【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材9日目 大聖寺新町(追加)・大聖寺一本橋町

2021年8月27日 

11:00~ 大聖寺新町 追加取材
昨日の大聖寺新町・河村さんの取材時に、昔の獅子舞の歴史に詳しい長谷川慶二さん(大聖寺上木町在住・74歳)をご紹介いただき、お話を伺った。上福田町→北片原町→大聖寺新町の獅子舞の伝来経路について詳しく知るためだ。長谷川さんは元々上福田町にお住まいで、40年前に上木町に引っ越した。出身は教念寺で、長男が3代目として跡を継いだが、新聞記者で富山県にいる。それでお寺はほとんど閉まった状態で、自分は上木町に引っ越した。このお寺の始まりは江戸末期に小塩町で院を開いたのがきっかけで、そこから大聖寺上福田町に出てきてお寺を建てたという歴史がある。『加賀獅子』という文献に、このお寺の名前が出てくる。

上福田町で太鼓と笛で囃し立てて舞う獅子があったが、子供の頃はそれにあまり興味がなく、雄獅子をやっており激しくて格好良い北片原町の青年団に入った。兄は上福田町の青年団に入ったが、自分としては連れ(友人)も多い北片原町の青年団に入ったのだ。北片原町は上福田町から獅子舞を習ったのだが、途中でなぜか舞い獅子から踊り獅子に変わったという経緯があり、演目が変わった。子供の頃には、北片原町の獅子舞は棒振り(2人)と薙刀(1人)をやっていたのだが、60年以上前の小学校の頃に獅子舞に参加した時は既に雄獅子に変わっていた。北片原町内の前島さんが獅子舞についてとても詳しかったが、もう亡くなってしまった。新しい獅子舞を伝えたのはおそらくこの方である。なぜ雄獅子の演目をご存知だったのかは不明のようだ。新しい獅子の演目は1つしかなく、それには名前がついていなかった。現在は北片原町の獅子舞は途絶えてしまっている。大聖寺上木町に引っ越す前には獅子舞があったので、少なくとも40年前には獅子舞が行われていた。

獅子舞の伝来経路は、上福田町→北片原町→大聖寺新町という順で伝わったことはわかっており、これらは上福田町の春日神社の祭礼として執り行われた。北片原町の獅子舞が始まったのが1950年(昭和25年)頃で、戦前に獅子舞をしていたのかどうかはよくわからない。長谷川さんが子供の頃に獅子舞を始めたのが1959年頃の話だ。その後、長谷川さんが成人して仕事をしていた時、北片原町に獅子舞を習いたいということで大聖寺新町の人がやってきた。この時、北片原町の獅子舞に加わるという形だったようで、独自に大聖寺新町で獅子舞をやっていたということではなさそうだ。昭和45年に聖北協議会が結成され、新町・相生町・松ヶ根町・北片原町で子供同士の交流が活発だったので、よく遊ぶこともあった。その流れの中で、北片原町の獅子舞に他の3町の人が何人か加わるという感じだったのだ。大聖寺新町には獅子頭があるので、この時に別途新町で獅子舞を実施していたのかどうかはよくわからない。

また、地蔵盆の時は獅子舞と違って北片原町ではなくて上福田町のものに参加して、町内を回っていた。小学3年生が小学6年生の親方に教わりお金を集めて、小豆や餅でのぜんざいを作り、ゲームをするなどして一晩を明かすということもした。ほかの町内でも知り合いづてで遊びに行ってお金を集めに行ったこともあり、学校の先生の家に行った時に「学校では禁止しているのにきたのか」と怒られたが、それでもお金を少し包んでくれたことを覚えている。獅子舞では町内しか回らなかったので、その点では地蔵盆と回り方が違った。

長谷川さんが青年団に入っていた時、北片原町では青年団は14~5人、年齢的には小中学校の子供たちがメインだった。獅子舞を実施したのが、8月21日頃の春日神社の祭礼の時だ。この日は上福田町も北片原町も同日で行なったが、獅子を舞ったのはそれぞれの各町内である。北片原町では春日神社で奉納したのち、区長さん、商売をしているお店、そのほかの家という順番で1日で30軒ほどを回った。ご祝儀は1000円いったかどうかという金額だった。この祭礼は大聖寺祭りの一ヶ月前に行った。最初は獅子舞で大聖寺祭りに参加しようという話もあったが、花笠音頭で参加することにした。春のお祭りでは、獅子舞を実施しなかった。

 ps. 金沢では受刑者が刑務所で獅子頭を作っており、安く購入できるようだ。このような形で、獅子頭だけでなく、神輿など様々な小道具の販売もされているとのこと。

ps. 、北片原町の太鼓は、弧を描くような作りをしていたので低い音が出た。上福田町はそれに対して90度・直角の作りをしていたので、また違った音が出た。

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16:30~ 大聖寺一本橋

獅子頭が不動産屋の入り口のところに保管されているという話を聞いたので、小野坂不動産・大聖寺まちづくり協議会の辻裕行さんに、急遽お電話をして話を伺った。もともと神明町のご出身で、今年不動産屋の事務所を作ったこともあり、大聖寺の歴史をよく調べておられるようだ。民具や美術品なども集めておられて、同時に獅子頭も貰い受けたとのこと。元々は公民館も神社もない地域なので、食事処·白山の地下に保管されていた。新しい獅子は捨てられてしまって、古い方の獅子頭だけ残った。使わないとのことで、不動産屋の事務所に展示するからということでもらい受けた。

大聖寺一本橋町は豪商がいたので、大きな神輿を作るくらいの財力があり、昔青年団の子供もたくさんいた。昔の写真もたくさん残っていて、獅子舞とは別に、越後の角兵衛獅子の特徴であるおでこの所に獅子のキャラクターを衣装として身につけるような姿も見られた。

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【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材8日目 大聖寺新町・大聖寺鉄砲町・動橋町

2021年8月26日

9:00~ 大聖寺新町 獅子舞取材

地域住民・河村弘幸さんにお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子舞は今は途絶えており、今から60年前くらいにやっていた。この獅子舞の歴史を語る上で外せないのが、聖北祭の存在である。ここで、ある年表をご紹介したい。

 

昭和45年 聖北協議会結成(新町・相生町・松ヶ根町・北片原町)

昭和50年 第1回 聖北祭 

昭和51年 第2回 聖北祭 

昭和52年 第3回 聖北祭 

昭和53年 第4回 聖北祭 錦城東小設立 

昭和54年 第5回 聖北祭 

昭和56年 聖北協議会解散

昭和57年 新町・新栄町・相生町・麻畠町 ・松ヶ根町の5町が地域活動拠点を作る

(参考文献:山口玄蕃頭宗永公没後四百年記念供養祭実行委員会『山口玄蕃頭宗永公没後四百周年記念誌』平成12年)※大聖寺の山口玄蕃が前田利長に滅ぼされた1600年から数えて没後400年の冊子

 

聖北協議会は昭和45年に新町・相生町・松ヶ根町・北片原町の間で作られたもので、それを元に聖北クラブ、聖北自衛消防隊などが組織された。そのタイミングで獅子舞をはじめとしたお祭りも聖北祭の形で行われるようになった。獅子舞を管理していたのが新町で、太鼓やら獅子やらに4町全員が関わった。なぜ獅子舞実施の中心が新町になったかというと、お金も人も集まる土地だったということが大きい。当時、新町といえば、料亭、散髪屋、電気屋、お米屋、人形屋など本当に様々な商売人の集まる町で、当時40軒ほどの家しかなかったのにも関わらず、38軒の商店街加盟店があった。商売人でなくても商売人に家を貸すということもあったようだ。京町の青草から橋立に向けてのバス路線のメインストリート(新町含む)はとても栄えていた。40年前は橋立から来た人はこの通りを見て「原宿(もしくは銀座)に来たみたい」と盛り上がったそうである。金魚売りが来たこともある。商店街の古き良き通りというイメージだった。

第1回~第5回 聖北祭で子供獅子が行われた。第1回の時に河村さんは28歳だった。獅子舞の関係者は25~6人くらいだ。頭は子供獅子で、舞いも太鼓も4町内で共有して舞った。祭りは2日間やった。団塊の世代なので、子供の数は多かった。現在は73~74歳の人々である。1学年で600人くらいいた。

この子供獅子は上福田町から北片原町が習い、それを新町に伝えたようだ。新町にはそれ以前にも獅子舞はあったが、本格的に開始したのが第1回の聖北祭の時に北片原町に習った。大人獅子が少し難しかったので、簡単にして子供獅子という形態が生まれ、新町の獅子が確立した。

獅子舞が終了したのは、小学校区の分断が昭和53年に行われ、それが元で(祭りの担い手同士の交流が薄れたのか)次の年で聖北祭が終了してしまったからだ。それ以来、獅子舞をしていない。とても懐かしい思い出だ。

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その後は獅子頭の撮影をするため、区長の宮地裕士さんに集会所の鍵を開けていただいた。天井収納のはしごをかけて2階の屋根裏に登り、獅子頭を探した。木箱に入った獅子頭が出てきたときはとってもびっくりされていた。獅子頭があるとは思っていなかったそうだ。緑色のビニール袋に包まれ、梱包もされていて大事に保管されていた。

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11:00~ 大聖寺鉄砲町 獅子舞取材

獅子頭が保管されている松縁寺でお話を伺った。通常獅子頭は公民館や神社に保管されていることが多いため、お寺に獅子頭が保管されているというのは非常に珍しい。お堂に伺うと5人ほど地域の方が集まってくださっており、角が大きく顔の小さな獅子頭と、丸くて古い獅子頭の2つが用意されていた。今回お話を伺ったのは、西出宏憲さん、髙橋明己(あけみ)さん、曽宇清さん、田中英一さん、中越康夫さん(区長)の5人である。同行は山口美幸さんだ。衣装やら獅子頭やらは、お寺の「長持ち」に保管されていた。昔は専稱寺(せんしょうじ)に保管されていたが、今は松縁寺に保管されている。お寺に獅子舞の小道具が保管されているというのはとても珍しい。

獅子舞は戦前からしていたが、戦中に一回途絶えた。その後復興したのが昭和22年で、昭和26年くらいまで舞ったが、それも途絶えてしまった。そのときは「鉄青会(鉄砲町青年団)」が大人獅子をしており、メンバーは12人くらいいた。その後、昭和57年に法華坊町から獅子舞を習って獅子舞を復興して、昭和59年に獅子頭を新調した(この年に獅子頭を注文しに行ったら、田尻町獅子頭も新調したのを聞いた)。新調した獅子舞は富山の井波彫刻のものだ。子供が2年間は重い獅子頭を持って舞っていたが、このタイミングで軽い獅子頭に変えたということだ。昭和59年冬号の「暮らしの泉」という雑誌に自分たちの獅子頭と同じような獅子頭が井波彫刻として紹介されていたが、おそらく自分たちの獅子頭の話ではない。しかし、この獅子舞も5年後の昭和61年に途絶えてしまった。担い手である小学校5~6年(獅子頭もち)や中学生の子供がいなくなってきてしまったのだ。子供獅子を始めたくらいは青年団の子供が28人くらいいた。自分たちの町を「子沢山通り」などと呼んでいた。この世代が大学に行って、町に帰ってこなくなると、獅子舞の担い手もいなくなってしまったのだ。

獅子舞は大聖寺桜まつりの時のみ行われた。朝8~9時から始まり、町内のみ回って、料亭・髙橋の駐車場で昼飯を食べて少し休んで夕方までやって休んだ。獅子舞は区長さんのお宅から始めた。初回(昭和57年?)だけ加賀神明宮で奉納の舞いをしたが、それ以降は神社で舞っていない。子供獅子は太鼓と笛と獅子頭と棒振りがいた。笛は一人一本、自前で購入した。(越後の旅芸人が行なっていた「カクベエジシ」という隠れ飲み?のたとえ話のごとく)大人は飲んでいた一方でそれだけではなく、子供はお菓子をあげたり、県民の森でのバーベキューをしたり、地蔵盆の時にカラオケをしたり、ヨーヨー釣りとか、金魚すくいをしたり、かき氷を食べたり、様々なことをして子供にも楽しみを提供していた。また、鉄砲町の人々で、他の地域の場所(耳聞山公園)を借りて運動会をしたこともあった。取材の最後に、最近まで料亭をしていらっしゃった髙橋さんの家で飾り獅子を撮影させていただいた。獅子舞の獅子だけでなく、陶器の獅子頭を飾るということもあったようである。

ps. 鉄砲町の由来は城下町で足軽の鉄砲部隊が住んでいたからだ。

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21:00~ 動橋町 獅子舞取材

青年団長の荒栄健太さんにお話を伺い、練習見学をさせて頂いた。動橋町ではコロナ禍でも、2021年8月28~29日まで、神社での獅子舞の実施が決定している。加賀市の大半の獅子舞が中止になる中で、獅子舞の実施を決定したことはとても勇気ある一歩だし、その熱い想いと工夫に迫りたいと感じ、今回取材をさせていただいた。

青年団には19歳から30歳までが属している。以前は25歳までだった。人数は実質14人くらい。OBも応援で駆けつけてくれる。獅子頭は2体1組で購入し、全く同じデザインで発注する。現状、4組8体の獅子頭が保管されており、実際今回拝見したのは3組6体だった。練習では耳をつけない。祭りの本番では、2班に分けて、1000軒の家を2日間で回る。単純計算で250軒を1日で回るということである。舞いの長さは同じだが、舞い方は3種類、1つの演目をその長短によって名前を変える。

 

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今回、コロナ禍で獅子舞を通常通り町内を回る形で実施できないが、8月28・29日 9:00~18:00 の日程で、振橋神社参拝客向けに獅子舞を実施することになっている。また、その前の8:00からは神社、青年会館、町民会館を舞うということもする。ユニークな点は、青年団が神社に一日中待機して、来てくれた参拝客に獅子舞を披露するという祭りの形態だ。コロナ禍ならではの形と言えるだろう。

 練習の期間は2ヶ月である。普通は小学校の体育館で練習をする。ここで暑くて広いところで厳しい練習をしているが、今はコロナ禍ということもあり、最近新幹線の延線で建て替えになった綺麗な町民会館で練習を行っている。

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【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材7日目 松山町 上野町 千崎町(練習)

2021年8月25日 (水)

10:30~ 松山町 獅子舞取材 

松山町は本日がお祭りの日。獅子舞はコロナ禍のため実施されなかったが、地域の様々な方が集うタイミングだったので、この機会に取材をさせていただいた。区長の方にご紹介いただき、地域の中でも獅子舞にとりわけ詳しい前田義夫さんにお話を伺った。中学一年生から獅子舞を始め、40歳の厄年まで獅子舞を行なっていた。もう40年近く獅子舞を実施していない。獅子舞を辞めた時は、高等学校を出ると他所に行ってしまう人が多くなったことが関係している。青年団は「せいそう会」とも言った。その後は、壮年団を1~2年作ったこともあった。1年だけ、カラオケ大会で舞を披露したこともあったが、今ではやらなくなっている。

祭りの日は大きな幟旗を立てて、お宮さんで2晩泊まった。8月24~26日がお祭りの日で、その前後合わせて5日間は仕事ができなかった。祭りといえば、他地域に嫁に行った娘さんやらそのお婿さんやらも来て楽しんだ。獅子舞を行なったのは毎年8月25日だった。演目は棒振りと、薙刀と、太刀と、回し棒など全部で13種類だ。町内は20軒ほど回り、ご祝儀は昔、300~500円を包んだ。

獅子舞の始まりは、明治30年代に能美郡の粟生町から手取川の洪水の反乱で、土建屋さんの人が泊りがけで来ており、獅子舞を教えてくれた。当時は周りで獅子舞をしている地域は少なかった。獅子舞を周辺の宇谷町、横北町、桑原町、二子塚町、分校町から習いたいと言われて教えたこともあった。

保管されている獅子頭はピカピカで保管されている。明治時代制作の獅子頭かもしれないというので驚きだ。昭和60年7月に修復のため、山中で漆屋をしている人に塗ってもらったことがあった。

ps. アパホテル社長の実家がある松山町には、大型バス2台や車がたくさん神社に来て、200人くらいがぞろぞろと散策していかれたことがあった。社員たちであろうか。その時はびっくりして、思わずfacebookに投稿した地域の人もいた。

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13:30~ 上野町 獅子舞取材

松山町のお祭りに来ておられた上野神社宮司・山内佳孝さんに、後ほど上野神社にご案内いただき、お話を伺った。
獅子舞の祭りは8月16日に行われる。中学校になったら獅子舞をやるのが当たり前だった。一番最初、朝の8時から区長さんの家から回り始める。太鼓と獅子のみのシンプルな獅子である。獅子頭1人、中2人、尻尾1人でおとなしい寝獅子の舞いを行う。雌獅子である。

昭和28年に富山県井波で制作された獅子頭が残されており、さらに古い獅子頭がもう1つあったがそれは年代が書かれていなかった。

獅子舞の始まりは、山代の方(河南町の方?)から教わったと言われている。山代の獅子舞の特徴として、神社の宮司さんが神社の境内で獅子頭を保管されているという特徴があるが、それは共通点として当てはまる。神社自体ができたのは昭和になってから改築したもの。上中下と3つの神様を合祀して作られた。菊理姫八幡神社応神天皇天照大神の合祀である。様々な奉納の絵が描かれたものがあり、どれも由来は定かでない。ただ、その中に獅子とボタンの花が描かれている絵もあり、獅子舞との関連性があるのかどうかはわからない。

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地域の中島博さん(93歳)という方にもお繋ぎいただき、お話を伺った。小さい頃には既に獅子舞をしており、獅子舞をやっていてよくわからなくなったので古老に聞いて習ったら、自分ができないような技を教えてもらったことがあった。その時には既に獅子舞の型が変化していたようだ。

青年団は15人くらいいた。尋常高等小学校の1年生(今の中学一年生)から青年団に入った。獅子舞の蚊帳の中に入る人は今も昔も変わりがない。獅子頭を持つ時は自分の頭は下げていないといけず、もしできなかったら太鼓のバチで叩くという厳しい指導もあった。足も膝も揃わんといけなかった。今はその頃と比べると形が崩れていると感じる。若い世代はスイカやらブドウなどを食べさせてもらえることもあって、叩かれるのも我慢できた。演目数は昔から1つで、名前は特についていない。8月16日に向けて、20日前から練習をおこなってきた。これは戦前戦後の貧しい暮らしの時期とも重なるような話である。

昔に比べると、今は少し家の軒数が増えている。

 

16:00~ 加賀市美術館
写真集を学芸員の方に購入いただいたので、お渡しに伺った。そしたら、獅子舞をぜひ企画展の一部として検討いただけることになった!これはとても楽しみである。詳細を今後ぜひ検討いただきたい。やはり、美術館もコロナ禍でお客さんが少ない中、地域の方々に関心を持ってもらうために、獅子舞などの題材を検討くださっているのだ。

 

17:30~ 山代温泉追加ヒアリング 
たまたま、山代温泉観光協会の天王地さんに山代温泉の獅子舞についてお話を伺う機会があった。もともと金沢の中村神社から土方流の獅子舞が伝わったようだ。先日、山代のバーで飲んだ時に、蚊帳の中にお囃子が入るということを聞いて、これは非常にユニークだと感じた。福崎さんという方によれば、これは「見えてはいけないバックグラウンド」の意味で捉えているということのようだ。ミュージカルだって音楽は黒子的に隠れている。これができるのは、山代の獅子舞の蚊帳が非常に大きいからである。また、ストーリー上では、棒振りは獅子を退治する存在なので、棒振り同士が戦う小競り合いが演目の中に含まれるのは不思議だと感じていたのだが、これは舞手の相手方と獅子を威嚇するという意味のようだ。舞手は90度を描くように動き、その両端で舞手の相手方と獅子どちらにも接触する。また、草原をイメージして、そこに獅子がいて人間が戦うという平地での関ヶ原の戦い的なイメージで、実際に舞いを実施しているようだ。

19:30~ 千崎町 獅子舞練習取材

千崎町は今年、祭りで獅子舞を行わないが、練習のみ平日の19:30~21:30で行っていると聞いて伺ってきた。集団で年長者が年少者に教えているのが印象的だった。「前に出す足が逆」「薙刀のつき方を強く」とか、いろいろな動作のポイントについて教えていた。昨日訪れた田尻町は大人と子供で練習の時間が分けられていたが、千崎町では同じ時間で練習している。雨の時は集会所の中、晴れの日は外で練習する。

千崎の獅子は昔のものを見ると、黒の下に様々な色が塗られていたようで、黒になる前に違う色をしていたかもしれない。獅子舞は小塩町から伝わったこともあり、獅子頭が大きく、演目や口上も似ている。この地域は北浜(ほくひん)小学校の校区で、橋立地区と金明地区の交流は昔からあったようだ。また、塩浜の影響も大きく、掛け声が小塩町から習ったときは「ロッコイ」だったが、塩浜町の奇声をあげるのがかっこいいということで、それを途中から取り入れるようになった。

ps. 塩浜町の獅子が暴れるのは、雌獅子が子供を守るためとのこと。獅子が暴れるから、獅子がメイン。それに比べて、棒振りメインで獅子がサブなのが橋立3町や千崎町の獅子。

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まとめ

松山町といえば、「宇谷町、横北町、桑原町、二子塚町、分校町」の人々が獅子舞の弟子入りに来た地域だったので、なんでそんなにも魅力的だったんだろう?どんな地域交流があったの?というのが焦点でした。上野町には勅使地区の中でも山代温泉方面の別系統経由ということがわかりました。あとは加賀市美術館にも良い出会いがありました。また、山代温泉の獅子におけるお囃子がなぜ蚊帳の中に隠れるんだろう?という疑問が解決して、お囃子の役割って音楽におけるバックミュージックだったのですね。見えちゃいけないっていうのがとてもユニークな発想と感じました。千崎町はお祭りがないのに、練習しているのはなぜだろう?というのをとっかかりに、熱い想いを持った青年団やOBとお話しする機会ができました。今日も充実した1日でした。

【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材6日目 宇谷町 田尻町(練習)

2021年8月24日

10:00~ 宇谷町 獅子舞取材

区長の滝口誠久(せいきゅう)さん(69歳)と、農家で昔地域の広報誌・さえぐさの編纂委員をされていた河口諒男(りょうお)さん(78歳)にお話を伺った。

まずは、公民館に保管されているクリアファイルに閉じられていた以下の資料(手作り無名)を引用し、この地域の獅子舞の歴史を紹介させていただきたい。

祭りには家々の悪鬼を追い払い、幸運を呼び込むという獅子舞がある。これはいつ頃宇谷町に伝えられたのかその年代は明確でない。古老の伝によると、粟生町(能見郡)から習ったとか、粟生まちはあばれ川・手取川の洪水で常時水害に見舞われ、田畑の修復工事には、優れた特殊技術を持った人たちであった。その出稼ぎの土方さんから習ったとか、校下松山町に獅子舞は古くから伝承されていたので指導を受けて教わった説があるが明確ではない。獅子舞は雌獅子で、槍・長刀を持った若者が悪鬼の獅子を退治し、五穀豊穣・家内安全を祈祷する舞であった。太鼓・笛のリズムは、古い歌舞伎調で昔の舞を呼び戻すような音調に、深いところで残っている。若者の舞は古いものに、新しい現代風の活劇が加味され、太鼓・笛・舞と三位一体のものがあるような気がする。

 獅子舞のお祭りは昔から8月29日に行っている。豊年満作を願うもので、昔は刈り取るのが10月から11月3日までの時期だったが、最近は刈り取り時期が早まり、それと被るくらいの時期にお祭りをするようになった。小中学校の子供合わせて20人いる。青年団は20代までだが、それより上でも手伝っている人もいる状況だ。昔は獅子舞に参加するのは町民の義務で強制だったが、それでも皆楽しんでやっていた。獅子舞の当日は神社に始まり、80軒ほどある町内の家を回り、神社に戻る。ただし、昔は30軒くらいだったこともある。朝は6時くらいから18時くらいまでやるが、町内が30軒だった時はもっと早く終わっただろう。ご祝儀は1軒につき5000円が目安で、企業も個人もあまり出す額に変わりはない。また、ご祝儀の額によって舞い方を変えることはない。2つの演目(薙刀・棒振り)を行うのが決まりだ。それというのも、ご祝儀は封筒を開けないと額がわからないようになっているので、出してくれた金額は後ほど確認する。また、ご祝儀をもらった時に口上を唱えるという習慣はない。獅子舞は昭和のはじめに松山町から習った。その前にも獅子舞はあったかもしれないが、どういうものがあったのかわからない。獅子は雌獅子で、女朗(めいろう)という呼び方もした。松山町から伝わった獅子舞は昔から演目数など今でも変化はない。

獅子頭白山市鶴来の名工が彫ったもので新旧3つが残されている。一番古い獅子頭がとにかく高価だ。鼻の出方など、新しいものと比べて作りが全く異なる。新しい獅子頭を購入した時は青年団が貯めていた10万円と、町民の寄付によって購入できた。獅子頭は100万円以上しただろう。太鼓は2種類保管されており、区長さんがお知らせをする時に叩く太鼓と獅子舞をする時の太鼓がある。また、選挙の時に使うダルマやら、本物のようなリアルさがある薙刀なども見せていただいた。

ちなみに、この秋祭りに対応する形で春祭りもあるが、獅子舞を舞う習慣はない。また、祭りといえば昔は輪踊りの印象があり、獅子舞を舞ったあとの夜に行っていた。他の村の青年団(那谷寺など)も駆けつけたようだ。逆に違う地域で輪踊りをする時は出かけていった。昔は粟津温泉から小松の方まで江沼郡と言って、柴山潟などの潟があった。しかし、昭和33年(遊郭禁止令が出た年)、大同工業のチェーンづくりをしていた新家熊吉さんが市長になり「加賀市」が新しく作られたので、地域の境界が作られ分断されてしまった。ただ、宇谷町の人々からしたら、元々は小松の那谷寺の方の人々とは地域交流があって、同じ地域に属しているような感覚もあったのだ。

昔、宇谷町は「温谷」と書いた。一向一揆の時はお寺を拠点として役人と戦争をしていた。お米がお金の時代だった。大聖寺は7万石だったのに、見栄を張って10万石と偽ったので怒った民衆が立ち上がったのだ。そのような歴史も残っているので、昔は圧倒的に農民が多かったが、学校の先生やら勤め人やらいろんなことをしている人がいるので、お祭りの時にはその日程を配慮する必要が出てきている。

ps. 勅使地区の方々は電話をするときの「もしもし」のイントネーションが面白い。なぜか「も」を強調して「し」を低めに小さく発音することがわかった。

▼祭りにおいて獅子舞の発着場所になる高宮白山神社

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15:00~ 竹の浦館 カガコレ 搬入

10月中旬から下旬に行われるカガコレに出店することが決まった。獅子舞の本やクリアファイルなどを販売させていただく予定だ。北嶋夏奈さんに送迎いただき、その搬入に行ってきた。偶然立ち話でダンボールの獅子舞を作っている話をしてみると、ぜひワークショップをやってみてはという話になった。詳細を今後詰めて、近いうちにお知らせさせていただきたい。


19:00~ 田尻町 獅子舞練習 取材

2021年9月18日の獅子舞の神社での奉納に向けて、田尻町町民会館で平日19:00ごろから21:30頃まで、獅子舞の練習が行われていた。吉野裕之さんに同行いただき、青年団長さんの許可のもとで撮影を行った。20:30ごろまでは小中学生の練習時間で、その先は大人の練習のようだが、仕事でなかなか集まれないという人も多いようだった。小学生は笛や太鼓の演奏をしており、中学生は棒振りや薙刀などを練習していた。

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太鼓の子は一人お休みだったが、子供達の出席表を見せてもらうと出席率は80%くらいでかなり出席している人が多い印象だ。出席表は棒振り、笛、太鼓の3つそれぞれで紙に記入されており、子供達が出席した日に丸をつけるという方式だった。また、中学生の棒振りやら薙刀やらの練習では、ホワイトボードを使って、◯×△の表を作っていた。演目数が15もあるので、メンバーの練習の習熟度を可視化する目的があると思われる。◯は一人でもできる、△は補助ありならできる、×はできないという具合である。この表は15種類一通り練習が終わったら記入するらしく、習熟度を図る機能があると考えられる。演目数と演者が多い橋立ならではの発想と言えるだろう。また、右側にはグループ分けでどの演目を誰と誰が演じるのかを整理していた。それにしてもここまでしっかりと真面目に練習していることに驚いた。小学生は練習途中で遊んでしまうこともあったものの、吉野さん曰く総じて自分が子供の頃よりも真面目に練習しているかもしれないと話されていた。

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そもそも子供達の獅子舞に対するモチベーションはどこにあるのだろうか。橋立小学校・中学校は同じ敷地内にあり、それぞれ全校生徒が100人に満たない。その中で女子が半分なので、獅子舞の担い手になる男子はそのまた半分で50人くらいである。その中でさらに半分くらいが実際に獅子舞の担い手として活動しているようだ。ただ、コロナ禍で伝承する機会は格段に減ってしまっているようである。もともと全校生徒が少ない分、部活動もバレーと卓球しかない。そのため、部活にあまりのめり込みすぎることなく、獅子舞にも精力的に取り組むことができるのかもしれない。また、吉野さんによれば、子供の頃から獅子舞の勇ましい姿を見てきているので、それに対する憧れは大きいだろうとのこと。舞っている姿が格好良くて自分もできるようになりたいということかもしれない。僕は獅子舞の練習を拝見して、動きが機敏であるという印象を持った。武芸鍛錬の面影を感じるのだ。チャンバラごっこの感覚もあるのでは?などとも感じた。実際に話を聞くだけでなく、練習を観ることで分かることも多いのだ。

 

 

【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材1~5日目 橋立写真展・大聖寺岡町&番場町&中新道&二子塚町 獅子舞取材

2021年8月19日 大聖寺岡町 獅子舞取材

青年団長の西圭介さん(35歳)とその弟の西哲朗さん(32歳)にお話を伺い、獅子頭を撮影させていただいた。同行は山口美幸さん。現在、青年団は5人で、祭りの日に他の人に手伝ってもらう場合もある。社会人のなりたてから38歳までが青年団に所属し、OBの人は50歳くらいの人もいて、祭りを支えてくれている。大学生は学業優先なので、アルバイトという形で受け入れているという。もちろん社会人になれば、お金はもらえずボランティアとなる。

先日、北國新聞に記事が載った。50年くらい前に獅子舞が復活してそこからずっと続けているという記事だった。獅子舞の始まりはお祭り好きの男女がそこに祀ってあった獅子を舞い始めたことがきっかけだ。岡町は新しい町でもともとは6軒しか無く、一部上福田町だった。しかも田んぼが多く沼地だったのだ。子供の頃は、8番ラーメンシェル石油しかなかった。小学校の時にサークルKができた。「ハザードたくとホタルが見える」といわれる場所だった。それにもかかわらず、1300年前の竹割まつりの記録には「敷地町、岡町、若新町が...」という記述が見られ、その頃にはすでに岡町が存在していたことが確認できる。

獅子舞の演舞で似ているのが大聖寺永町だが、あちらの方が少し早い。永町より岡町の方がゆっくりで、古い形態を残している可能性がある。獅子舞は当日、愛宕神社から始まる。獅子舞に入るのは頭、二番、三番、尻尾の4名である(二番、三番を内臓とも表現しておられたが正しいかどうかはわからないとのこと。ただそのようなイメージが生まれることは興味深かった)。

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ps. 2021年8月22日8:30~ 愛宕神社にて 荻田さん追加取材

岡町の獅子舞は、「南郷町→菅生町→岡町」という順番で伝わった。昔、旧福田村があり、そこと岡町には町の区分とは別に百姓の結というコミュニティの中で交流があって、岡町には6軒しか人がいなかったので、合同で獅子舞を行なっていた。獅子舞はマイとマクリがあり、太鼓と獅子が登場するシンプルな獅子舞である。ご祝儀の額によって舞を変えることはなく、額が高いと少し丁寧に舞おうかなという意識にはなる。町内は60軒、消防本部なども回るのでそれを合わせれば80軒くらいを回る。昔は獅子舞大会のようなものをやっていた。

愛宕神社は、消防関係の人がよくお参りに来る。愛宕神社は火の神様で、元々は少なくとも明治時代までは敷地町の菅生石部神社と同じ敷地にあり、お城から見たら鬼門の位置で鎮火の意味を込めて、獅子舞を行なってきた。獅子舞は春・秋で行なっており、その理由づけとして鎮火の神様だと言っていた。もしかしたら菅生石部神社で御願神事で火祭りをするのは、関係があるかもしれない。

菅生町とかなり似ている古い獅子頭愛宕神社の倉庫に保管されている。獅子頭のデザインは前後に長く、江戸時代の獅子頭の作りを思わせる。岡町には新旧2つの獅子頭が現存しており、材質は杉から桐に変更され、獅子頭の制作者も大工さんから鶴来の知田工房に変更された。

ps. 昔菊池カメラさんが獅子舞に研究をしていたが亡くなってしまった。その資料がまだ残っているかもしれない(後ほど取材予定)。

ps. 他の大聖寺の町の獅子舞で猿回しのような芸能が登場したことがあった。

愛宕神社近くの倉庫で、獅子舞の蚊帳探しをしていただいた。

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<橋立地区会館 写真展>

8月21日~22日の10:00~15:00の日程で、獅子頭コレクション展が橋立地区会館で行われた。8町の獅子頭が勢ぞろいする様は圧巻だった。その中で、僕が過去に橋立の獅子舞を撮影した写真を展示させていただいたほか、両日ともに獅子舞に関するトークショーを13:30から開催させていただいた。お声がけいただいた公民館長の吉野裕之さんをはじめ、お世話になった橋立の皆様には本当に感謝である。この模様は、北陸中日新聞にも掲載いただき、詳しい経緯などもインタビューしていただいた。

写真展開催の経緯を簡単にご紹介すると、1890年ごろに金沢の北にある内灘町からコレラが原因で加賀市橋立地区(まず最初は小塩町から)に集団移住した漁業者がいて、それを機に故郷の白い獅子舞を始めたという。それが、橋立3町に今でも伝わる獅子舞で、元はコレラの流行の厄払いの意味も少なからずあったと思われる。舞い始めた頃の社会情勢は今のコロナと重なるものがあり、しかも獅子舞が実施できていないことから、ぜひここで地域の方に獅子舞を見ていただく機会を作ろうということで今回の開催に至った。


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2021年8月20日 

橋立地区会館 写真展 準備

 

2021年8月21日 

橋立地区会館 写真展 1日目

加賀市と橋立地区の獅子舞に関する講演会①

 

・白山で食事
食事処・白山には様々な獅子舞が舞いに来るそう。大聖寺錦町、関栄親子獅子保存会、直下町などである。これらは普段お客さんとして食べに行くことがあったり、白山のスタッフがその町出身だったりと知り合い繋がりで、祭りの日に舞いに来るそうだ。獅子舞は舞うのと同時に、お昼を食べに来る。2階の広いお座敷で30名くらいの貸切りで行うとのこと。大聖寺の獅子舞の特徴として、地区ごとに舞うというよりは、このように知り合いの繋がりの中で舞う場所を決めるというのがとりわけ興味深いポイントである。

▼白山のふわふわな親子丼

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2021年8月22日

橋立地区会館 写真展 2日目

加賀市と橋立地区の獅子舞に関する講演会②

 

◯知田工房の知田さんが獅子舞トークにご来場

写真展とトークショーに鶴来の知田工房の知田さんが来てくださった。そして、歯の数が10本が雄、8本が雌と言われていて、これは富山県氷見市で聞いたお話であるとのこと。個人的にこれは初耳だったのでとても驚いた。知田さんは橋立地区の獅子頭に関して、橋立町、田尻町、深田町の新調と黒崎町の修理で関わってくださっているようで、実際にお会いできて本当に良かった。黒崎町はもともと富山的な特徴のデザインで蛇目を持つ獅子頭だが、知田工房で制作された。また、制作の際には、田尻町の場合よく噛み合わせる歯打ちの動作があるので、顎が外れやすく、その点で丈夫に作っているという。獅子の動きを考えながら、獅子頭を作っているというのが、とても興味深く感じられた。

 

◯地域の方から聞いた橋立の獅子舞の昔話

学校で舞ってからプールでひと泳ぎして、また練習を始めることもあった。また、トイレットペーパーを投げたりして遊んだ。学校のマイクを使って、音楽を流したこともあった。そのほかにも電線にぶら下がる、停まった車があったらお酒をかけるなどの伝説がある。

 

北陸中日新聞 2021年8月22日朝刊 小室さんに詳しくインタビューいただいた。

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大聖寺番場町 獅子舞取材

◯区長の平石春樹さんに稲荷神社(地域の集会所)にご案内いただき、獅子頭を撮影させていただいた。お宮さんも獅子頭も比較的新しいのが印象的だった。蚊帳が平成4年制作のもので、獅子頭もそのタイミングで購入したようだ。

獅子頭の撮影後、平石さんに八木紀男さんという獅子舞に約50年関わっておられる方をご紹介いただき、家の玄関でお話を伺った。中学校の頃からこの地域に住んでおり、獅子舞を見てきた68歳の方である。ミヤザワ土建という会社の方が神社で獅子を舞ったのが獅子舞の始まり。大聖寺永町でやっている獅子舞の太鼓のリズムか何かを真似て取り入れたと宮本ひろしさんから聞いたような気がする。もともと9月9日が祭りの日だったが、若い人がなかなか来られないということで、途中土日にずらすという話もあり、それから日曜日に変わった。それ以来、9月9日が平日の場合はその前の日曜日にやろうということになった。昔は秋だけなく春にも獅子舞をしており、4月9日にやっていた。獅子舞の練習は神社の鳥居の中の参道で外で行うので、雨が降ったらやらない。

演目は1つだけで、太鼓と獅子舞だけをやってきた。獅子舞の舞い方は後ろ、左斜め前、前という3点を結ぶ形で舞うので、三角を描くイメージだ。最後はダダダと太鼓に向かって走って終了となる。ご祝儀によって舞いを変えることはない。町内42軒の家々を回っていく。獅子舞の構成メンバーは獅子頭と尻尾と中の人で3人、太鼓はコバエ(リズム取り)とオオバエ(大きく鳴らす)という2役がある。合計5人は必要だが、7人いても交代があまり出来ずに辛いので、もっと人数が必要だ。青壮年部は20~50歳がメンバーの年齢の目安だ。昔は強制で出てこいと言ったら出てくれる人も多かったし、遊び感覚のところもあったが、今は無理に誘えない時もある。獅子舞の横にいるだけでも、蚊帳の中で足を合わせてくれるだけでも良いから出てきてくれたらという気持ちでいる。

獅子頭も蚊帳も太鼓も全て浅野太鼓に頼んだ。他のところに頼む予定だったが、日がないので、早く作ってくれるところを探していた。知り合いの繋がりで、獅子頭を安く作れたようである。一刀彫りではなく、機械で作るので、四角い感じのものになった。結構、軽く作らないと重くてなかなか舞うことができないので、それを配慮した形だ。昔は手彫りの獅子頭を使っていた。ツノがないので、獅子頭は雌獅子である。それゆえ激しくはなく、ゆったりとした舞いだ。

◯八木さんに毛利さんとその息子さんをご紹介いただく。この町に来て、52年とのこと。いつ獅子頭を直したとか、いつ獅子舞を始めたとか、区長の日記を見たらわかるかもしれないようだ。しかし、最近は神社の集会所を整理してしまったからか、残っていないかもしれない。

◯八木さんはもともと太鼓だったそうだが、獅子を舞っていたことのある近所の長谷英文さんもご紹介いただきお話を伺った。お風呂に入っていたようで30分後に再訪問した。神社の鍵をお持ちで、再度神社に訪問。太鼓の台が大正のものとわかり、おそらく大正時代には獅子舞をやっていた可能性が高いことがわかった。また、太鼓自体は昭和60年頃のものがあり、比較的新しいことも判明。その昔の太鼓の年代は不明だが、破けたりひびが割れてしまったので、変えたようだ。

全体を通して、大聖寺番場町の獅子舞に関して、基本的には「獅子舞の始まり」という点に関して、調査するのがもっとも難しい点かもしれない。今回、5人の方にインタビューしたが、「昔からやっていた」というのがお決まりで、あまり地域の方にとって重要事項というわけでもないようだ。ただ、獅子舞の記録の本を作りたいという話をしたら、これだけの方をご紹介いただけたというのはとてもありがたいことだ。

▼町内の方々が「いつから獅子舞やっとったっけ?」と盛り上がる

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2021年8月23日

大聖寺中新道 獅子舞取材

区長の澤田敏志さん(昔獅子舞を観る側だった方)にお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子頭は2つあり、子供獅子だった。昔は加賀神明宮を拠点としてお祓いを受けてから獅子舞を行なっていたが、今では獅子舞を行なっていない。青年団や壮年団は今は無くなってしまった。

今、70歳くらいの団塊の世代の方々がいた時、青年団の時が全盛期だった。最初は小学校から中学校の子供が獅子舞をしていたが、徐々に高校生が参加するようになって、最近は子供がいなくなってしまったようだ。40年前の獅子舞をやっていた時の写真が集会所に飾られている。最後の方は女の子も獅子に入ることもあったそうだが、写真には男の子だけが写っていた。太鼓と獅子が舞いを演じるという形のもので、蝶々を追いかけるような動作もあった。獅子舞の蚊帳の中には、4~5人入った。集会所には獅子舞の道具に混ざって、お年寄りが運動に使う新聞紙の棒がたくさん置かれていたのが興味深かった。また、桜のマークが入ったとても可愛らしい半被が残されていた。獅子頭は2つあり、そのうちひとつに昭和28年に大聖寺の彫り師・林龍代さんと塗り師の南部吉英さんが制作したという内容が裏に記載されていた。大聖寺獅子頭が作られたのは初めて聞いた。そして獅子頭の傷跡が鼻先に集中していたことから、おそらく地面すれすれで舞っていたのかもしれない。また、その獅子頭には、富山のデザインの特徴である蛇目がついており、上河崎町の獅子頭にもよく似た特徴が見られた。

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二子塚町 獅子舞取材

前年区長の塚谷弘道さんと、今の区長の酒井耕蔵さんにお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子舞はいつ頃から始まったかというと、昭和16年生まれの人が中学校2年生の時、つまり、昭和30年に今までの獅子舞を変えて、松山町から習った獅子舞を新しく取り入れた。もともと動橋川の堤防決壊のため、その工事の人夫で能美市粟生という地域から人が来ていて、夜はその川の近くに寝泊まりをしていてその時に獅子舞を習ったようだ。高台である二子塚町、低い土地の松山町、という土地の状況があり、松山の堤防決壊にさいして、様々な町の人が工事に来ていたのだ。庄町もおそらく、この時松山町から獅子舞を習ったと考えられるが、幹は同じでも少しずつ枝葉が違うような感覚がある。戦争で散々海外など行って、やっと戻ってきた。だから希望が欲しいということもあって、復興の意味も込めて華やかな獅子舞を始めようということで、松山町で習った獅子舞を始めた。それ以前は太鼓と獅子舞のみのシンプルな獅子舞があったが、それはいつから始まったのか全くわからない。獅子頭は新旧共に残っており、昔のやつは塗りが変わっていて両耳が取れており、修復を重ねた跡があった。しかし、どちらもいつ作られたのかわからない。新しい獅子頭富山県の井波で作ったということは分かっている。

二子塚町に伝わった獅子舞は、短棒、長棒、太刀、短刀など結構色々な種類の演目があった。獅子退治の演目だった。尻尾は青竹に馬の毛をつけて手作りで作った。小学校5~6年から棒ふりをした。テレビも何もないから娯楽の意味でやっていたのだが、元をたどれば豊作を願い害虫が入らないようにする祈りの意味もあっただろう。夏祭りの日は8月27日と決まっていた。稲刈りの前に、豊年合わせがあり、それが終わってから稲の刈り取りをするという風習にのっとった日程である。獅子舞をしていた時代は、36軒ほどの家があり、同級生が9人もいた。団塊の世代のベビーブームだった。小学校5年から中学生が獅子をやり、一旦学業のため高校生で中断して、大学生(18歳)の年から再開してから30歳までが青年団に所属していた。その上は壮年団である。

それから衰退をしていって、2012年に獅子舞は途絶えてしまった。やはり、棒振りができる小学校高学年がいなくなってしまった。足で棒を飛び越えるような大道芸人みたいなこともやってたので、そういう見せ場がなくなったのが衰退の原因だった。最後の方は「やめるのはもったいない」と言いながらも、「誰もがいつかはやめることになってしまうだろう」という空気感があった。今は、お祭りの日はお参りのみとなってしまった。今は稲刈りが早くなったのと、若い人が毎年仕事が休めなくなったので、お盆の前の土日となった。田んぼだけで生きている人もいなくなったので、お盆休みの後に休んでとも言えず、この日程となった。

ps. 広報さえぐさには勅使地区の獅子舞に関する話がたっぷり書かれている。このような冊子はとても貴重だ。

ps.田尻町の小村たつおさんは獅子舞やコレラでの内灘から橋立への移住についてとても詳しいとのこと。

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以上バタバタしており5日間まとめての更新となってしまったが、とても充実した滞在となっている。

【岩手県北上市】鬼剣舞・鹿踊、民俗芸能を巡る旅

鬼剣舞鹿踊、この2つの民俗芸能が行われることを知り、8月14~16日の日程で岩手県北上市奥州市を訪れた。鬼剣舞鹿踊も全国的にみて盛んなのは岩手県だ。この県には、本当に民俗芸能が豊富にあると改めて実感する。以下、訪れた場所ごとに学びを振り返る。

2021年8月14日 岩手県北上市鬼の館・鬼剣舞取材

まずは図書館で調べ物をしてから、鬼の館で鬼についての知見を深めるとともに、夜は芸能居酒屋で鬼剣舞を見るという盛りだくさんの1日となった。

 

江釣子図書館で資料を収集(10:00~12:30 )

まずは資料を探そうと思い、北上市江釣子図書館を訪れた。

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北上市の特徴は岩手県のほぼ中央に位置する。北上市の成立背景は、江戸幕府300年の歴史の中で南部藩と伊達藩という経済的・文化的側面が全く異なる2つの行政区分をその藩境の部分で統合してできた。統合は昭和29年4月1日に黒沢尻町、和賀郡飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、胆沢郡相去村、江刺郡福岡村の一町六ヶ村が対等合併する形で行われた。この意図としては、戦後の混乱期の中で、脆弱な経済基盤から脱却しようという動きの中で町村合併促進法の制定などが背景となっていた。

 

元々、南部藩と伊達藩との交流は非常に盛んだった。北上平野の陸地における藩領は北上山地方面から見るとどこが境なのかわからないので、人為的に境界線が引かれたものだった。一方、北上川南部藩と伊達藩の船頭は繋がっており、相手方の領内で亡くなると墓もそちら側で作られるという事さえあった。

 

その背景のもとで、北上市にはなぜか民俗芸能が種類・量ともに圧倒的に多く伝承されている。その要因としては古代から中世にかけて数多くの人が生活していた痕跡があり、信仰もそこに存在したことは想像に難くない。伝承されている民俗芸能の種類としては安倍一族の黒沢尻五郎正任や極楽寺文化、空也から一遍上人へと続く念仏踊りなどを起源とするものが多い。

 

その中でも、念仏踊り」と「しし踊り」に関しては、旧伊達領から旧南部領に伝わったというケースが多く、そこにも境界線に対する意識が見て取れる。念仏踊りは念仏剣舞鬼剣舞などの阿修羅系の念仏踊りである。また、しし踊りは幕ではなく太鼓をメインとする太鼓踊系鹿踊だ。これらの伝来ルートは両藩の農民の共同草刈り場の作業や駒ケ岳山頂のお駒堂の補修、両境塚の管理なども考えられるが、多くの場合は制約の少ない北上川を通じた川の道だっただろうと考えられる。その中で例えば念仏剣舞を取り入れ独自の鬼剣舞に変換したなどの改良が加えられて定着したと考えられている。

 

また、民俗芸能が藩境に集中する理由として、境を通じてお互いに情報を得ながら、競って芸能を定着させたからだと推測される。また、それが両藩の境に住む農民の民心安定に繋がると考え、領主が奨励したとも考えられるようだ。常葉学園短大講師吉川裕子氏『民俗芸能における鹿踊』によれば、遠州の奥地にある西浦田楽について、団体の中での役割がそれぞれ決められており、それを隣の人に教えないという歴史的風習があった。それは遠州と信州の山境にある地域なので、戦国時代には重要な拠点で、境を守る武士団との関連性が高い。芸能には集団と集団が途中で出会った時に、太鼓や鉦で競う儀礼の行事を持っているが、単なる挨拶というよりも軍隊同士のすれ違いの意味があったのではないかという事である。(北上市教育委員会『北上民俗芸能総覧』(1998年)p20-40「北上市の民俗芸能 分布と概説」より)

 

鬼剣舞の由来は、1200年余り前、大宝年間(701~704年)に山伏の元祖である役小角吉野川で水垢離をとり大峰山で苦行を行い、大願成就して7月七夕の夕暮れにこの念仏踊を創ったと伝わる。大同年間(806~810年)には出羽国羽黒山中で本舞踊を実施。康平年間(1058~1065年)の初年に安倍貞任、正任がこの踊りを自己の領内に推奨したと言われている。踊りは仏教と深い繋がりを持ち、煩悩を消滅し、大慈悲を以って衆生を導き大菩薩心を発起する妙法。南無阿弥陀仏の名号を唱え、鬼が浄土往生の喜びや悪魔退散、天下泰平を祈念しつつ踊り狂う様子を表したものである。鬼面に角が無いのは鬼が摂取不捨の利益に預かり仏道に帰依したことを表すものであると言われる。(門屋光昭『民俗写真帳 我が鬼剣舞の里 -鬼剣舞と北国農民の祈り-』(昭和57年 トリヨーコム)より、「岩崎鬼剣舞リーフレットの引用)

 

岩崎鬼剣舞の由来は、康平の頃(1058~65年)に安倍頼時の子黒沢尻五郎正任がこの踊りを好み、将兵に出陣や凱旋の際に踊らせたのが広く伝わったと考えられている。享保17(1732)年の「念仏剣舞由来録」の巻末には、延文5(1360)年岩崎城で城主・岩崎弥十郎が君主・和賀政義を招き、剣舞を踊らせたところ、政義は大いに喜び、家紋である笹リンドウの使用を許可したとある。また、和賀北上地方に分布する12組の踊組はいずれも岩崎鬼剣舞を源流とする。岩手県文化財愛護協会『文化財普及シリーズ4 岩手の民俗芸能~ 国と県指定団体のすべて』1999年)

 

②鬼の館(13:30~17:00)

日本や世界の鬼について展示紹介してあるミュージアム。とても見応えがある展示で、3時間くらいは見入っていた。写真や絵画やら彫刻やらビジュアルをバンと前面に出しており、解説を読む人は少なかった。自分だけ解説ばかり読んでいたなと思った。加えて、多くの大人は子供に「悪いことをしたら鬼が出るよ」と言い聞かせていて、世間的な鬼の認識ってそういう感じなんだと分かって良かった。つまり、善良な鬼のことは皆忘れてしまっているのだ。僕は展示を見て、逆に善悪つかない物事の重要性を伝えたいのではないかと感じた。優しい鬼も怖い鬼も様々な鬼がいる。とりわけインドネシアのバロンダンスは面白いと思った。光と闇の神が争い、決着がつかないことを表現しているという。これは日本の鬼や神の概念にも通じるところがあるそうで、ぜひ今後研究してみたいと感じた。

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 郷土芸能居酒屋鬼剣舞(19:00~20:00)

鬼剣舞が見られる居酒屋があるというので行ってみた。今回は二子鬼剣舞の演舞が行われ、とても感動した。一定距離をとって、お座敷席から鬼剣舞を見物する形だったので、コロナ禍であるがとても安心である。加えて、芸能好きだけでない居酒屋の席で芸能を届けることは関心層を広げる意味で、とても良い取り組みと感じた。しかも、芸能団体にとってもPRの場になり、居酒屋にとっては大きなコンテンツとなる。お互いにwin-winだと感じた。

一番庭、刀剣舞のふるい踊り、狐剣舞の3つの演舞が行われた。鬼には化けられなかった狐が登場するのが狐剣舞で、鬼剣舞と同じ衣装を着る。基本は8人で踊る。山伏の交流によって伝えられたという。念仏の芸能なので、先祖のなぐさめや無病息災を願う。8/16お盆のお祭りが起源であるが、それからこの郷土芸能居酒屋など様々なところに頼まれて演舞に行くようになったという。 

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2021年8月15日 岩手県奥州市 増沢鹿踊取材

時代劇のロケ地として有名なえさし藤原の郷で鹿踊の定期公演が行われることを知り、行ってきた。団体めがけて見に来る観客もいて、山形や宮城からも来ることがあるそう。コロナ前は15団体およそ100匹の舞い手が踊ることもあったようだが、今は屋根のあるステージ上で団体ごとの演舞のみとなっている。

演舞では、中立ちを中心に8頭の鹿が役割を分担しながら行っていた。初めて拝見した印象としては、衣装の派手さと大きさが勝るので、踊りはあまり複雑なことができない。その分、太鼓の音が非常に大きく、図体も揺らすだけで迫力がある。やはり、仙台方面から来た芸能というのは、武士の威厳みたいなものを感じる。遠野などで行われている幕系のしし踊りと、この太鼓系鹿踊では芸能が全く別物に見えるのだ。

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 ps. えさし藤原の郷の食堂で食べた卵そばなる食べ物がとても美味しかった。やはり、普段なかなか行かない土地に来たら、郷土料理が食べたくなる。

2021年8月16日 岩手県北上市 岩崎鬼剣舞取材

岩崎の鬼剣舞は北上最古の鬼剣舞である。8/14にもともと鬼の館で演舞を予定していたが、当日行ってみると緊急事態宣言のため中止とのこと。慌てて滞在を伸ばし、今回の地域での演舞のことを教えてもらい、再度駆けつけた形である。また、鬼の館の館長さんとたまたま岩崎城跡で会い、道中の移動を車に乗せていただいた他、諸々の解説等をしていただき、本当に感謝したい。僕の他にも北上市の広報の方々や鬼剣舞の研究をされている大学生などが取材に訪れていた。以下の流れで鬼剣舞の演舞が行われた。

 

①岩崎城跡にある和賀忠親の供養搭、鬼剣舞の供養搭(昭和64年に建立)の2つの前で太鼓、鉦、笛を鳴らし歌を歌い、手を合わせ、最後に線香を添える。

 

泉岳寺にある鬼剣舞の供養搭(明治時代に建立)、本堂の前で太鼓、鉦、笛を鳴らし歌を歌い、手を合わせ、鬼剣舞を演舞した後に、最後に線香を添える。

 

③稲荷神社の拝殿、鬼剣舞の供養搭(大正時代に建立)で太鼓、鉦、笛を鳴らし歌を歌い、手を合わせ、鬼剣舞を演舞した後に、最後に線香を添える。(鬼剣舞は供養搭の前のみ)

 

鬼剣舞の演舞は、泉岳寺鬼剣舞供養搭、本堂、稲荷神社の鬼剣舞供養搭の3箇所で行われた。供養搭の建立はいつ立て替えると定められている訳ではないので、立て替え時期の判断はよくわからないとのこと。供養とはしし踊り等によくある狩猟によって捕らえた生き物などではなく、先祖への供養という気持ちが強いようだ。お供え物は、基本的に家にあるもの、庭でつくっているものなどがずらりと並んでおり、メロンやバナナなどの果物からナスなどの夏野菜が置かれていた。また、泉岳寺では供養搭近くにたまたま生えていたみょうがをお供えしていたのが印象的だった。

鬼面は赤、緑、白、黒など様々で、中国の陰陽五行説に基づいて方位と色が定められているようだ。演舞の中では、ソロで1人の演者が瓦を運ぶという大道芸のようなものがあったが、たまに運ぶのを失敗する。素手で間違えていたのかと思ったら、これも演技の一部で愛嬌とのこと。この演技力には脱帽である。また、明治以前は神仏習合だったので、仏教の踊りにもかかわらず、いまでも神社でも踊っていることが興味深い。

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今回、全体を通して感じたのが、岩手県の人のおおらかさと自然の雄大さであった。その点が隣の城下町としての色が濃く都会的な要素を感じる宮城県とは大きく異なると感じた。先週に宮城県を訪れたこともあってか、余計にその県境への意識が強くなった。各都道府県にはそれぞれ県境が設けられる意味があり、その土地独自の民俗芸能が息づいているのだ。

 

宮城県村田町の鬼伝説から考える民話の両義性

鬼伝説について調べるために、宮城県村田町を訪れた。

JR大河原駅から徒歩2時間。休日はバスがないとのことで、ひたすら歩いた。道中、歴史ある馬頭観音道祖神などの石仏が多数現れ、ここは古代日本と接続できる場所であるという実感を持った。

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ここで、なぜ村田町を訪れようと思ったのか、動機について触れておきたい。2021年7月に京都大江山の「日本の鬼の交流博物館」に行った時、大江山の鬼退治に参加した渡辺綱が、別の経緯で、鬼を追って宮城県村田町に来ていたことを知った。それで、その鬼伝説について深く知りたいと思い、2021年8月8日に村田町を訪れたのだ。その鬼伝説の顛末を、「村田歴史みらい館」の展示文章を引用してご紹介する。

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 むかし。京都の朱雀大路の南のはしに、羅生門という2階立ての大きな門があったんだど。

 この門には、わるい鬼がいて人々をくるしめていたんだどや。

 そのころ、渡辺の綱という強いさむらいが、この、わるい鬼をたいじに一人で羅生門にいって、鬼とはげしくたたかったすえ、鬼の右うでをかたなで切りおとしたんだど。鬼は、右うでをおいたまま、いのちからがらにげてしまったんだど。

 渡辺の綱は、切りとったうでを石でつくった長持にかくし、にげた鬼をさがしに各地をさがし歩いたんだど。んだげんども、なかなか見つけることができず、とうとう遠いうばがふところの里まで、家来十人とやってきたんだど。

 鬼は、渡辺の綱が、この、うばがふところまで、おっかけてきたということをきいて、なんとか、切りとられたかたうでを、とりかえさねば、と思ったんだど。そして、いろいろかんがえたあげぐ、渡辺の綱の、おばにあたるというばけることにしたんだど。

 おばにばけた鬼は、渡辺の綱どこさいって、『おめえさん、いま、せけんでひょうばんになっている、鬼の右うでを持っているんだってな、どういううでが、ちょこっと、みせてけろ。』とたのんだんだど。渡辺の綱は、おばがらのたのみなので、ことわらんねぐなって、石の長持のふたを、少しあけだんだどなれ、そしたら、おばの口は、たちまち大きくさけ、あたまにはつのがはえ、赤いつらをした鬼に変わったんだど。そして、アッというまに、その右うでをつかむと、いろりの自在かぎをつたわって、上にのぼり、天じょうのけむだしから外ににげていったんどなれ。渡辺の綱は、かたなをぬいて、すぐに追っかけたんだど。鬼は、あわてて川をこえようとして、すべってしまったんだど。んだげっども、そばにあった石に左手をついて立ちあがり、またにげていったんだど。渡辺の綱は、たいへんくやしがったが、どうしようもなかったんだど。

 そこで、うばがふところの人々は、ここまで鬼をさがしにきたのに、またとりにがした渡辺の綱のきもちを思い、その時から、家々では、いろりの自在かぎと、やねのけむだしをつけなくなったんだど。

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物語が意味するところ

まず、この話の真相は明らかにされていない。事実なのか、そうでないのか。この話を読み替えると、朝廷(渡辺綱)と豪族(鬼)の対立の話にも思えてくる。片腕を取られながらも京都から宮城まで鬼が逃げたという設定は少し疑問が残るので、これは例え話かもしれない。それなら鬼が片腕を取り返すというのは、ある意味有力な家臣が人質になっていたので、それを取り返したという風に考えることもできるだろう。民話は様々な想像力を掻き立てるのが面白い。

また、この物語に出てくる「うばがふところ」とは村田町の中の地域名のことで、渡辺綱の故郷でもない?のに、おばがいるというのは少し不自然である。渡辺綱のおばはなぜこの場所にいたのだろうか、そして、渡辺綱はなぜおばを鬼だと見破れなかったのか。疑問は尽きない。どういうわけだか、今ではこの地に「渡辺」という姓の家系が多いようだ。実際、現地で「渡辺商店」と書かれた看板を発見した。ある言い伝えによれば、明治21年の方が子供の頃、渡辺姓は7戸だったようだが、大正14年発行の柴田郡誌には戸数13戸と記されていたようだ。

村田歴史みらい館の鬼のミイラについて

町の中心部にも近い、村田歴史みらい館。ここには、「鬼のミイラ」が展示されている。頭と腕のみが残されており、鬼と書かれた木箱に保管されている。上から透明なガラスがはめ込まれており、そこから覗くことができる。木箱の横にはお賽銭箱も設置されている。このミイラが本物かは分からないが、江戸時代ごろに上方(江戸か大阪)あたりで購入したもののようで、村田町で作られたわけではないらしい。昔は商売道具や客寄せとしてミイラを用いることが日本各地で行われていたようだが、村田町の鬼のミイラがどのような目的をもって保管されていたのかはよく分かっていない。このミイラが発見された場所は商家の倉庫だったという。また、渡辺綱の鬼退治伝説との関わりも不明である。

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民話の里·ふるさとおとぎ苑の演出

村田歴史みらい館から徒歩で50分のところに、おとぎ苑という場所があり、民家内に「渡辺綱がおばに化けた鬼に腕を取り返され、逃げられるシーン」を再現したものがある。この民家は近くの村から移築したもののようだが、屋根の煙だしがないため、後世に煙だしが作られなくなったという上記引用の民話と内容は合致する。ただし、シーンを忠実に再現しようと思ったのか、無くなったはずの囲炉裏の自在鉤は取り付けられていた。以前はロボットのお婆さんが渡辺綱と鬼の話をかたり、最後に襖を開けるとその決闘シーンが見られるという大がかりな演出が行われたそうだが、今は営業時間が短くなり、ロボットのお婆さんもしゃべらなくなってしまったという。受付の方はこの施設が作られて初めて、渡辺綱と鬼の物語を知ったそうだ。年々語り手が少なくなっているのかもしれない。

手掛け石から考える民話の両義性

おとぎ苑近くに、手掛け石と呼ばれる石が祀られている。上記に引用した文章では、鬼が川を渡ろうとして滑った時に手をついた石となっている。ただ、実はこれは町誌や観光パンフレットなどの公的な文書に記された内容のようである。実際に姥ヶ懐に伝わる話によれば、渡辺綱が幼いときに、その姥が飲み水を確保するために子守沢に出かけた時に、手をついた石とされている。その後、渡辺綱が京都で活躍をしたのち、この石を移動し、姥神様の御神体として祀ったようだ。この話によれば「鬼の手掛石」ではなく「姥の手掛石」と言い伝えられており、宮城縣『宮城縣史23(資料篇1)』昭和29(1954)年に掲載されている「風土記御用書出」によれば、貞保2(1685)年には既に姥ヶ懐の名石として、「姥ヶ手掛石」という記載があり、右手の指跡と記されている。

これらの事実を踏まえると、言い伝えによっては鬼と渡辺綱との関係性が逆転する場合があり、鬼の善悪両義的な側面を思わずにはいられない。これに加えて、姥ヶ懐では節分の日に「鬼は内、福は内」という掛け声をかけるそうだが、この理由についても鬼に関して両義的な解釈ができる。つまり、渡辺綱が鬼を退治しようとした際に、囲炉裏の自在鉤を登って鬼が外に出てしまったので家の中で退治できなかったから「鬼は内」なのか、それとも単に鬼が福をもたらすと考えて「鬼は内」なのか。疑問は募るばかりである。

鬼伝説が生まれる秘境

姥ヶ懐というエリアはどうも古代の臭いがする。地域にある神社のご神体が洞窟だったり、樹木だったりして拝殿がないのだ。また、手掛け石の近くには大きな石棒まで立っていた。これは道祖神の祖形であろう。牛石と名付けられた石もあって、「食後にすぐに横になると牛になる」という教訓的な話が伝わっており、つまり怠け者を戒める話も残されていた。これは、なまはげの話とも似たような構造をもっている。いずれにしても、昔から中央と隔絶された秘境として生活が営まれてきたからこそ、古代信仰を端々に見てとれるのだろう。このような秘境にこそ、鬼の伝説が生まれる素地があったということかもしれない。

 

取材の終盤において、明るい空は一変してどす黒く曇り、大地に向けて大雨が降り注いだ。村田にはまだまだ人智及ばぬ奥深い世界があり、物事を一面的に捉える人間を戒めるような雰囲気が漂っていた。ずぶ濡れになりながら村田町役場にたどり着き、仙台駅行きのバスに乗り、帰路についた。

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