能登半島 羽咋-氷見 23km 徒歩 〜知られざる獅子舞集団の道〜

2019年1月より、石川県加賀市で獅子舞の撮影と取材を続けている。今まで33地区回る中で面白いと感じてきたのは、獅子頭多種多様なデザイン伝来経路が不明であることだ。とにかく奥深い世界が広がっている。獅子舞は日本で最も数の多い民俗芸能と呼ばれ、各地域ごとにユニークな舞いと小道具のデザインが素晴らしい。ナンバーワンではなくオンリーワンであることが獅子舞にとって重要なこと。その土地の人々の気質や気候風土など様々な要因が合わさり、地域コミュニティの中で現在の獅子舞という芸能が成立している。

知られざる獅子舞集団が能登半島にいたのではないか

ところで、獅子舞の取材を進める中で1つ疑問だったのが、石川県加賀市能登半島の関係性である。石川県加賀市片山津温泉や荒谷など多くの地区で、能登半島の人々が獅子舞を伝えたという伝承が残る。例えば片山津温泉は建具職人の山口半次郎という人物が、能登半島田鶴浜から獅子舞を伝えたという。また、荒谷では木こりが出稼ぎに来ていて、仲間内で獅子舞を舞っていたらしい。また、輪島塗の職人が獅子舞に関わっていたという話もある。特筆すべきポイントは、初期の獅子舞は地域行事というより仲間内で見知った者同士が楽しんでいた可能性があるのだ。

 

これらの事実を時代と照らし合わせた時に、ある1つの仮説が浮かび上がってきた。それは「明治時代に、能登半島を南下した獅子舞を舞う芸能集団がいたのではないか」ということだ。彼らは今までの調査の結果、建具職人や林業に従事する人々であることは明らかである。しかし、生活の実態など真相は明らかにされていない。この獅子舞集団は一体何者だったのか。そして、能登半島のどこを南下したのかが気になった。そこで、今回能登半島の西端から東端までを横切り、それを突き止めることとした。

獅子舞伝来の道を探る

では、どこをスタートして、どこをゴールとするかである。そこで僕は獅子舞に関する展示を行う博物館があり、日本屈指の獅子舞実施数を誇る「石川県羽咋市」と「富山県氷見市」の2つの地域に着目した。そして、羽咋駅から氷見駅までの23kmを歩き、道中の観光案内所、博物館、役場、図書館など様々な場所を訪れて聞き取り調査を行うことにした。

 

羽咋民俗博物館で判明した「熊無と論田」の重要性

2020年10月20日午前9時半ごろ、羽咋駅に到着した。羽咋といえば、UFO伝説で有名な町だがそれはスルーして、羽咋市歴史民俗博物館に向かった。羽咋駅からは徒歩10分の距離である。行ってみるとなんと展示準備のために休館!しかし、獅子舞の調査報告書を見せていただき、質問には丁寧に答えてくださった。そこで印象的だった事実としては以下のようなことが挙げられる(画像は「羽咋市獅子舞調査報告書, 平成31年3月, はくい獅子舞保存活性化実行委員会」より抜粋)。

 

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まずはこの調査報告書の右下を見て欲しい。越中獅子の大元を辿れば、すべて論田(ろんでん)と熊無(くまなし)という2つの地域に行き着くのだ。調査報告書によれば羽咋の獅子舞の伝来ルートは6つで、8つの獅子舞グループに分かれているという。しかし、多くは近隣地域との交流によるもので、この論田と熊無という2つの地域が圧倒的に特異な存在に見える。熊無は氷見に行く途中で通るので、ここには行くしかないと思った。

 

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その他にも、発見はいくつかあった。能登から南下する獅子があるのかと思いきや、金沢から北上してきた獅子舞もある。金沢の料理人が食事とともに芸を見せるために獅子舞を舞わせたという伝承がある地域もあるそうだ。また、羽咋の獅子舞の特徴は天狗の面をつけた人物が獅子と対峙すること。天狗といえば日本神話でいう道案内の神・猿田彦大神のことであり、伊勢との繋がりも彷彿とさせる。しかし、この天狗が「獅子殺し」という獅子を殺す演技をすることから、金沢発祥の獅子との遠からぬ縁も感じるのである。

 

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上の画像は、休憩スペースに展示してある獅子舞の写真。実際に使う獅子頭などの小道具は祭りのない2~3月に、一堂に会して企画展示が毎年行われている。岩手県遠野市で遠野祭りの話を聞いた時もそうだったのだが、基本的に盆地型の地形をした地域は獅子舞を一堂に会するという習慣があるように思う。つまり、中心的と周辺という地域の構造がそうさせるのかもしれない。石川県加賀市のように3つの温泉街や城下町などよって形成される地域ではこのような話は聞いたことがない。逆にいえば、獅子舞の多様性も担保されているように思われる。

 

神小原スポーツセンターで獅子に遭遇

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さて、先ほども言ったように、熊無には何かがある。そう思ったので、先を急ぎ論田に向かう。途中、神小原という小さな町があり、トイレに行くことにした。公衆トイレがなかなか無くて、神小原スポーツセンターにお邪魔すると、たまたまガラスケースに入った獅子頭に遭遇!なんだか賑やかである。獅子頭のデザインから推測するに、これは井波の獅子だろう。蛇の目に二重眉毛。まさに、富山の獅子の定番だ。それに加えて、僧侶が使っていた行道(※)の面が気にかかる。これはもしや、かなりの年代物かもしれない。周りは山に囲まれた小さな村だが、鎌倉か室町まで獅子舞の歴史が遡れると思った。

※僧侶がお経を読みながら歩くこと。752年の東大寺大仏殿開眼以来、日本全国に僧侶が仏教を広めて歩いた。これが、日本全国に獅子舞が伝播した最初の要因だと思う。

 

熊無で最も獅子舞に詳しいおじさんに電話をする

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さて、13時ごろに熊無に足を踏み入れる。最初に聞き取り調査を行おうと考えたのが、「お休み処 くまなし」という農産物の直売施設である。ここは、地域の方しか訪問客がいなかったが観光案内所も兼ねているそうなので、思い切って店員のおばちゃんに獅子舞について聞いてみた。すると、「それならこの人に聞けばいい」と言って、いきなり"村一番に獅子舞について詳しい"というさかぐちさんに電話を始めた。

 

このおじさん、実は藤箕(ふじみ)という民具を作る職人らしい。藤箕とは藤や矢竹などを使って頑丈に作られた、農作業に使う道具のようだ。なぜ、民具を作る職人が獅子舞について詳しいのか。大きな謎はすぐに解けた。以下は電話インタビューを抜粋して書き記したものだ。

***

店員A「昔はお祭りの時に、羽咋の町に獅子舞を振りに行ってたんですよ」

僕「そうなんですか!獅子舞調査報告書によれば、熊無から羽咋の獅子舞は始まっているんですよ。」

店員A「昔、歳いったじいちゃんが教えに行ってたみたいね」

僕「熊無はどこから獅子舞が伝わったのでしょうか。」

店員A「そりゃあ、村誌を見たらわかるわいね。図書館いかないと。」

店員B「それなら、さかぐちさん(Sさん)に聞いてもらえば。今から電話してみよっか?」

僕「ええ、いいんですか。」

(電話を始める店員Bさん)

僕「(電話を代わり)突然、お電話すみません。今、熊無の獅子舞を調べていて、どこから伝わったのかを知りたいのですがご存知ですか。」

Sさん「それは600年前から始まったんですわ。自分たちで作ったんや。」

僕「え!自分たちで作ったんですか?ということはここが獅子舞の発祥?」

Sさん「いやいや、600年前にお坊さんが来て(それを元に)作ったんです。」

僕「へえ、そのお坊さんはどこから来たのでしょうか。」

Sさん「それは、わからん。」

***

最後に「何かあったら、なんでも聞いて!」と言って、電話番号を教えてくれた。

 

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ひとまず、お坊さんが獅子舞の伝来の根幹に関わっていたことが判明。後から、店員さんがいうには、「藤箕も600年前から伝わった」とのこと(上記写真が現在作られている藤箕)。獅子舞の伝来時期と被ることから、お坊さんが獅子舞と藤箕を同時にこの地に伝えたのだろう。つまり、芸能と手仕事を両立していたということだ。そして、そのお坊さんは立山修験の人かもしれない。論田には修験の権現様もいるらしい。岩手県遠野市でもそうだったが、山伏や修験者、僧侶が民俗芸能の最初期の伝道師であり、それを元に獅子舞の原型を作り出した事例が散見される。

 

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道中、藤箕の制作体験ができる小屋も発見した。

 

ひみ獅子舞ミュージアムでおばちゃんと出会う

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富山県氷見市のゴールは間近。15時過ぎに獅子舞の博物館に到着した。そこで事務の仕事をされている「そうながです」を連発するおばちゃんに出会った。「そうながです」は「そうです」の意味である。このおばちゃんに獅子舞の調査報告書や獅子舞の映像を見せてもらった。氷見の獅子舞は非常に激しく、太鼓は台が豪華絢爛だと思った。これは、海の獅子だからだろう。石川県加賀市橋立の獅子を彷彿とさせ、蚊帳などにも類似点を感じる。そして、太鼓台が非常に豪華だ。山の上に神社がある場合が多く、太鼓台を上げたり降ろしたりするのが大変のようだ。氷見は日本で最も獅子舞が盛んな富山県の中でも、一番団体数が多い地域と言われている。貴重な獅子舞を後世に繋いでいってほしい。

 

氷見市立図書館で、獅子舞の資料を探る

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明治以降については文献が豊富にある印象だ。『熊無地誌』によれば、「明治十年(1877年)2月、論田の坂下甚三郎が箕の行商に歩いて、立山の麓の岩峅村(いわくらむら)に行った」とある。その際に不思議な夢を見て、立山権現が「現れ功徳を広めたいから論田に連れて行ってくれ」という。それゆえ、論田には立山権現が運ばれ、立山権現講が行われるようになったとのこと。600年前に獅子舞が伝来した記述は皆無だったが、少なからず立山信仰と活発な交流関係にあったことがわかる。このエピソードから、明治の神仏分離令の際に坊主が神主になったため、阿弥陀仏としての立山権現が論田に遷座されたという社会的背景も重なりそうだ。

 

また、戦前戦後の歴史を見ると、熊無にとって獅子舞は娯楽・レクリエーションの一環だったことがわかる。戦中には禁欲を強いられ途絶えてしまったが、戦後に復活したようだ。当時は軍人や工場労働者が多く、厳しい労役に服していたことから娯楽に飢えており、地域を活気づける意味合いとして獅子舞が行われていたと考えられる。

 

熊無の獅子舞は、戦後某年のNHK「ふるさとの祭り」、昭和63年と平成6年の「氷見祭り」、平成元年と4年の「羽咋祭り」など、戦後様々なところで舞いを披露した為、羽咋市の的場町、御坊山町などから獅子舞を習いたいという申し出があった。獅子舞の伝播の一部は、このようにエピソードが残っているようだ。

 

また、藤箕の制作由来に関しては、興味深い記述が見られる。「伝説によれば、大よそ600年ばかり前に、天台宗の修行僧が人家の少ない論田の山地に来住して草庵を結んで仏教修行に励んだ」とある。これぞまさに、獅子舞と藤箕の伝来時期と重なる。それからというもの、多くの修行僧が来住するようになり、修行の傍、農耕に励む者が現れたそうだ。藤箕が生まれた経緯は「たまたま竹を割って箕を編み、農具として利用した。しかし、割り竹だけでは破損しやすい為に、巧者がこれに藤皮をまじえて編んで、甚だ丈夫なものになった」と記載してある。田畑だけでは生活が成り立たない為、生活の知恵であり好適な産業として、藤箕が生まれたのだ。

 

藤箕生産は普通の行商とは異なるビジネスモデルを構築した。今でいう6次産業化にも近い発想で、生産から販売までを一括して行ったらしい。つまり、修行僧でありながら、職人であり行商人であるというハイスペックな職業人が熊無や論田に住んでいたと考えられる。彼らは町に出て藤箕を売りさばいていたので、交友関係も広い。それが獅子舞伝播の架け橋にもなったのではないかと僕は考えている。

 

総合するに、まずは修行僧が獅子舞文化のネットワークを作ったのだろう。彼らは優秀な職人集団であり、藤箕や漆、木材など山の資源を街に還元していたと考えられる。熊無では修行僧が藤箕の職人になり、行商として各地を巡り、芸能も伝播したのだ。田鶴浜では建具屋、輪島では輪島塗りという風に、山林資源を職能とした人々がいて、芸能の担い手でもあったわけだ。こうして考えると、産業と民俗芸能の結びつきはとても強く、それをセットで考えていないと読み解けない文脈があるということに気づかされる。

 

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さて、帰りは氷見で美味しい魚を食べると決めていた。食事処を探していたが、なかなか見当たらない。最近はコロナ禍で廃業して行くお店が後を絶たないという。結局、地元客を抱えた気前の良さそうなおじさんがやっている、少し高めの寿司屋でお寿司を食べた。それから、まだお腹が空いていたので、今川焼きとたこ焼きを48年も続けているおばあさんの所でたらふく食べさせてもらった。コロナ禍でも客が絶えないお店は本物だ。タダでもらった冷めているたこ焼きを頬張りながら、そのようなことを考えていた。18時51分の電車で、氷見を後にして石川県加賀市に向かった。さて、明日はどんな出会いがあるだろうか。