北飛騨地域の「金蔵獅子」の系譜を辿る、自然界との獣との対峙する里人の暮らしとは

4月13日(土)、北陸圏での獅子舞を探していた。そこでたまたま獅子魂というサイトで1週間前に更新された情報を確認していると、神通川流域の富山県岐阜県の県境付近3箇所(町長、楡原、岩稲)で獅子舞が開催されることがわかった。このうち、時間の関係で町長と楡原しか見られなかったが、この訪問を通じて、「金蔵獅子」という獅子舞の実態、北飛騨の獅子舞が富山県の獅子舞にもたらした影響がよりクリアにわかってきたので、ブログを更新しておきたい。

富山駅まで夜行バスで移動。そこからJRで楡原駅まで電車に乗っていった。市街地の風景から徐々に山を縫うような谷を進んでいくようになると、目的地はもうすぐだ。岐阜県境にも近い、富山県富山市の楡原駅に着いた。桜はまだしっかりと咲いており、エメラルドグリーンの川をボートが降っていく。そのボートの通り過ぎた滑らかな線が美しくて、ずっと眺めていたいと思った。さて、今回は太鼓音を頼りに獅子舞の場所を予測し、訪問していった。

楡原の獅子舞

楡原の獅子舞は電車に乗っているときにかすかに楡原八幡宮に人が集まっていることがわかったので、ここかもしれないとあたりをつけて、楡原八幡宮に8時50分ごろにたどり着いた。すると、8時から始まった獅子舞が依然としてまだ行われていた。ものすごく長い奉納演舞だなと思ったし、ずっと拝殿の中で行われていた。肩車をする所作や、蛇を咥えて振り回す所作など非常に興味深く、アクロバティックなものばかりだった。このアクロバティックさは伊勢大神楽三重県)や角兵衛獅子(新潟県)に通じる所作があると思った。そこから表お宮、上行寺まで付いて歩いた。

それから一度町長の獅子舞の方に移動してそれから戻って図書館に行って、15時前にたまたま楡原の獅子舞の太鼓音を聞いた。この周辺で演舞するようだ。小中学校が統合された場所でも獅子舞が舞われる場面があったが、意外と子どもの数が多くてびっくりした。子どもとアネマが対峙する激しい1人獅子がものすごく格好良かった。

町長の獅子舞

町永の獅子舞は町長八幡宮での演舞を11時から観ることができた。青いブルーシートを敷いて、その上に緑のシートやゴザを敷いてその上で演舞が行われていた。ブルーシートは写真写りで獅子頭に青みが出てしまうので、これはもったいない。おそらく獅子舞の時に履物を脱ぐのが一般的なので、そこで一番手軽なブルーシートが用いられることになったのだろう。

今回演じられた演目はキンゾウジシ、ヘビジシ、アネマジシの順番で3演目行われた。獅子は2頭で男獅子と女獅子のようである。キンゾウジシの時は男獅子。金蔵は苦戦を強いられるが、持っている槍で獅子を刺し、そして仕留めた獅子を縛り上げて、獅子頭を抱えて退場する。子どもだからこそ迫力はそこまでではなかったが、その分可愛らしさが感じられるような演舞だった。ヘビジシの時は女獅子。蛇を噛み踊り狂う所作は獅子にとって喜びの演舞だ。しかし、キンゾ、ササラ、カネスリが最後に槍で獅子を退治して引き摺り回して退場するという流れである。最後のアネマジシも女獅子だ。獅子が牡丹の花に戯れ、しまいに寝てしまう。それをオドリコが花束で叩き起こす仕草などがあった。

またそれぞれの演目が始まる前に、花笠を被った女の子が2人出てきてオドリコが行われた。11時に始まった町長八幡宮は50分も演じられ、それが終わったら、皆いなくなって、担い手たちは住吉神社への奉納をするべく、広々とした田んぼみちを通ってから山を登り始めた。それにしても田んぼのあぜ道の美しい姿が印象的である。地域の祭り見物客は車通りの多い道路の方よりも田んぼのあぜ道の方を積極的に通っていたのがどこか印象的だった。

金蔵と獅子

蛇を咥える獅子

アネマと獅子

祭りは獣のものでもある

町長の獅子舞を観に行った際に、地域の重役さんか何かが「あそこに動物がいるよ」と教えてくれた。たぬきか穴熊の類だろう。水路からひょこっと顔を出して、太鼓の音がする方向を眺めていたが、僕らの存在に気づいたのか、水路の下に頭を引っ込めるようにして出てこなくなってしまった。このように、祭りは人間だけのためのものではなく、そこに生きる野生生物にとっても大事な存在なのかもしれないと思った。また少し歩くと、大きな一軒家の庭木に猿が登っていて、その木の花をむしゃむしゃと食べまくっていた。くちなしの木の花のような花びらだった。自分もサルと目を合わせながらも、ひらひらと舞い降りてきた花を食べてみたが、苦かった。猿と会話できた気がした。獣との対話が進む場所、山に囲まれた谷間に、自然と人間とのささやかな接触があった。それから細入図書館でこれらの獅子舞の理解を深めるべく、いろいろ調べてみた。

金蔵獅子とは何か?

改めて金蔵獅子とは何かについて考えていきたい。

槍で獅子を討ち取る主役を金蔵ということから、「金蔵獅子」と言われている。獅子あやしが多様なことが特徴で、槍を持つキンゾ、狩衣・烏帽子に日の丸の扇子を持つサンパサ、大黒頭巾や花笠を被った二人組で簓やスリガネを持つササラ、花笠を被ったオドリコなどが登場する。

金蔵獅子はもともと、伊勢大神楽の熱田派系が北飛騨で取り入れられて、獅子を討ち取るという演目に独自の発展を遂げたものである。今回訪問した地域一円の獅子舞のハブは、小羽地区の小羽、葛原あたりだろう。そこから習ったという場合が多い。この2つの村は村境に八幡社があり、共通の氏神として祀っており、4月の春祭りで両村から獅子舞が出る。この獅子舞は明治初年に飛騨の広瀬村(現国府村)から伝習したものであり、20人ほどの若者が荷車に米俵と釜をつけて習いに行ったと言われている。また飛騨から直接入ったと伝わるのが東猪谷や楡原であり、これは近世末まで歴史が遡る可能性がある。

金蔵獅子の基本演目

金蔵獅子には、キンゾ(金蔵獅子)、カグラジシ(神楽獅子)、ヘンべ(蛇獅子)、キョクジシ(曲獅子)の4つの基本演目がある。金蔵獅子は激しい獅子舞なので、獅子頭は小さいという特徴がある。金蔵獅子は昔のものほど目が大きくて彫りがシンプルで俗に猫獅子と呼ばれることがある。越中金蔵獅子は、飛騨の金蔵獅子とも少し異なる顔立ちである。また、祭礼行列の最前列に五色の流れ旗を立てる。

御幣を持って舞うカグラジシが本来の伊勢大神楽のお祓いの演目だ。一方でキョクジシは後足役の上に前足役が乗って高く見せるタケツギや、後足役と前足役が抱え合って宙返りをする胴返しや逆抱きなどのアクロバティックな所作もあり、これは観客を楽しませるための演目だろう。

鳥毛の分布は村境意識からくる?

キンゾは金蔵が槍で獅子を討ち取ることが特徴的だが、山で熊や猪を獲る生業の中から生まれた形態とも言われる。金蔵は鳥毛(キジの羽)をつけていることもあり、これは飛騨地方の民俗芸能であり、祭礼の時に輪になって鉦を打つ「鳥毛打ち」から来ている造形だ。この鳥毛が見られるのは、富山県内だと岐阜県境近くに限られており、今回、楡原には見られなかったが、町長では見られた。これはある種、「鳥毛」の境界があったのかもしれない

生きることと殺されることの連鎖

またヘンべは獅子が蛇を探し出して食うことが特徴的であり、猪の所作を表しているとも言われている(「蛇を楽しませる」と言う地域もあるため、その意味は一様でない)。ヘンベは北飛騨方言で蛇を意味しており、西日本各地の「餌取り系」の獅子舞の一種である。蛇を捉える猪、そしてそれを捉える人間。この食物連鎖か、はたまた弱肉強食の世界とも言うべきか。生き物の関わり合いの連鎖を表現するこのヘンベの獅子舞は非常に面白い要素を含んでいる。

 

参考文献

大沢野町史編さん委員会『大沢野町史』平成17年2月

農業らしい腰の動き「干し物獅子」、埼玉県川越市「石田の獅子舞」から考える環境適合型の獅子舞

環境の影響を受けて所作を形成する獅子舞がある。そういう獅子舞に強く惹かれる自分がいる。そこの土地で継承されるべくして継承されている存在。だからこそ大きな価値を感じるのだ。2024年4月7日、埼玉県川越市の市指定無形民俗文化財・石田の獅子舞を取材するため、藤宮神社を訪れた。その様子を振り返っていこう。

藤宮神社では毎年4月の第日曜日に、春祈祷の獅子舞が行われる。これは五穀豊穣と大きく結びついた農村の獅子舞である。10時に開始して、15時まで実施する流れであるとネットで見かけたので、随分と余裕のある日程だと思って川越市駅から1時間歩いて神社に向かった。着いてみると境内の各所に日程表が貼ってあり、日程のほとんどがお囃子団体の演奏だったことが判明。14時から14時40分だけが石田の獅子舞だということがわかった。神社に到着したのが13時半ごろだったので、奇跡的に時間がマッチして観ることができた。観ることができて本当に良かった。

役柄は舞い手3人(大獅子・女獅子・小獅子)、導き役の山の神(「蠅追(はいおい)」とも言う)1人、花笠をかぶるササラッコ4人、笛吹き多数(5~6人)となっている。山の神は蠅追という名前があるのが面白い。獅子舞と山の神、あるいは蠅追のコラボはよく見られるので、そういう文化の一端であることを思わせる。山の神の衣装には獅子の刺繍が金色に輝いていた。

演目は1庭形式であり、途切れることなく入場から退場までは一続きの演舞となっている。鳥居前から始まり、広場で舞い始め、「出端(デハ)」となって舞い終わり、拝殿前で礼をして終わるという流れである。全体で40分ほどだった。途中、「思いもよらぬ朝霧がおりて」と始まり、2頭の雄獅子が争う雌獅子隠しの演目が始まる。2会の喧嘩が行われ、はじめは大獅子が勝つが、2回目は小獅子が勝つという流れだった。

面白いと思ったのが、まず褒めの言葉と返しの言葉があることである。褒め言葉は「東西東西」から始まる。これを聞いた途端に、石川県や富山県に伝わる加賀獅子の口上を思い出した。東西東西の口上は全国的なものであるのかもしれない。もともとは相撲や歌舞伎などで、「東から西までお静まりなさい」という注目を喚起する声かけであったとも言われている。それはそうとこの褒め言葉、いろいろなものを褒めまわしていた。獅子は龍頭で戸隠大権現の姿のようだとか、山に例えるなら北は日光山、西は富士の山、東は筑波山、南は箱根八里の大江山だと声を張る。また、笛の音が澄んでいて美しいなどと言う。最後に「ホホ敬って申す」で締める。それに対して返し言葉はその褒め言葉に対して比較的短く、御礼を申し上げるような内容だ。この褒め言葉は獅子舞の担い手以外が行い、それに対して返し言葉は獅子舞の担い手が行う。元来、このやり取りは即興で行われたものだが、そこにサクラが現れてさも即興のように見せるようになり、そして現在のように原稿を読む形式張った形になったと考えられる。即興性の面白さは現在感じることはできないが、伝統を受け継ぐことはこのように徐々に簡易的になっていくものだと改めて実感する。そしてなぜ褒め言葉があるのかを考えるときに、褒めの語源は「穂」にあるという説もあり、褒めることが大地の豊穣へとつながっていったのではと推測する。素晴らしい作物や獲物への期待が褒めと言う予祝を生んでいると考えることもできるかもしれない。

また、最も興味を惹かれたのが「干し物獅子」と呼ばれる舞い方の特徴があることだ。藤宮神社は農業と関係が深いため、獅子舞はその神様に奉納するものであるから「干し物」をするように舞うのだという。実際にその動きを見ると、元気がよく、動作が活発で荒い。これが農家の干し物に対する身体性のようだ。川越市ホームページ(2024年4月7日アクセス)によれば、「むしろの上に麦や米を広げて干すように、腰を低くかがめて荒々しく舞う」とある。また、雑談ではあるが7月22日に行われる石田本郷の獅子は「田の草獅子」と呼ばれており、田の草取りの格好が多いことからこう呼ばれるようになったのだと言う。

この石田の獅子舞の始まりは定かではない。ただし、獅子頭が納められた道具箱に「天明乙巳年四月吉日扱之 武州入間郡川越領石田村惣若者中 世話人」と書かれている。江戸時代の天明年間には獅子舞が行われていたことがうかがえる。

それにしても舞い方や所作に奥深いストーリーのある獅子舞を見ることができて本当に良かった。15時前に神社を後にして、川越の商店街を抜けて、川越駅から帰路に着いた。

<参考文献>

川越市川越市史民俗編』昭和43年3月

石川博司『石田の獅子舞を訪ねる』多摩獅子の会, 平成19年5月

川越市ホームページ(2024年4月7日アクセス)

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/kurashi/bunkakyoyo/bunkazai/shiteibunkazai/shishiteibunkazai/ishida.html

川越市立博物館『川越市立博物館だより第27 41号 1999-2004』平成16年3月

 

 

獅子頭制作10日目

茨城県石岡市での獅子頭づくりは、今日で10日目。10日目にして分かったことがある。師匠である獅子頭職人は全体的な形をイメージしながら、そのバランスで部分的なパーツを彫っているという感覚がすごすぎる。自分は今までなんとなくでやっていたのだけど、その何倍も先をいっていることがやっと分かってきた。

「眉上の高さと目の高さは同じくらいの位置で彫るのだけど、目の方が少し低い方が良い」という話をされ、そこから突貫工事が始まった。目を彫ってそこを基点に全ての配置を考えるという。それで眉上の高さが決まったら、頭のテッペンまでのカーブをそこから描いていく。緩やかすぎても急すぎてもいけなくて、そこの感覚値は教科書的なものがあるわけではなく「見て覚えるしかない」という。

今日は手が空いている3人の師匠が入れ替わり立ち替わり指導をしてくださった。全く指導の仕方が違うので、誰の意見を聞くかは最終的には自分次第になる。「みんなの良いところを盗んだら良いよ」と言ってくださるのがとてもありがたい。溝ができてしまったら、おがくずで埋めることで解決するのか、それとも全体的な切り崩しをして帳尻を合わせるのか。そこらへんの感覚に特に個性が現れるように思った。

そして、興味深いのはいつも電動機械に乗って見回りに来る先生と呼ばれる人物だ。師匠の師匠に当たる人だろうが、直接指導してもらったことはなく、いつも数分見回りのように来てくれて、そして帰っていく。途中、Youtubeを観て時間を使っている様子も見られる。どこか穏やかで他者を必要以上に気にしなくても良い環境がどこか心地よい。

そして、いつも石岡駅まで車で乗せていってくれる人もいる。この人は家の方向が反対側なのに、いつも大荷物の僕のことを考えて、駅まで送ってくださっているのだ。とてもありがたく、いつもぐちゃっとなった車の中に招き入れてくれ、半纏姿なのが印象的なお方である。

今日は子ども連れのお母さんもみにきて賑やかだった。獅子頭職人周りの人は面白い人ばかりで、同時に学びある人々なわけで、それが獅子頭作りを面白くしている要因かもしれない。

ps.肝心の獅子頭を彫り進めるのがスムーズにいかなくて、師匠たちに彫ってもらっていた。あまりにも進まないので、「獅子は病院に入院させな」と師匠のひとりが持って帰って少し進めてくださることになった。ありがたいことだし、自分ももっとスキルを上げねばと思った。やはり削る速度と滑らかさが圧倒的に課題のようにも感じている。

千葉県・東葛に潜む祭囃子の系譜

千葉県の松戸市には3匹獅子舞が、和名ヶ谷、上本郷、大橋の3箇所で継承されている。これは緻密な報告書が作成されており、比較的広く知られている。しかし、お囃子の獅子舞がいくつか存在することを知る人は多くない。

今回訪問したのは、松戸市の六実お囃子会。見学会が六実市民センターで4月4日(木)14時から16時まで行われた。流山市のおおたかのもりお囃子会の講師の先生が来て、教えてくれた。お囃子会には太鼓や鉦がメインで、獅子舞をする機会は少ないという。実際に今回は獅子舞は見せてもらうことは叶わず、ただ動画を見せてもらうことにとどまったものの、お囃子の節をいくつか教えてくださった。本物の太鼓ではなく、簡易的なものを使って行われた。このような練習用の太鼓があるとは知らなかった。安価に備品を仕入れて、多くの人に教えることができそうだ。

演目は狂い、じゃれ、餌を食べる、みかんを食べて吐き出す、巻物を咥えるなどの動きがある。獅子頭は浅草の宮本卯之助商店で作ってもらった。松戸駅の西口や子安神社のお祭りで舞ったことがある。お正月ただ、舞う機会は特に決まっているわけではない。

なぜ流山の人が六実に来て、お囃子を教えられるのか。それはお囃子が地域固有性よりはむしろ師匠→弟子の関係にも近い伝播性を持つからだと思う。お囃子の師匠によれば「葛西神社の何代目の宮司さんから神田明神に伝わり、そこから本土寺の黒門屋(漬物屋さん)に伝わり、そこから六実や流山にも伝播したと言われます。葛西から東葛は近いので、伝播もしやすかったのでは?」とのこと。

そこから移動して、先ほど紹介してもらった黒門屋に獅子舞の話を聞きに行った。正月に本土寺で2回、黒門屋、赤門、石井工務店、農家何軒か、という順番で門付けをしていた。しかしコロナを機に、やらなくなり、高齢化も合わさって現在はやっていない状況。また、節分の時はお囃子をやっているが、その時は獅子舞は出ない。なるほど、獅子舞はお囃子の他の楽器を操るよりも高度なのかもしれないと推測するが、なかなか伝承は難しいようである。それにしてもこの地域のお囃子系の獅子舞の古層が少し見えた気がする。

ps. 葛西神社のお囃子は江戸時代の享保年間、能勢環(のせたまき)という人物が広めたもので、これが江戸の祭り囃子の元祖と言われる。これが神田で将軍家などに上覧され、人気を博して農業の余暇にお囃子を習うものが続出した。

【クラファン応援】染め物の魅力を広めたい!獅子蚊帳職人がバックを制作、富山県高岡市 山本染業の挑戦

富山県高岡市で、染め工場「山本染業」の新しい挑戦が始まった。

創業115年の伝統的な染めの技術を生かしてカジュアルなトートバックを制作し、それをクラウドファンディングで販売しておられる。2024年3月22日から一ヶ月、クラウドファンディングに挑戦されておられる。

クラウドファンディング詳細

www.makuake.com

コロナ禍で挑戦!新しいグッズ制作の道

私は2024年1月、高岡市の山本染業を訪れて、簡単に染め工場のお話を伺った。その日に電話してすぐに直行という流れ。突然の訪問だったにも関わらず、受け入れてくださり、とてもありがたかった。「仕事が早く終わったんだ」とそこには獅子の蚊帳(胴体)が干されていた。

そう山本染業さんは獅子の蚊帳を作る職人さんなのだ。しかし、コロナ禍では大変な時期もあった。コロナ禍で獅子蚊帳を使う祭りの中止が続出した。そこで初めて3年前にクラウドファンディングで「伝統手染帆布のボディーバッグ」のプロジェクトを実施し、86万円越えの実績ができた。染めの技術はグッズ制作に生かすことができることに気づいたのだ。染物の魅力をいろんな方に知ってほしいとの想いで取り組んでいるという。日本全国の獅子舞に関わる職人さんは後継者不足や祭りの衰退などに悩んでいる方々も多いが、その希望の光にも思える。

縁起の良い模様「勝ち虫」

そして、2024年3月22日から始まった新しいクラウドファンディングの挑戦。今度はボディーバックではなく、トートバックだ。前回のプロジェクトでは、想像以上の反響があり、その中で「ポケットがあったら」「もっと大きいものが入れば」といった要望があったようで、トートバッグの制作を決意したという。

このバッグには「勝ち虫」という模様が入っている。そこに込められた想いは、後ろに下がらない「不退転の精神」である。勝ち虫とは「とんぼ」のことで前にしか進まない。それが戦国武将から好まれ、武具などにも装飾されてきた歴史がある。 そんな縁起のよい「勝ち虫」柄をトートバッグのアクセントで表現されている。

帆布は丈夫な綿生地で、使い込めばしなやかになり、味の出る生地だ。B5サイズのノート、A4サイズのフォルダ、手帳、スマホ、財布、名刺入れ等が入るという。

今回のクラウドファンディング、リターンはもちろんこのトートバック!

興味を持った方はぜひ応援していただきたい。

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新たなる獅子舞伝説!富山県魚津市「金山谷の獅子舞」、鉱山そして海外から舞いを導入

2024年3月17日(日)、富山県魚津市金山谷の獅子舞を訪れた。石川県に用事があり、その流れで訪れられる獅子舞を探していたところ、奇跡的に富山の東端、魚津市にて獅子舞を行う情報を得た。魚津市役所に問い合わせ、現地の人に確認してもらい、獅子舞がしっかり行われることを確認した。日程は12時から伝承館に始まり、村役の家などを数軒門付けして回って、神明社での演舞に終わる。「伝承館」がある地域は獅子舞に対して熱い想いを持っている地域が多いようにも思うので、個人的には期待値が高い。神明社での演舞は特に豪華で、13時に始まり、14時半まで次々と演目が披露された。

魚津駅からバスが走っていると思ったのだが、なんと日曜は休みらしい。それを知らずに1時間半かけて歩いて、現地に行くことになってしまった。タイムロスにより、現地に着いたのは12時20分ごろ。すでに獅子舞は始まってしまっていたらしい。道端を歩いていると車が次々と停まって衣装を着た担い手が出てきた。村役の門付けの途中のようだ。演目は1つで最後に「金貨一千万両、御酒肴は沢山…」というよく聞き慣れた北陸圏の口上を読み、次の家へと移動する流れを繰り返す。担い手はどうやら中学生から大人まで様々な年齢で、笛吹きには女性もいた。

13時からの神明社での舞いはとても感動的なものだったので、細かく振り返ろう。村祭りにも関わらず、市長や市議会議員が勢揃いして、司会進行役もいてテントも3つ貼ってあり、そして観光客も含めた人々が集った。この獅子舞は町のみならず、魚津市の宝になっているという印象だ。そもそも、市内に獅子舞団体は3つしかないから希少性が高く、人の集まりも集中的になる。さらに3月に実施する獅子舞というのは富山県内では珍しい。だから、富山のあちこちの人も駆けつける。そういう構造なのだろう。

演舞の前に市長さんや市議の挨拶、新入りの担い手の紹介をする。新入りは「〇〇の子どもの〇〇」という紹介のされ方をしており、後の演舞では「この舞いは親子共演です」みたいなアナウンスも入った。昨秋に取材した沖縄の操り獅子で親を敬うような担い手紹介があり、ここまで親と子どもを結びつける紹介があるもんかと思ったものだが、ここ金山谷でも見られた。地域だけでなく親子が繋がるのが、祭りという存在でもあることを再認識した。

演舞は非常に感動した。ねり振り、一足、七五三、バイ返し、二足、大天狗・小天狗、八ッ節、三崩し、よそ振り、一足、獅子殺しという11演目が行われた。

最後の獅子殺しの演舞は非常に感動して、動画を撮ってるスマホの手が震えた。アナウンサーは「獅子殺しは獅子を殺すのではなく、地域を守ってくれていた強い獅子に戻すために(神の使いである)天狗が考えた戦いを表現しています。荒ぶる獅子の魂を鎮めるために、天狗が獅子に挑む壮絶な対決をご覧ください」とのこと。実際の演舞は赤絨毯が敷かれた参道で、獅子がどんどん天狗に殺されそうになり動けなくて震えていく。それでも天狗に立ち向かう。最後は天狗が留めをさすのではなく、獅子の背中の上に乗って、肩車されながら、仲良く神明社の鳥居から外に出て終了となった。これぞ世界平和の精神と感じた。厄を内包しつつも、それと共存しながら諌め、否しながら、生きていく。それこそが人間の真の生き方なのだと確信した。

演舞が終了した後に保存会の方にお話を伺ってみた。「春の訪れを祝う舞」ですよとのこと。昔は結婚や出産などの祝い事があった時に家の前でまうこともあったようだが、近年は高齢者が増えてそのようなことがなくなっているという。担い手も高齢化は進んでいるが、中学生から獅子舞を実施している人もいて、若い人は中学2年生から実施しているという。親子で獅子舞に参加することで、若い人を取り込んでいるようだ。

また、オータルカカエタルとバツの役柄が大変特徴的である。オータルカカエタルはオカメがヒョットコを背負い、獅子舞が舞うところを先に箒で露払いをしておくという舞いだ。発音から推測するに、オータルは「おんぶ(背負う)」、カカエタルは「だっこ(抱える)」のことだろう。保存会の方ににあれは何を表現しているのか?と尋ねたところ、「起源は海外に戦争に行った兵隊が現地で習い覚えた舞いだ。オカメがヒョットコを背負うのが一人二役しているのが面白くて流行ったんだろう」とのこと。「海外がどこであるかは知らない。「南方」と聞いたのだが、台湾かどこかだろう」などというので、そこは謎に包まれている。近年は着ぐるみで何かが何かを抱っこするというものが見られ、確か格闘技イベントのブレイキングダウンでもそういう着ぐるみを着た選手が出場していたような覚えがあるが、今も昔も抱っこしたような様子がユーモアに繋がり、それを1人で操るということの面白みは普遍的なものなのだろう。

また、バツはたまに猫の手で背中を掻いているくらいで特に立っているだけである。たまに傘を刺していて、観客をその傘の中に入れてあげるなどの優しい一面も見られた。また、バツもオータルカカエタルも獅子舞経験者たちだ。獅子舞を演舞している時に、そのリズムに足を合わせるように乗っていたのが印象的だった。意外とノリノリなんだけど、みんな舞いの時に注目しない。そういうキャラクターなのかもしれない。

さて、金山谷の獅子舞の歴史にも触れておこう。この地名からもわかるように、ここは鉱山労働者と関わりのある町だったようである。獅子舞の始まりは明治15年(1882年)というから全国的には比較的新しい獅子舞だ。その伝来ストーリーは金山谷よりもさらに山手の河原波の人々が能登半島に仕事で出かけた時に現地で習った獅子舞を習い覚えたということのようだ。能登半島から河原波、そして金山谷へと次々に伝播したわけだ。他の地域も同じくらいの時期に河原波から習ったところがいくつかあり、河原波は獅子舞伝播のハブとなった地域のようである。河原波とは江戸時代から金山開発が進んだ場所だ。そして鉱山労働者は出稼ぎの民であり、獅子舞を伝播する民でもあったようだ。ちなみに金山谷の地名の由来は川で砂金が採れたことにあるという。

参考文献
魚津市役所『魚津市史 下巻 近代のひかり』昭和47年3月、巧玄社

【2024年12月】石川県加賀市 獅子舞取材 中代町(追加)

石川県加賀市中代町の獅子舞を取材した。以前、獅子頭の撮影と取材をさせていただいたが、それから日にちが経ってちょうど祭りの日にかぶる形で加賀市に滞在する予定ができたので、今回取材する流れとなった。中代町の獅子舞を観るのは、これが初めてである。

中代町には農村の獅子舞が継承されており、獅子2人、太鼓2人という構成である。獅子の蚊帳に入る人は後ろの人は蚊帳の中に頭を入れずに外に出した状態で舞う。これは獅子の行動をどこか操っているようにも見えたし、一人獅子になる瞬間もある伊勢大神楽の形態をも想像させるような舞いだ。ただし、その動き自体は大聖寺の獅子舞に近く、太鼓はオオバエとコバエが存在する。

獅子舞は朝7時20分に町内の白山神社から始まり、その白山神社内の分社でも舞ってから、恵照寺と中代公民館でも行われた。ここまでの約1時間を取材した。ここからは町周りなどがあるようだが、午前中に終了するらしい。この日は「ニンブ」と呼ばれる町内清掃と同じ日に行われたため、公民館前では数多くの地域住民に見守られながらも獅子舞が展開された。公民館横の建物に仁王像やドラえもんが描かれていたのはなんかシュールで面白かった。絵が上手い方がこの小屋を使っているらしい。

高校生から25歳までが獅子舞の担い手になる。ただ現在は人手不足ということで、26歳の人もいて「名誉団長」と呼ばれている。それにしても総じて若い担い手によって受け継がれていることがわかった。演舞では時折、獅子にお酒を飲ませる仕草が見られた。また、太鼓を2本の棒に吊るして運んだりする姿が見られ、この運び方は珍しいと感じた。