日本全国でも珍しい?お湯を撒く!箱根・湯立獅子舞を見てきた

箱根仙石原に伝わる湯立獅子舞は、日本全国でも珍しい湯立の形式を持つ獅子舞だ。先日、国選択無形民俗文化財にも指定された。この神事の珍しさに着目しながら、先日取材させていただいたときの様子を振り返りたい。

湯立獅子舞の由来

箱根仙石原諏訪神社境内にある湯立神楽の碑には以下のような内容が書かれていた。

諏訪神社に伝わる湯立神楽の起源は、安永5(1776)年、甲斐国郡内下吉田村富士吉田市下吉田)の住人である萱沼儀兵衛が伝えたことに始まる。国家安泰、家内安全、五穀豊穣、悪疫退散などを祈願して、地域住民の精神の拠り所となり、厳格に秘伝された民俗芸能だ。宮舞、平舞、劔の舞、行の舞、宮巡りの舞、釜巡りの舞、四方固めの舞の7種類が奉納され、大釜の熱湯を神楽の法力によって冷まし、氏子の頭に振りかけ無病息災を祈る神事である。獅子が人に代わってその行をするのは全国的にも稀な価値を有している。

湯立神楽を獅子が演ずるから湯立獅子舞と呼ばれるようになったのだろう。元々は御殿場の方で獅子舞を遊び覚えた若者たちの集団がいて、若者組の分裂を恐れた長老や村役人たちがそれを却下。追及を逃れるためにその若者たちは箱根に湯治に出かけ、疫病に苦しむ箱根・仙石原の人々に獅子舞を教えた。それもあってか、長老や村役人たちと若者が仲直り。若者たちは村掟を守るようになったというめでたい話もある。湯立獅子舞が根付いた背景には、周辺の村との交流と疫病の流行もあったように思われる(箱根町教育委員会生涯学習課(2021)『箱根の湯立獅子舞』)。

それにしても、行をやる獅子というのもなかなか見たことはない。途中、担い手の男たちが境内の池の中に足を浸し、池の真ん中にある紙垂と注連縄によって囲まれた島を取り囲むというシーンがあったが、これはまさしく修験者の行のように思われた。

獅子舞の構成から感じたこと

実際に仙石原諏訪神社で3月27日12時から15時半の日程で開催された湯立獅子舞を拝見してきた。一見して、これは伊勢太神楽の影響があるのではないかと思った。獅子頭面は権九郎であり、胴幕を絞って胴体に巻き付けるような仕草も見られたからだ。

7種類の舞いはそれぞれ違うものの、基本的な構成は似ていた。胴幕ありの2人立ち→胴幕を巻き付けた一人立ち→胴幕ありの2人立ちという3部構成になっていて、最後の2人立ちは獅子が荒ぶるように激しい動きが目立った。

獅子頭の雄と雌について

また、獅子舞は基本的には1頭での演舞だったが2頭おり、そのうち1頭は祭壇に置かれるか、軒下に置かれているような場面が多かった。この演舞しない獅子についても気になったので聞いてみた。「これは雄獅子と雌獅子(で一対)ということでしょうか?」と尋ねたところ、そうではないらしい。仙石原の諏訪神社にいるのは全て雌獅子で、7月に湯立獅子舞を行う宮城野の方に雄獅子がいるという。この雄と雌が逆という説もあるらしい。

全体を通して考えてみるに、地域行事というよりは神社の氏子に向けられた神事が、箱根という土地柄で一般向けにも徐々に公開されるようになったようにも思える。運営組織は湯立神楽の保存会である一方、メディア関連の対応は箱根神社宮司さんが取りまとめていらした。ただ、神事のあり方は今も昔も変わっておらず、かなり厳粛に伝承されているようにも思える。とりわけ宮巡りの舞は、注連縄と紙垂を着用した報道関係者と氏子しか見られないもので、今回は取材者の立場だったので、かろうじてこれを見せていただいた。とても貴重な経験だった。

 

 

7年に1度の大祭!獅子舞が大集結!飯田お練りまつりの盛り上がりの秘訣とは?

7年に1度というのは諏訪大社例大祭との関わりがある。その希少性から祭りの盛り上がりは半端なく、コロナ禍であるにも関わらず、大勢の来客が見られた。基本的には目玉となるのが、獅子舞の練り歩きと門付けである。

実際に現地で獅子舞を見てきた。その様子がこちら。

東野大獅子

一色獅子舞

民俗芸能サロンの祭り展示


飯田の獅子舞の源流とは?

飯田の巨大な獅子舞をひと目見たとき、まず浮かんだのは大蛇だ。ウネウネとした巨体をくねらせるような動きもまるで蛇そっくりである。

さらに言えば、おそらくこの蛇は出雲の信仰にも関わるヤマタノオロチだ。出雲と諏訪は民族的に近い系統なので、諏訪祭祀圏でもある飯田にヤマタノオロチの信仰が存在するのも頷ける。ちなみに801年に坂上田村麻呂が飯田郷を諏訪大社に寄進して以来、大宮諏訪神社をはじめとする飯田の寺社は諏訪神を祀ることが多い。さらに飯田の南には西三河があり、ここに伝わる花祭りには実際にヤマタノオロチが登場するものもある。花祭りにおいて、獅子舞とヤマタノオロチは同じ役割をする。それ故にヤマタノオロチがある地域には獅子舞がなく、獅子舞がある地域にヤマタノオロチがないという場合もある。これが融合した形態こそ、飯田の獅子舞と言えるだろう。

この蛇信仰の系統は北上して飛騨でへんべえとりの小蛇退治の獅子舞に、そのさらに北の富山県の百足獅子の系統にも繋がり、更にそこから北陸を東に遡り東北へと続く蛇やら龍やらの進行経路が見えてきた。以上は多くの私見を含んでいるが、これが本当であれば壮大な物語である。

お練りまつりの始まり

慶安4(1651)年に飯田藩主の脇坂安元が諏訪大宮神社の社殿を大きく改築し、それを祝って翌年3月1日に祝賀祭を開催したのが、お練りまつりの起源とされる。

正徳5(1715)年、安平路から風越山にかけて大きな山崩れが起き、大水が飯田を襲った。いわゆる「未(ひつじ)満水」とよばれるこの大水害の際に、住民が大宮諏訪神社に集まって祈願したところ町は難を逃れたという。中断しがちだったお練りまつりを定期的に実施するようになったのはこの時だったと言われている。

この時は4年に1度(2年に一度という説もあり)だったが、享保19(1734)年の大祭ののちに、諏訪社本宮に合わせて7年目ごとに開催するようになった。

飯田の華やかな獅子舞を支える経済基盤

今に至るまでお練りまつりはどのように発展していったのだろうか。まず、ターニングポイントとして押さえておくべきは、寛政6(1794)年から城下の18町が幟(はた)屋台、囃子屋台、本屋台を競って建造して、豪快に曳き回すのが名物になったということ。これは尾張三河地方の祭礼の影響を受けたと考えられており、この祭りを支えたのは中馬交易などで栄えた飯田の商人たちの財力だったと言われている。

次なるターニングポイントが戦後の昭和22(1947)年だ。戦後まもなくのこの年に市街地のほとんどが焼け野原となる飯田大火が発生し、古い屋台のほとんどが焼けてしまったという。その3年後の昭和25(1950)年から飯田商工会議所が立ち上がり、奉賛会を組織。飯田の中心市街地のみならず周辺地域の芸能を巻き込みながら、お練りまつりが復興された。この時、飯田の農村部には、明治期以降に養蚕で経済力をつけた人々が多く住んでおり、各神社の春祭りに屋台獅子や籠獅子などの大型獅子が演じられていた。それらがそのままお練りまつりに登場するようになり、現在の獅子舞を中心としたお練りまつりが成立した。

ここで疑問となるのがなぜ信仰圏が近い諏訪ではあまり獅子舞が盛んでない一方で、飯田では獅子舞が盛んなのか?ということだ。ここからは個人的な推測になるが、三河という獅子舞が全国に伝播することになった起点になる地域が近くに存在していたこと、そして、飯田がこれらの地域との交易によって富を築いていたことなどが挙げられるだろう。実際、明治期以降に名古屋方面に獅子頭制作を発注していた地域もあるようだ。

大獅子の練り歩きが可能な空間と寛容性

実際に祭りを見物していて、とにかく獅子頭も胴体も大きいという印象を持った。なぜ胴体が大きくなるかというと、太鼓と木組みが胴体の中に入り、大きな胴体を持ち上げているのだ。笛は外側になっているが、鳴らしものを胴体の中に組み込むという発想は演劇におけるバックミュージックの発想だろう。もしこれが正しければ、石川県の巨大な加賀獅子とも通じる思想だ。

胴体が巨大であるということは、それを通すだけの道路空間が必須ということであり、中心の商店街で獅子舞が通れない空間はない。それどころか2頭の巨大獅子がすれ違う場面すら見られた。当然、歩道は歩けないので車道を歩くことになるわけだが、獅子が通っているときに車は獅子に道を譲るのが鉄則である。車に乗っている人は基本的に獅子に注目してせかせかせず、祭りの雰囲気を楽しむのだ。

獅子頭民主化が進んでいる

獅子頭は15万円から50万円と全国的に見ればそれほど高価ではない。ただし、かなり大きな幌や太鼓、衣装などを加味すれば、道具を揃えるのもかなり大変だ。

また、この地域には遊具として獅子頭が出回る文化もあり、飾るための獅子もある。獅子頭づくりはクオリティを求めない代わりにたくさんの作り手がいるという意味での民主化が進んでおり、この傾向は茨城県石岡市山形県酒田市にも類似しているように思われる。段ボールで作った獅子舞であれば3000円程度の安価な値段で手に入るので、手作り感を追求すれば、富山県氷見市の段ボール獅子頭を作る文化にも通じるところがある。

飯田市内でお祭り用具を販売されている片桐屋さんによれば、「この飾り用の獅子頭は中国で作っています。ただし、今回舞っているお練りまつりの獅子頭飯田市の人が作っている場合が多いです。うちでは祭りの法被や鉢巻きを作っています。」とのこと。飾り用の獅子は海外で作ってもらう場合もあるようだ。

また、獅子舞の担い手を18年している方によれば、「獅子頭は飛騨高山や仏壇づくりが有名な北信地域などに発注することもありますよ。」とのこと。獅子頭づくりの地域が周辺に点在しているというのも素晴らしい。

担い手を集める秘訣は保存会

さらに言えば、飯田の獅子舞を運営するのは、基本的に獅子舞保存会の場合が多い。保存会はほぼ年齢に関係なく入会できるのが良い。青年団や若者組、若連中などであれば年齢が限定されてしまうし、なかなか大学に行って一時期地域外に出た人が戻ってきたときの受け皿にもなりにくい。人口減少時代に、多くの人を巻き込むためには、やはり保存会という形態はとても理想的である。飯田の場合は獅子が巨大なこともあり、1地域につき40~50人の担い手がいるのが普通で、全国的に言えばとても多いと言える。それ故に担い手不足解消を考えるにはこの地域に学ぶことも多い。

獅子舞の担い手を18年している方によれば、「参加団体は色々変わってきました。伝統的なところも現代的なところもあります。新しく獅子舞を最近作ったところもあり獅子舞が盛り上がっています。うちの団体は担い手が40~50人です。町内の若い人は声かければ入ってくれる人は入ってくれますね。壮年団や青年団が舞手を請け負っていて、卒業した人が笛を務めたりして多世代が関わっています。4月9~10日は地域の各家を回る春祭りをします。」とのこと。保存会でなくても地域が一体となって、獅子舞に関わるような体制が整っているようにも思える。

 

そのほかにも、街中に祭りの写真を展示・紹介する民俗芸能サロンがあったり、飯田駅の待合室にお練りまつりの写真が展示されていたり、飯田駅の観光案内所がお練りまつりの窓口になっていたりと様々な工夫が満載で、街全体がまつりを応援しているように思えた。コロナ禍でもこれだけの盛り上がりが作れるのは素晴らしい。これに関しては、新型コロナウイルス対策のためにアルコール消毒と検温ができるテントを町の中の各所に設置して、あとはご自由にというスタンスがどこか見物客の自主性を重んじているように思えて、今の時代ならではの素晴らしい開催方法のようにも思えた。

<参考文献>

飯田商工会議所『令和4年飯田お練りまつり公式ガイドブック』2022年3月

小林経広 ほか編『目で見る信州の祭り大百科』1988年12月, 郷土出版社

飯田はシシの霊地か!?獅子塚を巡りその信仰について考えた

飯田周辺にはなぜか「獅子塚」と名のつく古墳が多い。今回は伊那八幡駅から下車して、水佐代獅子塚古墳、羽場獅子塚古墳、御射山獅子塚古墳の3箇所を巡ってみた。これらは典型的な豪族のお墓のような気もするのだが、なぜ、「獅子塚」なのだろうか。日本全国の獅子塚の由来からすれば、獅子(シシ)を埋めることで村境の厄を取り除くような役割をしていた可能性はある。ただし、かなり多義的であるため、個別に見ていく必要性はある。これを機に獅子の新たな素顔に出会えるかもしれない。

水佐代獅子塚古墳

この古墳の名前は「みさしろ」と読む。5世紀後半に作られたようで、墳丘の高さが60mで後円部に石室があったとされる。過去の調査によれば、円筒埴輪、刀、鉾、鉄鏃などが見つかったという。また、特徴的なものとして、地域の人々から「おたちふの桜」と呼ばれるエドヒガン桜が植えられている。胸高周囲5.3m、樹高約17mの古い巨木だ。この古墳には登れるようになっているが、桜の周囲の立ち入りは禁止されている。僕が訪れた時は、隣の家の人が外でタバコを吸いながら、じっとこちらを眺めていた。その圧力に屈しまいと上まで登ってみたが、あまり下手なことはできないと思い、すぐに降りてきた。この隣の家の人、もしかしたらこの古墳に相当思い入れがあるのかもしれない。

羽場獅子塚古墳

この古墳は上溝公園の一角にある。こんもりした山になっており、大量の木が植わっているなか、頂点には石積みの上に築かれた祠が設置されている。また、この祠の横には同じくらいの高さの石灯籠もある。この小山の麓には詩が書かれた石碑があったが、かなり解読が難しかった。公園内にはトイレと滑り台が2つあるほかに遊具はなく、広い空間が広がっている。この古墳の北側には水路と天竜川の支流がある。この川こそが、何か境界性を帯びており、この境界性が獅子を埋めるという厄払い行為につながっているとも推測できた。ただし、これはあくまでも推測の域を出ない。

御射山獅子塚古墳

御射山といえば、諏訪にある神社の名前と重なる。その名の通り、狩りに関わる神事が行われる霊地である。飯田は諏訪と信仰圏が近いので、あの御射山と何か繋がりがあるのだろうか。立て札によれば、5世紀末~6世紀に作られた前方後円墳で、茶柄山古墳群のなかで最大の古墳であり、国指定史跡でもある。全長58m、後円部径約26m、前方部幅約45m、高さ8~9mである。この古墳に埋葬された人物は、馬匹(ばひつ)生産の指導者的な立場にあったと言われている。この頃、馬は輸送交通手段として普及しており、ヤマト政権とは馬を介してつながっていたと言われる。馬を埋葬した古墳も周辺にあるが、これを馬頭観音として祀らずに、仏教伝来以前のシシという形で祀ったのがこの地の「獅子塚」という名前の由来かもしれない。

さて、僕の推測は正しいものかどうなのか。真実はわからないが、飯田には「獅子塚」が日本全国的に見てもかなり数が多い。その真相を突き止めたいものだ。

 

 

獅子舞生息可能性都市~名古屋編~(基礎調査版)

名古屋といえば、日本全国の獅子舞界において非常に重要な場所である。

日本全国に獅子頭が量産されるきっかけを作った「名古屋型の獅子頭」が生まれた場所だからだ。寄木づくりで残材を有効活用して軽くて安価な獅子頭作りに成功した。それに加え、日本最古の年記銘月獅子頭が存在するのも名古屋近くの愛西市だ。

しかし、獅子頭作りは盛んなのに、肝心の獅子舞はあまり数が多いとはいえない。伊勢という江戸時代以降の獅子舞伝播の中心地があったにも関わらず、なぜだろうか?今回は名古屋という場所の獅子舞生息可能性を見抜いていきたい。

名古屋市中心部の獅子舞生息可能性

さて、ここで名古屋の獅子舞生息可能性について調べていこう。 

まずは以下のように、名古屋市内を緑の線で囲った。その中でも名古屋市の西側は住宅街であり、すでにいくつか獅子舞が生息している。また、名古屋市の東側は閑静な住宅街であり、西に比べると獅子舞が少ない。

名古屋駅西側の中心市街地はVの字の形をしており、JR線に挟まれた谷のような商業地である。北には名古屋城があり、この城下町として発展した。このエリアは獅子舞が生息しておらず、からくりや山車などが多い。実際にこのエリアで獅子舞の生息可能性はどのようであるかについて見ていきたい。

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今回は2022年3月25日に名古屋駅を起点としてVの字の商業地を歩き回り、獅子舞のルートを考えてみた。

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名古屋の中心部に獅子舞が存在するとしたら、名古屋高速2号東山線を境に、南北にエリアを分けて考えねばならない。南側は神社と商店街、北側はオフィスと公園ということで、町の傾向は大きく異なる。しかし、実際に歩いてみると不思議なことに、どちらも獅子舞的価値観をほのかに感じるエリアだったので、両エリアの根底にある価値観には共通した部分があるように感じられた。

多分、名古屋に住む当事者たちは完全に異質なエリア同士と思っているだろう。獅子舞によってこの両エリアを結びつけることが、名古屋市という街の新たな可能性を見出すとともに、「名古屋とはどういう街なのか?」の答えにつながるのではと感じている。以下、名古屋の獅子舞生息可能性について、各場所の解説をしておきたい。

<北側エリア>

若宮八幡社

北側エリアは閑静なオフィス街や公園が広がっている。ひときわ格式が高い神社が、この名古屋総鎮守である若宮八幡社だ。愛知県は総じて八幡信仰が盛んに見られるように思われる。その中で名古屋の総鎮守である神社である若宮八幡社でもし獅子舞が実施されれば、名古屋の中心市街地の獅子舞として成り立つのも納得できる。

白川公園名古屋市美術館

若宮八幡社の周辺は比較的閑静であるが、白川公園という大きな公園がある。その中には、現代美術を鑑賞できる名古屋市美術館名古屋市科学館などがあり、市民の憩いの場になっている。この地において、獅子舞をやるとするならば広々と舞うことができるし、家族連れにも評判が良いだろう。

下園公園

人々の憩いの場、水の上に浮かぶ島に、喫煙者たちが集いたむろしている。オフィス街の中にあって、唯一のオアシスとでも言おうか。一方で、一人でお昼ご飯を食べている人も多い。いわゆるお一人様が、この場に来て想い想いのお昼を過ごしているというわけだ。空間的には広々としており獅子舞を見てもらえる可能性も大きい。公園に訪れた人を巻き込んで、共に獅子舞をすれば、新しい出会いが生まれるかもしれない。

瀧定名古屋株式会社

名古屋の都市景観賞を受賞したオフィス。玄関前に森のような雑木林のような景観が広がっている。作られた自然とはいえ、都会の中におけるどこかタイムスリップした空白地帯のような感覚があり面白い。玄関までのアプローチも長いので、獅子舞が舞う場所も十分にある。

大通公園

先日、獅子舞生息可能性を確かめた札幌同様に、名古屋にも大通公園がある。札幌の大通公園は東西に伸びるが、名古屋の場合は南北に伸びていることに特徴がある。どちらも火防線の目的で作られ、テレビ塔がトレードマークになっているのが共通している。札幌の大通公園ができたのが1911年で、それに対して名古屋のができたのは1963年だ。50年ほどの開きがある。名古屋の大通公園の歴史は浅く、実際現地を見ていて若い人が多く集っていると感じた。カフェのテラスや芝生、ベンチなどが数多くあり、このような場所から獅子舞を見てもらえる可能性も高い。担い手確保のためにも、若者向けに舞場の1つとして考えておくのが良いだろう。時折、ミストが放射されているので涼しいし、こういうところで獅子舞をしたら幻想的になりそうだ。

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f:id:ina-tabi:20220330183342j:plain<南側エリア>

YABATON SHOP

名古屋名物の矢場とん味噌カツ。その食べられる前の丸々と太った豚のキャラクター(ぶーちゃん)が、中庭にドカンと置かれている。まるで銅像のようだ。矢場とんのお店では通常、店の壁面に埋め込むようにぶーちゃんが置かれている場合もあり狭そうだが、ここでは中庭の大きなスペースにどかーんと置いている。YABATON SHOPがアンテナショップであることを考慮の上、このような置き方をしているのだろう。本社脇にアンテナショップがあることを踏まえるとここが情報発信のハブであり中枢である。獅子舞に置き換えてみれば神社のような存在であろう。であるならば、ぶーちゃんは神聖なモニュメントだ。

f:id:ina-tabi:20220330183616j:plain三輪神社

この神社にはウサギが大量に生息する。「なでうさぎ」という石像を撫でると、幸せが訪れるという。絵馬は全部ウサギだ。手水舎ら切り株やらにもウサギの人形がたくさん置かれている。都市空間の余白という考え方には、単なる空間的なものではなく、とにかくぶっ飛んでいる雰囲気が余白のようなものにつながることもある。この場所だったら、獅子舞の演舞というある意味ゲリラ的な行為を受け止める余力があるようにも思わせてくれるのだ。

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万松寺

大須新天地通りの一角にあり、大量のお店に囲われているのがこの万松寺という存在だ。賑やかな場所にある上に、一見すると現代的な建築のお寺なので、最近に作られたのかなと思ったが、よく調べてみるとこのお寺の起源は500年前に遡るらしい。このお寺を開基したのは織田信長の父・信秀であり、信秀の供養を行ったのもこのお寺のようである。大須新天地通りの中核として、この場所で獅子舞を実施すれば、かなり多くの人に獅子舞を見てもらえるように思う。そして、獅子舞が新しくできたとしても、その新しさを許容してくれる人がきっといるに違いない。

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仁王門通

大須仁王門通や東仁王門通りなどがある。これらの通りは道幅が広く、まず獅子舞の空間的生息可能性が高い。道端には大量のダンボールが積まれている。これだけの段ボールを道端に置いておけるだけの余白が存在するのだ。それに加え、祈りの精神が今も変わらず息づいている。この「箪笥のばあば」は古くから伝わる箪笥の守り神のようだ。着るものが高価だった時から、各家の着物を守る神として信仰されてきたようだ。この体を触ると、「着るものには困らない」という。

大須観音と富士浅間神社

名古屋高速2号東山線の南側は、北側に比べると商業が活発であり賑やかな印象だ。大須の商店街をメインに考えるならば、信仰の中心となる寺社は大須観音と富士浅間神社になるだろう。敷地面積からしても、ここが一番広くて観客も集まりやすい。話題性もある。だから、これらの寺社を帰着点として獅子舞を考えてみるのが良いかもしれない。

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北側と南側を接続するバスケット広場

ここからは大須商店街から少し離れて名古屋全体を俯瞰してみたい。大須観音と富士浅間神社からそこまで離れていないところに、名古屋総鎮守として名高い若宮八幡社がある。名古屋中心部の神社といえば、若宮八幡社という意識も強い。ただし、名古屋高速2号東山線というかなり道幅の広い道路が通っており、これは大須商店街とは少しエリア的に異なる印象は強い。ただし、ここがうまく接続すれば、名古屋独自の地域的な境界を超えた新しい獅子舞の形が成立するかもしれない。名古屋高速2号東山線の高架下には、地域の若者たちが集うバスケコートなどもあり、このような憩いの場の存在が獅子舞の越境に対する可能性を示唆しているようにも思われる。

獅子舞生息の視点①寺社の数が多い

総じて見るに、名古屋は寺社の数が非常に多い。一度獅子舞をやるにしても、これだけ多くの寺社を検討範囲に入れようと思えてくる都市は他になかなか存在しない。それだけ祈りの数と種類が豊富であることが名古屋の中心部の特徴と言えるだろう。

愛知県は寺社数で日本トップのようだ。この背景としては奈良・平安時代以前に自然信仰が根付いていたからとか、江戸時代に尾張徳川家が浄土宗を中心として信仰を保護していたからとか、様々な説が飛び交っているが真相は定かではない。

獅子舞生息の視点②道路幅が広い

また、名古屋の特徴として道路の幅が広いことが挙げられる。片道4車線というのが当たり前だ。これは戦後の復興計画により大きな道路整備することになった背景がある。地域の土地面積に占める道路の割合を示す道路率は名古屋が全国1位だ。

この道路幅があることにより、「地域の境界性」が強調されていると感じる。つまり、道路を渡り向こう岸に行くには地下道やら歩道橋などを長い時間かけて渡る必要があり、信号も少なくなりがちだ。だから名古屋の地域区分は面白くて、賑わっている地域があると思えば、道路を渡った瞬間に閑静なオフィス街に突入するということもよくあるように感じられる。

この反面で、交通の利便性が向上するため、市民の経済活動はより発展するし、防災面では救急車や消防車の緊急出動が容易になる。また、火災の延焼も防げる。それに加え、地震による建物の倒壊があっても、通行止めのリスクを減らせる。おそらく地域的な境界の分断が起こる一方で、経済活動や防災の観点からは優れた都市設計になっているのだ。

 

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ここからは名古屋市鶴舞図書館で調べた文献史料をもとに、現在の名古屋市内に現存する獅子舞に関する史料を色々と探ってみた。

名古屋市内に獅子舞は少ない

愛知県教育委員会『愛知県の民俗芸能』平成26年3月31日によれば、名古屋市内の民俗芸能は断絶4,中断1を含めて54団体が確認されており、その中でも獅子舞は2つのみである。どちらも港区南陽町の神明社で10月第1日曜日に開催される祭礼に登場するもので、茶屋後男獅子と七反野男獅子という名前がつけられている。この内、七反野男獅子は中断している状態である。

また、愛知県教育委員会『愛知の民俗芸能』平成元年3月31日によれば、もともと名古屋市内には男獅子と嫁獅子という2つの系統の獅子があった。以前、南陽町には25の集落があってそのほとんどで男獅子が演じられていたとされる。ただし、その起源をはじめとする全容は不明である。寛政年間である1789~1801年に海部郡七宝村字徳実から海部郡東南部や名古屋市港区方面に、徳実流男獅子の形態が伝わったことは記録に残されている。また、嫁獅子に関しては、嫁獅子四座が存在し、その中に港本宮町の獅子が含まれていたとされる。神楽系の獅子であり、獅子頭を着けるのが女性の主役であったことから、こう名付けられた。

獅子舞などは名古屋駅の西側に分布

獅子系芸能はより名古屋駅より西側に多く、中心市街地である東側にはもっぱら山車やからくりなどが登場する大規模祭礼が多く、練り歩きが祭りのメインであることが伺える。

これは、住人の所得的なものとも深い関わりを持っていると考えられ、名古屋駅より西側地域は木曽川揖斐川長良川などの川の反乱に長い間悩ませられてきたこともあってから、土地の価格が東側地域に比べて5分の1以下だったこともある。

それゆえ、名古屋城下のまちづくりはとりわけ東側地域に発展した。享保6年(1731年)に藩主の徳川宗春が名古屋に入ってから芸能の奨励策が進められ、商売も繁盛していった。諸国から旅芸人が集められ芝居見物や山車の盛行により賑わいを見せた。名古屋駅より東側の市街地周辺にも獅子神楽は多数伝承されたはずではあるが、現在は行われておらず、やはりからくり人形や山車の方が目立つように思われる。また、都市化の進行や第二次世界大戦中の戦災、昭和34年の伊勢湾台風などの要因により、多くの民俗芸能が消滅したと言われている。

愛知の獅子舞の源流

愛知県教育委員会『あいちの民俗芸能』平成3年1月21日によれば、愛知県内における獅子舞の生息域をベルト上に拾っていくと、海部郡、名古屋市港区、知多半島、西三河豊橋市という風な繋がりが見られ、ここから推測すると、より海側の地域に多く分布しているようにも思われる。

愛知の獅子舞の大本の源流は、元々伊勢から伝わった御頭神事であろう。これは江戸時代以前に伝わったものであり、伊勢大神楽が全国的な伝播を見せる前の形である。愛知県史編さん委員会『愛知県史』平成20年3月31日によれば、尾張で唯一伝わる御頭神事は永正14年(1517年)、伊勢の箕曲大社の神主が山田の八社に伝えたとされる獅子頭の1つが伝来した南知多町篠島のオジンジキ様である。オジンジキ様とは獅子頭のことだと言われているが、これが正月3日から4日にかけて八王子社から神明神社に渡御する。オジンジキ様は全体をオグシと呼ばれる紙垂で覆われているのでその姿は謎に包まれており、オジンジキ様を持つ人の体も半分はオグシで隠れる。持つ人は3人おり、皆オジンジキ様に息がかからないように紙で口を覆う。あくまでも「オジンジキ様は見てはならない」と伝えられている。

獅子頭の在銘で言えば、この南知多町篠島のものよりも古い獅子頭が愛知県内には存在する。中でも中世の年記銘がある愛西市日置八幡宮と星大明社の獅子頭は特筆して古い。1252年の刻銘がある日置八幡宮獅子頭は、日本最古の年記銘であり、破損が多く修理が繰り返されていることから口の開閉など歯打ちの所作が行われていたことが伺える。また、獅子あやし鬼神面が保存されていることから、伊勢地方の御頭神事的な行事が行われていた可能性がある。また、星大明社の獅子頭は右手で鎹(かすがい・鉄の握り手)を持ち、左手で下顎の穴の空いている中央を持つことが推測でき、これは行道獅子ではなくて曲芸的な獅子舞の先駆的な存在であったことを物語っている。

名古屋型の獅子頭は日本全国に!

無形文化の獅子舞に対して、有形文化である獅子頭の資料は格段に少ない。『伝統産業実態調査報告書』昭和54年3月 名古屋市 P.45によれば、獅子頭の材料の大本である材木調達は、名古屋城築城の際に、加藤清正が堀川上流にある西区木挽町、材木町で製材を行ったことに始まる。木曽山脈や飛騨地方から木曽川を通って良材が運ばれ、桑名からは堀川に運ばれ、そこから西区の方までたどり着いたという。

名古屋市史 産業編』大正4年 名古屋市 P.190によれば、この材木は下級武士が仏具を作るのに使われ、それと同時に獅子頭づくりも盛んになった。つまり、仏具の職人が獅子頭も作った。明治時代以降は、問屋制家内工業が発達して仕事の分業化と専門性が増したことから、賃金が低廉した一方で人的資源が増加して、家具職人から良質で安価な残材を大量に手にすることができた。これにより獅子頭も残材を貼り合わせて安価な寄木造りにより量産される傾向が生まれ、これは高価で一木造りを基本とする北陸の加賀獅子とは真逆であるとも言える。この名古屋型の獅子頭は日本全国に向けても量産され広がりを見せた一方で、作者不明のものも多く出回っているという特徴もある。

縦横無尽に駆け回る!会津の彼岸獅子を追ってきた

福島県会津若松市で行われる春を祝う獅子舞である「彼岸獅子」なるものを拝見してきた。

春のお彼岸と言えば先祖供養の意味があり、雪解けと生命の息吹、喜びを感じる季節であることは確かだ。

ただ、なぜこのお彼岸の七日間を中心として、この地域に獅子舞が根付いたのかは定かではない。疫病避けと結び付いて天正2年(1574年)に踊ったという話もあるので、もしかすると初期段階において疫病避けと彼岸が同時に語られていた可能性がある。

それでは、彼岸獅子がいつから始まったのか?ということについてまず考えていきたい。

彼岸獅子は伝来と伝承を分けて考える

まずこの彼岸獅子の由来を考える上で、伝来時期と伝承時期を分けて考えねばならないということを強調しておきたい。つまり、獅子が初めて舞われた後にしばらくそれを継承することがなく、後になって獅子舞が継承され出したと考えることができるのだ。

では、文献上で初めて獅子舞が行われた記録として、天喜4(1056)年に前九年の役の時、源頼義・義家が安倍一族を撃つにあたり、長引く戦いの中で家臣の士気を高めるために行ったという説がある。

ただし、今日につながる会津の彼岸獅子の伝承の源流を辿ると、江戸時代の寛永年間(1624~43年)に下野国(現・栃木県)の古橋角(覚)太夫が喜多方に移り住み、下柴地域の菩提山安楽寺を中心として獅子舞の伝授したのが始まりだ。それが今日の彼岸獅子の演舞に繋がったとも言われている。

これが、前九年の役の時代のものとどれだけ似通っていたのかはよくわからない。

彼岸獅子に武士の血あり!?敵陣を突破して争いを避ける

この彼岸獅子を伝承してきたのはどの様な人々だったのだろうか?獅子舞といえば、身分の低い人々が旅芸人の形で諸国を巡業して回った興行的な獅子舞も存在する。ただ、会津地方の獅子は全くそんなことはなく、もっぱら担い手になったのは農家の長男である。また、村の青年会や若連中の様な組織を作り、そこに所属する若者たちが受け継いできた。

獅子舞に出ることは成人式に出ることと同じ様な感覚で、もし仲違いの様なものがあれば村八分と勘違いされて焦った親たちは酒を持って息子とともに謝りに行き、仲直りさせるということもあったという。それくらい獅子舞に参加することは大事で格式が高いことであり、かつ地域に住むことと同義であったことがうかがえる。

また、下級藩士たちの支援もあった様で、武道の型みたいなものが仕込まれた獅子舞の動きもある様だ。それゆえ、獅子の担い手たちのプライドも相当高かったらしく、街に出ると隣町の獅子との喧嘩も絶えなかった。その喧嘩の始まりは、弓舞の時に弓を立ててあるのが見える位置に獅子が来たことが合図となって、引き起こされる場合が多かった。弓舞というのは獅子が弓の周囲を舞いながら、最終的には弓を潜るのが最大の見せ場となるのだが、「弓を潜るのは俺だ!」と言わんばかりによそ者が来ると喧嘩になるということかもしれない。昭和初期までは、この様な獅子同士の喧嘩の光景も見られたと言う。

そういえば、会津戦争の際に、城主松平容保の家老である山川大蔵が、田島方面の守備に行っていたのを急遽呼び戻された際に、小松獅子を連れて「通り囃子」を奏し、あっけにとられている敵兵たちの攻撃を避けることができたという話がある。つまり、争い事を平和的に避ける様な役割を担っていたと言うこともできる。ちなみに、民俗芸能が藩境に集中したのは軍事的な争いを平和的に解決するためであったと言う話を聞いた岩手県北上市の時の話と通じるところがある。

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彼岸獅子を見てきた

さて、今回は2022年3月21日に行われた天寧獅子保存会による彼岸獅子を拝見してきた。

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祭りの流れは以下のようであった。

10:30-11:00 鶴ヶ城にて演舞(庭入、弊舞、弓舞、袖舞の4演目)

12:00-12:30 阿弥陀寺にて演舞(庭入、弊舞、弓舞、袖舞の4演目)

12:30-13:00 七日町通りの3店舗、渋川問屋、七日町菓坊、ろうそく販売のほしばんで演舞(庭入のみ)

お昼休憩→飯盛山方面に門付け→16:30くらいに終了。

実際に演舞を拝見してみると、まさに太鼓踊り系の3匹獅子舞という風だった。首の振り方がカクカクとしており、これは鳥の動きだと思った。とりわけ鶏舞という芸能があるが、あれにも近い気がする。この地の獅子舞は鶏と何らかの関係性があるのではないかと直感的に思った。

また、弊舞は現在、弊舞小僧というキャラクターが登場する。昔は子供がやっており、この役に選ばれることが大変な名誉であったという。15年前以来、子供がやっておらず、現状では人手が不足しており「ひょっとこ」がそのポジションについているとのこと。注目を集め人を笑わせる存在..。子供とひょっとこというのはどこか役割意識が似ているのかもしれない。

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獅子舞の多様なあり方

注目すべきポイントは、以上の祭りの流れからもわかるように、観客がいる中で見せ場を作る一方で、地域に向き合うという姿勢を大事にその両立を実現しているということ。

12:30までの行程においては、カメラマンや報道関係者、祭り好きの人々が輪を作るように人垣をなし、その演舞を楽しむ。僕もそのうちの一人として、今回、この彼岸獅子を取材させていただいた。

一方で、12:30からは「さあ、取材が終わったからお昼でも食べに行こうか」と思っていたら、なんと、まだ演舞をしているではないか。今まではお城やお寺などの会場に人を集めて演舞する形式だったが、この時間帯からは七日市通りのお店を何軒か順番に門付けして回っていたのだ。太鼓と笛の音が明るいストリートに響き渡っていた。

つまり、ここからは宣伝を全くしないで、地域とのお付き合いの中で順々に門付けをしていくというわけだ。門付けする家は、歩道を目一杯まで使ってその空間で踊る場合と、店の中に入って踊る場合の2つのパターンがあった。また、歩道を使って踊る場合、店の中から店主が見ていなくても踊っている場合があった。それを見ていた沿道の人は「店の中の人、見ていないじゃないか!」と驚く声も上がっていた。

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門付けが3軒終了し、獅子役の人々は衣装をとってオフモードに。裏路地にスタスタと歩いて行ってしまい、これから食事にでも出かけるようだ。帰りがけに話を聞いてみると、「お昼食べてきます!そのあとは山(飯森山)の方に向かって踊っていきますよ」とのこと。

それから僕はその場をあとにして、お昼を食べて福島県立博物館に行き、さざえ堂に向かっているときに、再び彼岸獅子に遭遇した。16時前くらいのことである。飯森山の前のお土産やさん・松良に立ち寄って演舞しているところを見かけたのだが、その時にはもう沿道の観客がいなくなっていて、完全にお店の人と獅子たちのみのコミュニケーションが成立していた。

ただ、たまたまその横を通った観光客は「今日は特別な日なんだねえ。これてよかった」と言っていたのが印象的だった。それからもドンドンヒョロヒョロと町のどこかでお囃子の音が鳴っているのも聞こえることがあり、「ああ、そこら辺に獅子がいるのね」と気配を感じることもあった。

また、会津若松市の町中で「お彼岸セール」のような形で仏壇や仏像を販売しているお店を見かけた。お彼岸に対する意識が強い地域性を持っているのだろうか。それから、そのようなお店のガラス窓に、獅子の絵が描かれたビラのようなものを貼っているのも見かけた。獅子を盛り上げようという意識のようなものを感じた。

 

<参考文献>

・伊藤昭一『会北史談』, 令和元年6月, 会北史談会

会津若松市会津の民俗芸能』平成11年12月

・小島一男『会津彼岸獅子』昭和48年6月

氷見市の獅子舞はなぜ盛ん?神社の数が影響?氷見獅子舞ミュージアムに行ってきた

氷見市はカンブリに代表される漁業、美味しいお米が食べられる場所などとして発展してきた。なぜこの地が日本全国でも有数の獅子舞の数を誇るようになったのか?その地域的な背景に迫って行きたい。そのような思いもあって、ひみ獅子舞ミュージアムに行ってきた。

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ひみ獅子舞ミュージアム設立の経緯

スタッフの仲英伯さんや新井豊さんにお話を伺った。ひみ獅子舞ミュージアムは、平成14年に農村漁村の国からの援助で建った建物である。氷見市全体を博物館にしようという構想があって、獅子舞の故郷という意識もあった。その流れの中で、獅子舞ミュージアムがこの地域にできた。氷見市の各地区に対して補助金に出るような形だったので、池を中心に釣り場を整備するような地域もあったし、地域のコミュニティの中心となる場所を整備しようという流れの中で行われた政策だった。獅子舞を展示してあるところは日本全国見渡してたくさんあるけれど、250人が収容できて獅子舞の実演ができるようなミュージアムはここにしかない。

氷見市の獅子舞の由来

まず氷見の獅子舞の由来は、まず青年団に入ったらギオンブリを習うので京都の祇園だろう。それから天狗が出てくることもあり敦賀の王の舞の影響もある。それから、金沢の加賀獅子からも伝わったと考えられる。また能登半島の七尾の熊獅子やら輪島の御陣乗太鼓やらの影響もある。

氷見の獅子舞はどこに伝わったの?

氷見の獅子舞は北海道への開拓民が現地に伝えたり、石動山の大工や壁屋さんなどの職人が五箇山に行った時に獅子舞を伝え、拡張していった。また、農機具の藤箕を作る職人がそれを売りに歩いたり、三尾という地域では米を振る「ソウケイ」を売りに歩いて、中能登羽咋に伝承されたものもある。

氷見市の獅子舞は、なぜこんなに盛んになったの?

「お宮1つに1つの獅子舞」という意識があり、氷見市には神社が177あり数が多いというのが、獅子舞の数の多さとの相関関係になっている。小さな祠であっても、それを神社の1つと数え、獅子舞を成立させているということもあるかもしれない。大野という地域には、1つの町なのに4つの神社と4つの獅子舞があり、祈る場所が多様である。また稲政という地域では獅子舞が一時期途絶えており、戸数が30いくらしかなかったにも関わらず、獅子舞の道具を揃えるのに730万円かかった。つまり、一戸あたり20万円以上の出費が必要だった。このように祭り魂のある地域もあり、お金もそこそこ持っていないと成り立たない発想である。また、地域によっては、舞い方が同じだと春と秋で分担してお互いの地域を回り合うという場合もあるようだ。また、氷見市含む呉西地区では嫁さんをもらったら、もらった里の祭りには行くのが習慣になっていた。ローテーションで担い手を回すほどであったが、少子化青年団が少なくなり年齢が上がりつつあるのが現状だ。

氷見市の獅子舞の特徴

演目の数が10以上ある場合も多く、演目数が多いのが特徴だ。山と海では激しさが違い、ヨソブリとイソブリという風に演目の名前も変わる。また、太鼓は鏡鏡のようでそれを囲うように鳥居がついており、太鼓の上に神様がいるという意識があり、神社が移動していくようなイメージだという。笛は縦笛が多い。また、獅子頭はほとんど赤色で、赤い獅子は女の獅子だという人もいるが、そうではない。飛騨から来たお客さんがスタッフの方にお話されたことには、赤い獅子の中でも雄獅子が1つ展示されており、その特徴は「上歯の本数が多いこと」と「耳が立っていること」であり、雌獅子の特徴は反対に「上歯の本数が少ないこと」と「耳が垂れて下がっていること」である。

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獅子舞講座を開催!2段構えでファンづくり、富山県・三ヶ錦町の獅子舞

富山県射水市の三ヶ獅子舞では、獅子舞の講座を開催されているという。なぜ獅子舞の練習に加えて獅子舞講座なるものが必要だったのか?開催することで地域にとってどのような良い事があるのか?三ヶ獅子舞保存会の宮川さんと宮司の宮城さんにお話を伺った。

三ヶ獅子舞の由来

獅子舞の始まりについてはよくわからない。殿村から伝わったという話もある。昭和2年には奉納の記録があり、昭和半ばに一度途絶えたものの、その後に昭和54年の小杉駅竣工に合わせて復活した。以前は大人獅子と子供獅子のみやっていたが、復活後は大人獅子のみとなった。将来的には子供獅子も復活させたいという思いがあり、実際に子供達に獅子舞を見てもらえるような場を作りたいという思いもある。獅子方若連中だったのを獅子舞保存会という形で行なっている。言葉で聞かされるよりも、舞っている姿を見るのが有効なのかもしれない。10から50代までの40人ほどのメンバーが揃っている。小学校の次が40代の人が多いというのが問題で、中間層の人がなかなかいないことが問題と感じている。これが獅子舞講座の開催に至った背景的な部分でもある。

獅子舞講座が始まった経緯

5月第三土曜日に三ヶ地区の獅子舞があり、その練習が4〜5月にある。ただし2年前からコロナが始まり、去年から獅子舞の練習とは別に獅子舞講座というものを作った。祭りがやらないからこそ、何かやらないといけないという気持ちから、2021年6月より獅子舞講座が始まった。第1回が座学で、第2回以降は獅子舞の練習という位置付けで、毎月日曜日に定期的に行うようにした。今回9回目で最後の練習であり、再来週の10回目が3月27日に最終発表会が行われるという流れである。定期的に獅子舞講座をやることで、地域の方に獅子舞に関する関心を持ってもらっている。三ヶの人以外の人も多数参加している。

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獅子舞講座の流れ

獅子舞講座の今回の流れは、10時から11時がパートごとの練習、11時から12時までが合わせの練習という形で2部構成で獅子舞講座が行われていた。太鼓、横笛、獅子という3つのパートに分かれていた。横笛のパートでは、日によって笛の音が変わるという話を聞いた。湿っている日の方が良いという話があって、時によっては日本酒を笛の中に注ぐとベタベタするけど音が良くなるという話もある。横笛の参加者は「13種類のメロディがあり似ているのもあるので、覚えるのが大変。見よう見まねで一人でも吹けるように練習をしている」とのこと。笛をする時はマスクができないので、マスクの上に布を被せて笛を吹いている時でも周囲に唾が飛ばないように工夫されているのも印象的だった。

三ヶ獅子舞サポート隊が講座を支える

現在、三ヶ獅子舞サポート隊のメンバーも募集されている。これはお祭りそのものが保存会のお金で運営されるのに対して、獅子舞講座は地域の人々が別の形で支えていく独立採算で行なっている。射水市からの補助金が入りつつもそれに頼り切らず、地域からの支援をもらうことで自立した収益軸を持っていることになる。サポーターは個人(1口3000円)と法人(1口5000円)で合わせて何十人単位で存在する。法人は商店街の商店にも協力をもらっている。このお金の使い道は獅子舞講座の参加者に対する備品の購入、衣装のクリーニング代、資料代、保険料など様々な経費に充てられているようだ。「皆で理解して皆で支え合うことで補助金に頼り切らず持続可能な仕組みを整えられる」とのこと。

2段構えで地域が獅子舞を支える

コロナ禍で獅子舞に触れられる場をということで始まった事業ではあるが、方針としてはお祭りが再開できるようになったとしても続けていきたいようだ。つまり、獅子舞で地域を回ることでご祝儀が上がるようになったとしても、それとは別の部分で財源を作っていくことで、さらに獅子舞を発展させたい思いがあるのだとか。これは「祭りの運営」ではなく「ファンづくりや担い手づくり」のためであるという方針を打ち出していきたいとのこと。お祭りの1ヶ月前の担い手のための練習ではなく、1年を通してお祭りの担い手じゃない人が参加できるようなゆるいコミュニティ・サークルのような感覚なのだとか。獅子舞保存会がなぜハードルが高いかというと保存会に所属することを求められるからであり、サークル感覚でこれに満足する人がいればそれはそれでいいし、もっと関わりたいという人がいれば保存会に入ってもらえばいい。そういう自由なスタンスで関わり代を作っていくことが重要なのではないかと。「気軽に参加しに来て」という感覚のようだ。なかなか聞かない事例であり、全国に先駆けた2段構えの組織づくりに取り組んでいるというわけだ。

地域外に拡張していく獅子舞

今後はお祭りの日に三ヶの人以外でも今後参加できるようにしていきたいという思いもある。三ヶには20以上の町内があり、各町内の公民館やお店などをマイクロバスで回るようにしている。つまり、門付けのイメージではなく、主要なところを回るイメージだ。また、錦町のみ三ヶの獅子舞の発祥地なので、夜に地域の方の理解を得ながら、30~40軒を全て回るようにしている。笛、太鼓、棒振り、花笠、獅子、御幣や刀、棒などの役割がある。御幣は毎年新調しており、このような道具を獅子舞で使う地域は珍しい。大人獅子の中には7人が入り、子供獅子の中には5人が入る。獅子の中に入る人数も多いし、祭りの日に回る地域も多い。つまり、三ヶ獅子舞は規模感が大きいこともあり、獅子舞講座のような様々なレイヤーのファン・担い手に対して関心を高めてもらうような場が必要になるのかもしれないとも感じた。