【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材14日目  大聖寺下福田町犬澤, 大聖寺下福田町山岸, 大聖寺山田鍛冶町, 片山津町

2020年11月3日

昨日は、4つの地域の獅子舞を取材した。以下、伺った話をまとめておく。

大聖寺下福田町(犬澤/いんのさわ)10:15~

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(有)新谷金型の新谷浩二さんにお話を伺った。昭和3年獅子頭が1つある。今、小道具は八幡神社に保管されている。ここらは若連中が結婚式に舞いに行った。獅子を舞った後に、獅子の口の中を通して、新郎新婦が盃のやりとりをする。昔から、下福田は4つに地域に3つの神社がある。獅子も3つに分かれて舞われている。4つの地域は、犬澤組、ヤマギシ組、西組、東組といい、それそれを束れる人を組長と言った。犬澤の獅子舞が途絶えたのは、約20年前。お祭り自体はやっていて、勤労感謝の日などに神社にお参りをする行事などはある。獅子頭がどこで作られたかはわからない。舞い方としては、寝獅子。太鼓でドンと言ったらうるさいなあということであくびをして、そこから太鼓に向かっていく動作がある。どんどん激しくなっていく。6人がカヤの中に入ったので、足を合わせるのが難しかった。獅子の向く先は地上に対して斜め下に向ける、こうやった時が一番迫力がある。

 

大聖寺下福田町(山岸)11:30~

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下福田町民会館のご紹介で、町の鍵を管理されている永井満夫さんにお話を伺った。八幡神社(犬澤とは異なる)の拝殿に獅子が保管されている。神社は約50年前に建てられた。武田信玄上杉謙信の絵が飾られている。今年はコロナで獅子舞ができなかった。獅子舞は地域で死んだ人がいると獅子舞をしない。昨年は獅子舞ができなかった。祭りはいつも3月21日と11月21日にしている。年に2回やる。獅子舞は昔からやっていたが、いつ頃からやっていたかはわからない。太鼓と獅子で笛がない獅子舞をしている。大聖寺の桜祭りには出していない。若い人は今、外に出ているから舞い手をしていない。獅子頭の特徴としては、雌獅子で髪の毛が長いこと。獅子頭を作ったのは、京都(?)かもしれない。2~3人がカヤの中に入った。

 

大聖寺山田鍛冶町 14:00~

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本山瑞草園の本山琇司さんにお話を伺った。ここは鍛冶屋の町。山田鍛冶町の冶は治ではない。いつから獅子をやっているかはわからない。昭和26年に浅野太鼓で新調した太鼓がある。これが一番古い小道具かもしれない。獅子頭が2つある。1つ目は井波で獅子頭を作り、黒い雄獅子である。角がなくなってしまい、自分たちで作った。もう1つはどこで作ったかわからないけど、雌獅子である。獅子舞は30年くらいしていない。子どもの三番叟の舞いや棒振りがあった。2~3つの曲を舞った。獅子舞が途絶えた時は、少しずつ縮小していった。自然になくなっていくことに対して、大きな反対は無かった。いいものは残り、必要でないものは廃れる。神社と氏子の関係があり、神社からの要望ではなく氏子としてやろうということで獅子舞はやっていたらしい。ここの神社は加賀神明宮(山下神社)である。お花代は3000円だった。ただし、500円しかくれない時もあり、それを「アオタン」と言った。500円札の色が青色だったからだ。子供がきたら5000円出すこともあった。お花代によって、舞を変えることはなく、1つの曲を短くしたり長くしたりした。お祭りは2日間やっていた。三番叟は化粧が大変だったから、朝早くからはできなかった。獅子舞のことをやっていた人は学校を早びきできた。練習は本番の1ヶ月前くらいから始まり、夜2時間くらいしかやらない。晩飯を食べてから子供が寝る前の19:00~21:00まで練習をした。

 

ps. 2020年11月15日追記(山田鍛冶町の清水さんより)

山田鍛冶町は下福田町に獅子舞を教えてもらった。1948年生まれの兄の話によると8歳の春休みの時、公民館に習いに行った。その時のメンバーは、7,8歳が3人と13歳が4人、自転車屋さんの住み込みの人が2人という内訳だった。吉崎屋の自転車2台に4人と5人に分かれて乗って、公民館に向かった。半分ぶらさがったり、しがみついたりして乗ったとのこと。今、兄は70歳なので、62年前の話。まだ、自動車の普及が進んでいない時代の話である。

 

ps. 2021年4月18日追記

写真にある獅子頭の角は碁盤の足であることが、後に2020年11月6日に荒町の取材の時に碁盤を発見して判明した。この獅子頭の角を2021年4月14日に伊豆半島の日本仮面博物館の方に見せたところ、この碁盤の足はクチナシと呼ぶと教えてもらった。詳しく調べてみると、これは梔子(くちなし )の実をかたどったという説があり、対局中に口出しをするなという意味が込められているらしい。これを獅子頭の角として用いたというのは果たしてどういう意図があったのだろうか。謎は深まるばかりである。

 

④片山津町 18:00~

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区長 坂本正治さん、青壮年部部長 廣瀬一也さん、 前青壮年部部長 橋本章宏さんにお話を伺った。撮影は山口美幸さん。まずは、獅子舞の小道具を撮影させていただいた。獅子頭は2つあり、どちらもかなり綺麗な状態が保たれている。そのうち1つの獅子頭に関して、『かたやまづの歴史』には「獅子頭は昭和24年(1949年)に青年団が区長から借金の上、代価3万円で富山県井波から購入したもので、桐の根株で作られており、やや重い。購入の際、代価の他に2000円を祝儀として要求されたが持ち合わせがなく、後で送金することにして帰った」という内容が書いてある。獅子頭以外の小道具もかなり綺麗な状態で保管してある。

 

片山津町の獅子舞の歴史としては、千崎町かどこかにまず獅子舞を教えてもらった。ただ、片山津の獅子は1975年くらいに獅子舞が途絶えた。その後、30年間途絶えていたが、秋祭りの盆踊りの時に、一回だけしたことがあった。しかし、その獅子舞についてはカメラや映写機などで写してはいなかった。基本的には、獅子舞を途絶えていたと考えて良い。2002年に湖城町から片山津町に獅子舞を教えて欲しいと話があった。その頃には、湖城町は片山津町湖城という地名だったので、次男や三男が土地分けをして住んでいるという背景があった。所帯分けをして住んでいる湖城町が獅子舞を始めたが、本家の片山津町が獅子舞をしていないという事態を憂い、翌2003年には獅子舞はみんなが楽しくなり上下の18歳から40歳までの年齢差を超えた交流も進むということで、復活させようという試みがあったが、実現しなかった。しかし、翌2004年には獅子舞が復活した。30年を経て、当時とは衣装も舞いも変わった。復活から16年経った今、コロナを機に人手不足の獅子舞を続けていくか否かの話し合いが持たれることになった。青壮年部は現在35人いるが、獅子舞に絡んでいるメンバーは10人で、そのうち6人が卒業してしまう。話し合いは昨晩、2020年11月4日(火)に片山津町公民館で行われ、大変貴重な場に同席させていただくことができた。