柳田國男・民俗学のその後、赤坂憲雄『東北学/もう一つの東北』を読んだ

東北学という考え方について最近興味を持っており、赤坂憲雄著『東北学/もう一つの東北』(講談社学術文庫, 2014年)という本を読んだ。

 

民俗学の始まりは柳田國男の「学問によっていかに民を救い、世を立て直すか」という志だった。それは経世済民(世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと)の志であり、他界願望を伴ったものであった。上からの学問としてではなく、下からの学問として、「私」的であり「野」的な学問であったのだ。この学問成立の背景には地域社会の解体や再編があった。その中で「ひとつの日本」像とはなんなのかを描き出す試みだったのだ。

 

柳田國男の学問的な領域を時間と空間から考えてみる。時間的には応仁の乱以降の世界を対象としており、民俗学が遡行できるのはその時代までであると述べている。これは西日本を中心として見た考え方であり、縄文時代以来の暮らしが断片的に現れる東北を中心とした眼差しではなかった。また、空間的には沖縄から東北までを対象としており、その中で「ひとつの日本」を描き出す試みが行われたのだ。現在の民俗学における課題とは、柳田國男が創り出した型にはめられた民俗学をいかに超えていくかということ。つまり「ひとつの日本」から「いくつもの日本」へと変容を試み、いま、そこにある村の現実をすくい取る言葉や方法を考えねばならない。1926年の山人論の挫折や、1934年の「民族伝承論」の中の「単一民族、単一文化」と1961年の「海上の道」の矛盾などからして、民俗学をさらに前に推し進めるにはなくてはならないのだ。

 

民俗学の手法は近代の表層に目を向けるのではなく、原始・未開の層を掘り当てるという「垂氷(つらら)モデル」というもの。これは柳田國男の考えに対して、鶴見和子さんが名付けたもので、古代、中世、近世、近代と分ける「階級モデル」と異なる時代認識である。つまり新しいものの中にも古いものはあり、古いものの中にも新しいものがある。歴史の大きな流れとは違って、民衆の歴史は変化が緩やかであるというわけだ。この考えを推し進める鍵となるのは内発的発展である。漂泊者の目線で物事を見るのではなく、自らが内なる原始人に気づかねばならない。この内発的発展のために必要なのは、内に閉じ深く掘り下げるのではなく、逆説的な話になるが漂白と定住の絶えざる相互作用である。つまり、地域に定住する者が漂白する者と交流することで見えてくるものがあるというわけだ。

 

また、楕円の民俗学という考えがある。これは中心ー周辺の関係を超えた、中心が複数存在するような伸縮自在な思考世界である。ナショナリズムと辺境という分け方にも課題があり、辺境はナショナリズム成立のために回収されてしまう考え方だ。それゆえ、辺境の捉え方を変えねばならない。従来の辺境としての東北は「権力や国家に抗う社会の幻影」だった。これを「自らの土地が異族や異国と境を接する最前線」と読み替えることが必要なのだ。南北からの異民族の匂いを感じ取れる場所が東北という場所。東北学とは、東北を中心に対する辺境と考えるのではなく、東北にいくつかの中心に据えることで見えてくる物を新しい命題としようとしていることに新しさがある。

 

1万年の村が衰滅する時代に、報告されていない民俗との出会いという好奇なものを期待することはできない。そういう意味では、民俗学は危機である。ただし、このような言葉がある。「近代という時間が遅れたもの、非合理的なもの、負性を帯びたものとして暴力的に切り捨ててきた伝統的な知恵や技術や世界観の中に、未来を照らし出す手掛かりが埋もれている可能性はないだろうか?・・・伝統文化は単なる保存の対象ではない。まず、それが自らの現在を支えている、いわば社会・文化的な母胎であり、下半身であることを自覚しなければならない。」とのこと。今ここに焦点を合わせ、暴力的に切り捨ててきた伝統的なものに目を向けることで、民俗学が新しい学問として再出発できる可能性がある。