【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材8日目 大聖寺南町

本日は大聖寺南町の獅子舞を取材した。まずは午前中に、加賀市市役所人口減少対策室のご協力で、獅子舞の情報整理に適する地図を探していただいた。その後、取材を開始。案内は山口美幸さん。地域の獅子舞に関係する方をたくさん紹介していただいた。以下、お話を伺ったことをまとめておく。

大聖寺南町のインタビュー&取材

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南町の獅子舞に関して、理容店の能田秀男さんにお話を伺った。戸棚から獅子舞の資料や写真がずらり。獅子舞愛に溢れている方だった。20年前に12団体を集めて、大聖寺の十万石祭りで獅子舞を披露したそうだ。自分が声かけられるところを声かけて実施した。この時の祭りのサブタイトルが「浴衣で集まれ」だった。浴衣製作に加えて、獅子舞を呼び集めて楽しんだら楽しいのではとのこと。加賀では、このように獅子舞が一堂に会するイベントがなかなかないので、貴重な集いだったろう。

 

獅子舞の歴史に関しては、能田さんのお父さんから電話越しにお話を伺った。お父さんは南町の獅子舞を始めた時のメンバーだ。小学校の時(戦中)に、獅子頭は富山の井波(砺波?)で作ってもらったそう。舞いは富山から伝来した。始めは、棒振りがいる形態だった。年に1回、大聖寺で獅子舞の大会もあったそう。棒振りをやめて獅子だけが舞う「暴れ獅子」になった時は、伊切町の人に教えてもらった。暴れ獅子は飛んで歩くのだそう。今から約25年前に1年だけ獅子舞が途絶えたこともあった。人数が少なくなって1年どうしようかと話し合っていたが、寂しいからやろうということで、復活した。

 

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今では、青年団は2~3人しかいない。昔は17~18人くらいいた時もあったが、現在は他の町内の人や帰省の人の手伝いもあり、獅子舞を維持できている。青年団の息子さんによれば、大聖寺駅前の熊坂に住んでいる高校生も手伝いに来てくれている。また、青年団の奥さんがサポートに入る場合もある。桜祭りが本番である。ご祝儀のもらい方で興味深いことがある。大聖寺の巫女の舞は事前に3000円をもらって窓に「御神楽所」という札を貼るが、獅子舞の場合は獅子が来た時にご祝儀を払う。獅子舞の祝儀に額の決まりはなく、額に応じて舞いの本数を変える。以上のような違いがある。獅子頭は2種類あり、練習用と本番用となっている。かやの種類も2種類あり、雨で濡れたら取り換えるということもある。

 

郷土史家(加能史料編纂責任者)の伊林永幸さんにインタビュー調査

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(写真撮影:橋本浩二さん)

大聖寺地区会館の中村さんにもお世話になり、伊林さんとの面会が実現。橋立では、江戸時代から武術鍛錬のために棒振りの獅子舞をやっていた。作見町は明治時代に大聖寺の敷地や相生町から習った。相生町は江戸時代から獅子舞がある。鷹匠町は武士の町だから獅子舞がない。町人や農民の町に獅子舞が発展した。江戸後期に武芸が廃れたため、町民や農民向けに武芸鍛錬が奨励された。東方芝山(ひがしかたしざん)という重要な人物がいて、皆武芸を習わせることを推進した。日本全国的にそういう風潮があった。金沢発祥の獅子殺しと大聖寺の棒振りの系統は違う。加賀市の獅子舞の発端は大聖寺だったかもしれない。これは武芸鍛錬系の獅子舞の系統の発端ということかもしれないが。

 

幕末には、大野弁吉という人がいて、たくさんの獅子を作ったことで有名だった。金沢の大野町という町を拠点としていた(これは橋立に獅子を伝えた能登内灘と地理的に近い)。能登半島は800年ごろ、渤海との交易が盛んだった。動物の毛皮の交易をしていた。もしかしたら、渤海方面から獅子が伝わった可能性もあるかもしれない。そう考えると非常にロマンがある。渤海の船は本来ならば太宰府に行くはずだったが、流されて能登半島に漂着した船もあった。ロシアのウラジオストック北朝鮮の間の豆満江(トマンコウ)から出て、北風が吹く秋に黒潮に乗って能登に来て、夏風邪が吹く頃に黒潮に乗って北海道に行って、そこからリマン海流に乗って豆満江に戻るという日本海をぐるっと一周するルートがあったとのこと。北前船を待たずして、昔から交易ルートが存在していた。

 

大聖寺には本当にたくさんの獅子があり、バラエティ豊かである。地域としてもかなり狭い面積の土地にたくさんの獅子舞が存在しているがゆえに、獅子舞を競い合う大会も開けたのかもしれない。今では、春の桜祭りが賑わいを見せる。背景にあるのは城下町の町人文化。その歴史を掘っていくのはとても面白い。明日は分校地区の取材を行う。