【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材11日目 桑原町・庄町・森町

今日もほとんど取材できていない地区を中心に回った。案内人は、山口美幸さん、吉野裕行さん、勅使町まちづくり会長の西川昌之さん。以下、伺った話を記す。

 

①桑原町

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区長の須磨広樹さんにご紹介いただいた青年団団長の上口真人さんにお話を伺う。高校一年生の時から現在(31歳)まで獅子舞を携わってきた(一時期県外に行ってた)。秋祭りは8月17日。獅子舞は朝4時半から始まり、夕方5時くらいまで。あとおき(飲み会)を含めて深夜一時くらいに撤収となる。前日16日には津波倉町も獅子舞を舞う。津波倉町は町内会としては一緒で、そちらに区長はいない。舞いは2曲あり、お花代は3000円と5000円が多い。毎年140軒くらい回る。お花代が5000円の場合は3分で2曲舞い、3000円の場合はその半分くらいで1曲舞う。曲の1つは自分たちで新しく作ったもの。凄い獅子を色々と見て参考にして作った。棒振り・笛・太鼓が1人ずつ、獅子舞2人。人が多い場合は笛を2人にする。16歳から24歳くらいまで青年団だったが、今では人がいないので31歳でも団長をやっている。メンバーは現在6人。4人は大阪2人、福井1人、金沢1人からの帰省メンバー。昔との舞いの違いもある。昔はお花代の値段によって棒が変わった。ジャンプしながら足の下くぐらせてポンて投げてキャッチするような凄い技もあったらしい。

 

練習は2ヶ月前くらいからやっていた。今は慣れている人が多いので直前の時もある。練習しなくても大丈夫なのに、3日前から太鼓の音を鳴らして本番が近づいていることを町内に知らせる。これは、住んでいる方々に祭りを意識してもらうため。雨が降ったら公民館、降ってなかったら神社で練習する。練習は夜7時から夜9時の2時間くらい。お祭り当日は、昔は神社から。最近は1日目に神社から、2日目に区長さんの家からスタートする。最後の締めは団長の家になる。昔は朝まで飲んでいたこともあったようだが、今はなんかあったらということであまり派手には飲まない。太鼓は、今3年目くらい。「たいこのもり」というような場所で作ってもらった。獅子舞の伝来経路は不明。獅子頭は昔から使っているもの。一昨年の総合文化祭の30周年記念で、庄地区7つの獅子が舞った。

 

詳しくお話を伺ってみると、団長さんは東京-石川を昨年歩いた時に、最後の宿泊でお世話になった高橋家の菜見子さんの弟!偶然の出会いに感動した。加賀の面白さは、動いているとどんどん繋がっていくこと。

 

②庄町

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区長の平石隆信さんにお話を伺った。この町は今年、なんと少しだけ獅子舞を実施したそう。コロナ禍でも実施するという、獅子舞への想いが強い地域である。鶴来の知田工房で作ってもらったそう。縦に長い獅子である。獅子頭は重い。カヤには3人入る。大体8月の第二土曜日に祭りをする。朝7時くらいから町や加賀自動車学校、小学校なども回る。お金によって舞いが違う。舞いの種類はめたちとおたち、かさのうら、てんまり、などがある。お花代は1万円を出してくれることもある。高校から青年団。棒振り、獅子、太鼓、笛がいる。基本の舞い方は8方位を一周して厄払いするイメージで行う(中国の陰陽五行を連想させるが関連性は定かでなはない)。獅子舞は能登半島から伝わった。北村政樹さんがお詳しいとのことで、後ほどインタビューする。青年の人を育てようということで、戦後の青年学校が盛んな時に、町を活気づける意味合いで始まったのかもしれない。

 

この地域の公民館は2つあり、町民会館と公民館と呼んでいる。大阪由来の住吉神社のところにあるのが、公民館で青年団の拠点にもなっている。獅子殺しの舞いをする。祭りの最後の記念撮影の際に、カヤ付きの獅子頭の前に槍(薙刀?)を2本前にクロスさせて撮影する。獅子退治の完成ということかもしれない。これは塩浜町と同じである。獅子頭には歯に鉄板がついており、目が後塗りである。目の色が禿げたか、後から塗ったのか。その経緯は定かでない。青年団は町にいると必ず入るものである。昔は楽しみがなかったので、獅子舞を追っかけていくのが子供の時の楽しみだった。町のスターのような感じである。女の子の追っかけもいただろうし、頑張っていると町で褒めて回った。それが今は少なくなったのは寂しい。高校生と社会人の数人で実施しており、保存会が立ち上がって実施している。昔、庄地区の文化祭で獅子舞を実施したこともある。地域の住吉神社には、戦後に拠出した青銅の馬や、戦前の天皇陛下のお参りに使われた奉安殿もある。これが残っているところは珍しい。

 

③森町

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地域の広報誌『さえぐさ』に獅子頭特集があり、他では見ない獅子頭があるということで、急遽取材のアポを撮らせていただく。区長の吉光隆是さんと、獅子頭を制作した方のご子孫の上出浩さん。獅子頭は2つあり、1つ目は獅子頭の制作は金沢別院通りで行なったとのこと。木彫りの獅子である。もう1つは明治時代ごろの獅子で、上出さんの祖父(上出兵太郎さん)が作ったものである。一時京都に行った時に、蝶々を獅子が追いかけるという舞い方を知って、それを地元の近所の子供らに教えるために作ったそう。なまはげを連想する素朴な面である。獅子舞自体は松山から伝わった。そっちの方が早くからやっていたので、習いに行った。お祭りは最近は8月20日。練習は小学校5年から参加。昔は白山神社だったが、今では公民館で行う。棒・薙刀・太刀の3種類の舞がある。子供が踊ると地域の人が集まってくる。でも、3年前くらいからもう獅子舞はやっていない。祭りが平日で、昔は会社を休んでもこれたのだが、今ではそういうわけにもいかない。参加できるメンバーが少なくなってしまった。何十年か前に、社会体育大会で各町の獅子舞が集まったことがあって、習った場所が同じでも少しずつ舞いが違うとわかった。昔の人からすると、町内でも舞いが少しずつ変わってきているようである。子供達は獅子を追っかけてきて、休憩時に小遣いやアイスやらがもらえることが楽しみだった。お花代は3000円か5000円だったが、子供が獅子に入っていると1万円出すこともあった。この地域の神社である白山神社は、白山比咩神社の第一番分所で、創立は江戸時代(約300年前)と推測される。動橋川の叛乱もあり、今の場所に移された。とても歴史のある神社である。

【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材10日目 勅使町・大菅波町

今日は勅使町と作見地区(取材できたのは東菅野町)を中心に回った。まだ一件も回れていない地区を探そうということで、出てきた名前がこの2地区。案内人は山口美幸さんと高木棲盛さん。以下、お話を伺ったことを記載しておく。

 

①勅使町(10:00~@勅使町民会館)

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(撮影:山口美幸さん)

まちづくり会長の西川昌之さんにご対応いただく。獅子頭を下に向けて睨みを利かせて舞う。これを「豆拾い」と言い、豆を拾うイメージで舞うようである。また、カヤの中に入る人は高くしなさいと言われた。尻尾の人はずっと回していないと、「ハエたかる、アブたかる」と言われたそうだ。舞いの曲は1種類のみで、お花代が多ければリピートをして長くする。リピートの合図は太鼓を叩いて「さいー!」という掛け声で行う、カヤの中の人もそれで認識できる。その掛け声を聞くと疲れる。お花代は5,000円くらいが一般的で、10,000円の場合はほとんど見ない。

 

カヤは青色で、3人入っている。青年団が人が減って、若い人も町外に出ているので、用があるときしか舞いをやっていない。祭りの際や、初老のときに獅子舞をする。初老は餅つきなどをやるときもある。年によって何をするかが違う。最近は初老の獅子舞はほとんど実施されていない。地元に根付いた人しか獅子舞に触ったことがない。なん年前だったか、運動会(地区の社会体育大会)が雨が降って室内で行われた。その時に、寂しいから各町内の獅子を持ち寄って、舞ったこともあった。昔と比べると、舞の際に頭を地上に向ける角度が少し違う。昔はちょっと斜めだったが、今はまっすぐになっている。あと、旅館「ゆのくに天祥」の玄関前で舞ったこともあった。前後左右に暴れるので、カヤの後ろの人は転びそうになる。特に後ろに下がる時は他の人に確認してもらう必要がある。そのくらい昔は激しかった。雌獅子なのに、他の地域の雄獅子より激しいと感じることもあるという。

 

個人的な見解としては、獅子頭のデザインは目が富山由来のようだが、眉や鼻周りなどが石川由来に見える。これは、黒崎の獅子頭にかなり似ている。獅子頭は10年前くらいに修繕したそうだが、どこでやってもらったのかは覚えていないそう。獅子頭は新調したかのごとく新品。少しの傷でも気にされていた。昔、鼻がもげたそうだが、その跡が見られないほどに綺麗である。獅子頭はジョウを歯に打って痛まないようにする。壊れるとしたら、鼻と顎。鼻が壊れた時は「性病にかかったようだから早く治してあげなければならない」と皆で言ったようである。太鼓は記憶している限りだと、2回張り替えている。張り替えしたばかりは音が良くない、古いほうが「ドボンドボン」と良い音がする。太鼓のバチは樫の木とかで、手作りで少し曲がったものを作る。そのほうが叩きやすい。娯楽がないから、自分でこういうものを作って、練習して、若いもんが片山津で梨もぎをして、酒飲んで、集まったそうである。

 

勅使地区の森町には、黒い獅子舞があるという。明治時代に手作りされた物で、ナマハゲのような素朴な仮面だという。お飾り獅子とのこと。これにはとても興味を惹かれたので、明日取材させていただく。また、動画を撮れば半永久的に自分の舞いを後世に伝えられるのにとのこと。撮影と文章をやる自分には、写真や言葉で伝えられるものはなんだろうか。動画には伝えられない大事なものを探しながら冊子制作を進めていきたい。

 

②大菅波町(18:30~@東菅波公民館)

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(撮影:山口美幸さん)

作見地区史編纂委員会・東野隆一さんに作見地区の獅子舞の写真を新しいものから古いものまで拝見。天日町の獅子頭や、大菅波町の金色の獅子舞に興味を持つ。その後、地区会館に区長さんの名簿を教えていただく。作見地区まちづくり推進協議会会長・高木棲盛さんに町内を車で案内していただき、各地域の区長さん宅を周り、撮影をさせていただけるところを探す。あまりに多すぎて回りきれないかもしれないが、お仕事中で後日お電話という場合がほとんど。唯一当日取材ができたのが、大菅波町。大菅波町には4つの獅子頭がある。そのうち、3つは解体して顎が外れた状態になっているが、それを取っているというだけでもすごい、年代記名は無し。また、金色の獅子頭は綺麗な保存状態で保たれている。しかし、約10年前にはすでに獅子舞自体は無くなってしまっているそう。青年団が終わってから、寂しいということで壮年団が獅子舞を再開したが、それも途絶えてしまった。赤い獅子を練習用に使い、金色の獅子を本番用に使っていた。獅子舞をやっていた時には、春祭りと秋祭りで2回実施していた。舞いの種類は前半と後半で一曲のみ。棒振りはいない獅子だけの舞いだったそう。

 

以下の資料にこの地域の獅子舞のことが掲載されているので、その部分を掲載しておく。これは調査報告書(『石川県の獅子舞: 獅子舞緊急調査報告書』, 1986年, 石川県教育委員会)をもとに作成された資料である。獅子頭保有しているのが8町、そのうち現在継続して獅子舞を行なっているのが冨塚町、作見町、小菅波町、西山田町、東山田町あたりか。弓波町は令和元年から子供の獅子神輿になっていて、舞いとは異なり交通安全と結びついている。

 

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その他、ヒアリングにより、潮津町→伊切町→大聖寺南町の伝来経路が明らかになる。潮津は2019年1月の調査で、ひょっとこがいなかった時に獅子だけの舞いだったとこが判明している。それが伊切町を伝って大聖寺南町に伝わった。先日の大聖寺南町の取材では、「暴れ獅子」をしているというが、これも獅子だけの舞。共通点が見えてきた。途中の伊切町の獅子舞はどうなっているのか。かどや食堂の方や小倉さんという方が詳しいそう。後ほど、ぜひお会いしたい。

 

PS, お昼は中華料理 漫遊菜館で村田泉さんと農業生産組合の皆さんとランチ。カツ丼や坦々麺をいただく。昨年、柴山町の獅子舞の祭りについて取材させていただいた方々と再会することができた。来年はぜひ祭りを開催したいとおっしゃっていた。

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【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材9日目 分校地区(高塚・打越・箱宮・分校)

今日もかなり充実した1日だった。分校(ぶんぎょう)地区4町の獅子舞を一気に全部取材することができた。案内人は吉野裕之さんと、山口美幸さん。また、各町の区長さん方にお話を伺うこともできた。以下、伺ったことについてまとめておく。分校地区の獅子舞は4町とも全然違う。それぞれ、きちっとした型がある。その違いにも注目しながら取材を行った。分校はとにかく空が広いことが印象的だった。田んぼも広く、町民会館も広い。そのようなのびのびした環境の中で、どのような獅子舞が舞われているのだろうか。

 

①高塚町

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区長の村井國夫さんにお話を伺う。棒振りがいて、暴れる獅子を舞う。昔は20人以上の青年団がいた。獅子頭は1つで、平成11年に井波で作ってもらったそう。20年以上前の獅子なのに、結構綺麗である。ジラルミという素材で、獅子頭の取っ手を修復している。昔は小松に獅子舞を舞いに行ったこともあるそう。9月の第三日曜日敬老の日あたりでいつも獅子舞をやっている。昔は4町バラバラでやっていたが、今は皆この日にやっている。舞いの種類は7パターンあり、チョウチョウトマレ、キョウブリ、コンカラコン、シャンシャン、長棒(「タチ」というパターンもある)、寝獅子と呼ぶ。お花代によって、舞いの本数も変える。寝獅子は最後の締めで使う舞い方で、お花代が高い場合は寝獅子を最後にやる。一人一人全パターンをマスターする。1年で習得は難しい。カヤは中でローテーションしていく。獅子頭をずっと持っていると大変だからだ。

 

②打越町

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区長の東野誠輝さんと打越町獅子舞保存会の福村克也さんにお話を伺った。打越の獅子は小松のヤタかヤタノ辺りから伝わった。獅子頭は2つあり、どちらも雌獅子だ。昭和13年制作が一番古いもの。獅子のデザインは新しい方が上目で可愛らしい感じ、古い方が下を向いて睨め付けるような感じである。耳無し角無しの獅子で、漆も塗っていない木彫りのシンプルな獅子である。舌がパカパカ鳴る。舞の種類は3つで、カヤの中は6人である。尻尾は毛の部分が大変長い。笛は横笛であり、田尻が縦笛だが多くは横である。笛は1本1万円のものもある。太鼓はポンポンと鳴る竹の棒で叩く。祭りに合わせて会社を休む習慣があったが今はない。収穫に感謝する祭りがある。

 

③箱宮町

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区長の西本賢斎さんにお話を伺う。獅子舞に関して、高塚と箱宮は同じ由来を持つ。赤獅子という点でデザインにも共通点がある。獅子頭を作った人は北昭三さん。小松の方だそうで、本折の方?かもしれないとのこと。北彫刻というのがある。角があるので雄獅子である(橋立のように雌なのに角があるところが稀にあるので、判断が難しい)。獅子頭はかなり軽く作られている。耳が非常に小さい。驚くべきは、祭りの本番が朝2時半から3時くらいから舞い始める。普段寝ているであろう時間に、それを当たり前として受け止める地域もすごい。そして、お花代の額にかかわらず2回以上は演目を舞わない。1日でしっかり回りきるためのようだ。

 

④分校町

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区長の田中重穂さんにお話を伺う。区長交代の際に夜太鼓を鳴らして回る行事がある。神社は白山神社と分校神社が並存していて、その敷地の中にさらに菅原神社があるというかなり特異な形態。しかも、境内には牛、狛犬、馬、など奉納の石造物がたくさんある。町民会館には預金講の奉納の飾りのためだけの巨大な獅子頭もあって、奉納の文化がとても盛んなのかもしれない。奉納は皆初老の年に1人10万円くらい払って、仲間で行うそうだ。奉納された獅子合わせて頭は3つ。使わなくなったものと現役のものが1つずつである。割れて使わなくなった獅子頭は町民会館のガラス棚に飾ってあった。鼻の横に縦の切れ込みが入っているが、どこも獅子頭が割れるときは同じ部分が割れている。割れた箇所に着目すると新しい発見があるかもしれない。現在使っている獅子頭は神社の方に保管されている。舞いは箱宮から伝わったという。

 

<電話インタビュー>

石川県立歴史博物館にメールで、獅子頭の歴史に関して問い合わせ。学芸課の方によれば、富山県だと、氷見獅子の源流を中世の芸能「王の舞」と関連づける研究がある。橋本裕之氏『王の舞の演劇的研究』という論文にまとまっている。氷見獅子に関しては研究が盛んで、佐伯安一氏、小境卓治氏もその源流について論文の中で言及している。小境卓治氏は氷見市博物館の全館長である。福井県では前若狭歴史博物館館長の垣東敏博氏が「若狭の王の舞と中世芸能」を『福井県の民俗芸能』に書いている。

 

その後、「石川県緊急調査報告書」の編纂をされた小林忠雄さんに電話取材。小林さんは、石川県の獅子頭展や「北陸の仮面」などの展示を実施された加能民俗の会の方だ。600年前に羽咋の山の方の論田・熊無に立山から獅子と藤箕を伝えた修行僧ありと聞いたことがある。そこの根本に立山の権現様を祀る文化あり。そのことをお話ししたところ、通り道の石動彦神社にも立山権現さまがいるかもとのこと。これは要チェックだ。小松博物館にある石川最古の獅子頭津波倉神社の獅子はどういう舞いをしていたかとか、どこから伝わったかは明らかにされていないそう。獅子舞は江戸時代からは文献があるが、鎌倉、室町になると記録が格段に少ない。まして、民間伝承である。

 

菅生石部神社は加賀市で一番古い神社。獅子舞について電話で宮司さんにヒアリングをした。地域の敷地町の獅子舞を管理をしているわけではないそう。町の青年団が管理している。獅子舞は地域にあるいくつかの神社を回って奉納する。農業の神様の神社をまわったり、生産組合を回ったりもする。大聖寺だが、町人文化ではないようだ。

 

Ps.橋立の昔話

船で沖合に出た時には仲間が大事。橋立のような漁師町が信心深く、地域の交流にたくさんお金を使うのはよくわかる。自然を相手にする漁師は体で覚えるという習慣が身についている。橋立地域の祭りは本当にハードだ。朝4時から祭りが始まり、夜8時に終わり、それから12時まで舞をする。それが3日間。いつ寝るのだろうか。寝ない人もいる。暴力沙汰もたくさんあったし、小学校のトイレはボコボコだった。シンナーを吸う人だっていた。今では、おとなしくなったが。このような話もあるのだ。

 

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お昼に食べた伊切町のかどや食堂の「定食」。とても美味しかった。

 

【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材8日目 大聖寺南町

本日は大聖寺南町の獅子舞を取材した。まずは午前中に、加賀市市役所人口減少対策室のご協力で、獅子舞の情報整理に適する地図を探していただいた。その後、取材を開始。案内は山口美幸さん。地域の獅子舞に関係する方をたくさん紹介していただいた。以下、お話を伺ったことをまとめておく。

大聖寺南町のインタビュー&取材

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南町の獅子舞に関して、理容店の能田秀男さんにお話を伺った。戸棚から獅子舞の資料や写真がずらり。獅子舞愛に溢れている方だった。20年前に12団体を集めて、大聖寺の十万石祭りで獅子舞を披露したそうだ。自分が声かけられるところを声かけて実施した。この時の祭りのサブタイトルが「浴衣で集まれ」だった。浴衣製作に加えて、獅子舞を呼び集めて楽しんだら楽しいのではとのこと。加賀では、このように獅子舞が一堂に会するイベントがなかなかないので、貴重な集いだったろう。

 

獅子舞の歴史に関しては、能田さんのお父さんから電話越しにお話を伺った。お父さんは南町の獅子舞を始めた時のメンバーだ。小学校の時(戦中)に、獅子頭は富山の井波(砺波?)で作ってもらったそう。舞いは富山から伝来した。始めは、棒振りがいる形態だった。年に1回、大聖寺で獅子舞の大会もあったそう。棒振りをやめて獅子だけが舞う「暴れ獅子」になった時は、伊切町の人に教えてもらった。暴れ獅子は飛んで歩くのだそう。今から約25年前に1年だけ獅子舞が途絶えたこともあった。人数が少なくなって1年どうしようかと話し合っていたが、寂しいからやろうということで、復活した。

 

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今では、青年団は2~3人しかいない。昔は17~18人くらいいた時もあったが、現在は他の町内の人や帰省の人の手伝いもあり、獅子舞を維持できている。青年団の息子さんによれば、大聖寺駅前の熊坂に住んでいる高校生も手伝いに来てくれている。また、青年団の奥さんがサポートに入る場合もある。桜祭りが本番である。ご祝儀のもらい方で興味深いことがある。大聖寺の巫女の舞は事前に3000円をもらって窓に「御神楽所」という札を貼るが、獅子舞の場合は獅子が来た時にご祝儀を払う。獅子舞の祝儀に額の決まりはなく、額に応じて舞いの本数を変える。以上のような違いがある。獅子頭は2種類あり、練習用と本番用となっている。かやの種類も2種類あり、雨で濡れたら取り換えるということもある。

 

郷土史家(加能史料編纂責任者)の伊林永幸さんにインタビュー調査

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(写真撮影:橋本浩二さん)

大聖寺地区会館の中村さんにもお世話になり、伊林さんとの面会が実現。橋立では、江戸時代から武術鍛錬のために棒振りの獅子舞をやっていた。作見町は明治時代に大聖寺の敷地や相生町から習った。相生町は江戸時代から獅子舞がある。鷹匠町は武士の町だから獅子舞がない。町人や農民の町に獅子舞が発展した。江戸後期に武芸が廃れたため、町民や農民向けに武芸鍛錬が奨励された。東方芝山(ひがしかたしざん)という重要な人物がいて、皆武芸を習わせることを推進した。日本全国的にそういう風潮があった。金沢発祥の獅子殺しと大聖寺の棒振りの系統は違う。加賀市の獅子舞の発端は大聖寺だったかもしれない。これは武芸鍛錬系の獅子舞の系統の発端ということかもしれないが。

 

幕末には、大野弁吉という人がいて、たくさんの獅子を作ったことで有名だった。金沢の大野町という町を拠点としていた(これは橋立に獅子を伝えた能登内灘と地理的に近い)。能登半島は800年ごろ、渤海との交易が盛んだった。動物の毛皮の交易をしていた。もしかしたら、渤海方面から獅子が伝わった可能性もあるかもしれない。そう考えると非常にロマンがある。渤海の船は本来ならば太宰府に行くはずだったが、流されて能登半島に漂着した船もあった。ロシアのウラジオストック北朝鮮の間の豆満江(トマンコウ)から出て、北風が吹く秋に黒潮に乗って能登に来て、夏風邪が吹く頃に黒潮に乗って北海道に行って、そこからリマン海流に乗って豆満江に戻るという日本海をぐるっと一周するルートがあったとのこと。北前船を待たずして、昔から交易ルートが存在していた。

 

大聖寺には本当にたくさんの獅子があり、バラエティ豊かである。地域としてもかなり狭い面積の土地にたくさんの獅子舞が存在しているがゆえに、獅子舞を競い合う大会も開けたのかもしれない。今では、春の桜祭りが賑わいを見せる。背景にあるのは城下町の町人文化。その歴史を掘っていくのはとても面白い。明日は分校地区の取材を行う。

 

 

 

 

【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材7日目 橋立町

本日は、橋立の獅子を取材するとともに、最終的には本を制作しようと考えているのでその打ち合わせを行った。案内人は山口美幸さん、橋立町では吉野裕之さん、小餅谷幸博さんにお世話になった。今回の取材で明らかになったことを以下に記す。橋立といえば、かなり歴史のある獅子舞をしていて、加賀市の多地域にも伝来したという話を聞いていた。北前船の船頭衆が山中温泉に入りに行った時にできたのが山中節(近くの片山津温泉明治15年にできたので、当時はなかった。)の獅子の場面だし、そういう話は各地にある。加賀の獅子を知るなら、橋立を知らねばならない。

 

①橋立地区会館・吉野さんヒアリング

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橋立の漁港ができたのは昭和初期のこと。石川県内で200人以上が亡くなったコレラの流行が原因で、能登半島内灘の漁師が移住してきた。コロナ禍以上に被害が大きかった。今でいう都市から地方への移住が進んでいるのと同じような動きだった。過疎である橋立に多くの人が移住してきた。北前船の往来があったとはいえ、当時は漁師としての文化はなく、人口も少ない過疎地だったという。次第に農村と漁村の獅子舞が入ってきたが、漁村の獅子舞が残った。この流れを考えると、感染症の歴史が獅子舞文化を作ってきたというわけだ。人間のDNAの20%は感染症の抗体が作り出したものと言われており、受精する仕組みというのも感染症から守るためで、人類の進化とも合わせて考えたい。

 

昔は橋立の小中学校の人は掃除時間で獅子舞ごっこをしていた。掃除道具で棒振り、本を獅子に見立てて遊んでいたという。当時は、青年団が多すぎて何年生以上は断るみたいなことも考えられていた。橋立の獅子は今でもかなり盛んだ。加賀市内は大体9月に運動会をするが、橋立は9月に獅子舞をするために6月に運動会をずらした。学校行事をずらすほどに獅子舞が地域にとって優先されるべき行事なのだ。1日目は朝の4時から夜の8時まで、2日目は朝の5時から夜の8時まで、両日ともに青年団が夜の8時から輪踊りを行う。3日目は仮装行列を行い、小塩や田尻と合同でやる。かなりのハードスケジュールである。8月のお盆あたりから練習を行い、9月に本番を迎える。

 

田尻町の祭りは2日間は、お昼に「宿」と言われる仕組みがあって、青年団は2時間くらい地域の方の家にステイして、昼食が振舞われる文化があった。昔はその家の人がお金をかけてもてなしたが、今では青年団が100万円くらいかけて昼食代を支払う。青年団の人数が20人なのでかなりの額である。ご祝儀は1軒1万円以上で250軒を回るので、約300万円の収益が出ることを考えると、妥当な金額である。一部は獅子舞の修繕などに充てられる。以上から、橋立は地域交流に対してかなりのお金をかけていると言える。

 

②橋立町集会所・小餅谷幸博さんヒアリング&獅子舞の小道具撮影

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橋立の獅子といえば、かなり獅子頭が重くて大きい。獅子頭の素材は高級な鹿皮でできており、おそらく鶴来で作られたものとのこと。獅子頭に制作年や場所などは書かれていない。現在残っているのは本番と練習兼用の1体のみである。獅子頭の買い替えの際は、前回と同様のデザインというのが基本になる。獅子頭が重すぎるので、必然的に交代する人が必要で人数を確保せねばならない。太鼓は浅野太鼓で作ってもらっている。頭にかぶる「シャガ」は白色がリーダー、黒色がその他。尻尾がかなり巨大で、カヤもたくさんの人が入れる。演目の最後に4人の舞い手が花棒を持って獅子の前でゆらゆらさせる演技がある。花棒はご祝儀が高かったときに使う。1万円のご祝儀の他に、ビールなども出してくる場合があり、そういう時も花棒をつかう。もらったビールなど余ったら町内でお酒が欲しい人にまた売る。

 

元々は春祭りと秋祭りで獅子を舞っていた。祭りの形態はビデオを撮っているわけではないから、少しずつは伝承していくうちに変わっているかもしれないとのこと。舞いは田尻は2種類だが、橋立は7種類あるという。獅子舞の舞い手は基本男性で、女性は「浦安の舞」という巫女の舞をする。小学生男子は小さい頃から棒ふりをしたがる。子供が祭りに参加したくなるのはどうしてなのか。まずは学校が休めることと、獅子舞に参加するとわずかに小遣いがもらえるというのが本音。学校も祭りに対しては寛容である。義務感も少なからずある。ただ、練習が始まると本番に向けての高揚感やワクワクがあるのは確かだ。あとは、祭りで結ばれる男女も多く、異性を強く意識する場でもある。昔は成年学級という月一回の勉強会や旅行行事、お寺での映画上映会があったものだが、そういうのは無くなった。交流の場は祭りの形で今でも続いている。

 

③出水神社の石碑から読み解く「加賀国江沼郡橋立村」(橋立の旧名)の開村

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御開祖は岩巣宿禰尊(いわすすくねのみこと)。景行天皇17年に大漁の神と奉斎する「ヒンバ」の背に乗り、浜に上がって洞家を掘って住処とした。岩巣宿禰尊には石綱という御子、岸女という御娘がいた。「ヒンバ」を洞中に飼いおくと、家に海猟があり、子孫が繁栄したという。光仁天皇宝亀元庚戌(かのえいぬ)の年(770年)には、茅屋14軒、男女46人に発展した。応安年中より永正年間(1370~1520年)で飢饉が起こり、その後田畑が開かれた。永正年間に衰え、文禄年間(1592~1595年)から繁栄した。氏神を信仰していた。

(以上、橋立出水神社伝来 橋立村由来記より)

 

明日からは、きちんと郷土史家の人の話も伺っていきたい。やはり、石川、富山が獅子舞が盛んな理由は信仰と産業という2方面からアプローチすべき。白山と立山という修験道の山があり、お坊さんが鎌倉時代くらいに行道の獅子を伝えたのではないか。また、森林資源が豊富で、漆、工芸、林業などの職人がたくさんいたことが獅子舞文化の普及につながったのではないか、と考えている。結局、獅子舞の取材をするということは、その生活文化や暮らしの真相を明らかにしていくことでもある。明日からも引き続き、加賀の歴史的背景の真相に迫っていきたい。

 

Ps. 加賀市の方々は「わかった」に「よ」をつけることが多いことに気がついた。自分の地元ではあまり聞かない。方言ではないと思うのだが。共感力が高いということだろうか。最近よく聞く。

【2020年10~11月】石川県加賀市 獅子舞取材6日目 片山津温泉6区

獅子舞取材で加賀中を旅させてもらっている中、今日は片山津温泉6区の獅子舞を取材した。これで1~6区は全部取材させていただいたことになる。案内人は山口美幸さん。地域の人脈が少ない中で、いつも本当にたくさんの方を繋げてくださっている。また、獅子舞のお話を聞かせてくださり公民館の鍵を開けてくださった6区の前子供会会長・金子敦子さん、元まちづくり会長・本田義勝さんにも大変お世話になった。僕の撮影の様子は大城優香さんに撮影いただいた。それでは、今回伺った話をまとめておく。

 

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この地域の獅子舞の始まりは、戦後だったとか。戦争から帰ってきた人々が富山県砺波市で習って、それを片山津温泉6区に伝えたらしい。これは昭和23年(1948年)生まれの本田さんが小学生頃のことで、まずは町内会の中で有志が集まって、「青葉会」という会を作り獅子舞も始まった。戦前からやっていたのは、近くだと潮津とか橋立あたりか。

 

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獅子頭は2つある。本番用と練習用があって、本番用の裏側には昭和53年に井波で製作されたと書かれている。練習用の方は何も記載がない。この何も記載がない獅子頭、かなり古いものだと推測される。昔、鎌倉時代に修行僧が使っていた行道の獅子頭に似ているのだ。ネジで修復されているので、古いものを修理して使いまわしているか、もしくは昔の獅子を真似して作ったのか。定かではないが、木を剥き出しにした様相は古代を連想するし、鼻と口の紅色は魔除けの意味なのではないか。このような色付けは狛犬でもたまに見かける。練習用の獅子頭ということで、桐の木で軽い作りとなっている。また、片山津の本場用の獅子頭には、どこもなぜか耳を保護する耳あてがついている。他の地域では見られない特徴である。

 

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その他の小道具の特徴について。温泉街の獅子舞ということで、衣装がとても華やかである。旅館でも舞ったそうだ。太鼓には、昔制作年が記載されていたようだが、その部分がかすれて見えなくなってしまっていた。「片山津温泉 湯の谷町 青葉会」の記載があり、この地域が昔湯の谷町と呼ばれていたことが伺える。また、棒振りは元々薙刀を使っていた。正確には、棒の片方に薙刀を使い、もう片方にフサフサの布をつけていた。しかし、今では華やかで動きが出るように両方フサフサをつけている。

 

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舞いの特徴は片山津温泉の中でも少しずつ違う。6区は子供が参加しやすいように指導を厳しくしないようだ。子供達は人前で獅子を披露することにやりがいや達成感を感じるそうだ。三番叟の衣装は暑いし化粧はドロドロになるが、わいわいするのが楽しいのと合間にアイスやジュースがもらえるのが楽しいらしい。5区は指導をしっかりやるという話を他地域で聞くことがあるが、6区は子供への間口を広くしている。このような地域性の違いもあるのかもしれない。舞いをするには、リズムを覚えることが肝心である。6区は家族で一緒に舞うこともあるそうで、子供も自然とリズムを覚えていく。次世代継承の方法は地域によって違うのである。舞いの種類は5つあり、その内2つが三番叟(さんばそう)とのこと。舞いの数は昔と変わらない。

 

また、お花代は旅館が多くて1万円、個人だと1000~5000円。昔は個人で5000円が普通だったが、景気が傾いてからは1000~3000円が多くなってきた。お花代が高ければ、舞いの数を2~3曲にすることもあるという。

 

獅子舞の本番は、8月第4土日の湯の祭り。昔は6月、7月に行われていたが、現在は8月に行うということで定着している。舞い手の子供は小学生が1学年に1人で6人いて、あとは人が足りないので幼稚園の子も参加可能としている。ただ、担い手は年々減り続け、山代・山中に比べると観光客が少なく、住む人も少ないという意識があるそう。保育園も統廃合を繰り返している。

 

撮影とインタビューで5時間半。かなりじっくり、たっぷりと取材させていただき、とても充実した時間となった。改めて、お世話になった美幸さん、本田さん、金子さん、大城さん、ありがとうございました。

 

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担い手がいないことが獅子舞における一番の課題である。獅子舞が途絶えそうだとか、途絶えたとかそういう話もよく聞く。魅力を伝えるべきなのは、子供達に向けてなのではないか。今日たまたま午前中に育児サークルを見学したが、それもあって今日は「次世代」というキーワードを強く意識する日となった。

 

獅子舞はなぜ地域コミュニティにとって必要なのか?

今日は取材する地域がなかったので、獅子舞がなぜ地域にとって必要なのか、次世代に繋ぐべきかを考えてみた。独断と偏見もあるかもしれないが、自分の今まで見聞してきたことをもとに参考資料なしで以下に綴る。

獅子舞の起源

元々獅子舞は厄払いが目的で始められた芸能だ。紀元前、西アジアでは獅子狩りは権威の象徴で、王座を守るのが獅子の役目だった。獅子は強い動物で、その獅子に守ってもらう、あるいはそれを倒すことによって人間は権威を保ってきた。それがインドや中国で宗教や祈りと結びついて、朝鮮半島を伝って日本に伝わった。日本では奈良時代から平安時代鎮護国家思想と結びついて、仏教を広めることで国家の統一を図ろうとした。それと同時に獅子舞も広まったのだ。今までの流れをまとめると、結局初期の獅子舞は「厄払い」の意味合いが強かった。(この当時の獅子舞は山伏や修験者の神楽や、神社の伎楽という形で広まった)

獅子舞の役割が変わった江戸時代

ただし、江戸時代から日本の暮らしも安定期に入り、その役割に変化が生じる。金沢発祥の加賀獅子の目的が武芸鍛錬だったし、富山や能登で作られた獅子頭工芸技術の熟達を象徴するような意味もあったろう。また、お座敷で人をもてなす獅子というのも生まれた。さらに伊勢参りを推進した御師神楽師などが各地域に広めた。獅子は庶民の暮らしと結びついて多様化したわけだ。各地域が自分たちの獅子が最も格好良いということで競い合う中で、オンリーワンの獅子舞が各地域に生まれ、同時に地域の集いを生んだと考えられる。さらに、この集いを生んだ背景としては、神社という土地の神様と獅子舞の結びつきが強いことも関係しているだろう。

戦中に断絶した獅子舞

獅子舞の役割を考える上で、第二次世界大戦の前後に目を向けることは重要だ。明治以降の殖産興業が推進される中で、獅子舞の役割は労働者にとっての「束の間の休息」だった。繊維産業や林業、工業といったものづくり産業従事者は獅子舞の小道具を作る技術を持っていたわけで、それを生かして獅子舞を生み出し、休日を楽しんだのだろう。ただ、戦時中は禁欲生活を強いられたわけで、多くの獅子舞がそこで断絶してしまった。その後、アメリカの占領等の影響もあり、戦後は日本の伝統文化保存の動きが強まり獅子舞が復活したという側面もあるだろう。また、「あの頃は良かった」「懐かしい」と感じる人々が再興したという側面はある。

現代における獅子舞

伝統を保存してきた我々にとって、誰のため何のための獅子舞なのかを再考しなければならない。娯楽やコミュニケーションを取るツールは増え、グローバル化や都市移住の動きから人の動きは流動的になり、農村部の獅子舞は担い手が減った。さらに、獅子舞の担い手の根幹だった第一次産業第二次産業の従事者が減って、東南アジアや中国など海外が台頭してきたわけだ。この状況下で途絶えさせてはいけないという危機感以上の意義を見出せないと単なる懐古主義に陥ってしまう。

継承する意味とは

石川県加賀市で獅子舞を取材していて、「祈りの対象」と「地域交流」という2つの目的を感じる。まずは前者について。ご年配の方で獅子舞は有難いもの、祈りの対象として考えている人は少なからずいる。荒谷を取材した時に、「人は何かにすがらないと生きてはいけない時がある」と答えてくれた方もいた。一方で、後者のように地域交流が促進されている側面はある。学校教育や地域行事などの後押しもあり、若い人にとっては、楽しいもの、かっこいいものとして映っている場合がある。例えば三木は「みきのこ」という団体が子供が獅子と触れ合うイベントを企画しているし、山中は祭りの派手さが際立っており、青年団の数も年々増えていると聞く。この結果として、地域に活気が出て、同時に多世代の人と触れ合い地域と繋がる場にもなっている。やはり、誰しも戸籍があり土地の恵みをいただき土に還るわけで、地域を抜きに生きることはできない。そこに、自治を行うという意味も加わり、物事を決めていったりお互いに助け合う必要があり、福祉的な事情も重なって、祭りや獅子舞のような顔を合わせて盛り上がり、ワイワイする場が重要となるわけだ。今後も、このような形で獅子舞がなぜ地域コミュニティにとって必要なのかを掘り下げながら、取材を進めていくこととする。