屋の反物箱に太鼓を乗せ、竹や製材屑を紐で細かく編み込み、藁で外側全体を巻きつけた。設計図も何もない状態で大工を含む青年たちがたった1日で仕上げたという。太鼓の位置が変わったりウロコ模様が変わったりと年々グズの装飾は変化しているものの、藁や竹などを使うことは変わっていない。お金をかけずに地域の余り物を生かしてブリコラージュするように制作する工程はとても興味深い。グズは燃やすのは1匹だけで、他のものは展示している。駅前で10体以上、勢ぞろいさせることもする。

コロナ禍でのぐず焼きまつり

戦争時は1年のみ中止になっただけで、今までずっと継続してきたぐず焼きまつり。2020年、2021年はコロナ禍で中止になってしまい、これは今までで異例の事態だったようだ。今回は町内でも様々な意見が上がったものの、最終的には乱舞は無しでグズの展示と焼き払いのみを実施した。

動橋町の気質

動橋町は宿場町であり、電車の駅もあった関係で、日用品を買うために周辺地域から人が集まってくる町だった。イオンやアビオができる前、加賀温泉駅が出来た頃には、既に動橋町は少しずつ寂れていってしまった。車社会の浸透と大きな関係があるだろう。動橋町は商売人のプライドがあって、「オマケしない」「いただく物はきっちりいただく」という人の気質がある。その一方で「後で払うわ」と帳簿をつけて、掛売りをするという文化もあるのが特徴で、周辺の町内にはそのような気質はない。加賀市で一番最初にアスファルトを引いた橋本酒造さんをはじめ、行政に積極的に掛け合えるくらいの発言力や財力もあった。動橋町は〇〇区という班が分かれているが、獅子舞は町全体で行なっている。このことからわかるように、片山津温泉街などとは獅子舞の区分けの仕方が異なっている。

 

参考文献

動橋地区まちづくり推進協議会『ぐずやきまつりのすべて』(令和2年8月)

※上記の文章はこの冊子制作に関わった動橋町教養文化部会長の前川真一さんに伺った内容を含む。

 

 

まさに魅せる獅子舞!今治市にて、アクロバティックな「継ぎ獅子」を見てきた

愛媛県今治市には「継ぎ獅子」という珍しい獅子舞がある。肩の上に人が上り、上へ上へと伸びていき、ものすごく背の高い獅子が生まれるのだ。

てっぺんにいる子どもは獅子であるにも関わらず、獅子頭を被っていない。新潟県の角兵衛獅子のような子供の曲芸としての要素を感じる一方で、千葉県などの梯子獅子やつく舞のように天に向かって高く高く上っていく要素も持っている。江戸時代にもてはやされたアクロバティックさを今に伝える獅子舞と言えるだろう。

今だに子どもの担い手が途絶えないのは、観客を飽きさせない工夫と、晴れ舞台の高揚感が人の心を動かすからだと思う。その魅力について改めて知りたいと思い、愛媛県今治市で2022年8月7日に行われた市民祭り「おんまく」に行ってきた。

継ぎ獅子とは?

まず、基礎知識として、継ぎ獅子とは何か?について触れておきたい。継ぎ獅子は愛媛県今治市越智郡などで広く発達して演じられる曲芸的な立ち芸のことである。原型となる伊勢大神楽は人の肩の上に獅子が上がる「二継ぎ」の獅子が演じられるが、継ぎ獅子の場合は3段の三継ぎ、4段の四継ぎが当たり前だ。かつては五継ぎや六継ぎまであったこともあり、天へ届くように上へ上へと芸風を磨いていった結果とも言える。これは神様に近づきたいという表れであるとされる。また、獅子の長い胴幕が舞台幕となっており、舞い手が登場するときと帰っていく時に、この獅子の胴幕が入退場口として使われるというのは珍しい。頂点に登る子どもを獅子児(ししこ)と言い、扇や鈴を持ちながら舞う。獅子児は獅子頭をつけないという場合もある。

継ぎ獅子で獅子頭をつけない鳥生獅子舞

継ぎ獅子の由来

その起源は伊勢大神楽にあり、江戸時代中期の元禄年間(1688~1703年)に民間の間で盛んになり、春秋の祭礼や船下しの吉事に行われた。継獅子は二、三継の獅子が普通であり、今治市鳥生野間、越智郡大西町九王、越智郡菊間町、同郡波方町などで受け継がれている全国でも珍しい形態を持つ獅子だ。

今治の獅子舞の始まり

江戸中期頃、鳥生村三嶋神社の別当寺、妙釈寺の学信和尚が寺総代に「三嶋神社の祭礼の神輿渡御が貧弱だから獅子舞行列を加えたい」と申し出て獅子頭一頭と付属品全般を寄贈。氏子総代決議の結果、獅子舞修行を庄平氏に依頼。春から秋にかけて伊勢大神楽の流れをくむ獅子舞を習得して、村の若衆に教えたのが始まりとされている。今でも鳥生三嶋神社では、獅子発祥の地の石碑が建てられており、5月の祭礼では獅子が登場する。

※1845年の高山重吉によって明治初期に始められたのが継ぎ獅子の発祥という説もある。おそらく明治になってからの方が今の芸風にかなり近づいたということであろう。

今治市の市民祭り「おんまく」の様子

2022年8月7日に行われた今治市の市民祭り「おんまく」における継ぎ獅子の様子を振り返っておきたい。3組2回で、合計6組の演舞が行われていた。流れとしては概ね鈴をつけた通常タイプの獅子舞が登場したのち、胴幕と獅子頭を外して、人が肩の上に乗り出し、上へ上へと伸びていき背の高い継ぎ獅子が完成する流れだ。

これを2回繰り返して終演という場合が多かった。獅子舞が起伏に富んでいる上に激しく、観る者を飽きさせない獅子舞であると感じた。最前列で通常タイプの獅子の首振りを見ていると、かなり圧倒される。まさに「魅せる獅子」という言葉がふさわしい。

獅子頭と胴幕ありバージョン(阿方獅子舞)

獅子頭と胴幕をとった継ぎ獅子(阿方獅子舞)

参考文献

久保田裕道『日本の祭り 解剖図鑑』(2018年11月, 株式会社エクスナレッジ

阿方文化連盟会長 二宮大『阿方獅子舞・昭和~平成の歩み』(平成19年8月, 原印刷)

近藤晴清『愛媛のまつり』(昭和47年1月, 新居浜観光協会

舞わず、頭を噛まない獅子!?福岡市紅葉八幡宮で「祓い獅子」を見てきた

福岡県には、珍しい獅子舞があると聞いていた。獅子舞なのに舞わず、ただ持っているだけという。神輿渡御行列の獅子舞ならよく知っているが、門付け型の獅子舞なのに舞わないのはとても珍しい。いつも東日本の獅子舞ばかり見てきたので、九州の獅子舞も見てみるかと思いたち、福岡へと向かった。

福岡の獅子舞

九州地方の獅子舞は古くはイノシシをモチーフとしていることが多いと言われている。福岡県に伝わる棕櫚(しゅろ)毛で覆われている獅子舞はこの特徴を色濃く残しているといえよう。『福岡県郷土芸術』第二分冊、「民間演芸」の巻一(昭和8年)には、「獅子舞の成立」について、甲乙丙の3種類に分類している。甲は浮羽郡柴刈村(田主丸町、のち久留米市)柳瀬玉垂宮の払い獅子、乙に福岡市香椎宮の伎楽系舞楽的獅子舞、丙に早良郡壱岐村野方(現福岡市西区)の演劇・狂言的獅子舞の3分類である。獅子舞の国際交流という観点からは、祓い獅子は高良大社のふさふさとした縫いぐるみ獅子、筑後川流域の棕櫚毛の獅子、荒れ獅子に中国や沖縄の獅子舞との類似性が見られる。また、演劇・狂言的獅子舞には朝鮮半島南部との交流が見られるため、大陸との結びつきも強い。

祓い獅子の由来

祓い獅子は家々を門付けして回る門祓いと、神輿の先祓いをする祭礼の祓い獅子がある。福岡において、今回取材対象としたのが神社でお祓いを受けて神遷しをした獅子が、村の家々を戸別に回り、無病息災や五穀豊穣を祈願する「門祓いの獅子」のことで、伊勢大神楽が源流とも言われる。市場直次郎氏によれば、伊勢大神楽は昭和初期まで九州北部に来ていた。これは伊勢参宮に成り代わって祈願・祈祷の神楽を奉納することを目的として、代神楽が受け入れられていた。この伊勢大神楽が現在、九州北部で舞うことはなくなっているが、現在は「獅子回し」「獅子廻(ししかい)」「獅子打ち」「お獅子さま」「獅子追い」「ゴキトウ」などと呼ばれて地域の人々により受け継がれている。古くは江戸時代から行なっていた祓い獅子もあるだろう。

阿形(赤)と吽形(緑)の祓い獅子

祓い獅子の分布

農村、漁村、都市部を問わず広がっているが、博多だけは山笠行事があるので根付かなかった。福岡市内には約30箇所で受け継がれている。平成30年には13件の祓い獅子が無形民俗文化財に指定された。特徴としては担い手に多くの子供が関わっていることが多く、地域コミュニティの活性化に寄与しているところが評価されている(逆に地域コミュニティが希薄なところには祓い獅子が根付かないということだろう)。山笠への憧れから「お汐井(しおい)とり」を行い、「オッショイ」という掛け声をかける地域もある。(参考:https://sasatto.jp/article/entry-1264.html

祓い獅子を見てきた

紅葉八幡宮の祓い獅子に取材に伺ってきた。門付けして回る獅子舞としては舞わずに頭を噛むこともしないという点で日本全国でも珍しく、なぜこのような獅子舞が福岡市周辺に広まったのか?という興味から現地に伺ってきた。

獅子まつりの流れ

紅葉八幡宮では毎年8月上旬に獅子まつりを開催しており、今年も14時に拝殿より始まった。まず30分程度、祝詞の奏上や玉串奉奠、獅子に魂を入れる儀式を行う。その後、AからDまでの4つの班に分かれて、2対8頭の獅子頭が周辺の商店街を練り歩く。獅子頭は阿吽で一組になっており、阿形が赤色、吽形が緑色と決まっている。通常であれば子供神輿も行い、その子供達に商店街の人々が水をかけるが、コロナ禍のため今回は獅子頭の門付けのみとなった。一通り回り終えると、4つの班は拝殿に戻り、16時頃に最後の挨拶の後、飲み会となった。飲み会前まで取材で同行させていただき、その後帰路についた。ディープなところまで見させていただき、とても貴重な取材であった。

また、今回は拝見できなかったが、門付けだけではなく、お泊まりという獅子もある。これは祭りの日ではなく日常的に、家の玄関に獅子頭を保管しておくという風習だ。それをお隣さんお隣さんというふうに順々に回していくことを獅子回しと言ったのだろう。現在このお泊まりは氏子の町内の鳥居がある通りのガラスの仕事をしている家で行われている。この獅子頭を紅葉八幡宮の獅子まつりの日に使うというのだ。禰宜の方が、「邪気祓いの獅子を家においておきたいという気持ちは自然なことなんじゃないかな」とお話されていたのが印象的だった。

祓い獅子の様子(紅葉八幡宮

獅子の門付け方法

僕が獅子まつりの日に付いて回らせていただいた班は、さざえさん通りの個人商店を中心として13軒ほど回っていた。あらかじめ、回ることは告知しておくらしい。途中、縦長で上に赤色、下に緑色の獅子頭が載っている御札が貼られているところを回り、これは紅葉八幡宮の氏子だという。もし留守だとしてもシャッターの前で行うなどの工夫が見られた。氏子の祝儀は1000円以上となっており、昔からの人は3000~5000円払ってくれる人もいる。この祝儀は茶封筒に入れて手渡しする。そのお礼として、獅子頭の巡行をする人は「門祓商売繁盛家内安全祈願御幣紅葉八幡宮」と書かれた紅白のデザインの御幣を手渡すというやり取りが交わされる。獅子によるお祓いは基本的に獅子頭を持っているだけで、神職の方が大麻(おおぬさ)を振りながら何かを唱える。唱え終わると「ええい!!!」と低くておどろおどろしい声で叫び、それを合図に全員で「家内安全商売繁盛」と唱えて終える。子どもがいるお店は、泣いている姿も見られた。

担い手の属性

各班人数は10名程度で20代から60代以降まで、多世代の人々で構成されていた。役割としては祝儀を受け取る人1名、御幣を渡す人1名、大麻を振り祝詞を唱える神職1名、獅子を持つ若者2名、提灯を持つ人多数となっていた。僕がついて回っている班には、最年少だと社会人2年目の24歳の女性がいて、普段は様々なお祭りやイベントで太鼓を披露したり、獅子祭りでは子供神輿に付いて歩くという。ただ、今回はそれらが中止になったので、初めて払い獅子の提灯役で参加したとのこと。また、39歳の男性は普段、小学生がいる親が所属するおやじの会に属しているが、お手伝いということで初めて払い獅子に参加したという。青年団や町内会など特定の枠組みの中から担い手が募集されるわけではなく、広く募集しており毎年同じ人がなるわけではないことが伺える。

祓い獅子の継承について

この紅葉八幡宮一帯の風景は変わった。1985年頃より前は、海が近くて元寇を防いだ歴史がある海岸線が近くに広がっていた。商店街は200~300坪の家が多かったが、相続税が払えなくなって土地を売る人が増えた。地価が上がってマンションが建って、それで地元の人と繋がらないような人がたくさん入ってきた。地下鉄の駅まで近いし、博多まで一本で出られる立地は魅力的だ。子どもも約1300人もいて、中学校は1学年6クラスで800人もいる。ただし、学校のグラウンドは小さくなった印象だ。小学校はずっと1年から6年までいる人は1/3くらいで転入転出を繰り返している。そういう意味では、人は多いけど祭りを続けていくのが難しいというのが現状だ。現在、紅葉八幡宮には18体も獅子頭があり、なぜこれほどまでに多いかといえば、各町内で継承できなくなったものが集まってくるからとのこと。昔は6地区で行われていたが、現在は3地区(祖原、中西、紅葉高取)のみで行われている。

お神輿と獅子まつりがセットで開催されている理由としては、子供がお神輿をしていれば、親が祓い獅子に関わるからのようだ。現在、子供神輿に関わる人が200人もいる。繋いでいくためには相乗効果が必要なのだ。お祭りには静と動があって動の部分は水を掛け合う子供神輿の部分を町と一緒になって行う。これが楽しければ「また来年も」という声があがる。一方で静の部分は神事を厳かに繋いでいくということである。

紅葉八幡宮の祓い獅子の由来

禰宜の方によれば約300年前に遡るが、どこから伝わったかはわからない。黒田家の資料「新訂黒田家譜」によれば、享保の大飢饉(1732年)の翌年、藩主の黒田継高公が福岡藩の農民10万人以上が餓死したことをうけて、紅葉八幡宮にそれを祈祷させたことが伝わっている。おそらくこの飢饉の時期に、祓い獅子も始まったのではないかとも考えられる。

大事なことは顔を合わせること

舞わない獅子はどんなもんだろう?と思って現地に行ってみて感じたのは、この地域において重要なことは「顔を合わせること」なのではないかと思えてきた。生と死の境目をさまようような凄まじい儀式性はみられないし、ましてや舞わない噛まないという極めて大人しい獅子だった。しかし、獅子まつりという存在を後世に残していきたいと、世代を超えて仲間を集め、子ども神輿とセットにすることによって相互的な継承を試みていた。門付けに来てくれたと笑顔を見せてくれる人々が印象的だった。地域の社会的インフラとして、今も昔もその機能を保ち続けているのだ。

 

参考文献

佐々木哲哉『福岡祭事考説』(2017年2月, 海鳥社

福岡市経済観光文化局文化財活用部『ふくおか文化財だより vol.36 2021年12月号』

福岡市経済観光文化局文化財活用部『ふくおか文化財だより vol.36 2022年2月号』

平井武夫『福岡県民俗芸能』(昭和56年11月, 文献出版)

福岡市文化財活性化実行委員会『福岡市における獅子祭りの分布と現状に関する調査報告書(城南区, 早良区, 西区編)』(2014年3月)

 

参考URL

sasatto.jp

sasatto.jp

 

つく舞とは何か?カエルが柱をよじ登る意味とは?その秘密に迫る

2022年7月24日18時から茨城県龍ケ崎市でつく舞を見てきた。つく舞とは何か?を参考文献を参照して述べたのち、当日の様子を振り返る。

つく舞の由来

柳田國男によれば、つく舞の「ツク」とは柱のことで、澪標(みおつくし)の「ツク」と同義であるとする。澪標とは水の筋のことで、船が通るときの航路を「澪」とするとその印である標識の棒のことであり、標(つくし)は高い柱の意味があるのでそれを「つく柱」と呼ぶようになった。これが、今日のつく舞に使われる高い柱のことである。柱を立てる習慣は日本全国にあり、その代表的な例が諏訪大社御柱だ。柱は神を祀るときの標識で、柱の上で曲芸を披露するようになったのは後世の話のようである。

また、蜘蛛舞がクモを見立てた動きをするように、つく舞はキツツキの動きを見立てたものだと説いたのが、古谷津順郎氏だ。中世の代表的な百科辞典である『壒嚢鈔(あいのうしょう)』を読み解き、啄木(きつつき)を寺啄(てらつつき)と書いてこれがツクマイに転化したというのだ。

つく舞の伝来経路

なんとルーツは西域の都盧(とろ)と言われる場所にあり、これはパルティアとシリアの国境、ユーフラテス川の上流にある隊商の集まる地「ドウラ・ユーロポス」のドウラを漢字表記した名前である。これが中国の漢の武帝の頃に「都盧尋橦(とろじんどう)」という曲芸として唐に伝わり、竹竿に登る遊戯としてとても人気があった。今でも、中国の雲南省では、ミャオ族やヤオ族によって伝承されている。都盧尋橦は日本の正倉院に保管されている散楽図にも大男の頭の上に立てた竿の上で子供が曲芸をするような姿で描かれている。日本には奈良時代に散楽として伝わり、担い手は散楽戸の職を得て雅楽寮に入れられた。東大寺大仏の開眼式典に出席したほか、782年まで継続されたがその後は官の保護から外れ、民間に流布することとなる。また『日本民俗事典』によれば、中国から日本へ奈良時代に伝来した散楽雑戯の流れを汲む中世に成立した蜘蛛舞という芸能が、寺社の境内に勧進されるようになり、室町時代から江戸時代にかけて仮小屋で見世物として披露されるようになった。つく舞はこの影響を多分に受けている。

現在のつく舞

近年関東でつく舞が実施されているのは、龍ヶ崎、野田、多古、旭の4箇所。つく舞が撞舞と漢字表記される場合もあれば、しいかご舞(多古)や陰陽法(旭)などと呼ばれる場合もある。龍ヶ崎や野田は雨乞い祈願を行うため雨蛙が登場する。一方で、同じ雨乞いでも旭は獅子が登場するし、多古は獅子・鹿・マンジュウが登場したのち江戸の山王社の影響で水神的側面を持つ猿が柱をよじ登るため、その姿は一様でない。いずれも祇園信仰と結びつき、雨乞いをはじめとした水に関わる信仰に結びついているのは興味深いところだ。この中でも、登場役柄が少なくてシンプルな龍ヶ崎の撞舞が最も古い形を今に伝えているとも言われる。

龍ヶ崎撞舞の歴史

茨城県龍ヶ崎では、つく舞を撞舞と表記する。その起源は約400年以上前に遡るとも言われ、文献では中村国香『房総志科続編』(天保3年・1832年)、清宮秀堅『下総国旧事考』(弘化2年・1845年)などにその様子が記されており、筑波から伝わった舞いだとか、中国の鞦韆(ぶらんこ)のようなものとか、竿登りの遊戯(軽業)などと記している。また、舞男が被る雨蛙の面の後頭部に垂らした布に「天王町 安政二年 六月吉日」と書かれており、1855年が最も古い物的証拠として遡れる年数である。昔は船頭が帆柱を使って演じていたが、それが徐々にとび職へと担い手が移行していった。一時戦時中に途絶えたことがあったが、昭和25年に復活して現在に至る。

龍ヶ崎撞舞の様子

撞舞で使用する柱(撞柱)は8間(14メートル)ほどであり、この柱は龍の体を型どったものだ。この撞柱に登るのがとび職の選ばれし舞男が雨蛙に扮し、一人の演技を大勢の観衆が見つめるというスタイルである。舞男はまずお祓いを受けてから、四方払いと言って矢を東西南北に放ち、横木で仰向けになり扇子を広げ、円座で逆立ちをし、綱を伝ってスルスルと降り綱を掴んでぐるぐると回ってみせる。ちなみに、雨蛙の前方に垂れている赤い布は舌を表し、後方に垂れている布はウロコを表す。


龍ヶ崎撞舞の意味

柱の最も高いところに設置される横木の一方には鉄製の轡を2個、もう一方には麻の房を垂らす。これは馬を模しており、「天馬空を行き、馬上で雨蛙が舞う」と言われる。また、つく柱は龍が雨蛙を飲み込む様子を表しており、飲もうとすると龍の口に轡がはめられているので飲み込むことができない。それに苛立った龍が天に昇り雨を降らせるので、つく舞は雨乞いの神事と言われている。昔、雨蛙が落下することもあり、不浄な場所だからということで次の年にはつく柱を前方に移動することもあったが、明治以降はそのような事故は発生していない。

龍ヶ崎撞舞の運営形態

つく舞の舞台設置などの準備は、以前は龍ヶ崎市根町の方々が集まってやっていたが、現在は撞舞保存会の依頼によりとび職組合に任されている。本来であれば舞男は1人のみだが、途中で練習に参加することになった人がいて、結局2人でできるため近年、本番は2人で行うようにしている(これはおそらく、担い手育成の意味があるだろう)。引退年齢は決まっておらず、今現役の人の年齢が満53歳と45歳だ。立候補ではなく基本的には紹介で、舞男が決まる。とび職の中でもできそうな人とできなさそうな人がいるので、その適性を見極めながら舞男を選ぶ。夏になると、本番の1ヶ月半前から市役所の敷地につく柱を立てて練習を行う。練習回数は年間を通しても7回程度で、それほど多くはない。2022年は6月5日、12日、26日、7月3日、10日、17日、22日に練習を行った。7月3日、10日、17日は練習用の柱を使って行い、22日は本番の撞柱での練習を行ったらしい。祭り前は熱を出すわけにもいかないので、健康に配慮して生活を送っているという。

平成14年3月14日の読売新聞茨城南部版によれば、龍ヶ崎の撞舞の芸能継承に関する記事が掲載された。撞舞の運営は龍ヶ崎市中心市街地にある8地区が一年ごとに輪番制で担当することになっており、その費用は1回につき約150万円かかる。通常は八坂神社の「八坂割」という氏子たちへの割り当てや積立金で賄うそうだが、例年不足するため50万円前後を担当区が負担することになっているという。それに加えて担当区は撞舞の練習に人員を10名ほど出さねばならず、出費と人員を出すことが苦しいため撞舞実施は困難であるという決断が出された。結局、龍ヶ崎市も参加して実行委員会を設立。この年に結局開催されたかは定かでないものの、この400年続く撞舞という芸能を継承していくことには難しさがあるようだ。ただし、その反面ではやりがいを感じられるということは事実だろう。

 

参考文献

龍ケ崎市編さん委員会『龍ヶ崎市史 民俗編』(1993年3月)

龍ヶ崎市歴史民俗資料館『企画展 「利根川流域のつく舞」』(1994年6月)