民俗写真史を振り返り、記録と表現の狭間を考える

民俗学という学問にとって写真はどのような位置付けで考えるべきなのだろうか。芸術なのかそれとも記録なのか。曖昧な境界を先人たちは様々な立場で論じていた。石川直樹宮本常一と写真』(平凡社·2014年)の内容にそって振り返る。

 

宮本常一と写真

民俗学の旅』1978年より、父善十郎から言われた十ヶ条がとても興味深い。

①汽車を降りたら、窓から外をよく見よ...駅へ着いたら人の乗り降りに注意せよ...

②新しく訪ねていったところは、高いところへ上ってみよ...目を引いたものがあったら、そこへは必ず行ってみることだ 

③金があったら土地の名物や料理は食べておくのが良い

④時間にゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ···

⑩人の見残したものを見るようにせよ 

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美意識に叶うものがあれば、メモをするようにカメラのシャッターを押した。オリンパスペンで生涯撮影した枚数は10万枚以上。人を撮るときは表情を撮らずに着ている服や使っている道具、立ち居振舞いや身ぶりなどを撮った。全体像をおさめるために被写体との適度な距離を保っていた。1情景1カットの場合が多かった。上手い写真を撮ろうと連写をする姿勢は無かった。ただ、左右ずらして繋がりを見せようとすることはあった。どこまでも素直で、懐かしさを感じさせる取り方であるといえる。

 

一方で民俗的な情報の惹かれてシャッターを押したのではなく、綺麗な光景にたいして押しているところもある。民俗学の視点からはそれほど重要でない余計なものもフレームの中に入れた。これが写真家的な目線だ。ただし本人は芸術的写真を批判していた。木村伊兵衛のような技法的写真の上手さがあるのではなく、対象の人物の姿が生き生きしているという風な写真だった。「民俗」ではなく「生活史」を撮った、つまり、目の前で展開される芸能や祭りがどのような生活と歴史によって続いてきたのかを調査したのだ。

 

宮本常一の写真に対して森山大道は「ものに感応するセンサーがすごい」と言い、荒木経惟は「惹かれるから撮っている」とみる。つまり、記録ではないと考えているようだ。

 

使用カメラ:コダックのベスト判カメラ、ウェルターのブローニー判、アサヒフレックスI、ハーフサイズのオリンパスペンS(Dズイコー3cm f2.8)、ウェルターのブローニー判8枚撮り

 

民俗写真についてスタンスの違い

名取洋之助と写真

報道写真の草分けであり、芸術的·主観的な写真を否定した。組めない写真、読めない写真ではない写真を目指したのだ。宮本常一に大きな影響を与えた。

 

柳田國男と写真

民俗学のマテリアルは目で見るもの、耳で聞くもの、心の感覚で直接感ずるものがあり、写真によって成しうるのは有形文化だけでなく無形文化も含まれると考えた。言葉に言い表せないけど写真だとピンと感じるものがあるという。都会人と田舎人の顔つきの違いなどがその例だ。それは写真表現の幅が広がるほどに忠実になる。一方で、相手に写真を撮ることを意識させると自然であるはずのものが不自然にもなる。個性を探らずあくまでも社会文化という一般を探ったというわけだ。つまり帰納法的な考え方であり、多い材料から取らねばできることではないという。柳田國男民俗学を継承した橋浦泰雄早川孝太郎今和次郎などは写真よりもスケッチなどを用いて無形文化を見ようとした点は興味深い。

 

使用カメラ:イーストマンコダック社製のロールフィルム、ドイツ製テナックスモデルのアトム判フィルムパック用カメラ、レフレックス型カメラ

 

土門拳と写真

本当のスナップというのは、普通に今までのように撮ると非常に貧弱なものしか撮れない。写真から来る迫力が非常に弱くなる。ゆえにある瞬間の自然な様子を把握することはやめてしまった。そこで、最も典型的な態度や生活様式なり労働様式を出す方向に舵をきった。瞬間的なものよりも最大公約数を見いだすやり方である。これは、柳田國男とプロセスが真逆である。

 

折口信夫と写真

単なる民俗記録に収まりきらない強い個性を感じさせるものがあるが、撮影者不明の記録が混在しており、評価が難しい。

 

日本民俗写真史

重森弘淹『日本写真全集9 民俗と伝統』1987年を参考に、日本の民俗写真の歴史を振り返る。(畑中章宏「日本民俗写真史」より)

草分け的存在としては、濱谷浩(民俗学的な眼で記録をおさめた第一人者)や、園部澄(岩波文庫スタッフ、テーマは自然·郷土玩具·民具)であろう。そして、民俗学的視点にはっきりと立った写真家として、芳賀日出男、萩原秀三郎、渡辺良正、内藤正敏の4人が挙げられている。以下、それに続く民俗写真史の系譜である。

 

1960年代から写真家の民俗的な視点が芽生え始めた。日本の高度経済成長に伴う国土開発と急激な都市化、安保闘争全共闘の挫折などが背景だ。

高梨豊『都市へ』(1974年),『東京人1978-1983』(1983年), 『初國』(1993年)

北井一夫『村へ』(1965年)

東松照明『太陽の鉛筆』(1975年), 『光る風-沖縄』(1979年)

森山大道『にっぽん劇場写真帖』(1968年), 『狩人』(1972年),『遠野物語』(1976年) 

荒木経惟荒木経惟写真集3東京』,『写真劇場 東京エレジー』(1981年)

土田ヒロミ『俗神』(1976年)

鈴木清『流れの歌』(1972年),『修羅の国』(1994年)

内藤正敏『婆 東北の民間信仰』(1979年),『出羽三山と修験』(1982年),『遠野物語』( 1983年)

須田一政『風刺家伝』(1978年)

鬼海弘雄『王たちの肖像』(1987年),『PARSONA』(2003年)

植田正治『童暦』(1971年)

南良和(秩父の農村),  比嘉康雄(琉球の祭祀),小島一郎(津軽の農家や風景)

※写真家ではないが、この時期の岡本太郎宮本常一折口信夫の写真についても興味深いものがある。

 

1980年代以降は民俗学から人類学に興味が移った。境界を越えていこうという意識が現れている。写真集のタイトルがなぜか英語だらけだ。

鈴木理策『KUMANO』(1998年), 『Piles of time』(1999年)

小林紀晴『ASIAN JAPANESE 』(1995年),『はなはねに』(2009年), 『KEMONOMICHI』(2013年)

津田直『SMOKE LINE』(2008年),『Storm Last night』(2010年)

石川直樹『NEW DIMENSION』(2007年),『VERNA -CULAR』(2008年),『CORONA』(2010年)

田附勝『東北』(2011年),『KURAGARI』(2013年)

志賀理江子『螺旋海岸』(2013年)

 

これからは完全に自分の考えだが、民俗の写真はどのような展開を見せるのかも考えていきたい。近年、日常を撮る写真家が増えているのは気のせいではあるまい。秘境とか未踏とか呼ばれる地理的に遠いとか訪れるのが困難な場所が消えつつある今、全ては個人のストーリーに独創性が求められるように思う。エベレストに登って写真を撮ったからすごいのではなく、誰がエベレストに登って写真を撮ったのかというのが大事な気がする。個人の経験の掛け合わせの先にできる新しい文脈を大事にしていきたい。

木造獅子頭の研究史について

日本の木造獅子頭研究史においてまず挙げるべき人物は、田邊三郎助(田邊 1981・1986・1997)、臼杵華臣臼杵 1984)、門屋光昭(門屋 1981年)の3人である。それぞれ、どのような研究成果があったのかを、蔭山誠一『愛知県日置八幡宮所蔵木造獅子頭考』を参考に振り返る。獅子舞の伝来経路と獅子頭の伝来経路の相関性なども推測していきたい。

中世から近世の概観(田邊三郎助)

中世の紀年銘が残る獅子頭についての変遷が全体の肉取りや舌の工作、植毛の仕方、眉の形態、目鼻立ちや口縁の彫り口に見られる造形の時代的変化や特徴について研究をされている。大きく分けて2つの分類があるという。

「カサ高」型

法隆寺奈良県)、防府天満宮広島県)、伊奈冨神社(三重県)、津波倉神社(石川県)の獅子頭

「やや扁平」型

御調八幡宮広島県)、丹生神社(広島県)、白山神社(石川県)の獅子頭

静岡県の息神社にて2つのサンプルが1年違いで存在する点が興味深い。

 

南北朝時代から室町時代にかけて肉取りが角張って抑揚がなくなる傾向あり。室町時代には地方での制作が一般的となり、木彫りや漆塗りの技術が低下する。(この時代には多くの地域で獅子舞が途絶えたのではあるまいか。完全に個人的な見解だが、鎌倉時代から江戸時代までの時期に途絶えていたか影が薄くなってしまった獅子舞行事は日本全国に多数存在すると考えられる。)

 

室町時代の後半から桃山時代にかけて、顎は角張ったままで頭部が高く、鼻から顎の前方部が低く締まって形の良いものの数が増すとされている。江戸時代には耳を頭部と一緒に掘ったり、別に作って両物を固定したり、舌が下顎の上に削り出されるだけになったりと作業の簡略化が目立つようになる一方、形態におけるバリエーションは増す。

獅子頭の形態分類

獅子頭の正面

獅子型:上顎頭部がネコ科動物の肉付き

知立神社(愛知県)、日置八幡宮(愛知県 1252年銘)、真木倉神社(岐阜県 1305年銘)、息神社(静岡県 1374年銘)

半球型:上顎頭部から上顎頬部まで丸みあり

白山神社岐阜県 1385年銘)、息神社(静岡県 1375年銘)

箱型:比較的平坦で上顎側面がやや垂直

真清田神社(愛知県 1471年銘)、星大明社(愛知県 1510年銘)、天神神社(岐阜県 1488年銘)、神館神社(三重県 1435年銘)

 

獅子頭の側面

A類:上顎の鼻先が低い, 鼻梁が後方に凹んで伸びた後に額が垂直からやや斜めに立ち上がる, 上唇と上唇の筋肉部分の抑揚が大きいなど。

知立神社(愛知県)、 日置八幡宮(愛知県 1252年銘)

B類:上顎の鼻先が比較的高い, 後方に伸びる鼻梁の凹みが浅く額がやや斜めに立ち上がる, 上唇と上唇の筋肉部分の抑揚が小さいなど。

白山神社岐阜県 1385年銘)、息神社(静岡県 1374年銘)、(※真木倉神社(岐阜県 1305年銘)はややこれに類似)

C類:上顎の鼻先が高い, 後方に伸びる鼻梁の凹みが浅く額がやや斜めに立ち上がる, 上唇と上唇の筋肉部分の抑揚がほぼ無いなど。

真清田神社(愛知県 1471年銘)、星大明社(愛知県 1510年銘)、天神神社(岐阜県 1488年銘)、神館神社(三重県 1435年銘)

→こう見ると上記③箱型と③C類は一致する。

獅子頭の誇張表現が歯の噛み合わせや眼光による威嚇から、鼻先や口部分へと変化していることから、伎楽の仮面から行道の仮面へ変化が表れている。ここに、行道執行者の意図と獅子頭製作者の表現のすり合わせが行われていたことが読み取れる。

 

植毛の位置・数量・表現

上顎頭部頂部

眉部

上唇部分

側面頬の部分

下顎前面から側面縁の部分

①〜③, ⑤を満たすのが、諏訪神社岐阜県 1306年銘)

①〜③を満たすのが、知立神社(愛知県)、日置八幡宮(愛知県)、白山神社岐阜県 1385年銘)

①②を満たすのが、伊奈冨神社(三重県

①③を満たすのが、真木倉神社(岐阜県 1305年銘)

②③を満たすのが14世紀後半までの獅子頭に限定される。

③⑤を満たすのが、武芸八幡宮岐阜県 1351年銘)

③のみを満たすのが、息神社(静岡県 1374年銘)、真清田神社(愛知県 1471年銘)、星大明社(愛知県 1510年銘)

 

植毛の立体的表現手法

実際の植毛

線刻による表現

白山神社岐阜県 1385年銘)、天神神社(岐阜県 1488年銘)、息神社(静岡県 1375年銘)

線画や描画による彩色表現

彫刻の浮き彫りによる立体的表現

真木倉神社(岐阜県 1305年銘)、真清田神社(愛知県 1471年銘)、天神神社(岐阜県 1488年銘)、伊奈冨神社(三重県)、神館神社(三重県 1435年銘)、加茂神社(三重県 1545年銘)

獅子頭の上唇には髭が存在したという地域の人々の意識の表れ

 

14世紀後半までの獅子頭における形態の移行の傾向としては、正面観型→半球形、A類→B類、植毛の減少が明らかである。ただし、鎌倉時代は地域全体が同じデザインで統一されるわけではなくてモザイク状に分布がなされており、獅子頭を制作する人が地方の神官や職人だったことを反映している。ただしそこには神官や職人による芸術的な独創性があったというよりは、分布から見ても別の地域を介したデザインの流入が行われたということのようだ。そのデザインの中心地は政治・文化の中心地である「京都」とのこと。

ps. 獅子頭の年代計測

日本最古の年記銘付き獅子頭と言われる愛知県愛西市日置八幡宮獅子頭について年代計測を行った財団法人 元興寺(がんごうじ)文化財研究所の平成19年調査を例に挙げる。破損・劣化状況・構造の観察のためのX線透過撮影獅子頭の下顎底部の宝珠穴にある墨書の赤外線撮影獅子頭樹種同定(顕微鏡による細胞の大きさの観察?)の3つを行なったようだ。判明したことは下顎がヒノキで上顎がエノキであり、下顎が後から補修されたものであるということ。そして、修復の過程で漆膜表面の汚れを除去していたところ上顎後頭部上辺の鎹(かすがい・両端の曲がった釘)にかかる位置に銘文が発見された。線刻された文字の上には修復の際の黒漆が塗られていたという。上顎右側には「建長4年壬子8月」上顎左側には「(奉ヵ)施入盛ヵ西ヵ禅ヵ(師ヵ)」の文字。これにより上顎が1252(建長4)年制作が判明、平成20年3月10日時点で正倉院獅子頭面を除く日本最古の木造獅子頭ということがわかったそうだ。

 

以上、蔭山誠一『愛知県日置八幡宮所蔵木造獅子頭考』には精緻で非常に興味深い内容が書かれていた。獅子舞の伝来経路は演じ手と作り手の対話であると考えると、獅子頭の伝播との共通性を見いだすことができるかもしれない。少なくとも上記の日置八幡宮獅子頭の事例や周辺地域の獅子舞の伝来経路を総合して考えると、荘園制を軸として伝播したという共通性は見いだせる。

 

話はそれるが奈良時代に伎楽としてもたらされた獅子頭はおそらく東大寺大仏殿開眼(752年)までは地方伝播がそこまで進まなかったと思う。国分寺の建立が進み、桓武天皇の時代794年に京都に都が移ってから地方と中央との活発な交流を基礎として、八幡信仰を先駆けとした神仏習合、荘園の広がり、山岳信仰の広がりなどが獅子頭及び獅子舞の伝播を同時多発的に促進したと考えるのが良いだろう。奈良時代(中央集権国家)→平安時代(中央集権国家の崩壊)→鎌倉時代地方分権)・・・・・→明治時代(中央集権国家)という流れで、中央集権国家の成立から崩壊までの流れの中に、獅子舞の地方伝播の謎が隠されているのだ。他地域の事例をあれこれ考えると頭の中では辻褄が合うように思うのだが、もう少しこの考え方を精緻化させたい。

鹿酒とは何か?しし踊りの古層を諏訪にみる

諏訪には御左口神という古代からの神がいる。この神としし踊りとはどこか密接なつながりがあるように思えるので書き記しておく。発端は中山太郎著『タブーに挑む民俗学』に出てくる造酒法の話である。古代日本では、御綱柏と造酒に意外な関係性があった。八丈島では黒酒を作るその時に黒麹を作る際の粟に、御綱柏(オオタニワタリ)を被せるというのだ。古代の豊楽に御綱柏が登場する理由はこれである。他には口噛み酒などが古代の造酒法として知られている。

 

こうして作られた酒はどうやら薬物として用いられたようだ。酒の古名はキ又はクシであり、クシとはすなわち薬のことである。このクシの神をどう祀ったのかというのが、御左口神信仰の本質である。酒を作るのは専ら女性で、掌酒(神に供える酒の醸造をつかさどる人)として働き、酒神はこの女性が祀られるということも多かった。御左口神とは諏訪大社の酒神の祭神であり、そのことが武田信玄署名の『諏訪上下宮祭祀再興次第』に書かれている。語源は噛み酒が「みさく」「さくち」などと呼ばれていたことにある。琉球本島では噛み酒を「みしゃぐ」と呼び、宮古島では「うむ、さく」などとも呼ぶらしい。

 

一方で古記録によれば、御左口神の特徴は以下のようである。

①王子胎内との記述から、女性である

②正体は雌鹿である

③醸酒の精進屋に鹿皮や鹿足と最花一貫文を供える

※最花一貫文については何か不明

 

このことから、まず御左口神の元の姿は孕み鹿であった。孕み鹿である所以は女性の生産能力を信じ儀式化したということだろう。諏訪大社の神の変遷は、狩猟神、農業神、武神という風な変遷をたどる。その原型こそが、御頭祭や耳切鹿の故事でも有名な鹿の姿であったというわけだ。それにしてもなぜ鹿と酒が関係あるのか?『神武紀』戊午年秋八月の条に出てくる牛(シシ)酒とは鹿酒のことであった。シシといえば、鹿を意味しカノシシ(鹿)とイノシシ(猪)となったのは、後世のこと。その点では、東北に広く伝わるしし踊りと考え方は同じである。どのようにして鹿酒なるものを作ったのかはよく分かっていない。猿酒(猿などが溜め込んだとも言われる果実が自然発酵して作られたお酒の類)の故事などから推測ができる可能性もあるかもしれないが、それは推測の域を出ないようだ。また、諏訪の造酒法は北方から伝わったものではないかと言われている。

 

 鹿の胎児は「さご」と呼んだ。早川孝太郎『雑誌「民族」(三巻一号)』によれば、三河国設楽郡振草村大字小林で2月初午に行う種取り神事にて、鹿の腹に納める苞(つと・蕾を包むようにはが変形した部分)を鹿のサゴ(胎児)と呼んでいることからわかる。この報告と御左口神の古い記録を照らし合わせると、鹿の胎児を造酒に用いたという呪術的作法があったのではとも考えられる。そして御左口神は古く左口(さご)と呼ばれていたのかもしれない。今では『諏訪旧跡誌』にあるように、御左口神は石神と同一視されることもある。検知用の縄を祀ったものとも言われる。全国の御左口神は様々な漢字があてられその由来を遡るのが非常に難しいのが現状だ。その中でも、鹿に由来を求める筆者の見解はとても興味深く感じられた。そして、酒がクスリでであり神聖視されており、神を祀る時のみ飲んだというアイヌの逸話含め、現代と古代のギャップを様々に感じるに至った。

 

参考文献

中山太郎『タブーに挑む民俗学』河出書房 2007年

 

・・・

ところで、2021年4月15日に諏訪大社の御頭祭に行ってきた。十間廊に供えられた長い首をそのまま残した鹿の頭の表情は静かだった。喜怒哀楽はなく、人間をただ見つめるように立っている。今から200年以上前、江戸時代の旅行家・菅江真澄が著した『すわの海』によれば、鹿の本物の頭が75頭、まな板の上に並べられていたという。その中に耳が裂けた鹿がいたそうだが、それは神様が矛で獲ったものだと考えられていた。今では剥製を使っているが、昔はその場で生きた鹿を殺し、神に捧げていたのだ。

鹿を神様に捧げるとは、どのようなことを意味していたのだろうか。まずは鹿の首をはじめとした様々な動物や植物などの幸を神に献ずることによって、神と人が一体となり饗宴を行う。つまり、自然を敬うとともに共存する狩猟儀礼と言えるだろう。以前、諏訪大社を訪れた際に、日本の中でも諏訪という地域がなぜこれほどまでに古い儀式を今に伝えているのかを尋ねたことがあった。「詳しいことはわかりませんが、諏訪は食料が乏しい寒冷な山間部だったかもしれません」とおっしゃっていた。つまり、日本では神社もお寺も境内で殺生を行うという習慣はなかったはずだが、古くからの肉を食す習慣がそれほどまでに生活上欠かせなかったからだと読み取れるのだ。そういうわけで、自然に対する恐れや感謝の心も非常に強かったのかもしれない。

神長官守矢史料館が販売している『しおり』によれば、大昔は御神(おこう)と呼ばれる実際の子供を生贄に捧げていたとも言われている。菅江真澄が生きた時代には、子供を柱に縛り付けそれを神官が救済したのちに、動物を献じるという方式をとっていた。これは、人間を生贄に捧げるという習俗が徐々に外部化され、対象が動物に変わり、今では剥製になるという人身御供(ひとみごくう)のプロセスを連想させる。何れにしても、柳田國男の『獅子舞考』を読んでもわかるように、贄と獅子舞(何方かと言えばしし踊り)とは密接な関係性があり、その点は今後深めていかねばならない課題である。

 

和歌山県の獅子舞の多様さを知るー春季企画展「紀州の獅子と獅子頭」等ー

2021年4月25日、和歌山県和歌山市風土記の丘で開催されていた春季企画展「紀州の獅子と獅子頭」を見に行った。和歌山の獅子頭といえば、奈良や伊勢の獅子舞の影響を受ける古い形態があるかもしれないという期待感と、獅子頭に関する企画展はそう多くないので是非訪れたいと感じた。メモを以下に貼り付ける。

春季企画展「紀州の獅子と獅子頭

この企画展で知ったことは、和歌山の獅子舞というのは非常に多様性溢れると同時に伝来経路も多様であるということ。いくつか形態を分類されたものをご紹介したい。以下、展示パネルの説明を要約していく。

 

獅子舞の概要を紹介(説明パネル)

・獅子舞の本来の意味

獅子はみなぎる力の象徴で、姿や顔立ちによって外から入る魔を払うという意味、また、祭りや行事において移動する空間を祓い清めるという意地であるとのこと。それに対して獅子と戯れ、導き、あやし、戦うのが異形の者(天狗・鬼など)となっている。鬼は「オニ・ワニ」「オン・メン」などと鼻高面と鬼面の2つが登場する。

→古代の獅子について:元は7世紀に仏教とともに伝来。霊力があり悪を食べる信仰から寺院の法要において行列の道行を清める「行道」の獅子として定着。平安時代以後に神仏習合の考え方で都の神社祭礼においても獅子が行道するようになり、鎌倉時代以降に全国の神社に広がっていった。

→行道獅子:「行道」の別名は「お練り」。法会において僧侶が行列して参道や堂内を練り歩く儀礼。社寺の祭礼においては、獅子は神輿を先導し行列の道行きを祓い清める。基本的に2人立ちで囃子や舞はない。近世以前の神社祭礼における獅子のあり方を示す。(例:四天王寺聖霊会、野上八幡宮の獅子、丹生都比売神社の獅子、紀州東照宮の獅子など)

 

<獅子舞の種類>

・梯子獅子・継ぎ獅子

瀬戸内海沿岸、兵庫県和歌山県、愛知県、千葉県にかけて分布する。高い梯子の上に置いて激しく演舞して曲芸を披露する梯子芸のほか、肩に担ぎ上げたり乗せるなどして高くなる「継ぎ獅子」、「のみ取り」、「股ねずみ」、「寝獅子」など諸芸を披露する。

 

・加茂谷周辺の獅子

紀中の鬼獅子から派生し、海南市加茂谷周辺で展開したと考えられるものは、天狗と獅子で構成されて、神社の境内で奉納される。囃子方が奏でる笛や太鼓の囃子に乗せて天狗としい仏旗が絡み合う。獅子が天狗を威嚇する「たかなり」が特徴。獅子は4~5人立ちとも言われ、「むかで獅子」ともいう。

 

・鬼獅子(三面獅子・頭屋獅子)

鼻高(はるたか)と鬼(オニ・ワニ)、獅子、田楽などにより構成される。神社の境内や御旅所で演じられる神事芸能で、獅子が神輿を先導。オニとワニはささらと鉾をもち、神輿の前後を警護する。足踏みや歯噛みが特徴的な「踊り獅子」。有田郡・日高郡に分布しており、中世荘園の鎮守だった神社の祭礼に伝わる。(例:広八幡の田楽、顯國神社の三面獅子、内原王子の鬼獅子、土生八幡のお頭神事、印南八幡の重箱獅子など)

→広八幡宮の田楽:秋祭り(10月1日)で奉納される神事芸能で、10人の田楽衆が踊る中、オニ・ワニ、赤い胴幕の獅子が拝殿から登場して田楽衆の周囲をゆっくりと回りながら踊る。天災に見立てた獅子をオニ・ワニが鎮める。

 

・日高の舞獅子

瀬戸内地域に多い紙製獅子頭を用い、屋台の囃子に合わせた動きの激しい舞をする。獅子は2人立ちで、手を出して舞うことがない。中央に筵(むしろ)や敷物を広げ、四方を意識した舞をする。曲目は笛中心で固定した舞手が行う(由良祭の獅子舞、御坊祭の獅子舞、印南祭の、舞獅子)

→由良祭りの獅子舞:宇佐八幡社の祭礼で、毎年10月第3日曜日に開催に氏子9地区のうち6地区がそれぞれ屋型(獅子屋台)を出して競り合いや獅子舞を奉納する。このうち、横浜と阿戸の獅子舞は和歌山県の無形民俗文化財に指定されている。由良祭で用いられる獅子頭は、日高郡を中心に広く見られる和紙を貼り合わせた紙製の頭で、木製の頭よりも軽くて長時間の激しい演技に適している。

 

・熊野の獅子舞(伊勢流・古座流)

伊勢太神楽の影響を受けながら、熊野地域において独自に発展。木製の赤い獅子頭を使う。腕を出して鈴や幣などの採り物を持って舞う2人立ちの舞と、3~5人程度が入って激しく舞う「乱獅子」系統の舞がある。演目曲目ごとに舞手が変わる。小道具として牡丹の造花などをあしらった木を用い、獅子は花の美しさに見とれる。子供が天狗役で獅子と対決。※採り物を持ち静かで繊細な所作を見せる「しな獅子」と、荒々しい獅子の頭使いで舞う「あら獅子」があり、幼女による天狗の舞を含む13曲の舞が伝承されている。

→藤白の獅子舞:熊野五体王子の1つ、藤白神社の秋祭り(10月第2日曜)に行われる。獅子の穴に見立てた神社の拝殿から登場する「穴獅子」である。笛と太鼓の囃子に乗せて舞を奉納。

→熊野地域の獅子頭伊勢大神楽の影響。伊勢神宮に参拝できない人に変わって神楽を奉納したため、「代神楽」とも呼ばれ、後世には伊勢の神札を配って歩いた。伊勢大神楽の演目には神事として悪魔祓いを行う「獅子舞」と「放下芸」と呼ばれる曲芸がある。(展示④)

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展示①古獅子の威風(最古級の獅子頭を紹介)

・野上八幡宮獅子頭

秋祭りで神輿行列の先頭を払いながら道中を練り歩いた獅子で、目尻が鋭く、上唇を厚く翻した中世の容貌を伝え、瞳に月彫の眼光を描く点に特徴あり。紀州藩初代・徳川頼宣が褒め称えたという記録が1648年作『八幡宮歴代記』に登場する。

紀州東照宮獅子頭

紀州東照宮で5月中旬の日曜日に行われる和歌祭の行列を先導した。黒漆に金箔を施し丸く大きい目が上を向いているのが特徴だ。和歌祭は徳川頼宣1622年に創始。2022年で400年を迎える。

・丹生都比売神社の獅子頭

高野山かつらぎ町上天野に鎮座する丹生都比売神社は「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定。神輿の渡御に従ったと考えられるが、どのような様式で祭に加わったのか不明。獅子頭としては大きいものなので、肩に担ぐか複数人で運んだのかもしれない。

 

展示②祭りにおける獅子

・顯國神社の三面獅子

醤油のまち・湯浅町湯浅の氏神・顯國神社の夏祭り(7月18日)と秋祭り(10月)に奉納される。オニ・ワニ・獅子の三面が登場。神輿の渡御行列を先導する他、御渡りの沿道や御旅所において獅子がオニ・ワニと歯噛みしながら対決。1726銘の古面あり。

その他

 

展示③獅子頭の制作

木の獅子型に和紙を貼り合わせ、型抜きをした後、胡粉てふん)や漆で素地を作り、目玉や耳、牙、髪の毛など様々な装飾を施して完成させる。紙製獅子頭の材料には木材の切れ端や古紙が用いられ、木製の頭より軽く安価に作られる。

→「宇津」と「権九郎」の2つのパターンが主流の獅子頭和歌山県でも主にこの2つの獅子頭である。これらのパターンの発祥は不明だが、江戸後期から明治時代にかけて東海系の獅子頭が元になっているという説があり、2種を総称して「名古屋型」と呼ばれる場合もある。(展示⑤)

宇津型:額が丘のように盛り上がり、太く眉毛彫りが施され、黒や金に塗り分けられている。眉毛と目の境目は一直線で、強い睨みの表情を表現しており、耳の下部にも巻毛が顎のあたりまで複数彫り込まれている。歯噛みは前歯が平滑りだが、犬歯より奥歯にかけてギザギザした噛み合わせになっている。

権九郎型:額が丸くて平滑で、3本の横しわがあり、その上部から後部にかけて縦しまが薄彫りされている。彫りや巻き毛は端的な表現で、眉が黒い一本眉である。耳下とこめかみあたりに3つの巻き毛が彫られている。歯噛みは前歯から奥歯まで平滑りである。

 

*その他、獅子舞ランキングの投票箱と映像コーナーも設置。

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 和歌山市民図書館での資料の検索

和歌山県民俗芸能保存協会『和歌山県の祭りと民俗』東方出版 2021年

和歌山県の各地に点在する獅子舞の整理

・県北部に位置する海南町・加茂谷の獅子舞は胴幕に5~7人の青年。

・藤白神社の獅子舞は熊野信仰との関わりが深い。獅子が洞窟から出て花や蝶とたわむれるが、やがて寝入ってしまったところに天狗に扮する猿田彦が現れて獅子と戦う。前半は「蚤取り」「寝舞」後半は興奮した状態である「たかなり」など。

・県中部の日高郡由良町宇佐八幡宮日高町の志賀王子神社の秋祭り「継ぎ獅子」は「たかなり」とも共通するスタイル。

・「継ぎ獅子」の最たるものは広川町の広八幡宮の祭礼に奉納される乙田の獅子舞。

・この演技が大きくなったものが和歌山市木ノ本や加太に伝わる「梯子獅子」

・以上の演技が大きい獅子に共通するのが紙胎に漆を塗った獅子頭の使用。これは、香川県兵庫県などの瀬戸内海に見られる文化

・県中部の有田郡や日高郡は動きの少ない獅子で、観客をあまり意識しない神事芸能。有田郡ではオニ・ワニという2人の鬼と獅子が絡む、これを「三面獅子」と呼ぶ。日高郡では、「鬼獅子」「箱獅子」「頭屋獅子」「お頭」などと称される。中でも広八幡宮の獅子舞はオニ・ワニという2人の鬼と獅子に田楽が一体となり、古い芸能形式を伝える。中世の荘園鎮守社の祭礼では、都の祭礼に登場した王の舞、獅子、田楽の3つの芸能が一括で伝来しており、福井県若狭地方と似ている。ただし、広八幡宮の珍しい点はこれらが一場面で演じられること。

・県南部の東・西牟婁郡日高郡の獅子舞は「古座流」「伊勢流」と呼ばれる。伊勢太神楽の地域的展開と考えられる。笛・太鼓の囃子とともに、「幣の舞」「剣の舞」「神来舞(しぐるま)」「乱獅子」などの曲目あり。獅子あやしとしてササラを手にした子供の天狗も登場。江戸中期(享保年間)1716~36)に古座組大庄屋の中西孫左衛門が伊勢詣の際に見た獅子舞を習わせたのが始まり。捕鯨基地のあった古座浦から近隣へと伝わっていった。

 

○小山豊『紀州の祭と民俗』国書刊行会 1992年

紀南地方で神賑行事として、最も多いのが獅子舞である。日高地方に約100組、cにもそれぞれ7,80組ほど継承している。江戸時代から明治にかけてはおそらく各浦村に1つ以上あっただろう。現在の舞い方から推測すれば、紀南地方の獅子舞は江戸時代の初期から始まったと考えるべきであろう。

·古座川町三尾川八幡神社の獅子舞が約300年以前に古田から習った等の諸説あるが、有力説は江戸時代に古座組の大庄屋の中西孫左衛門が伊勢参りに行って獅子舞の芸人を連れ帰り、古座地方へ伝授したという説だ。このように江戸時代には専門家によって地方へ獅子舞が伝授されたという特徴がある。古座は獅子舞の先進地であり、ここを中心に近郷が習得して、或いは口·奥両熊野地方に伝授にいった。また、西牟婁·日高の一部では直接古座から習得せずに又習いした土地もある。

·また、西山口などで行われる悪魔払いの神事である踊獅子は、純然たる獅子神楽であり、神聖なる神の使いとして壮重な舞いは平安時代の舞学を彷彿せしめ、古代の獅子舞の原型を遺すものであろう。踊獅子は別名、鬼獅子、当屋獅子、重箱獅子、箱獅子、神楽獅子、唐獅子などとも呼ばれ、宮付きである。宮付きとは、神社に直属する当屋組で氏子各組が一年交代で当番となり、祭礼の主役となる。西山口のように一組が特権的に保持することもある。

 

○植木行宣 樋口昭『民俗文化の伝播と変容』岩田書院 2017年

A 橋本章「獅子舞の伝播と展開過程の検証-旧伊賀国の事例から-」

【獅子舞の起源に関する整理】

·獅子舞の展開は大陸からもたらされた伎楽舞楽系の芸能をその源泉とすると考えられてきた。

·二人立ちの獅子舞が伎楽舞楽系の系譜であり、一人立ちの獅子舞が風流踊りの趣向から発生したものとの整理を行った(山路興造 2010 171)

·二人立ちと一人立ちという獅子舞の大別を「獅子頭に特色づけられる扮装を指標とした表面的·便宜的なものであって、それに依拠する立論は問題外」と断じている(植木行宣 2009 117)

·獅子舞を含む芸能伝播のプロセスについて7つのモデルがある。

①古代国家の権力や大社寺の威勢を背景に地方伝播をみた芸能(舞楽系芸能)

②荘園制を背景として伝播した芸能(田楽踊·王の舞など)

③地方大寺院の創建により伝播した芸能(咒師芸能)

④下級宗教者の地方定着化により伝播した芸能(神楽など)

⑤中世後期の惣郷結合集団が自ら取り組んで発展させた芸能(風流系芸能)

⑥専業芸能者の回遊によって伝播した芸能(祝福芸能など)

⑦商業的舞台芸能の民俗芸能化(地方歌舞伎·地芝居など)

(山路興造 1984 185-200)

【伊勢·伊賀の獅子舞】

·伊賀一之宮である敢国(あえくに)神社の獅子舞奉納。慶長年間に藩主藤堂侯が復興して、享保年間に伊賀国内を巡奏した。

 

B 高嶋賢二「両手を出した大神楽-大神楽系獅子舞の受容と変容-」

大神楽獅子頭を奉じて諸国を廻り、各地で悪魔祓いや竈祓いなどの祈祷を行い、合わせて放下等の余興の芸を演じるもの。こうした大神楽は以前から三重県伊勢市周辺に伝承される御頭神事や、同県鈴鹿市稲生に伝承される伊奈冨神社の獅子舞などがその祖系と検討されてきた。(本田 1961 2, 堀田 1961 5)

京都の祇園社に従属する獅子舞座が、獅子頭を奉じて特定の舞い場で祈祷をして巡り、獅子舞や猿楽を演じたとする。(竹内 1978 59)

以上より、獅子舞の回壇という上演形態は遅くとも南北朝時代に遡れる。大神楽山伏神楽、番楽も含めた獅子神楽の発生·来歴の関してもそれらを含めた俯瞰的な視野で検討すべき(山路 2000 22)

祇園社獅子舞のみでなく中世後期における大社寺所属の獅子舞の共通する動向であり、近世の伊勢大神楽の全国的展開の地ならし役を果たした(植木行宣 2007 329)

大神楽の人の上に人が立つ技は正倉院の「墨絵弾弓」(正倉院事務所 1989 35)や『信西古楽図』(正宗 1927)などに「三人重立」「四人重立」として描かれ、古代における散楽に確認できる技。

伊奈冨神社は1280年銘の獅子頭を所蔵する。鎌倉時代から獅子舞の存在が確認できる古社である(吉田 1994 76)

同社の獅子神楽は3年に一度(丑 辰 未 戌年)に大宮、西宮、三大神、菩薩堂と称される4頭の獅子頭で舞われる。その舞は稲生流と称され、近世には伊勢国中を巡回したと伝えられる。(山中 1968 92)

その他近隣の椿大神社(山本流)、都波岐奈加神社(中戸流)、久久志弥神社(箕田流)の獅子舞も近しい内容で、伊奈冨神社の大祭に集結して獅子舞を行い四山の獅子舞と称する。

伊奈冨神社の獅子神楽大神楽との関係については、その舞いの近似性が依存より堀田吉雄などから指摘されてきたが、北川央がこの伊奈冨神社に実際に奉仕していたことを間接的に証明する文書を見出だしている。(北川 2000 118-152)

→1682年刊の『このころ』にも大神楽を「いのう」という村に習った記述がある。(中村他 1991a 86-87)

一人立ちに分類されてきた関東を中心に分布する三匹獅子舞や東北地方を中心に分布するシシ踊りは中世後期以降に隆盛する太鼓踊りの変形と見るべき芸能、獅子舞の範疇で考えるべきではないという指摘があり、近年は定着しつつある(山路 2006, 植木 2007)

→三匹獅子舞やシシ踊りをすべて省いても事例は僅少ながら一人立ちの獅子の事例が存在していることも事実ではある。

伊勢大神楽の鈴の舞の場合は、2人で演じているように見えるが、後ろの演者は顔をさらけ出しており、獅子を演じるというより胴衣を持つ補佐役にも見える。この場合は二人立ちか一人立ちかわからない。また、獅子頭は仮面にしては珍しく顔面に装着しないという特徴がある。顔面に装着しない獅子頭は「手で保持」と「頭上に固定」という系譜に二分される。大神楽の場合は、従来手で保持してきた獅子頭を、頭部に被って仮固定するという折衷方式でそれまでにない獅子の芸態生み出した。

「築城図屏風」(慶長年間 1596~1615に制作とも言われる)によれば、この第四扇に<大神楽形>で両手に剣を持った獅子と先端に器を継いだ棒を鼻先で立てる放下芸が並んで描かれており、大神楽の初出史料との指摘もされている(山路 2000 23~24)

2人立ち獅子舞が採り物を手にすること自体は<大神楽系>が初めてではない。東北にある山伏神楽や番楽にもみられる

権現舞には片手で獅子頭を操り、片手で胴衣を捌くような動きが散見される。

秋田県の「小滝のチョウチョウライロ舞」の前に舞う「十二段の舞」などにかほ市近辺では片手で獅子頭を支え、片手で刀剣等を持って舞う芸態がある。

・青森八戸市鮫の神楽が行う墓獅子では、片手で獅子頭を支え、片手で花や杓などを手にする。

→2人立ち獅子舞が初めて「手」を表現したもので、従来の獅子の表現の幅を広げるためだった。両手で採りものを持つ<大神楽形>はその延長上に生まれた。

大神楽の祖形とみられていた三重県伊勢市とその周辺で行われている御頭神事について。

伊勢大神楽の「剣の舞」について、「この舞は本来舞楽の「太平楽」から出たかと思われる。(中略)これを最も古く獅子神楽に採り入れたのが、山田産土神七社に属する神楽役人等で、御頭神事と称し、現在も行われている」(堀田吉雄 1969 14)

御頭神事には、代表的な「七起こし舞」とは別に、行事終盤で獅子頭をかぶって刀剣を持った舞を行う事例が見られる。諸史料から伊勢大神楽より古い16世紀前半まで遡ることができる。伊勢神宮周辺地域で伝承されてきた御頭神事がその祖形であるというのに無理はない。

御頭神事は御頭を神聖視する信仰と火祭りが深く関わる神事で、「太平楽」(太刀舞)以外は伊勢代神楽の内容とあまりにもかけ離れている。ただし、太刀舞では御頭神事当初からの角に布団をあてがったり外したりして舞うことから、胴衣越しに刀剣を持って舞う大神楽形の芸態が後に新しく導入されたと考えられる。

 

ps. 2021年5月19日追記

和歌山県内で見られる獅子と対峙するオニは、もしかすると日本の中で伝えられるいわゆる鬼よりも、より中国的なオニかもしれない。『礼記(らいき)』の表紙篇によれば、孔子の言葉として「殷人は神を尊び、民を率いて神に事へ、鬼を先にして礼を後にす」とある。すなわち、ここでいう鬼は祖先を表す。

 

柳田國男・民俗学のその後、赤坂憲雄『東北学/もう一つの東北』を読んだ

東北学という考え方について最近興味を持っており、赤坂憲雄著『東北学/もう一つの東北』(講談社学術文庫, 2014年)という本を読んだ。

 

民俗学の始まりは柳田國男の「学問によっていかに民を救い、世を立て直すか」という志だった。それは経世済民(世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと)の志であり、他界願望を伴ったものであった。上からの学問としてではなく、下からの学問として、「私」的であり「野」的な学問であったのだ。この学問成立の背景には地域社会の解体や再編があった。その中で「ひとつの日本」像とはなんなのかを描き出す試みだったのだ。

 

柳田國男の学問的な領域を時間と空間から考えてみる。時間的には応仁の乱以降の世界を対象としており、民俗学が遡行できるのはその時代までであると述べている。これは西日本を中心として見た考え方であり、縄文時代以来の暮らしが断片的に現れる東北を中心とした眼差しではなかった。また、空間的には沖縄から東北までを対象としており、その中で「ひとつの日本」を描き出す試みが行われたのだ。現在の民俗学における課題とは、柳田國男が創り出した型にはめられた民俗学をいかに超えていくかということ。つまり「ひとつの日本」から「いくつもの日本」へと変容を試み、いま、そこにある村の現実をすくい取る言葉や方法を考えねばならない。1926年の山人論の挫折や、1934年の「民族伝承論」の中の「単一民族、単一文化」と1961年の「海上の道」の矛盾などからして、民俗学をさらに前に推し進めるにはなくてはならないのだ。

 

民俗学の手法は近代の表層に目を向けるのではなく、原始・未開の層を掘り当てるという「垂氷(つらら)モデル」というもの。これは柳田國男の考えに対して、鶴見和子さんが名付けたもので、古代、中世、近世、近代と分ける「階級モデル」と異なる時代認識である。つまり新しいものの中にも古いものはあり、古いものの中にも新しいものがある。歴史の大きな流れとは違って、民衆の歴史は変化が緩やかであるというわけだ。この考えを推し進める鍵となるのは内発的発展である。漂泊者の目線で物事を見るのではなく、自らが内なる原始人に気づかねばならない。この内発的発展のために必要なのは、内に閉じ深く掘り下げるのではなく、逆説的な話になるが漂白と定住の絶えざる相互作用である。つまり、地域に定住する者が漂白する者と交流することで見えてくるものがあるというわけだ。

 

また、楕円の民俗学という考えがある。これは中心ー周辺の関係を超えた、中心が複数存在するような伸縮自在な思考世界である。ナショナリズムと辺境という分け方にも課題があり、辺境はナショナリズム成立のために回収されてしまう考え方だ。それゆえ、辺境の捉え方を変えねばならない。従来の辺境としての東北は「権力や国家に抗う社会の幻影」だった。これを「自らの土地が異族や異国と境を接する最前線」と読み替えることが必要なのだ。南北からの異民族の匂いを感じ取れる場所が東北という場所。東北学とは、東北を中心に対する辺境と考えるのではなく、東北にいくつかの中心に据えることで見えてくる物を新しい命題としようとしていることに新しさがある。

 

1万年の村が衰滅する時代に、報告されていない民俗との出会いという好奇なものを期待することはできない。そういう意味では、民俗学は危機である。ただし、このような言葉がある。「近代という時間が遅れたもの、非合理的なもの、負性を帯びたものとして暴力的に切り捨ててきた伝統的な知恵や技術や世界観の中に、未来を照らし出す手掛かりが埋もれている可能性はないだろうか?・・・伝統文化は単なる保存の対象ではない。まず、それが自らの現在を支えている、いわば社会・文化的な母胎であり、下半身であることを自覚しなければならない。」とのこと。今ここに焦点を合わせ、暴力的に切り捨ててきた伝統的なものに目を向けることで、民俗学が新しい学問として再出発できる可能性がある。

茨城県石岡市は獅子舞の民主化が進んでいる

茨城県石岡市の獅子舞に非常に興味を持っている。獅子舞が町で根付くということを考えた時に、この街には何か大きなヒントがあるように思える。なぜそう思ったのかについて、2021年4月17日に現地を訪れた感覚をもとに、3つのポイントを述べていきたい。

 

①聰社宮と中心となる祭りが存在する

日本全国様々な地域に「聰社宮(そうしゃぐう)」というのがある。これは神社を取りまとめる神社という意味で、石川県等では一宮などという名称もよく聞かれる。この総社を中心として、16町の獅子舞と山車が一気に行列をなす『石岡のおまつり』(例大祭)というのが毎年9月15日に行われる。このような取りまとめ役のお祭りがあるというのが1つのポイントだ。これは岩手県遠野市を訪れたときや、大槌町の事例を聞いたときにも感じたことだが、地域の中心的な磁場が働く場所があって、そこに自然と祭礼、祭り、行事の類いが集まってくる。石岡にはかつて国府が存在しており、国分寺もあった。そのような土地柄で中心地としての性格が強いのだろう。このような場所があると、獅子舞の各地区の個性がやや弱まっているようにも思えるが、文化の伝承力は強い。そのようなことをまず感じた。

 

獅子頭製作の民主化

お祭りがあれば当然、道具作りは欠かせない。その中でも獅子頭の伝承の仕組みには特筆すべきことがある。まずは、獅子頭を作る人がプロではないということだ。例えば石川県において獅子頭製作は分業制で行われており、1人のプロデューサーが作業行程ごとに職人に仕事を発注する仕組みで成り立っているため、獅子頭を1つ作るのに25人ほどの職人が関わっていると聞いたことがある。これは金沢を中心に漆器などの伝統工芸品の文化が花開いて、獅子頭製作にも繋がるようなスキルを持ったプロが集住しているという地域特性によるものだ。

しかし、石岡ではプロじゃない人もたくさん獅子頭を作っている。それに加え、地域資源として桐をはじめとした獅子頭を作るための原材料がある。そこで、大工やら箪笥職人やら指物(家具)職人やらが自分たちの仕事道具を使って獅子頭製作を始めた。江戸時代頃の文書には、誰が獅子頭を作っていたのかという名簿が載っている。獅子頭製作に必要な作業行程もメモ書きのような文章が残されており、それを見て次世代が技術を受け継いだ。工芸的価値は比較的劣るが、祭りの継承という意味では素晴らしいコミュニティ形成がなされている。そう考えると一長一短である。

獅子頭の発注金額を見ればその差は歴然で、石川県で獅子頭を買おうとすれば100万円は越えてしまうが、石岡であれば5万円くらいから手に入る。なぜこんなに安いのかと言えば、「石岡のおまつり」の際に、獅子頭のアンテナショップのようなものが臨時で出店されてポケットから出せるお金の範囲内で縁起物として獅子頭を買う個人客がいるからその人たち向けに安くしないといけないそうだ。ただしおまつり本番で使うものは丈夫に作るため和紙などを貼り、数十万円は少なくともかかるようである。あとは、石川県では獅子頭に漆を塗ることが多いが、石岡市では純粋な漆をあまり使わない。さらに石川県では古い獅子頭は一木造りが多いが、石岡市では重さを軽くする等の目的で寄木造りで行うという。そういう材料費的な観点でも、コストは少し安くなっているのかもしれない。

以上の獅子頭の話を聞かせてくれたのは、常陸獅子彫刻伝習館の方である。この伝習館こそが、現在石岡の獅子頭製作を担うコミュニティの中心的な存在だ。この他にもいくつか製作コミュニティは存在するらしいのだが、ここは県などに申請して伝統工芸品展に出品したり、NPO などの法人格を取得したりと組織がしっかりしている。伝習館では毎週土曜日13:00から16:30の日程で国府公民館にて獅子頭製作教室を開催。会員には市外の人も含まれ、年配の男性が多い。宇都宮から通っておられる人もいるようだ。総勢30名ほどの会員数とのこと。初期費用がかかり、会費は月2000円。獅子頭の木を7000円ほどで調達して、ノコギリなどの道具を揃えれば、ひとまず加入できるそうだ。まずは1年かけて1つの獅子頭を製作させることに集中する。

2,30年前からこの活動が始まったようで、現在取りまとめ役の獅子倉さんは、10年間で60頭もの獅子頭を製作された。作る獅子頭はお祭りに使うものだけでなく贈答用とか縁起をかついで飾る用もつくる。あとは個人の趣味として家に飾る額の中に平面的に獅子を彫るということもされていて、「これをやっているのは私だけでしょう」という話をされていた。確かに、そのような話は今まで聞いたことがなく、とても興味深く聞かせていただいた。獅子倉さんがこの伝習館に加入したきっかけは、退職後の趣味を見つけるためだったという。獅子を彫ることに楽しみを見い出したようだ。

③町の至るところに点在する獅子頭

獅子舞は市民みんなのもの。そのような想いを感じたのは、街をぶらぶら歩いているときだった。まずはJR 石岡駅に設置されている観光案内所には常に「石岡のおまつり」のパンフレットがあり、そこには各町の獅子舞の紹介が軽く行われている。常陸獅子彫刻伝習館のパンフレットもある。また、まち蔵藍というお店では、獅子頭を模したティッシュケースや、ミニチュアの獅子頭、本物の獅子頭等が販売されている。獅子頭のマンホールカードなるものも売っている。石岡のマンホールには獅子頭がデザインされていて、それをカードにもしたというわけだ。また、常陸風土記の丘には園内や石岡市内を見守るように高さ16メートルもある獅子頭の展望台がある。そして、その展望台内部には獅子舞の写真等が展示されているというわけだ。これ程までに石岡市は獅子舞にとても力を入れているのである。

 

・・・・・

石岡の獅子舞の由来

それにしても、なぜ石岡では獅子舞が人気なのか。その理由は紐解くのが非常に難しい。地域の図書館にある地誌や芸能史を読んでも、明治以降の話が多く石岡の獅子舞の発祥に関する話はあまり具体的に出てこない。石岡の獅子舞に関しての初見は、1854年の『香丸組御用届』に、「愛宕祭礼・・土はしは当年より定例大獅子」との記述がある。元々は行道の獅子としての悪魔祓いの意味が強く、民家を回ったり道路の魑魅魍魎(ちみもうりょう・お化けのこと)を呪圧したりするために行われたと言われる。舞う時に大口を開けるのは悪魔祓いのためである。冨田町のささらや土橋町の大獅子など様々な風流系の獅子が独自に祭りをやっていたものを、近代になってから聰社宮の例大祭に以降したと考えるのが自然だ。山車も富裕層の商人が後になって取り入れたものである。祭りをする必要性に迫られていた時代から、華やかさを競い合い観光要素が強くなる一方で元の意味が形骸化していく時代への流れは押さえておきたい。

 

石岡の獅子舞の特徴

獅子の特徴に関して触れるとすれば、石岡より北になるとささら系の獅子舞が増えるので、獅子舞文化圏における境目的な可能性もある。獅子頭のデザインを見ると眉が内側に向かってつりあがり、犬のような風貌にも見える。ギボウシ形の角(宝珠)がある獅子もあり、これは伊勢系の獅子であることの証と感じた。石岡では宝珠が仏教を、角が道教を表すと言われ、これをすなわち雄雌と呼ぶところもある。たまに髭がついている獅子もいる。ただ、基本的には角なし髭なしの雌獅子が多いように思う。石岡市内には、20以上の町で獅子舞が現在伝承されているようだ。

 

茨城県の芸能の起源

1890年秋に、高萩市向原古墳において、 6世紀後半のものと思われる埴輪が発見された。「大耳の男(笑う男)」と名付けられ、表情のある埴輪として注目されたのだ。伎人か楽人を模したと言われ、中央である大和政権との結びつきを感じさせる。また、1966年に勝田市鉾ノ古墳から6世紀後半の「踊る埴輪」が発見された。左手を上に右手を下に下げた格好である。この発見により、この時期には既に芸能を司る女性がこの地にいたことが判明している。

 

参考文献

茨城文化団体連合,『茨城の芸能史』, 1977年

常陸總社例大祭文化財指定検討協議会,『常陸總社例大祭 (石岡のおまつり) の歴史と現況 : 石岡のおまつり歴史実態調査報告書』, 石岡市, 2020年

【2021年4月】石川県加賀市 獅子舞取材 山中温泉

2021年4月9日〜10日に、写真集『我らが守り神 石川県加賀市獅子頭たち』の配布や今年度以降の獅子舞取材の計画を練るため、石川県加賀市に滞在した。その中で、10日に山中温泉の獅子舞に関して、追加取材をさせていただいたのでご報告する。

 

送迎は山口美幸さん。案内人はムラタフォトスの村田和人さんで、山中温泉の獅子舞について追加で様々な場所をご案内いただいた。村田さんは、まず山中漆器の職人である清水郁男さんを紹介してくださった。清水さんは、今の山中温泉の獅子舞を運営する青年団が、温泉を中心に4つに分かれていた時代をご存知とのこと。昔の山中温泉の獅子舞はどのように実施されていたのだろうか。

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photo by 村田さん

 

まずは、大正の頃には山中温泉総湯を中心に以下の3つの団体に分かれていたそうだ。なぜか4方位ではなく西と北が一緒に作られて、西北団と呼ばれていたそうだ。

西北団(西・北)

東志団(東)

南友団(南)

 

それから西北団の一部が、北の桂木団ができた。桂木団の一帯には外来の人が住んでおり、小学校ができたこともあり、担い手が多かったのが背景である。木が剥き出しの獅子頭を使い、棒振りが2人いた。これで、東西南北の4つの獅子舞運営団体ができたのだ。(※この獅子舞は山中温泉中田町や長谷田町のものとは異なる)

桂木団(北)

西北団(西)

東志団(東)

南友団(南)

 

これら4団体合わせて約100人の男女が所属する大所帯だった。学校が男女共学でなかった時もあったので、青年団は男女が交流する貴重な場でもあった。当時は車を持っている人がいなかったので、バス旅行もした。山中で初めてベンツを買ったのは「熊吉」らしい。

 

幹部、準幹部は25歳までの若者が務めた。大学に行って帰ってくると青年団に馴染めなかい人もいたが、そもそも大学に行く人が少ない時代だったので、青年団に加入する人が多かった。

 

いつ頃からか、4つの団体を束ねる連合青年団ができ、運動会もするようになった。青年団の2大イベントが春の運動会(昔は仏様の祭りだったかもしれない)と秋の獅子舞の祭りだった。小学校の学芸会で獅子舞もしていた。一番財政が良かったのが、大聖寺川に旅館やゲーセン(芸者?)が並んでいた東志団。お酒は1回の祭りで120本ももらうので、それを一部旅館などに半額で売って(アトオキとして)運営資金に変えた。一部は交流費に使った。

 

各団体共通で「4つ」と「8つ」という舞いを演じることができた。4つは一番安い舞い。8つになると高価で、少し長い舞いを行なった。ただ、それ以外に各4団体はそれぞれ1つだけ独自の舞いを持っていた。南友団が眠り(芸者由来?)で、桂木団が棒振り2人で行う舞い(他の団体は棒振りが1人)で、東志団は四国の金毘羅由来の太鼓が出てくる舞いだった。以上合計3つの舞いを各団体それぞれが持っていた。東町一丁目(東志団?)などには、子供獅子もあった。5,6人のグループができて、青年団の人に教えてもらっていた。子供獅子は当然小さい頭を使った。子供獅子かはわからないが、一部の獅子頭は山中産業という会社の倉庫に今でも保管されているようだ。

 

山中青年団はこの後、この4つの団体が再び1つに吸収された。人数が一時少なくなったということもある。その背景としては、大学進学率が増えて、少子化の影響もあった。

 

しかし、今は再び青年団が増えつつある。リーダーの力量が大きいようで、楽しい雰囲気を作るのが上手なのかも知れない。今は春の祭りはなくなり、秋のこいこい祭りのみになっている。こいこい祭りは、山中が加賀市になってから片山津や山代に負けない祭りを作ろうということで作られた。山中町から加賀市になった時に、青年団の団室がアパートに一室になった。祭りには獅子舞以外にもグループもあるので、青年会館や公民館など良いところには入るのは難しかった。今は舞いは眠りから始まる。角がある獅子頭は雄獅子、角がないのが雌獅子。今は、獅子舞を行うときだけ3グループに分かれ、最後に5体の獅子が一堂に会しとても華やかである。神輿もやるようになった。3グループに分かれるとはいえ、お酒やご祝儀など集めたものは、最後に一括で山中青年団として保管する。5体の獅子頭青年団のアパートの一室に保管されている。コロナ禍では、祭りまでは無理だけど、子供の獅子頭との記念撮影の会が開かれたらしい(村田さん談)。

 

山中漆器の塗り職人さんということで、「獅子頭の塗りはされるのですか?」と伺ってみたところ、白木のものを塗ったという話は聞いたことがあるとのこと。しかし、あまり頻繁にやっているようではないらしい。最後に、仕事場を見学させていただいた。ハケが一本10万円と聞いて驚愕の値段だったが、これ一本あれば20年は持つようだ。

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 photo by 村田さん

 

この清水さんの取材の後は、新名留さん作の山中温泉東町に寄付された飾り獅子を見た。山中には祭りに使わない飾り獅子もあることがわかった。町内のお祭りの日には展示が行われるそうだ。個人のものにしないで、公開しているのが素晴らしい。なんと白山市鶴来まで行って、弟子入りして職人につくり方を習って作ったそうだ。獅子頭は2体作ったそうで、1体はこの東町に寄付したもので、もう1体は東京のお孫さんに送ったとのこと。

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とても立派な獅子頭だ。模様が赤黒金でシンプルにまとめられている。木が分厚くて重く重厚感があるのが特徴である。村田さんが獅子頭に負担をかけないようにと配慮して、顎を外して置いているのが印象的だった。

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出っ張り顎バージョン。なかなか可愛らしい。

 

それから、過去に土木関連で使っていた倉庫に保管されている大獅子神輿の獅子を拝見した。とても大きな獅子だ。顔に奥行き感があり、江戸時代後期のかなり古い獅子頭を連想させ、敷地町や菅生町にも通じるようなデザインだと感じた。耳は顔の裏側に保管されている。牙が2つあり、鼻に穴が空いていないのが特徴だ。また、作られてから30年経っているので、髪の毛などの痛みも見られる。塗りはとても綺麗だ。角には紐がかけられており、鈴がたくさんついている。

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村田さんは山中温泉の駐車場ごとに、神輿の獅子をガラスケースに入れて、展示するという計画も進めておられる。駐車場ごとに獅子の名前をつけたら良いかもしれないとのこと。確かに、日常的に獅子に親しむきっかけとなるので、とても良いアイデアだと感じた。北國新聞にもコラムを書いておられた。→村田さんのブログ参照。

kazundo.exblog.jp

 

今回も山中温泉の獅子の取材、写真集の手渡し、今後の獅子舞取材の会議と、とっても充実した滞在となった。今年度の獅子舞取材の展開については、また後ほど書かせていただくこととする。とても面白い取り組みができそうで楽しみだ。