稲村行真の旅してみんか。

個性的な旅をしております。

与えられること、与えられること。

最近、よくおごられるので、与える&与えられるってことを考えてみた。

 

人間ってみんな赤ちゃんとして生まれたときはなんもできないから、みんなとくに親からたくさんの愛情を与えられる。

そしたら、その分、人に愛情を与えられる大人に成長する。

そして、自分が介護される歳になったときに、子供に再び愛情を与えてもらう。

愛情を与えるグラフを書くとしたら、こんな感じ。

マイナススタートで、プラスになって、またマイナスに戻る。

人生フィフティーフィフティーって感じ(笑)

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このグラフって人間の道徳とか道理とかに基づいてる。

余りにも与えすぎたり、余りにも与えられすぎると、しっぺがえしくるよって話。

たとえ話が3つある。

 

1つ目は、ボランティアの話。

ボランティアって自己マンだよという話もちらほら。

余りにも与えすぎると、相手を甘やかすから、それって相手にとってマイナスだから、自分に何らかのしっぺがえしがくる。

だから、ボランティアやっていいことしたって思うときは、本当にいいことしたのかな、なんて考え込んでしまうときもある。

ちなみに、僕のボランティア論は、救急車を例えに出す(なんだそりゃ笑)。

緊急のことが起こったとき、例えば津波とか、地震とかの時って、人の生死にかかわることだから、ボランティア云々のまえにまず助けなきゃいけないっていう使命を感じる。だから、ボランティアが存在する意味って、こういうことなんだと感じる。

日本でNPOとか非営利の草の根組織ができたのも、阪神大震災が発端と言うのでこの考えはあながち間違いではない。

でも、たいして緊急性がないような本当に意味あるの?って懐疑的なボランティアもたくさんある。お金払える人なのにタダでいいよって言うとか。ボランティアはおかねのまわりが良くなくて、継続性がない活動も良く聞くので、そこは考えたいところ。

 

2つ目は、二宮尊徳の話。

二宮尊徳のお父さんは、本当かどうかわからないがいい人だったらしい。

お金を気前よく貸したり、お米を配って歩いたり、と心の優しい人だったそうだ。

ただ、ある時飢饉が訪れて、全くお米が取れなくなった。

自分や家族の食うものがなくなり、果てには着るものまでみすぼらしくなってしまった。蓄えることをせず、気前よく与えすぎたのだ。

ある時親族の葬式があって、喪服が買えなかったので、欠席するつもりだったらしい。でも、やはり葬式はでるべきと考えたのか、みすぼらしい恰好で出席したところ、はずかしい想いをした。悔しくて悔しくて、うつ状態になってしまったようだ。

さて、両親の死後、二宮尊徳は子供時代の経験を教訓にして、「貯えること」を徹底的に行い、村をたくさん再生させて有名人になった。この話から、二宮尊徳は両親の悔しさを晴らしたが、両親は生前苦労が絶えなかったことがうかがえる。つまり、この話から、安易に与えてはいけないということを心に留めておかなければいけない。

 

3つ目は、自分の話。

自分は、過去によくおごられてきた。徒歩の旅に出たときは、道中たくさんの方に食糧をいただいた。たくさんの料理でもてなされ、お風呂に入れていただいた翌日に、携帯が故障するということがあった。また、ある時はヒッチハイクで9台の車にお世話になった。途中、ある人の車に携帯を忘れて、ご迷惑をかけ、3日間携帯が使えずいろいろと苦労した。つまり、与えられすぎたときに携帯が使えなくなる。これは偶然かなにかわからない。しかし、どちらにせよおごられる時はなにか相手に対しても返す、あるいは、おごられすぎることを断るという勇気が必要だと考えている。

 

さて、ここまで考えてきたときに、与える、与えられるの感覚ってすごく大事なだなって改めて感じる。

常識的に考えて、与えすぎ?与えられすぎ?っていうことをその瞬間瞬間で考えなきゃいけない。これはもう道徳の世界。

あとで、かえしてもらえばいいじゃん?かえせばいいじゃん?って思ってもそれって自分本位だし、、、だから良識は必要。

この感覚が研ぎ澄まされている人ってほんとかっこいい。

自分もたくさん経験して、良識身につけたい。