日本最古級の獅子舞は田楽との結びつきが強かった?浅草三社祭の「びんざさら舞」を考察

柳田國男の『獅子舞考』を読んで以来、獅子舞と田楽の関わりについて気になっている。喜多村信節の『筠庭雑考(いんていざっこう)』では、田楽で舞う獅子舞について、西域亀茲国を経由して輸入したものだと述べているが、日本の獅子舞はこの田楽法師の漂白性に背中を押されるように日本全国に伝わったのではないかとも言われているのだ。今回は田楽と獅子舞との繋がりを知るべく、2021年5月15日に行われた三社祭にて見学した浅草神社(拝殿・神楽殿)のびんざさら舞(田楽の一種)から分かったことを以下に記す。

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ささら舞の様子(photo by Yukimasa Inamura)

びんざさら舞の流れについて

びんざさら舞はささら舞と獅子舞とで構成される。当日の流れとしては、11:00頃に拝殿にて獅子舞とささら舞の演舞を行い、その後、神楽殿にて11:30よりささら舞を再び演舞するという内容であった。神事・びんざさら舞は神官以外が行う唯一の神事であり、降神の儀の後に行われる。獅子舞とささら舞の演舞内容は以下の通りである(台東区教育委員会発行の神事びんざさら舞保存会のパンフレット及びびんざさら舞の司会者による説明を参考に記す)。

 

<獅子舞>

東西南北をそれぞれ向き、太鼓と笛に合わせてゆっくりと舞う。この舞を四方固めの舞とも言う。浅草神社のびんざさら舞はなんと日本で最も古い獅子舞の形態を今に伝えると言われ、京都の岩清水八幡宮と八坂神社に並ぶと言われている。獅子頭自体は新しく新調されているように見えたが、舞いに関しては最初期の獅子舞の形態を今に伝えるということだろう。雌の獅子頭は青色で白髪で毛深く、白い毛の付いた尾を持ち、頭には擬宝珠(ネギの花の形をした飾り)が乗っている。一方、雄の獅子頭は緑色で茶髪でやや薄毛であり、茶色の毛の付いた尾を持ち、頭には一角獣のような長い角が付いている。演目は以下の通りである。

①雌獅子舞:子孫繁栄と悪疫退散の祈願を込めて舞う

②雄獅子舞:家内安全と商売繁盛の祈願を込めて舞う

③雌雄獅子舞:子孫繁栄や夫婦和合を祈願する「つるみ舞(つるみの舞)」という

 

<ささら舞>

ささら3人(3挺)小太鼓2人(2個)で向かい合って笛に合わせて舞う。五穀豊穣を祈願する舞いで、似た舞形として奈良の春日大社紀州熊野那智大社、近江の日和大社、東北の毛越寺の4箇所に伝承されているという。

①種蒔:農耕の種蒔をする形

②肩揃:肩を揃えて田植えする形

③鶫間口:鶫(つぐみ・武蔵国における旧名は「鳥馬」)が害虫を捕らえ食う形

④蹴合:蹴り合う所作を3回した後に拝殿を一巡する、軍鶏が喧嘩をする所作で豊作の喜びや青春の跳躍を表す形

浅草神社におけるびんざさら舞の始まり

628(推古天皇36)年3月18日、宮戸川(今の隅田川)の河口付近を浅草浦と言い、そこで檜前浜成、竹成と言う漁民の兄弟が漁をしていたが、雑魚一匹獲れなかった。しかし、そうこうしているうちに、一寸八分(5.454cm)の金無垢の御神体が網の中に入ってきたという。それを土地の文化人である土師真仲知師に見ていただいたところ、聖観音像としてということでお祀りしたのが浅草寺の始まりとのこと。

この聖観音像出現時に、お祀りするために草庵造りをした。それを手伝った草刈童子(土地のお百姓)10人が、草庵の周りを踊ったのが、びんざさらの始まりとのこと。その時の子孫が今でもびんざさら舞を踊っているというわけだ。

三社様(浅草神社)の祭礼という形での始まりは、鎌倉時代後期のこと。1312(正和元)年、花園天皇の時代にご神託があり始まったと江戸時代後期の書物『東都歳時記』には書かれている(戸田茂睡による江戸時代前期の仮名草子『紫の一本』にも書かれている?)。また、装束や楽器の形態的に起源は室町時代のものが多いようで、網野宥俊『浅草神社の今昔』(浅草観光連盟 浅草文庫・1978年)によれば、「恐らくは室町時代以降と服装の上から考えられる」と書かれている。

江戸時代、びんざさら舞は祭礼日の3月17日・18日、6月15日に奉納されていたとのこと。3月は今とは違って、観音堂浅草寺本堂)の前で行われたようだ。明治時代の神仏分離令が出されるまでは浅草寺浅草神社は同一だったのだろう。また、当時の芸能従事者の地位は高く、獅子役の人々に1人5畝歩の畑地を御朱印地(年貢諸役を免除した土地のこと)として徳川家より下賜されたり(これに関しては獅子役の家系を引き継ぐ斎藤氏所有の1847年の文書が残っている)、装束を纏うと「従4位の下」の待遇を受けたとのこと。1956(昭和31)年11月に東京都から民俗無形文化財、2015(平成27)年に国の選択民俗無形文化財に指定されて、今に至る。

 

この浅草神社のびんざさら舞から読み取れるのは、恐らく日本文化伝播の中心地・京都よりびんざさら舞が伝わったという事実。そして、これらが推古天皇の時代に遡るほどに古い形態であるという事実だ。獅子舞が大陸から伝わったのが612年だから、たったの16年で京都から浅草まで伝播していた可能性がある。ただし、この推古天皇時代の628年という観音堂建立年に獅子舞がびんざさら舞に符合していたのかは更なる真相解明が必要である。また、この起源から鎌倉時代後期までの約700年が空白の時代であり、この大きな空白をどう考えるのかが肝になるだろう。鎌倉後期といえば日本の資本主義経済の起源とも言える時代であり、商業主義とともに神事が祭礼化された時代であるとも言える。この時代以降は実際に全国的にも獅子頭の現存数が極端に増えているし、祭りの中で獅子舞が行われる機会も多くなっただろう。しかし、それ以前は祭礼無くしてどの様に伝承できたのか。そこには大きな謎があるようにも思える。それにしても浅草は第二次世界大戦で戦火に遭っているので、獅子頭やら装束やらが皆新調されていて、舞は古いのに、道具は新しいというのがやや勿体無いような感じがする。それにしても、あのゆったりとした動きはまさに日本古来の舞であろうということは一目瞭然であった。今後も、空白の700年を中心に様々な調査をしていきたいと感じた。

 

Ps. 2021年6月7日追記

浅草神社に近い鳥越神社で昨日、鳥越祭りが行われたのだが、そこで登場する千貫御輿というかなり大きくて重い御輿が展示されており、その左右に獅子頭が配置されていた。その獅子頭は渦巻き模様が立体的で尖っていたことと黄金に輝いていたことは異なるとして、一角獣と擬宝珠という対になっていたのは浅草神社のびんざさら舞と共通しており、大変興味深かった。鳥越神社も浅草神社同様にかなり創建が古く、651年と言われている。古来の獅子舞の形式を今に伝える古社の1つだろう。ただし、鳥越神社においては現在獅子舞が行われていないようで、獅子頭が御輿庫の中で御輿の両端を守護するという形しか見られなかった。浅草神社と鳥越神社の獅子頭の関連性はまだ謎なので、今後の検討課題である。