和歌山県の獅子舞の多様さを知るー春季企画展「紀州の獅子と獅子頭」等ー

2021年4月25日、和歌山県和歌山市風土記の丘で開催されていた春季企画展「紀州の獅子と獅子頭」を見に行った。和歌山の獅子頭といえば、奈良や伊勢の獅子舞の影響を受ける古い形態があるかもしれないという期待感と、獅子頭に関する企画展はそう多くないので是非訪れたいと感じた。メモを以下に貼り付ける。

春季企画展「紀州の獅子と獅子頭

この企画展で知ったことは、和歌山の獅子舞というのは非常に多様性溢れると同時に伝来経路も多様であるということ。いくつか形態を分類されたものをご紹介したい。以下、展示パネルの説明を要約していく。

 

獅子舞の概要を紹介(説明パネル)

・獅子舞の本来の意味

獅子はみなぎる力の象徴で、姿や顔立ちによって外から入る魔を払うという意味、また、祭りや行事において移動する空間を祓い清めるという意地であるとのこと。それに対して獅子と戯れ、導き、あやし、戦うのが異形の者(天狗・鬼など)となっている。鬼は「オニ・ワニ」「オン・メン」などと鼻高面と鬼面の2つが登場する。

→古代の獅子について:元は7世紀に仏教とともに伝来。霊力があり悪を食べる信仰から寺院の法要において行列の道行を清める「行道」の獅子として定着。平安時代以後に神仏習合の考え方で都の神社祭礼においても獅子が行道するようになり、鎌倉時代以降に全国の神社に広がっていった。

→行道獅子:「行道」の別名は「お練り」。法会において僧侶が行列して参道や堂内を練り歩く儀礼。社寺の祭礼においては、獅子は神輿を先導し行列の道行きを祓い清める。基本的に2人立ちで囃子や舞はない。近世以前の神社祭礼における獅子のあり方を示す。(例:四天王寺聖霊会、野上八幡宮の獅子、丹生都比売神社の獅子、紀州東照宮の獅子など)

 

<獅子舞の種類>

・梯子獅子・継ぎ獅子

瀬戸内海沿岸、兵庫県和歌山県、愛知県、千葉県にかけて分布する。高い梯子の上に置いて激しく演舞して曲芸を披露する梯子芸のほか、肩に担ぎ上げたり乗せるなどして高くなる「継ぎ獅子」、「のみ取り」、「股ねずみ」、「寝獅子」など諸芸を披露する。

 

・加茂谷周辺の獅子

紀中の鬼獅子から派生し、海南市加茂谷周辺で展開したと考えられるものは、天狗と獅子で構成されて、神社の境内で奉納される。囃子方が奏でる笛や太鼓の囃子に乗せて天狗としい仏旗が絡み合う。獅子が天狗を威嚇する「たかなり」が特徴。獅子は4~5人立ちとも言われ、「むかで獅子」ともいう。

 

・鬼獅子(三面獅子・頭屋獅子)

鼻高(はるたか)と鬼(オニ・ワニ)、獅子、田楽などにより構成される。神社の境内や御旅所で演じられる神事芸能で、獅子が神輿を先導。オニとワニはささらと鉾をもち、神輿の前後を警護する。足踏みや歯噛みが特徴的な「踊り獅子」。有田郡・日高郡に分布しており、中世荘園の鎮守だった神社の祭礼に伝わる。(例:広八幡の田楽、顯國神社の三面獅子、内原王子の鬼獅子、土生八幡のお頭神事、印南八幡の重箱獅子など)

→広八幡宮の田楽:秋祭り(10月1日)で奉納される神事芸能で、10人の田楽衆が踊る中、オニ・ワニ、赤い胴幕の獅子が拝殿から登場して田楽衆の周囲をゆっくりと回りながら踊る。天災に見立てた獅子をオニ・ワニが鎮める。

 

・日高の舞獅子

瀬戸内地域に多い紙製獅子頭を用い、屋台の囃子に合わせた動きの激しい舞をする。獅子は2人立ちで、手を出して舞うことがない。中央に筵(むしろ)や敷物を広げ、四方を意識した舞をする。曲目は笛中心で固定した舞手が行う(由良祭の獅子舞、御坊祭の獅子舞、印南祭の、舞獅子)

→由良祭りの獅子舞:宇佐八幡社の祭礼で、毎年10月第3日曜日に開催に氏子9地区のうち6地区がそれぞれ屋型(獅子屋台)を出して競り合いや獅子舞を奉納する。このうち、横浜と阿戸の獅子舞は和歌山県の無形民俗文化財に指定されている。由良祭で用いられる獅子頭は、日高郡を中心に広く見られる和紙を貼り合わせた紙製の頭で、木製の頭よりも軽くて長時間の激しい演技に適している。

 

・熊野の獅子舞(伊勢流・古座流)

伊勢太神楽の影響を受けながら、熊野地域において独自に発展。木製の赤い獅子頭を使う。腕を出して鈴や幣などの採り物を持って舞う2人立ちの舞と、3~5人程度が入って激しく舞う「乱獅子」系統の舞がある。演目曲目ごとに舞手が変わる。小道具として牡丹の造花などをあしらった木を用い、獅子は花の美しさに見とれる。子供が天狗役で獅子と対決。※採り物を持ち静かで繊細な所作を見せる「しな獅子」と、荒々しい獅子の頭使いで舞う「あら獅子」があり、幼女による天狗の舞を含む13曲の舞が伝承されている。

→藤白の獅子舞:熊野五体王子の1つ、藤白神社の秋祭り(10月第2日曜)に行われる。獅子の穴に見立てた神社の拝殿から登場する「穴獅子」である。笛と太鼓の囃子に乗せて舞を奉納。

→熊野地域の獅子頭伊勢大神楽の影響。伊勢神宮に参拝できない人に変わって神楽を奉納したため、「代神楽」とも呼ばれ、後世には伊勢の神札を配って歩いた。伊勢大神楽の演目には神事として悪魔祓いを行う「獅子舞」と「放下芸」と呼ばれる曲芸がある。(展示④)

ーーーーーーー

展示①古獅子の威風(最古級の獅子頭を紹介)

・野上八幡宮獅子頭

秋祭りで神輿行列の先頭を払いながら道中を練り歩いた獅子で、目尻が鋭く、上唇を厚く翻した中世の容貌を伝え、瞳に月彫の眼光を描く点に特徴あり。紀州藩初代・徳川頼宣が褒め称えたという記録が1648年作『八幡宮歴代記』に登場する。

紀州東照宮獅子頭

紀州東照宮で5月中旬の日曜日に行われる和歌祭の行列を先導した。黒漆に金箔を施し丸く大きい目が上を向いているのが特徴だ。和歌祭は徳川頼宣1622年に創始。2022年で400年を迎える。

・丹生都比売神社の獅子頭

高野山かつらぎ町上天野に鎮座する丹生都比売神社は「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定。神輿の渡御に従ったと考えられるが、どのような様式で祭に加わったのか不明。獅子頭としては大きいものなので、肩に担ぐか複数人で運んだのかもしれない。

 

展示②祭りにおける獅子

・顯國神社の三面獅子

醤油のまち・湯浅町湯浅の氏神・顯國神社の夏祭り(7月18日)と秋祭り(10月)に奉納される。オニ・ワニ・獅子の三面が登場。神輿の渡御行列を先導する他、御渡りの沿道や御旅所において獅子がオニ・ワニと歯噛みしながら対決。1726銘の古面あり。

その他

 

展示③獅子頭の制作

木の獅子型に和紙を貼り合わせ、型抜きをした後、胡粉てふん)や漆で素地を作り、目玉や耳、牙、髪の毛など様々な装飾を施して完成させる。紙製獅子頭の材料には木材の切れ端や古紙が用いられ、木製の頭より軽く安価に作られる。

→「宇津」と「権九郎」の2つのパターンが主流の獅子頭和歌山県でも主にこの2つの獅子頭である。これらのパターンの発祥は不明だが、江戸後期から明治時代にかけて東海系の獅子頭が元になっているという説があり、2種を総称して「名古屋型」と呼ばれる場合もある。(展示⑤)

宇津型:額が丘のように盛り上がり、太く眉毛彫りが施され、黒や金に塗り分けられている。眉毛と目の境目は一直線で、強い睨みの表情を表現しており、耳の下部にも巻毛が顎のあたりまで複数彫り込まれている。歯噛みは前歯が平滑りだが、犬歯より奥歯にかけてギザギザした噛み合わせになっている。

権九郎型:額が丸くて平滑で、3本の横しわがあり、その上部から後部にかけて縦しまが薄彫りされている。彫りや巻き毛は端的な表現で、眉が黒い一本眉である。耳下とこめかみあたりに3つの巻き毛が彫られている。歯噛みは前歯から奥歯まで平滑りである。

 

*その他、獅子舞ランキングの投票箱と映像コーナーも設置。

ーーーーーーーーーー

 和歌山市民図書館での資料の検索

和歌山県民俗芸能保存協会『和歌山県の祭りと民俗』東方出版 2021年

和歌山県の各地に点在する獅子舞の整理

・県北部に位置する海南町・加茂谷の獅子舞は胴幕に5~7人の青年。

・藤白神社の獅子舞は熊野信仰との関わりが深い。獅子が洞窟から出て花や蝶とたわむれるが、やがて寝入ってしまったところに天狗に扮する猿田彦が現れて獅子と戦う。前半は「蚤取り」「寝舞」後半は興奮した状態である「たかなり」など。

・県中部の日高郡由良町宇佐八幡宮日高町の志賀王子神社の秋祭り「継ぎ獅子」は「たかなり」とも共通するスタイル。

・「継ぎ獅子」の最たるものは広川町の広八幡宮の祭礼に奉納される乙田の獅子舞。

・この演技が大きくなったものが和歌山市木ノ本や加太に伝わる「梯子獅子」

・以上の演技が大きい獅子に共通するのが紙胎に漆を塗った獅子頭の使用。これは、香川県兵庫県などの瀬戸内海に見られる文化

・県中部の有田郡や日高郡は動きの少ない獅子で、観客をあまり意識しない神事芸能。有田郡ではオニ・ワニという2人の鬼と獅子が絡む、これを「三面獅子」と呼ぶ。日高郡では、「鬼獅子」「箱獅子」「頭屋獅子」「お頭」などと称される。中でも広八幡宮の獅子舞はオニ・ワニという2人の鬼と獅子に田楽が一体となり、古い芸能形式を伝える。中世の荘園鎮守社の祭礼では、都の祭礼に登場した王の舞、獅子、田楽の3つの芸能が一括で伝来しており、福井県若狭地方と似ている。ただし、広八幡宮の珍しい点はこれらが一場面で演じられること。

・県南部の東・西牟婁郡日高郡の獅子舞は「古座流」「伊勢流」と呼ばれる。伊勢太神楽の地域的展開と考えられる。笛・太鼓の囃子とともに、「幣の舞」「剣の舞」「神来舞(しぐるま)」「乱獅子」などの曲目あり。獅子あやしとしてササラを手にした子供の天狗も登場。江戸中期(享保年間)1716~36)に古座組大庄屋の中西孫左衛門が伊勢詣の際に見た獅子舞を習わせたのが始まり。捕鯨基地のあった古座浦から近隣へと伝わっていった。

 

○小山豊『紀州の祭と民俗』国書刊行会 1992年

紀南地方で神賑行事として、最も多いのが獅子舞である。日高地方に約100組、cにもそれぞれ7,80組ほど継承している。江戸時代から明治にかけてはおそらく各浦村に1つ以上あっただろう。現在の舞い方から推測すれば、紀南地方の獅子舞は江戸時代の初期から始まったと考えるべきであろう。

·古座川町三尾川八幡神社の獅子舞が約300年以前に古田から習った等の諸説あるが、有力説は江戸時代に古座組の大庄屋の中西孫左衛門が伊勢参りに行って獅子舞の芸人を連れ帰り、古座地方へ伝授したという説だ。このように江戸時代には専門家によって地方へ獅子舞が伝授されたという特徴がある。古座は獅子舞の先進地であり、ここを中心に近郷が習得して、或いは口·奥両熊野地方に伝授にいった。また、西牟婁·日高の一部では直接古座から習得せずに又習いした土地もある。

·また、西山口などで行われる悪魔払いの神事である踊獅子は、純然たる獅子神楽であり、神聖なる神の使いとして壮重な舞いは平安時代の舞学を彷彿せしめ、古代の獅子舞の原型を遺すものであろう。踊獅子は別名、鬼獅子、当屋獅子、重箱獅子、箱獅子、神楽獅子、唐獅子などとも呼ばれ、宮付きである。宮付きとは、神社に直属する当屋組で氏子各組が一年交代で当番となり、祭礼の主役となる。西山口のように一組が特権的に保持することもある。

 

○植木行宣 樋口昭『民俗文化の伝播と変容』岩田書院 2017年

A 橋本章「獅子舞の伝播と展開過程の検証-旧伊賀国の事例から-」

【獅子舞の起源に関する整理】

·獅子舞の展開は大陸からもたらされた伎楽舞楽系の芸能をその源泉とすると考えられてきた。

·二人立ちの獅子舞が伎楽舞楽系の系譜であり、一人立ちの獅子舞が風流踊りの趣向から発生したものとの整理を行った(山路興造 2010 171)

·二人立ちと一人立ちという獅子舞の大別を「獅子頭に特色づけられる扮装を指標とした表面的·便宜的なものであって、それに依拠する立論は問題外」と断じている(植木行宣 2009 117)

·獅子舞を含む芸能伝播のプロセスについて7つのモデルがある。

①古代国家の権力や大社寺の威勢を背景に地方伝播をみた芸能(舞楽系芸能)

②荘園制を背景として伝播した芸能(田楽踊·王の舞など)

③地方大寺院の創建により伝播した芸能(咒師芸能)

④下級宗教者の地方定着化により伝播した芸能(神楽など)

⑤中世後期の惣郷結合集団が自ら取り組んで発展させた芸能(風流系芸能)

⑥専業芸能者の回遊によって伝播した芸能(祝福芸能など)

⑦商業的舞台芸能の民俗芸能化(地方歌舞伎·地芝居など)

(山路興造 1984 185-200)

【伊勢·伊賀の獅子舞】

·伊賀一之宮である敢国(あえくに)神社の獅子舞奉納。慶長年間に藩主藤堂侯が復興して、享保年間に伊賀国内を巡奏した。

 

B 高嶋賢二「両手を出した大神楽-大神楽系獅子舞の受容と変容-」

大神楽獅子頭を奉じて諸国を廻り、各地で悪魔祓いや竈祓いなどの祈祷を行い、合わせて放下等の余興の芸を演じるもの。こうした大神楽は以前から三重県伊勢市周辺に伝承される御頭神事や、同県鈴鹿市稲生に伝承される伊奈冨神社の獅子舞などがその祖系と検討されてきた。(本田 1961 2, 堀田 1961 5)

京都の祇園社に従属する獅子舞座が、獅子頭を奉じて特定の舞い場で祈祷をして巡り、獅子舞や猿楽を演じたとする。(竹内 1978 59)

以上より、獅子舞の回壇という上演形態は遅くとも南北朝時代に遡れる。大神楽山伏神楽、番楽も含めた獅子神楽の発生·来歴の関してもそれらを含めた俯瞰的な視野で検討すべき(山路 2000 22)

祇園社獅子舞のみでなく中世後期における大社寺所属の獅子舞の共通する動向であり、近世の伊勢大神楽の全国的展開の地ならし役を果たした(植木行宣 2007 329)

大神楽の人の上に人が立つ技は正倉院の「墨絵弾弓」(正倉院事務所 1989 35)や『信西古楽図』(正宗 1927)などに「三人重立」「四人重立」として描かれ、古代における散楽に確認できる技。

伊奈冨神社は1280年銘の獅子頭を所蔵する。鎌倉時代から獅子舞の存在が確認できる古社である(吉田 1994 76)

同社の獅子神楽は3年に一度(丑 辰 未 戌年)に大宮、西宮、三大神、菩薩堂と称される4頭の獅子頭で舞われる。その舞は稲生流と称され、近世には伊勢国中を巡回したと伝えられる。(山中 1968 92)

その他近隣の椿大神社(山本流)、都波岐奈加神社(中戸流)、久久志弥神社(箕田流)の獅子舞も近しい内容で、伊奈冨神社の大祭に集結して獅子舞を行い四山の獅子舞と称する。

伊奈冨神社の獅子神楽大神楽との関係については、その舞いの近似性が依存より堀田吉雄などから指摘されてきたが、北川央がこの伊奈冨神社に実際に奉仕していたことを間接的に証明する文書を見出だしている。(北川 2000 118-152)

→1682年刊の『このころ』にも大神楽を「いのう」という村に習った記述がある。(中村他 1991a 86-87)

一人立ちに分類されてきた関東を中心に分布する三匹獅子舞や東北地方を中心に分布するシシ踊りは中世後期以降に隆盛する太鼓踊りの変形と見るべき芸能、獅子舞の範疇で考えるべきではないという指摘があり、近年は定着しつつある(山路 2006, 植木 2007)

→三匹獅子舞やシシ踊りをすべて省いても事例は僅少ながら一人立ちの獅子の事例が存在していることも事実ではある。

伊勢大神楽の鈴の舞の場合は、2人で演じているように見えるが、後ろの演者は顔をさらけ出しており、獅子を演じるというより胴衣を持つ補佐役にも見える。この場合は二人立ちか一人立ちかわからない。また、獅子頭は仮面にしては珍しく顔面に装着しないという特徴がある。顔面に装着しない獅子頭は「手で保持」と「頭上に固定」という系譜に二分される。大神楽の場合は、従来手で保持してきた獅子頭を、頭部に被って仮固定するという折衷方式でそれまでにない獅子の芸態生み出した。

「築城図屏風」(慶長年間 1596~1615に制作とも言われる)によれば、この第四扇に<大神楽形>で両手に剣を持った獅子と先端に器を継いだ棒を鼻先で立てる放下芸が並んで描かれており、大神楽の初出史料との指摘もされている(山路 2000 23~24)

2人立ち獅子舞が採り物を手にすること自体は<大神楽系>が初めてではない。東北にある山伏神楽や番楽にもみられる

権現舞には片手で獅子頭を操り、片手で胴衣を捌くような動きが散見される。

秋田県の「小滝のチョウチョウライロ舞」の前に舞う「十二段の舞」などにかほ市近辺では片手で獅子頭を支え、片手で刀剣等を持って舞う芸態がある。

・青森八戸市鮫の神楽が行う墓獅子では、片手で獅子頭を支え、片手で花や杓などを手にする。

→2人立ち獅子舞が初めて「手」を表現したもので、従来の獅子の表現の幅を広げるためだった。両手で採りものを持つ<大神楽形>はその延長上に生まれた。

大神楽の祖形とみられていた三重県伊勢市とその周辺で行われている御頭神事について。

伊勢大神楽の「剣の舞」について、「この舞は本来舞楽の「太平楽」から出たかと思われる。(中略)これを最も古く獅子神楽に採り入れたのが、山田産土神七社に属する神楽役人等で、御頭神事と称し、現在も行われている」(堀田吉雄 1969 14)

御頭神事には、代表的な「七起こし舞」とは別に、行事終盤で獅子頭をかぶって刀剣を持った舞を行う事例が見られる。諸史料から伊勢大神楽より古い16世紀前半まで遡ることができる。伊勢神宮周辺地域で伝承されてきた御頭神事がその祖形であるというのに無理はない。

御頭神事は御頭を神聖視する信仰と火祭りが深く関わる神事で、「太平楽」(太刀舞)以外は伊勢代神楽の内容とあまりにもかけ離れている。ただし、太刀舞では御頭神事当初からの角に布団をあてがったり外したりして舞うことから、胴衣越しに刀剣を持って舞う大神楽形の芸態が後に新しく導入されたと考えられる。

 

ps. 2021年5月19日追記

和歌山県内で見られる獅子と対峙するオニは、もしかすると日本の中で伝えられるいわゆる鬼よりも、より中国的なオニかもしれない。『礼記(らいき)』の表紙篇によれば、孔子の言葉として「殷人は神を尊び、民を率いて神に事へ、鬼を先にして礼を後にす」とある。すなわち、ここでいう鬼は祖先を表す。