【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材7日目 橋立町

本日は、橋立の獅子を取材するとともに、最終的には本を制作しようと考えているのでその打ち合わせを行った。案内人は山口美幸さん、橋立町では吉野裕之さん、小餅谷幸博さんにお世話になった。今回の取材で明らかになったことを以下に記す。橋立といえば、かなり歴史のある獅子舞をしていて、加賀市の多地域にも伝来したという話を聞いていた。北前船の船頭衆が山中温泉に入りに行った時にできたのが山中節(近くの片山津温泉明治15年にできたので、当時はなかった。)の獅子の場面だし、そういう話は各地にある。加賀の獅子を知るなら、橋立を知らねばならない。

 

①橋立地区会館・吉野さんヒアリング

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橋立の漁港ができたのは昭和初期のこと。石川県内で200人以上が亡くなったコレラの流行が原因で、能登半島内灘の漁師が移住してきた。コロナ禍以上に被害が大きかった。今でいう都市から地方への移住が進んでいるのと同じような動きだった。過疎である橋立に多くの人が移住してきた。北前船の往来があったとはいえ、当時は漁師としての文化はなく、人口も少ない過疎地だったという。次第に農村と漁村の獅子舞が入ってきたが、漁村の獅子舞が残った。この流れを考えると、感染症の歴史が獅子舞文化を作ってきたというわけだ。人間のDNAの20%は感染症の抗体が作り出したものと言われており、受精する仕組みというのも感染症から守るためで、人類の進化とも合わせて考えたい。

 

昔は橋立の小中学校の人は掃除時間で獅子舞ごっこをしていた。掃除道具で棒振り、本を獅子に見立てて遊んでいたという。当時は、青年団が多すぎて何年生以上は断るみたいなことも考えられていた。橋立の獅子は今でもかなり盛んだ。加賀市内は大体9月に運動会をするが、橋立は9月に獅子舞をするために6月に運動会をずらした。学校行事をずらすほどに獅子舞が地域にとって優先されるべき行事なのだ。1日目は朝の4時から夜の8時まで、2日目は朝の5時から夜の8時まで、両日ともに青年団が夜の8時から輪踊りを行う。3日目は仮装行列を行い、小塩や田尻と合同でやる。かなりのハードスケジュールである。8月のお盆あたりから練習を行い、9月に本番を迎える。

 

田尻町の祭りは2日間は、お昼に「宿」と言われる仕組みがあって、青年団は2時間くらい地域の方の家にステイして、昼食が振舞われる文化があった。昔はその家の人がお金をかけてもてなしたが、今では青年団が100万円くらいかけて昼食代を支払う。青年団の人数が20人なのでかなりの額である。ご祝儀は1軒1万円以上で250軒を回るので、約300万円の収益が出ることを考えると、妥当な金額である。一部は獅子舞の修繕などに充てられる。以上から、橋立は地域交流に対してかなりのお金をかけていると言える。

 

②橋立町集会所・小餅谷幸博さんヒアリング&獅子舞の小道具撮影

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橋立の獅子といえば、かなり獅子頭が重くて大きい。獅子頭の素材は高級な鹿皮でできており、おそらく鶴来で作られたものとのこと。獅子頭に制作年や場所などは書かれていない。現在残っているのは本番と練習兼用の1体のみである。獅子頭の買い替えの際は、前回と同様のデザインというのが基本になる。獅子頭が重すぎるので、必然的に交代する人が必要で人数を確保せねばならない。太鼓は浅野太鼓で作ってもらっている。頭にかぶる「シャガ」は白色がリーダー、黒色がその他。尻尾がかなり巨大で、カヤもたくさんの人が入れる。演目の最後に4人の舞い手が花棒を持って獅子の前でゆらゆらさせる演技がある。花棒はご祝儀が高かったときに使う。1万円のご祝儀の他に、ビールなども出してくる場合があり、そういう時も花棒をつかう。もらったビールなど余ったら町内でお酒が欲しい人にまた売る。

 

元々は春祭りと秋祭りで獅子を舞っていた。祭りの形態はビデオを撮っているわけではないから、少しずつは伝承していくうちに変わっているかもしれないとのこと。舞いは田尻は2種類だが、橋立は7種類あるという。獅子舞の舞い手は基本男性で、女性は「浦安の舞」という巫女の舞をする。小学生男子は小さい頃から棒ふりをしたがる。子供が祭りに参加したくなるのはどうしてなのか。まずは学校が休めることと、獅子舞に参加するとわずかに小遣いがもらえるというのが本音。学校も祭りに対しては寛容である。義務感も少なからずある。ただ、練習が始まると本番に向けての高揚感やワクワクがあるのは確かだ。あとは、祭りで結ばれる男女も多く、異性を強く意識する場でもある。昔は成年学級という月一回の勉強会や旅行行事、お寺での映画上映会があったものだが、そういうのは無くなった。交流の場は祭りの形で今でも続いている。

 

③出水神社の石碑から読み解く「加賀国江沼郡橋立村」(橋立の旧名)の開村

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御開祖は岩巣宿禰尊(いわすすくねのみこと)。景行天皇17年に大漁の神と奉斎する「ヒンバ」の背に乗り、浜に上がって洞家を掘って住処とした。岩巣宿禰尊には石綱という御子、岸女という御娘がいた。「ヒンバ」を洞中に飼いおくと、家に海猟があり、子孫が繁栄したという。光仁天皇宝亀元庚戌(かのえいぬ)の年(770年)には、茅屋14軒、男女46人に発展した。応安年中より永正年間(1370~1520年)で飢饉が起こり、その後田畑が開かれた。永正年間に衰え、文禄年間(1592~1595年)から繁栄した。氏神を信仰していた。

(以上、橋立出水神社伝来 橋立村由来記より)

 

明日からは、きちんと郷土史家の人の話も伺っていきたい。やはり、石川、富山が獅子舞が盛んな理由は信仰と産業という2方面からアプローチすべき。白山と立山という修験道の山があり、お坊さんが鎌倉時代くらいに行道の獅子を伝えたのではないか。また、森林資源が豊富で、漆、工芸、林業などの職人がたくさんいたことが獅子舞文化の普及につながったのではないか、と考えている。結局、獅子舞の取材をするということは、その生活文化や暮らしの真相を明らかにしていくことでもある。明日からも引き続き、加賀の歴史的背景の真相に迫っていきたい。

 

Ps. 加賀市の方々は「わかった」に「よ」をつけることが多いことに気がついた。自分の地元ではあまり聞かない。方言ではないと思うのだが。共感力が高いということだろうか。最近よく聞く。