【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 番外編(水田丸町・永井町・大聖寺馬場町・大聖寺十一町・大聖寺金子町・大聖寺木呂場町・山中温泉四十九院町)

獅子頭がないことの証明というのは非常に難しい。過去に獅子舞をしていたという記録はあり、獅子舞をしたことがあると言う人もいる。しかし、肝心の獅子頭がもうなくなってしまっている。モノがないので、獅子舞の祭りが行われていた物的証拠が何もない。そういう地域を紹介しておきたい。

 

大聖寺金子町・大聖寺木呂場町

どちらの町も大聖寺の菅生町とのつながりが深い。結論としては、獅子舞をしていたけれども、他町の獅子舞の担い手を務めていただけであって、自分たちの町に独自の獅子舞を持ってはいなかったという結論に至った。そのため、当然町で獅子頭保有してないと言うわけである。それが分かったのが、2021年10月22日の大聖寺の突撃訪問の時だ。知り合いゼロだったので、大聖寺出身の山口美幸さんと車のある家で、ご年配の方が住んでそうな家をピンポンを押して聞いて回ると言うことを繰り返し、どちらも80前後の長老に巡り合ったが、結局町内に獅子舞はなかったということになった。大聖寺木呂場町の野田さんは建築関連のお仕事をされており、大聖寺木呂場町は昔から川が溢れても水に浸からない町だと言うことを教えて頂いたほか、立派な建築模型まで見せて頂いた。また、車で回っていくことで、金子町・木呂場町ともに道が狭くて入り組んでいると言う特徴があることを知れた。なかなか獅子を舞わすにもスペースが狭いようにも思えた。町の特色が見えてきた面白い取材だった。昭和63年の石川県の獅子舞緊急調査報告書によれば、大聖寺金子町・木呂場町は大聖寺菅生町とともに獅子を舞ったと言う歴史があるが、昭和37年から獅子舞を休止しており復活困難になったとの記述がある。

 

大聖寺十一町

獅子舞及び獅子頭を見たことがあると言う町民が1人も見当たらなかった。そこで、獅子頭は無しと結論づけられた。2021年10月22日午後、町内の空書店の方にお話を伺って、その獅子舞をしていたと言う記憶はないとのこと。また、その隣町である大聖寺一本橋町にお住いの細川晶子さん(85)が隣町に獅子舞が行われているのは見たことがないとおっしゃっていたこともあり、さらに獅子舞に関する調査は困難なことが分かった。昭和63年の石川県の獅子舞緊急調査報告書によれば、昭和45年(1970年)に獅子舞が途絶えたと言うことで、今から50年ほど前の話なので、70~80歳くらいの地元出身者であれば、獅子舞のことを知ってそうな方がいてもおかしくはない。しかし、そのような方は現在、見つかっていない。

 

永井町

2021年10月22日の12時ごろ、元区長の中村さんにお電話をさせていただいた。永井町にはなぜか神社が2つある。それが、白山神社と箱多満里神社の2つである。このうち、箱多満里神社の社務所獅子頭が保管されているのでは?という情報を得た。そこで後日、獅子頭を調べていただいたところ既にもう無くなっており、獅子頭を燃やしたと言う町の記録が発見された 。それで、最終的には獅子舞はしていたけど獅子頭はないということで結論が出た。昭和63年の石川県の獅子舞緊急調査報告書によれば、昭和50年(1975年)に獅子舞が途絶えたようで、獅子頭を燃やしたのはいつの話なのかよくわからない。

 

水田丸町

2021年11月8日の15時から、獅子舞の調査のため、歩きながら地域住民5人ほどにお話を伺った。獅子頭が燃えたという事実は確認できたが、どこで誰が燃やしたのか、または燃えたのか、そこらへんがよく分からなかった。85歳の生まれ育ちがこの地域の方で、しかも区長を務めたご経験のある方でも獅子舞についてご存知ではなかった。少なくとも70年前にはすでに獅子舞が途絶えていたことがわかる。また、以前の電話では、獅子頭が火事で燃えたと言う話もあった。自然焼失かもしれない。その詳細は不明である。昭和63年の石川県の獅子舞緊急調査報告書によれば、水田丸町には獅子舞がなかったことになっている。しかし、これが間違いであることは明らかだ。獅子舞自体はあったがそれがいつの話なのかはわからないというのが正解だろう。

 

大聖寺馬場町

2021年11月9日の17時ごろ、以前突撃訪問をしていただいた地域住民の石川さんを再訪した。三谷さんしかそのことはわからないとのことで、山中温泉の旅館「胡蝶」の会長である三谷さん(88)の息子さん(58)に胡蝶経由でお電話を繋いでいただき、お話を聞かせていただいた。息子さんは会長さんに聞いた獅子舞関連のことを電話越しで教えてくださった。三谷家は昔、聖城高校前で撚糸工場を営んでいたがそれを閉めて30~40年が経った。大聖寺馬場町は公民館も神社もない地域である。昔はその撚糸工場に獅子頭を保管していたようだが、今ではそこに新興住宅が建っている。三谷家も今は旅館業を営む山中温泉に引っ越しをした。そういう経緯があり、獅子頭がどこにあるのかよくわからない状況である。おそらく処分してしまったのだろう。獅子舞といえば大聖寺錦町や今出町で行っていたという印象が強く、既に58歳の息子さんが子供の時には獅子舞を実施していなかった。88歳の会長さんが獅子舞の写真をかつて飾っていたが、その写真も今ではどこにあるのかよくわからなくなっている。今、会長さんは体も弱ってしまっていてお会いしてお話しできる状態ではないとのこと。そこで、今回大聖寺馬場町の獅子舞に関しては、獅子頭なしという事で結論づけるしかなかった。昭和63年の獅子舞緊急調査報告書によれば、昭和45年(1970年)まで獅子舞をしていたという記載がある。

 

山中温泉四十九院

11月15日(月)に山中温泉四十九院町に獅子頭があったのでは?という話が出てきた。友人から以下のような資料を見せてもらったのである。山中町民俗資料調査委員会が平成2年6月1日に発行した資料だ。この記述によれば、町内の白山神社にて、一対の獅子頭が大切に保存されているという。この真相を確かめるべく、次の日に山中区長の林康男さん(70)に電話でご連絡させていただいたところ、ご丁寧にお返事いただいた。約20年ほど前からのぼり旗は上げていない。区長をもう3年勤めているが、最初の1年目、つまり25.6年には獅子頭は無かった。獅子を舞っていたという記憶はない。獅子舞を経験したことがあるという人も聞いたことがないとのこと。つまり、資料と林さんの話を総合するに、平成2年(1990年)から25年前である平成8年(1996年)までの間に獅子頭があった可能性が高いというわけだ。どこかにあるのではないか?と思えてきて、11月18日(木)に山中温泉四十九院町の町内を歩いて周り、家の外に出ておられた町民何人かに聞いて回ったが、獅子舞をしていた事実も獅子頭があるという話も聞かなかった。最終的にはたこ焼きの「たこはな」というお店で聞いてみたが、そこで従業員をされている林さんに遭遇。柿をいただいた上、「神社の長持をもう一度調べてみる」とおっしゃっていただいた。それで、調べていただいて、後日携帯のSMSメールにいただいたお返事によれば、獅子頭はなかったとのこと。本当に短い期間保管されていたか、途中で個人よ流になったか、放ってしまったのか。何れにしてもその真相は定かではない。獅子舞をしていたのをみたことがないという町民の証言から推測するに、一対の獅子頭というのは飾り獅子だった可能性もある。また、滝町のお宮さんは燃えて、幟旗や剣旗が四十九院町に受け継がれたというので、その時に一緒に獅子頭が受け継がれたという可能性は否めない。

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ps. ちなみに獅子舞調査には次のような段階があると思っている。このような全体像が見えてきたので、共有しておきたい。石川県加賀市には281町があり、それを獅子舞分布の点から区分けしてみると、以下のような結果が得られた。

①獅子舞を現在実施しており、獅子頭も当然ある(87町)

②獅子舞は途絶えたが、獅子頭は保管されている(40町)

③獅子舞は途絶え、獅子頭もなくなった(6町)

④獅子舞をしていないし、獅子頭も当然ない(148町)

 

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▼水田丸町の中心にある鹿島神社。かつてこの地を舞台として、獅子舞が行われていたはずだが、それがいつ頃のことだったのだろうか?依然として謎は深い。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺畑町

2021年11月9日

16:00~ 大聖寺畑町

大聖寺地区会館のご紹介で、畑島繁則さんに突撃アポでお話を伺った。獅子頭の在り処はわからないとのことで、話だけでもということでお家を訪ねた。同行は北嶋夏奈さん。26~7歳まで獅子舞をしていた。もう、50年以上獅子舞自体実施していない。結婚式の時の披露宴で獅子を舞ってもらった記憶はある。この地域の獅子は「天狗獅子」と呼ばれていた。

獅子舞の練習はお祭り前に集会施設みたいなところがあって、そこで練習した。子供達が学校が終わり、大人が仕事が終わった後の夕方から練習を開始した。獅子舞の祭りは春が3月21日、秋は8月21日での両方で行なった。お祭りはお昼前から始まり、20軒の家を回って夕方ごろに終わるという流れだった。獅子舞の当日は町内の家を一軒一軒回って、ご祝儀をいただいた。祝儀の額はよくわからず、その額によって舞い方を変えることは無かった。ご祝儀が集まると、そこに少しお金を足して、温泉などに旅行に出かけた。

子供から青年団、壮年団が皆参加して獅子舞を運営した。獅子は3人、太鼓1人、笛2人、鉦1人、棒振りという構成だった。鉦が出てくる獅子舞というのは、加賀市では非常に珍しい。棒振りは鳥のような形の烏帽子を被る天狗だった。天狗になる踊り子は小学生から中学生の子供がやっていた。その棒振りの前にはタイマツが2つ炊かれて立てられており、それを渡すように柵があって、棒振りが柵を飛び越えて獅子と「チャンチャンバラバラ」をするという内容だった。獅子は柵を飛び越えることなく、棒振りだけがその柵を飛び越え行き来した。その柵というものの形状はよくわからないが、机ぐらいの高さだった。舞い方はおそらく柵越えがある獅子と柵越えがない獅子とがあったので、少なくとも2種類はあっただろう。

▼獅子舞をしていた時の様子を少しだけ紙に書いてくださった。中央の縦棒は天狗が飛び越えた柵のことである。

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獅子舞の始まりはよくわからないが、加賀市内(江沼郡)に師匠みたいな人がいた。「鉢巻きしてた獅子、無かったっけな」ということなので、おそらく舞い手がハチマキをしていた町内から教わったということだろう。奥様の話では、「桜まつりの獅子も(大聖寺畑町同様に)こんな感じだった」という話だったので、もしかすると、大聖寺の中に同じような形態の獅子舞があって、それを教えてもらったのではないかという可能性もある。また、火の上を歩くといえば、大聖寺錦町にあるお岩さんというお寺の行事があるが、それとの関連性はおそらくないだろう。

そのような話を伺っていたところ、八幡神社社務所を探してくださっていた町民の方から畑島さんに電話が入った。「あの、今、社務所を整理しとるんや。そしたら、獅子頭あるけど、ものすごく痛んでいるわ」とのこと。なんと、獅子頭がまだきっちりと保管されていたのだ!感動的な再会!50年ぶりの獅子頭のお披露目である。この巡り合わせというのも、何かの縁だろう。「そんじゃ、行くって!」という奥様の言葉とともに、お宅を出て、早速、八幡神社社務所に向かった。

社務所に着くと、そこに2人の男性が待っていてくださった。区長の山本一郎さん、地域住民の松村昇さんである。社務所の木の棚があり、その中には、獅子頭だけでなく、烏帽子2つ、尻尾1つ、法被多数、蚊帳2つ、烏帽子が持つふさふさが付いた棒振りの棒、前掛け、「塚本組」という運送会社の名前が書かれた鉢巻に使う手ぬぐいなどが保管されていた。鉦は保管されておらず、太鼓はおそらく町民会館の方に保管されているだろう。獅子頭は埃をかぶっていたものの、大量の防腐剤の効果もあり虫に食われることもなく、カビが生えているということもなかった。また非常に驚いたのは、獅子頭の素材が木ではなく紙だったということだ。紙製の獅子頭というのは加賀市で他に例がない。紙製なのでとても薄く軽く作られており、獅子頭の製作者と製作年が裏側に彫られているということもなかった。それゆえ、いつに誰が制作したものかはよくわからない。少なくとも、この獅子頭を若い頃から使っていたことは覚えている。今回、社務所の壁越しに、蚊帳の上に獅子頭を乗せる形で獅子頭を撮影させていただいた。この出会いは本当に奇跡だと思った。

獅子頭の内側はこんな感じで非常に薄く作られている。

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この大聖寺畑町という地域の歴史は非常に古い。町民会館には「黒観音」という珍しい観音様が保管されているらしい。今回訪れた社務所の中にも、たくさんの昔の写真が壁に飾られていたほか、ネパールか何かのお面まで飾られていた。また、のぼり旗の上に挿す巨大な剣も保管されていてこれには驚いた。津波城という城を陥して南北朝時代に建造された畑城という山城が八幡神社の後ろの山にあって、新田義貞四天王の一人である畑時能(はたときよし)という人物がこの土地を治めていた。その時の名残で、元々は八幡神社(はちまんじんじゃ)だけでなく、畑神社(はたじんじゃ)という神社が隣にあり、それを合祀して、今の八幡神社ができたというわけだ。昔は白山五院の関係で極楽寺町という名前もあり、また江沼郡福田村というものを昭和10年大聖寺と合併させる形で大聖寺畑町ができた。それにしても、畑町に住む畑島さんと畑時能という人物の歴史、すべて「畑」の字がつくのは非常に興味深かった。

▼畑島さんは社務所の倉庫にある道具をたくさん見せてくれた他、町の歴史の話も聞かせてくれた。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺関栄(追加)

2021年11月7日

19:00~ 大聖寺関栄

公民館大会(11月21日)の演舞に向けて、関栄町民会館で行われた練習に伺った。そのときに、関栄親子獅子保存会に所属する町民の方々を中心にお話を伺うことができた。お話をしてくださったのは、山下和茂さん、高本徹さん、高橋俊之さん、中田祐紀雄さん、小川朋さんだ。また、吉野裕之さんと山口美幸さんに取材の同行をしていただいた。まず、獅子舞のお話を伺うにあたって、関栄親子獅子保存会に伝わる文書の内容を見せてもらった。この文書には以下のように書かれていた。

関町は藩政時代、大聖寺藩の関所があった所で、当時の関所役人から獅子舞を習ったのが、関町の獅子舞の初めだそうです。当時の獅子頭は、竹で編んだザル2個を上下に組み合わせ、紙を張って目や鼻を書いて、これを獅子頭に仕立てて舞ったとの事です。明治に入って、今の獅子頭を購入し、加賀神明宮の祭礼には、町内を青年達が舞い続けてきました。大正時代、青年達の減少により獅子舞もできなくなりましたが獅子頭は代々の区長が受け継ぎ保存され、昭和10年に復活しました。そして、昭和31年に子獅子を加えて現在にいたっています。獅子舞の原則は、奉る(たてまつる)という字形を舞うのですが、私達の獅子舞は長唄『連獅子』をアレンジしたもので、親獅子の子獅子に対する愛情を表現しています。母獅子が子獅子の成長を願い谷底へ蹴落としたところから始まり、谷底からはいあがってきた子獅子が母獅子の乳房を捜したり、母獅子が毛並みを整えたり子獅子が蝶とたわむれて遊んだりする光景が、とても見ごたえがあります。全国に数多く獅子舞はありますが、関栄親子獅子保存会の親子獅子は、関栄親子獅子保存会独自のものであり、これからも一つの文化財として後世に伝承していなねばなりません。現在では、関栄親子獅子保存会(関栄公民館内)受け継いでいます。

※字形は奉るではなく、寿という話もある。

※以前は関栄親子獅子保存会と関栄子ども会が合同で獅子舞を受け継いでいたが、子供会での活動がなくなってからは世代を超えて集うような保存会という形に一本化した。

▼関栄公民館で練習に来ていたたくさんの地域の方々にお話を伺った。

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2匹で行う獅子舞というのは、石川県内では非常に珍しく、金沢にもう1つある程度しか知らない。獅子舞の演目は町内・町外含め本陣だと2匹で舞う一方で、町内の家を一軒一軒回るときは1匹で舞う。本陣では室内に入って、お座敷獅子となる。日曜日の終わりの方で行う越前町の公民館(本陣)は狭いので外でゴザを引いて舞う。このときは外で行うということもあり、人がたくさん集まってきて盛り上がる。また、お店の前で舞ってくれと頼まれたら、外でもゴザを敷いて舞う。お店の前では、子供が多くの役割を担い舞うと喜ばれる。桜まつりは今土日で行われ、どちらも各町の本陣やお店に舞に行く。その前の金曜日は関町と西栄の町内約50軒を回る。ご祝儀は舞いの後でもらうので、その額によって舞い方を変えるということはしない。子供獅子は大人が子供を担ぐというサルボンボをする時もある。練習は桜まつり当日に向けて1ヵ月前から行う。

小学校1~中学3年生までが子供獅子を務める。昔は小学校3年生からだったが、人数不足という経緯があり小学校1年生から獅子舞に関わっている。大人獅子が2人、子供獅子が2人と、その他に太鼓2人、蝶々1人という構成だ。現在、関栄親子獅子保存会は7~8人で運営している。子供は現在男の子2人で、女の子は通常いないが最近だと人手不足で5~6人関わってもらっていた。女の子は昔は踊りに参加していたが、今では獅子舞に行事が一本化しているという背景がある。女の子が獅子に入ると、可愛いということで評判が良い。錦城ヶ丘に引越しをしても通ってくれる30代の人もいて、外に出た人にも協力をしてもらっている。小学校で獅子舞を見せるというのを検討したこともあった。関町では人手が足りなくなったので、獅子舞がない隣の西栄町との合同で獅子舞を始めた。今では「関栄」という名前で公民館まで合同で管理しており、両町に区長がいるが、獅子舞に限らず町のイベントなどは一緒に実施している。

昔とは獅子舞の舞い方が違う。ただ、長老もそれを直すことを強制しない。最も変化したのは太鼓の音である。叩く人が違えば、演奏が変わる。力が強い人は迫力があるし、おとなしい性格の人ならおとなしい演奏になる。また、教える人によっても変わってくる。個性を尊重するというスタンスで行なっているからこそ、現在まで継承できているとも言えるかもしれない。太鼓に重要なのは気持ちを込めることで、その気持ちのこもった大バチに合わせていく小バチも必要である。ただ、今では気持ちを込めて頑張っていることを見せるのが恥ずかしいという感覚の人も多くて、そのような時代性もある。元々は一匹で獅子舞を舞っていて、その時の写真が白黒で残されている。60年前に、今でいう120歳くらいの人が2人で新しく子獅子を加えて親子獅子を作ったが、20年後にはすでに形が変わっていた。人数が多かったので、それを伝承することを重視すると、簡易型の獅子にならざるを得なかった。音が大きければOKというスタンスの時もあった。

▼親子獅子になる前の1人獅子舞の白黒写真

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獅子舞の蚊帳は金沢の村松で作った。蚊帳に毛がそのまま付いているので、しっぽを振るという動作はない。昔は動物の毛が付いていたが、今ではワシントン条約の関係で、ナイロンの毛を使っている。また、蚊帳にはヒラヒラした装飾が付いており、このような形のものは珍しい。大人獅子は青、子供獅子は緑の色が映える蚊帳である。獅子頭は3体あり、2つが親子の本番用で、そのほかに大人の練習用が1体ある。この練習用は重すぎて本番では使えず、うちぐりを掘って軽くするという手もあるが、一木造りでないのでそれは難しい。演舞の最中は鈴がシャラシャラと鳴る必要があるが、重いと鳴りにくいという事情もある。

練習の獅子舞を実際に拝見してみて、とにかく「見せるため」の芸事の獅子舞という印象が強くて動作が洗練されていると感じた。また、すり足のような足遣いを意識していていることが見ていてすぐにわかった。これはお座敷でお客さんの目線が低いからこそ、演じ手も足の動きを意識しているのだろうと思った。また、ストーリー性のある獅子舞だと思った。崖から落とされた子獅子が這い上がり、母親の乳をゴクゴクと飲み、それを上を向いて喉の奥に流し込むという流れで、子獅子が頑張る成長の物語である。ナレーションや演じる前での説明があるとまた違った見え方になるだろう。説明があることでより深く演目に入り込める獅子舞とも感じた。

▼獅子舞の練習風景

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桜まつりの日以外にも、過去には結婚式で親子獅子を演じたこともある。演目の内容的に加賀獅子特有の獅子殺しなどと違って、結婚式に呼ばれやすいという傾向もあるかもしれない。それ以外でも特別に呼ばれれば舞うこともあり、富山県にまで舞いに行ったこともある。10年ほど前までは、無形文化財になって月2~3回の遠征をこなすという話もあった。「夢はドバイ」などと話していたが、そこまで頻繁に公演をこなすというのが難しいということになり、無形文化財指定は今のところ実現していない。コロナ禍では、2020~21年で獅子舞ができなかった。2020年は開催の1週間前に中止が決定したこともあり、練習は少し行っていた。その時から、本番の演舞を行えていない。今回、11月21日の公民館大会での出演は決定したので、実に2年ぶりの演舞である。当日がとても楽しみだ。

【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺魚町(追加)

2021年11月6日

15:00~ 大聖寺魚町

田中自動車の田中宏造さんに町内のカフェ「FUZON KAGA Cafe and Studio」でお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。田中さんには町内の10人ほどの方に聞いて回って情報を集めてくださり、大変ありがたかった。獅子舞は25年くらい前まで行っていたが、現在は実施していない。

獅子舞の歴史は「すみやたつおさん」という現在喫茶店をされている方の父親が奥谷町から引っ越してきた時に伝えたことに始まる。この獅子舞は能登半島から富山県の井波を経由して加賀市奥谷町に伝わったという流れがある。この獅子舞を継承しているのが、大聖寺瀬越町、奥谷町、大聖寺魚町などだ。鳥のような烏帽子を被った演目もあり、大聖寺魚町が大聖寺瀬越町からこの烏帽子を借りたこともある。獅子舞は一時期途絶えており、奥谷町の人から習って復活したという流れなので、その前には違う獅子舞をしていたのかもしれない。

獅子舞の写真(1995年4月16日撮影)を2枚、屋台の写真(撮影年月日不明)を1枚見せていただいた。写真を見る限り、太鼓2人、獅子4人、横笛数人、子供の棒振り数人という構成だった。ただ、子供の棒振りに関しては1~2年間のみ小学3年生くらいの子供が棒振りをしていただけで、その他は青年団のみが獅子舞をしていた。見せて頂いた写真だと、男性のみが担い手となっているが、女性が横笛を志願したこともあったかもしれない。獅子舞の演目は6種類はあった。棒振りは獅子殺しの意味合いがあるものだった。大聖寺で棒振りをしていた獅子というと、他に大聖寺法華坊町と山田鍛冶町があった。通常、ご祝儀(あがり)を頂いた時は1種類の演目を披露したが、ご祝儀の額が高い場合は難しいもの含めて2種類の演目を特別に舞うこともあった。

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獅子頭は最初白い木がむき出しのものを使っていた。しかし、その獅子頭は現在残っておらず、今存在するのは2代目のものである。顎が一度割れたことがあり、60~65年前に田中さんが区長をされていた時に、富山県の井波でこの顎を修理してもらったことがある。現在、獅子頭は加賀神明宮に保管されており、獅子舞が途絶えてからそこに預けている。獅子舞をしていた時は、お囃子の屋台が置けるような大きなスペースがある所が本陣の向かいにあり、そこに獅子頭も一緒に保管していた。

獅子舞は現在の旧中木家住宅を本陣として、2年に1度行われた。裏年と表年があって、表年には青年団がこの家を借りて、桜祭りの4月16~17日の2日間、本陣を構えていた。逆に裏年には本陣を開けることはなかった。この家は元々北前船が橋立に寄港した時に、品物を運び込んで商品を販売した商家だった。武家の時代より刀を使えないように天井を低くしている作りが特徴的だ。獅子舞は大聖寺魚町の場合、自分の町の本陣と他の町の本陣を回るのみで、町内の一軒一軒で舞うということはしなかった。本陣は今の金額で20万円ほどを用意して、番をする人が常にいて受付を行い、他町から舞いに来た獅子舞の担い手に対してその資金の一部でご祝儀を包んだ上に、お茶をお出しすることもあった。その他に、運営資金は旧中木家住宅の借り賃などにも使われた。また、祭り前にこの家を本陣として借りるにあたって掃除に伺い、祭りが終わったら後片付けをして、ご苦労様会ということで最後に料亭で料理を食べるということもした。お昼の弁当代などの資金も必要だし、こういうことを含めて1回本陣を構えるのに今の金額で20万円ほどの資金が必要だった。この資金は町内の費用の貯金によって賄われた。その都度、お金を集めるとなると、誰がいくらでという風に差がついてしまうので、そのようなやり方はしなかった。町内には21軒ほどの家しかないので、町としての規模はそれほど大きくない。それでも運営資金が確保できたというのだから、そういう意味で、お金の回し方が非常に上手だったのかもしれない。祭りの時に資金が余ったらすぐに使わずに1万円程度は貯金に回すこともあった。また、納税貯蓄組合を形成して市から資金のバックがあると全部貯金していたようで、これも注目すべきポイントかもしれない。普通大聖寺の各町は、他町の個人商店を回るなどしてご祝儀をもらい、それによって資金を作るという町は多いが、そのような形で稼ぐことはしなかった。他の町内から魚町の商店に舞いにくることもあったが、逆に舞いにいくということも無かったのだ。この点では、資金の作り方が特殊で面白い。

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元々、大聖寺魚町は土地が低くて水に浸かりやすい下町で、江戸時代には西魚町と東魚町と分かれていて、そこには武家が住んでいなかった。ただ、1786年の記録では魚市場が17軒も並んでいたように、昔から魚関係の商売を行う食文化の町であった。今でこそ車文化になって駐車スペースがないということで魚市場が幸町に移転したものの、昔は町中に法螺貝の音が響きセリが始まるような賑やかな場所だった。小さい町だから獅子舞を教えに行くような余力はなかったものの、屋台が出せるほどに祭りに力を入れていた。屋台が出せるのは他に、隣の大聖寺中町と本町といった規模の大きい町しかなかった。囃子方の練習場は、昔魚市場で現在はFUZONというカフェになっている建物の2階部分だった。女の子は福田町の泉先生という方に教えてもらうとともに、この建物にも来ていた。獅子舞はどこで練習していたのかよくわからない。それにしても、大聖寺魚町の獅子舞文化とそれを支える貯蓄の知恵は特筆すべきものがある。

 

【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺菅生町(追加)・柴山町(追加)

11月5日

13:00~ 大聖寺菅生町

郵便局で獅子頭の再撮影をさせていただき、その際に数人の方にお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。獅子頭は町内に公民館や神社がないため、いつからか郵便局に保管されている。それもただ保管するだけでなく、ガラスケースに入れられ、複数の立て札とともに郵便窓口脇に飾られている状態だ。1つ目の立て札には筆で「菅生町文化財 獅子頭 制作年月 文政九年三月 一八二六年三月製作 雄獅子 菅生町所有」と書かれている。一方で、2つ目の立て札には「文政三年三月製作 獅子頭 菅生町 表札製作堀田」と記されており、前者の立て札と獅子頭の製作年の記載内容が合致しない。町民の話によれば、この看板の製作者の堀田さんはすでに亡くなってしまっているため、製作年を正確に知ることは難しい。また、半紙に筆で文字が書かれた記録もあり、そこには「獅子頭製作 文政参年三月(一八二〇年)菅生町の遺産 其の年大聖寺方面大洪水とふる又翌年大聖寺藩では髙直し拾万石にされる(文政四年一八二一年)菅生町財産」と書かれている。この文面によれば、後者の立て札が正しいことになる。

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また、郵便局長さんの話によれば、獅子頭はこの郵便局に保管されている雄獅子だけでなく、雌獅子もあった。昔は酒屋をされている谷藤さんの倉庫に保管されていたという話だったので、谷藤さんのお店を訪ねてみたが、今は雌獅子はないとのこと。それをいつ保管していたのか、また、それがどうなったかについてはご存知ないようで、先代の話かもしくは相当昔の話かもしれない。獅子舞はすでに途絶えており、70代の人は獅子舞を舞ったことはない。ただ、80~90代の人であれば、舞ったことはあるかもしれないようだ。つまりその方々が青年団だった今から70年前ごろには獅子舞があったのかもしれない。

獅子頭の展示を保護するガラスケースにはお歳暮の案内が!

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14:00~ 柴山町

町民会館と青年会館で獅子頭の撮影をさせていただき、農家の村田さんにお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。柴山町の最新の獅子頭は修理されたため、2019年に撮影に伺った時よりも綺麗な状態で箱の中に保管されていた。また、この獅子頭が保管されている箱には「平成四年九月吉日 小松市上本折町 彫刻 北昭造」と書かれている。古い方の獅子頭は髪が少し抜けつつあるが、まだ十分使えそうな状態である。また、今回の訪問で練習用の簡易的な獅子頭があることも知ることができた。木の取っ手が回転するような仕組みとなっており、手首を回せるような構造となっている。

先日、片山津温泉から獅子舞が柴山町の方に伝えられたという話を聞いたため、そのことについて伺ってみると、柴山町から柴山潟を小型の船で米俵を持って渡り、片山津温泉街に行っていた人も多かったとのこと。つまり、柴山町と片山津温泉は柴山潟の船の道を通じて、往来が昔から活発だったのだ。獅子舞はコロナ禍で、2020~21年の期間、実施できていない。来年以降の開催に期待である。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 前鷹匠町・合河町毛合 川尻(追加)

11月4日

9:00~ 大聖寺鷹匠

セミナーハウスアイリスの谷隆司さんにお話を伺うとともに、獅子頭の撮影をさせていただいた。同行は山口美幸さん。獅子頭はもともと区長の持ち回りだったが、谷さんの仕事場のセミナーハウスのアイリスに倉庫がありスペースがあったのでそこに数年保管していた。太鼓や衣装等も一緒に保管してあった。現在は谷さんの息子さんが住んでいる場所にスペースができたのでそこで保管されているものの、今回だけ特別にアイリスに持ってきていただき、撮影を行った。獅子頭の髪の毛が劣化していて、触るとすぐに抜けてしまう。昭和54年4月に新調した蚊帳が保管されている。獅子頭の製作者と年代は明らかでないが、おそらく白山市の美川で製作されたものだろう。

獅子舞は40年前ごろ(1980年代前半)に途絶えた。原因は高齢化だった。今でこそ、新しく若い人が徐々に増えているが、獅子舞を知っている人がほとんどいないので、昔の子供獅子を継承するのがなかなか難しい状況である。獅子3人、太鼓2人の獅子だった。獅子は小学校6年までは関わった。太鼓は中学生が行なった。高校生が獅子舞に関わることはなかったが、最後の方に人手が不足し始めて、高校生も少し関わっていたことがあったかもしれない。桜まつりの時は前夜祭と当日の2日間で獅子舞を行った。初日に町内を回り、次の日に他町の本陣を回った。獅子頭は子供のいる家は必ず子供に持たせて、その後ろから先輩が二人羽織のようにサポートをする形で行っていた。

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14:00~ 合河町 毛合 川尻

自動車屋をされている橋本弘之さん(昭和39年生まれ)にお話を伺った。同行は山口美幸さん。毛合と川尻は元々、2つの村に分かれていた。それが一緒になって合河町になったという歴史がある。それと同時に神社に関して、毛合は毛合白山神社、川尻は蔵宮白山神社という風に2つに分かれていた。それらの神社を1つにするという話も昔あったがそれは実現しなかったので、現在に至るまで毛合と川尻で別々に神社を持っている。川尻の方の神社が大正8年9月に場所を変更した際に、毛合の方もここにまとめて1つの神社にしようという話もあった。しかし、毛合の方にお金を持っている人がいて、一緒にするのをためらったので、そのまま別々の神社を継承し、町としては同じ合河町という今の形態が生まれた。

現在は、双方の神社に獅子舞が継承されている。それぞれの獅子舞の始まりはよくわからない。5~60年は少なくとも行っている。獅子舞の日程は、昔から10月の同じ日に行っていたが、田んぼの収穫時期がずれたので、現在は8月の20日前後の土日に行うことになっている。昔の合河町といえば、毛合に25軒、川尻に25軒で合計50軒くらいしか家がなかった。しかし、今では毛合に60軒、川尻に100軒ほどに増えた(平成27年の調査によれば合河町全体で合計178世帯あり)。川尻に家が多いので土日で獅子舞を行うが、毛合は土曜日のみで町内を回り終える。ご祝儀を頂けない場合や、留守宅の前でも舞う。ご祝儀を出してもらえる場合、平均は5000円くらいである。獅子舞の時にお昼を食べる場所は、それぞれの神社の境内の中にある青年会館のような所(社務所的な場所)である。現在、毛合と川尻で別々に神社に紐づいて実施する行事というのは、獅子舞のみとなっている。
また、土曜日の夜の輪踊りに関して、昔は毛合と川尻で「今年は毛合、今年は川尻」という風に、相互の神社に櫓立てて行っていた。ただ、今は踊る人がいなくなり輪を作れなくなってしまったので、何十年も前から実施していない。その代わりに、芸人などを呼ぶフェスティバルが行われている。これは合河町の中心に位置する1つの公民館で実施する。

毛合と川尻の獅子舞は全く異なる。毛合の神社は男の神様で雌の獅子を持ち、川尻の神社は女の神様で獅子は雄獅子とも言われている。ただし、御祭神は双方ともに白山神社なので、「菊理姫」である。川尻は獅子、1人太鼓、笛という構成だ。一方で、毛合の方は獅子、1人太鼓、笛という構成であるのに加えて、獅子退治の「棒振り」と獅子をなだめる「三番叟」の2種類の舞い手が獅子と対峙する。川尻も毛合もご祝儀の額によって披露する舞いの数や種類を変えている。

青年団は10代から25歳まででは人手が足りなくなっている。昔は24歳の12月ごろ、つまり数え年で25歳(5×5=25)になる前の年に、その厄年の人が厄払いをしてから町内に餅を配るというのが恒例だった。それが昔の成人式のようなもので五五の餅と言い、それを配ることで成人するという感覚があった。その辺りの年齢の人が青年団の団長を務めることも多かった。それが今では、毛合と川尻それぞれの青年団で所属する人の年齢は35歳くらいまで引き上がりつつある。昔は川尻の方は獅子舞が3~4年間くらい途絶えたことがあったが、10年前に復活した。

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富山県はやはり獅子舞が盛んだった!射水市で獅子舞工房を訪れ、100周年の例大祭を取材

富山県射水市の久宗獅子舞工房の久宗さんに誘われ、富山県射水市に行ってきた。11月2日は工房に訪問してから3日は戸破加茂社の例大祭を取材させていただき、そこで披露された高穂町の獅子舞も拝見してきた。

 

11月2日

久宗獅子舞工房で最も驚いたことは、獅子頭制作で使用するのみの本数である。所持している本数はなんと150本に上る。小学校や中学校の授業で使う彫刻刀の数を思い浮かべてほしい。せいぜい5本である。それが150本てどんだけ繊細な表現ができるんだよと思った。実際作業風景を見ていると、一箇所を掘るのだけでも3本ののみを使い分けていて、大ぶりに削るところから徐々に細かく鋭利なものに持ち替えていた。なるほど、最初は大まかな形を作り作りたい形の輪郭を作り出さねばならない。図案がしっかりしていれば、堂々と間違いなく掘っていけるようである。そこら辺の感覚が非常に面白い。

また、獅子頭を掘ってもそれが獅子舞という実際の現場で機能していかねばならない。となると、自分が掘ったモノが、踊り手の行動すらも左右するということを意識せねばならないのだ。だから、実際の舞の現場を見たり、写真を見たりして、入念に作らねばならない。例えば、鼻を棒でつつくようなところの獅子頭は鼻の部分を厚めに作る必要があり、そのほかの部分を薄めに作らないと結局重くなってしまう。そういう全体的なバランス感も必要になってくるというわけだ。

獅子舞工房のyoutubeに対する向き合い方に関する話も非常に面白かった。youtubeの動画は生活の中で、無理なく挙げられる内容でないと続かないという前提を考えてから、実際に獅子頭制作の裏側に迫るような制作風景を配信されている。結局獅子頭といっても、完成品しか見たことのない人が多い。実際どう作っているの?というそのプロセス、問題と解決、試行錯誤の様子を流しているようである。一方で、それを配信することで、自分の制作スピードが遅いと感じたら、動画を上げるスピードも遅くて、視聴者さんからもコメントが来るという風に、外部からの監視機能を設けて自分に鞭を打つように動画を上げているという話もしていた。単純に再生回数云々というよりも、自分にとってみてほしい人が見てくれて、それによって自分も制作が順調に進んでいくような生活循環を生み出しているというわけである。それは非常に面白い視点で、僕も自分の写真や記事といった成果物を発信しようとするだけでなく、そのプロセスないし自分の生き方的なところもまで含めて見せていくことで新しいコンテンツとしての可能性は広がっていくし、本業の可能性の部分も広がっていく可能性もあると感じた。

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11月3日

富山県射水市の戸破加茂社の社殿再建100周年記念のお祭りが開催された。前日の前夜祭は関係者のみの厳かな神事を開催。祝詞を読む姿が非常に堂々として印象的で「おおお」と言う神が舞い降りるような場面が印象的だった。また、お祭り当日は、毎年行われる秋の例大祭に加えて、日本舞踊や創作舞踊、高穂町の獅子舞披露等を実施。小学生の浦安の舞は例年通り行われた。いつも以上の賑わいだったようだ。また、新型コロナウイルスの影響で、衣装の発注や告知など3ヶ月かかる子供達の大規模な稚児行列の実現は難しかった。秋祭りは例年11月1日前夜祭、2日本番となっているが、今回は文化の日に合わせて2日前夜祭、3日本番という形で開催された。今回の例大祭のポイントは、まず100年前、大正3年に火災にあって拝殿を失い、大正9年にその拝殿が再建されたという事実。つまり、当時1億円くらいのお金を6年間で地区内の中で貯蓄して着工できたということだ。それで、これほどまでに豪華で立派な社殿が建築されたというわけである。社殿を歩いていて、奉燈の高さも非常に高く、その点でも奉納にかかる金額含めかなり社殿にお金がかかっているように思えた。戸破という地域内には、2つの神社があり、そのうち1つの戸破加茂社は周辺のいくつかの神社を合祀して1600年代に誕生した。戸破地区内には約9000軒の家がある。

僕は富山県の獅子舞に対する思いの熱さがどこから来るのだろう?というのが常々気になっており、祭りに誘われたことを良い機会と思い、獅子舞の取材を実施した。その時の様子を振り返る。まずこの高穂町の獅子舞の特色として、シャガを被った天狗が登場すること、担い手の数と演目数が多いこと、祝儀が非常に高いことの3つが挙げられる。

まず、シャガを被った天狗について。この地域の獅子舞は、天狗が出て獅子と対峙するものの、天狗は獅子を殺さない。これが、加賀獅子と決定的に違うところだろう。神社、神様の使いという意味合いで天狗が登場し、獅子を操っていくようなイメージである。天狗が獅子をここから先には通さない立ち入り禁止のような意味で、刀を地面に突き立てるような場面もある。自然を殺さず野放しにもせず、うまく関係性を作っていくようなそういう感覚かもしれない。

また、担い手の数であるが、「獅子方」というのが、獅子舞を運営する。ということは、青年団でも若連中でも壮年団でも保存会でもなく、年齢性別関わりなく運営に参加できるということである。この獅子方に所属しているのは約30人ほどだという。10代から50代まで年齢層も様々で、男性だけでなく女性も笛などの役割で関わっている。太鼓はリヤカーにおいて獅子の後ろ側に位置し、これは石川県でよく見られる獅子の前に太鼓がある形態と大きく異なる点である。太鼓の人数は1人だが、獅子役を務めるのが5人ということで数が多い。それに加えて獅子と対峙する天狗役の人がいて、天狗が持ち物を持ち変えるので、刀やら鎌やら薙刀やら使う道具を渡す子供もその横に立っている。また、横笛が複数人いて、女性や年配の大人がこれを務める。そう考えると、軽く10名以上は常に必要で、それに加えて町中を回るときは交代要員が必要になるという具合である。自分の役割があって新しい人が入らん限りはその役目を全うするという話も聞いた。役割が多いからこそ、分担してうまく回しているようだ。

演目の数としては12種類あり舞う順番で言うと、フタツ、ムッツ、カヅキ、シムカエシ、タチ、トマ、ネンカケ、ミヤマル、ツンツコ、カンパタル、ミッツ、サンロがある。最後の3つは特殊で、お宮さんなどで実施するものである。ご祝儀の額によって舞い方が変わる。高穂町は、富山県射水市東老田(中老田と言う人もいた)という地域から100年以上前に獅子舞を習った。今では踊り方は年月を経て少し変わっていて、高穂町は激しくて東老田の方がゆっくりなテンポとなっている。

ご祝儀の額であるが高い家だと昔は10万円を出すこともあったようだ。桁違いである。これほどまで個人がご祝儀を出すことができる地域はなかなか少ないだろう。背景としては、高穂町はもともと農耕地帯で農家の人がたくさん住んでいた。その人たちが田んぼを売ることで儲けるという背景があったようだ。これは単にお金持ちが町を応援する気持ちでご祝儀を払っているのか、祭り好きでとにかく獅子舞に対して熱い思いがあるか、見栄があるかのどれかだろうと感じた。今でこそ個人のご祝儀の最高額が5万円程度のようだが、それでも桁違いに高い。このような人がいるからこそ、祭り文化は下支えされているとも言えるだろう。

祭りは町内50軒を回る。休憩は10時、12時、16時くらいに30~40分の休憩を公民館で行い、お昼は公民館で食べる。終了時間が夜の23時頃なので、祭りが終わる時間が遅めなのも興味深い。4月の第2日曜日に獅子舞の祭りが行われる。秋祭りでは通常獅子舞を行わないが、今回は100周年ということで、特別に神社の奉納と公民館前で演舞された。通常、基本的にはお宮さんの氏子払いで町内を回っていく。悪魔払いの意味で、神輿の前にお宿について獅子舞が行われるのだ。ただ、基本的に、神輿と一緒に獅子舞が回ると言うわけではない。今回の祭りを通して、富山は獅子舞が盛んな県であるという印象が、より一層強くなってきた。

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